久遠の空 ドリーム小説 片棒 11

片棒

update:2010.03.19

片棒 11 

 山南がいなくなった。
 神谷は山南の枕元に置き手紙があるのを見つけ、水菓子を転がしたまま局長室へ駆け込んだ。


 「山南総長が…脱走…?」
 が黒谷から戻ると、屯所は異様な空気に包まれていた。
 今朝方の雨はすぐに上がり、空気はすでに乾いている。それなのに体にまとわりつき、袴の裾や着物の袖を重たく引くような、この空気。
 その原因を神谷から聞き、は呆然とする。
 「昼過ぎに私が、山南先生の伏せていた客間を訪ねたら、もういなくて…」
 神谷は唇を噛み、手を固く握り締めた。

 がさりげなく目を左右に流すと、式台前には夜の巡察に当たっていない隊士たちが所在なげにうろついている。
 「沖田先生が今、お一人で山南先生を探しに行ってるんです。皆、お戻りを待ってて」
 神谷が言った。
 「一人で?」
 一人の人間を探すのに、ましてやどの道をどう辿っているのかわからない相手を追うのに、追っ手が一人などあり得ない。
 には経過も状況も断片的にしかわからなかった。
 「とにかく土方さんから詳しい話を聞いてきます」
 は副長室へ足を向けた。
 「あ、お話が終わったら、台所! さん、台所に来て手伝いをしてもらえませんか? 兄上も手伝ってくれています」
 「斎藤さんも…わかりました」
 神谷の言葉に足を一度止め、は軽く頷いた。そして前に向き直ると、急ぎ足で土方の元へと向かった。


 副長室からは明かりが漏れていない。
 が障子を開けると、中には誰もいなかった。代わりに隣の局長室には複数の人の気配があった。
 「近藤局長、山口です」
 は廊下に出て、局長室の前で膝をつく。
 「どうぞ」
 重たい声が入室の許可を出す。は一度深呼吸してから障子を開いた。

 近藤。
 土方。
 井上。
 原田。
 試衛館出身の者たちが顔を揃えている。永倉は巡察の当番で、藤堂は隊士募集のために再び東下しているため、この場にいない。
 男たちは、疲れと困惑を露わにして座っていた。
 「ただいま戻りました…」
 が開いた障子の隙間から冷たい夜気が入り込む。が、どんよりとした空気の中にそれはすぐに溶けてしまった。
 「…!」
 原田が腰を浮かせる。
 「落ち着いて聞いてくれ、山南さんがいなくなっちまった」
 「さっき神谷さんから少し聞きました。一体どういう経緯で…」
 は山南が消えたことを信じたくないが、室内の雰囲気が暗雲となって心に広がるのを感じる。
 原田は、客間で伏せていたはずの山南がいつのまにか屯所から消えていたこと、昼過ぎに神谷が見舞ったときにそれが発覚したこと、沖田が一人、土方の指令を受けて山南を探しに行ったことを語った。

 の肩を掴む原田の手が震える。それにつられたのか、は話が進むにつれ、自分の心臓の音がだんだんと耳元までせり上がってくるのを感じる。
 山南脱走が真実だと、嫌が応でも認識せざるを得なかった。

 脱走。
 今までそれを試みた者たちがどういう末路を辿ったのか、知らない者はいない。見つかれば切腹だ。
 は土方の顔を見る。感情を露わにしている幹部たちの中で一人、いつもの冷徹な面を崩していない。
 それはすなわち、総長であっても隊規は絶対であることを示している。



 これだけの人数がひと部屋にいるのに、物音一つしない。誰も何も言わない。



 「台所に、行きます」
 場の重たさと暗さに、はやっとそれだけを口にして立ち上がった。 
 障子を閉める時にちらりと土方の顔を見たが、土方はこちらを見なかった。いつもなら、台所に行くなら茶を持ってこいと言うだろうに。行灯の明かりに照らされた横顔は、唇を固く引き結んでいるだけだった。



 が台所へ入ると、神谷と斎藤がせっせと握り飯を作っていた。大きな鍋には根菜の煮物がぐつぐつと煮立てられ、別の鍋では味噌汁が湯気を上げている。
 「あ、さん。来てくれたんですね!」
 神谷がぱっと顔を上げた。
 「兄上が、今夜は皆、食べる気がしないだろうから、いつでも食べられるものを用意しようって」
 「それでおにぎりですか」
 握り飯ならば置いておけばいつでも誰でも好きなだけつまむことが出来る。
 「はい、これ」
 神谷がに前掛けと襷を渡した。
 はそれを受け取ると前掛けの紐を腰の後ろで結び、襷で袂をからげる。手を洗い、神谷の横に並ぶ。寿司桶に開けられた白米を手に取り、握り飯を作り始めた。

 「沖田先生がね、出がけに言ったんです」
 神谷が握り飯にのりを巻きながら呟いた。
 「明日にはきっと二人で戻るって。お風呂とご飯の支度をして待つようにって。一緒に、探しに、行きたかったんですけど…」
 は手を止めて神谷を見る。
 沖田に言われたときのことを思い出してるのか、ぐっとこみあげるものをこらえるように唇を噛んでいた。
 「そうですか…」
 「でも、山南先生が戻ってきたら…っ」
 神谷が肩を震わせる。
 「神谷」
 斎藤が淡々とした口調で言った。
 「まだ沖田さんと山南さんは戻ってきていない。どうなるかもわからない。滅多なことを口にするな」
 「は、はい!」
 神谷は手の甲でぐいっと目元を擦る。そして寿司桶から飯を取り、ぎゅうぎゅうと握りだした。
 も神谷や斎藤と並んで、次々と三角の握り飯を作っていった。


 握り飯は、巡察から戻ってきた永倉の隊や、空腹に耐えかねた隊士たちが平らげた。
 たちは後片付けをすませると、交代で眠ることにした。

 まず先に神谷が床についた。午前には巡察をこなし、山南が消えたとわかってからは、心身ともに疲れたのだろう。起きていると言い張っていたが、 一番隊に復帰した神谷が同居するようになった斎藤と沖田の部屋へ神谷を連れていき、が用意した布団に押し込むと、ことりと意識を失うように眠ってしまった。


 は静かに台所へ戻った。
 斎藤が竈の火を調節し、煮物と味噌汁の温度を下げない程度の最小限の火加減にしていた。
 その熱にあたりながら、と斎藤は火の番をする。

 どのぐらい時間が経ったのか。
 は白い息を吐いた。
 「山南総長のご様子、もっと早くに気づいていたら」
 「お前のせいではない」
 斎藤も闇の中に白い息を吐き出す。
 「でも…何か出来たかもしれないのに」
 「もしそうだったとしても、今となっては過去の話でしかない」
 斎藤の言葉がの心に突き刺さる。事が起こってしまった以上“たられば”論はもはや通用しないのだ。

 再び二人は沈黙する。鍋と蓋の隙間から漏れる湯気も、音なく空間を漂うのみ。季節がら、虫の音も聞こえない。静寂だけがそこに存在していた。


 しばらくして、神谷が目を擦りながら台所へ戻ってきた。次はが交代して休みを取ることになった。
 土方の部屋に戻る気がせず、は神谷が寝ていた斎藤の部屋へ行った。
 神谷が寝ていた布団はそのままになっており、はその中に潜り込む。

 この部屋の主は三人ともいない。そのうちの一人は脱走者を追っている。
 沖田は今、どこにいるのだろう。山南とは会えたのだろうか。もし会えていないとしたら、どうしているのだろう。
 は何度も目を閉じてみたが、一向に眠れない。黒谷への往復と、帰ってきてからの気疲れで、相当消耗しているはずなのに。

 結局、ほとんど眠らずには台所へ戻った。
 神谷は斎藤と二人きりになっている間に何か言われたのか、目を真っ赤にして鼻をぐずぐず言わせていた。
 今度は斎藤が眠る番だったが、斎藤は部屋へ戻らず台所に留まった。



 台所の窓から、明るい光が射し込んでくる。
 朝が来た。
 沖田が、きっと二人で戻ると言った、その日が。

 斎藤がおもむろに台所を出ていき、風呂を沸かしに行った。
 神谷はバシッと両手で頬を叩くと立ち上がり、ゆうべのうちにといでおいた米を炊き始める。
 も竈の火を大きくし、煮物と味噌汁を温めた。

 起きて身支度を整えた隊士たちが、三々五々、朝餉をとりに来た。
 神谷とは手早く膳を据え、隊士たちに次々と食事を始めさせる。
 幹部たちは全員局長室に集まって夜を過ごしたので、朝餉も局長室に運び込まれた。
 神谷とは膳をそれぞれの前に置き、茶を淹れる。
 その時、は土方の顔をちらりと見た。しかしゆうべと同じく一分の隙もない、厳しい顔をしていた。


 朝餉の片づけが終わると、やっとにも眠気が訪れた。神谷も斎藤もに眠ることを勧め、は少しだけ横になることにした。
 は斎藤たちの部屋の布団に潜り込むと、すぐ眠りに落ちた。夢も見ずに、ただ昏々と眠った。



 ふと目が覚め、は寝過ごしたかと思って飛び起きた。しかし、障子を開けてみるとまだ日は中天に上ってもいない。邸内の雰囲気は静かで、 まだ沖田たちは戻ってきてないようだった。

 が台所に行くと、神谷が昼餉用の人参を剥いていた。
 「さん、よく眠れましたか?」
 神谷がやっと作った笑顔をに向ける。
 「ええ…おかげさまで」
 もぎこちなく笑みを浮かべる。
 「お手伝い…ありますか?」
 「じゃあ、皮むきを一緒に」
 「はい」

 は神谷と並んで上がり框に座り、人参を手に取る。包丁を人参の表面に当てると、皮を縦に薄く剥いた。
 二人で黙々と昼餉を作る。一汁二菜の膳が仕立てられ、隊士が食事に来る。いつもの、ごくありきたりの光景だった。



 その昼餉が終わった頃。
 馬のいななきが門の外から聞こえた。
 ざわつく気配に、神谷ももはっとして昼餉の片付けの手を止める。


 「沖田先生!」
 「山南総長!!」
 続けて聞こえてきた隊士たちの叫び声。


 とうとう戻ってきたのだ。約束したとおり、翌日に。
 あの二人が。
 沖田と、山南が。




 20100318