片棒 10
は台所で、土方と自分の朝餉を膳に配置しながら考え事をしていた。
最近ずっとふさぎ込んでいた山南が、明るい表情を保っている。
伊東も芝居臭さが見え隠れするのは変わらないが、落ち着きを見せている。
ちょうど、天狗党が加賀で投降したとの話を近藤が持ってきた辺りからかもしれない。
伊東の弟・三木三郎が口にしていた天狗党は水戸近郊を転戦し、那珂湊で大戦となった。水戸藩を真っ二つに割った派閥のところへ幕府軍が
攻め込み、三つ巴の大混乱である。事態を収束させるために派遣されたはずの宍戸藩主松平頼徳は詰め腹を切らされた。
敗色の濃い天狗党は投降に賛成できない者たちを集めて、自分たちの意思――尊王攘夷を孝明天皇に奏上したい、ただその一心で京へと
行軍を開始した。
その一行が、北国街道の新保(現在の福井県敦賀市)で、幕府の追討軍に投降したのだ。
前を一橋慶喜の命で出兵した加賀藩兵、後ろを追討軍総括に命じられた彦根・福井両藩兵に押さえられた。長い道程に、大砲を捨て、
馬を屠って食うまでになっていた天狗党員八百二十三人は、もう降伏するしか手立てがなかった。
しかし彼らは加賀藩によって丁重に扱われた。護送されて寺に収容されたのである。それを近藤から聞いた伊東は、
幕府の賢明な策に感動し、これならばきっとお咎め無しで助かると、涙を流して喜んだ。
は三木が言っていたことを思い出す。
伊東は、天狗党を応援する目的を隠しながら、天狗党の鎮撫隊についていこうとしたことがあると。
つまり伊東は天狗党と考えが同じなのだ。
山南の話では、天狗党は尊皇攘夷派だ。
新選組は佐幕の組織なのに、大丈夫なのだろうか。
佐幕と勤皇が、最終的には天皇を敬うことで並び立つと伊東は考えているようだが、一方は幕府を第一とし、一方は天皇を第一としている。
ふたつの思想が本当に相容れるのであれば、今まで京師で起きてきた数々の事件は何だったのだろう。
「山口さん、これで全部です」
賄いの隊士から味噌汁の入った椀を渡され、は我に返る。
礼を言い、膳に椀を乗せ、土方の部屋に戻った。
土方はすでに身支度を終え、火鉢の傍で腕を組み、が戻ってくるのを待っていた。
二人は膳をそれぞれの前に据えた。
「土方さん」
は箸を手に持ったところで、意を決して土方に話しかけた。
「何だ」
土方はさっさと膳の上のものを口に運んでいる。
「あの…気のせいかもしれませんけど…山南総長が」
「ん?」
が言いかけ、土方が顔を上げた。
「トシ」
がたりと音を立てて、近藤が入ってきた。
土方はから近藤に視線を移した。
「飯の途中だったのか、すまん」
「いや、すぐに終わらせる」
近藤がに目で邪魔するよと合図する。
土方は朝餉をかっ込み、も出来るだけ急いで口に運ぶ。
は膳を片付けるとすぐに黒谷へ向かう準備をして、近藤が土方に話しかける声を背に土方の部屋を出た。
冬の晴れた日は、空の青さが痛いほど目にしみる。
だがこの日は朝から湿気を含んだ薄曇りで、太陽も灰色の幕の後ろに隠れながら上ってきた。
そんな、息苦しい朝だった。
(言いそびれた…)
は嘆息して前川邸の角を曲がる。
目の前に黒い羽織の背中が見えた。背筋を伸ばし、きりりと髪を結い上げている、あの後ろ姿は。
「斎藤さん、おはようございます」
は小走りで斎藤に近づき、白い息で挨拶をする。
「今から黒谷か?」
斎藤は眉一つ動かさずにに話しかけた。
「はい」
「俺もだ。一緒に行くか」
「お願いします」
並んで歩くものの、会話もないまま二人はひたひたと進んだ。
(斎藤さんに…言っておくべきだろうか…)
は先ほど土方に言いそびれてしまったことを思い浮かべる。
土方は、何かあったら自分か、もし自分がいなければ斎藤や試衛館の仲間などに話しておけと言っていた。
今なら邪魔は入らない。気になったことは口にしておくべきだとは判断し、冷たい外気を吸い込んだ。
「山南さんの様子が気になる、か…」
「はい」
は首肯する。
斉藤を見上げるといつも通りの無表情で、が言ったことに対して何を考えているのかは読み取れない。
町の中心部に近づいてくると、すでに商いを始めている店や、これから店を開けるために掃除をしている者たち、店先を冷やかしつつ
歩いている者たちで辺りは騒がしくなってきた。
「俺も、気にしている」
ざわつく通りを早足で歩きながら斎藤は呟く。その声は隣を歩くにしか聞こえない。
「今朝言いそびれてしまったんですけど、後で土方さんに言ってみようと思っています」
も同じように小さな声で言った。
斎藤はを見遣るとこくりと頷き、また前を向いた。
鴨川を渡る手前、橋のたもとで二人は声を掛けられた。
「お訪ねしたいのですが。壬生の新選組の屯所はどの辺りでしょうか」
男が道を聞いてきた。
「新選組の?」
は斎藤に目配せをした。斎藤がそれを受けて男を上から下までさっと眺める。ひどく青白い顔で、疲れ切った様子だ。
「知り合いがいるので訪ねたいだけです」
値踏みするような視線に、男はあやしい者ではないと言外に含ませて手を振る。
その弱々しい様に、斎藤はその男がとても屯所に危害を加えるような人物ではなさそうだと判断し、道を教えた。
男は頭の中で教えられた道順をさらうと、礼を述べて歩いて行った。
誰を訪ねていくのだろうとは思った。
夕方、屯所に戻ったら聞いてみようと決め、は斎藤とともに橋を渡った。
日が暮れた。
満月を過ぎ、半月に限りなく近い月が、ちぎれ飛ぶ雲の合間からちらちらと姿を見せる。
一雨来そうな湿気た空気の中、は前川邸に急ぎ足で戻ってきた。
式台を上がって邸内に入ると、ちょうど神谷に出くわした。
「神谷さん、今朝誰か、屯所を訪ねてきませんでしたか?」
「さあ…それよりも大変だったんですよ、山南先生が倒れられて」
「えっ」
今朝の訪問者の次に気にしていた人物の名を神谷の口から聞き、はどきりとする。
「いつの間にかどこかへ行かれて戻ってきたと思ったら、いきなり吐きそうになって。近藤局長が客間に運び込んで何とか落ち着いたところです」
神谷は桶と手拭いを持っていた。山南が倒れてからずっと看病していたのだろう。
「そうでしたか…」
落ち着いたという言葉には胸をなで下ろす。
「山南総長とお会いできますか?」
土方に山南のことを相談する前に、本人と直接の顔を見る機会が出来た。ちゃんと山南の状況を確かめてから土方に言っても遅くはないだろう。
「少しだけなら。長居しちゃ駄目ですよ」
「はい」
はすぐ客間に向かった。
「山南総長、山口です。少し宜しいですか?」
客間の外からは声を掛ける。
「…君かい? どうぞ」
ややあってから返事があり、は客間の障子を開いた。
山南は部屋の真ん中に敷かれた布団に横たわったままでを迎えた。
「お加減が悪いと伺いました」
は障子を閉めると山南の側に座った。
「ああ、ちょっとね」
山南は血の気が失せた顔で薄い笑みを浮かべている。
山南の顔を見る機会を得たと思ってやって来たが、いざとなると何を話したらいいのかわからなくなり、は黙ってしまった。
「何か話があって来たんじゃないのかい?」
「え…」
言い当てられて、は驚いた。だが山南からすればの顔に書いてあるようなものだった。
自然に話の流れを作ることも、気の利いた一言を思い浮かぶことも出来ない。
は膝の上の手をぐっと握ると、単刀直入に切り出した。
「最近、山南総長の様子が気になっておりました」
山南の顔から笑みが消える。
「…それは…」
だがそれも一瞬のことで、すぐに山南は表面に笑みを貼り付かせた。
「体調がおもわしくないと、どうも気分もつられてしまってね。あまりいい態度を見せられなかったかもしれない。総長なのに情けないよ」
布団を首元まで引き上げ、山南は笑った。
は山南の瞳をじっと見つめる。具合の悪さ故に隠しきれていない。山南の目が泳いでいるのには気づいた。それでも平静を
装う山南の気力に、は感服する。
「そうですか、お大事になさってください」
は傍らに置いた荷物を手にすると立ち上がり、客間を退出した。
「君」
障子を開いて足を一歩踏み出した時、山南が後ろからを呼んだ。
「はい」
は肩越しに振り返る。
「ありがとう」
山南はに笑顔を向けた。
その笑顔は先ほどのような薄っぺらいものではなかった。も同じく微笑んで返した。
は土方の部屋へ戻った。
室内に土方の姿はなく、隣の局長室からその声が聞こえる。
西本願寺、という単語が襖の向こうから微かに届いた。屯所移転のことを、近藤と土方で話し合っているようだった。
その夜、が眠るまで土方は部屋に戻ってこなかった。
次の日。
皆がいつも通りの朝を迎えた。
夜明けとともに起き、井戸端で歯を磨いて顔を洗って身支度を調える。
朝餉をとり、巡察の隊は小雨がぱらつく中、町へ出て、居残りの隊士たちは稽古や学問に励んだ。
今朝の巡察は一番隊だった。
神谷は雨が止んだ巡察の帰りがてら、水菓子を買った。具合の悪い山南に、少しでも食べてもらいたいと思ったからだ。
しかし、屯所へ戻って午を過ぎてから山南の元を訪れた神谷は、ごとりとそれを取り落とした。
丸い果実はごろごろと転がって、山南の布団の端に当たると動きを止めた。
山南の布団は、もぬけの殻だった。
まるで人が本当にいるかのように座布団と手拭いが仕込まれていた。
総長・山南敬助が、脱走した。
20100310