片棒 8
「山南総長、“てんぐとう”って何ですか?」
は茶を出しながら山南に聞いた。
今日から三日間、神谷は毎月恒例の“居続け”で屯所を空けている。
その間、が朝晩、山南の身の回りの世話を引き受けることになっていた。
「水戸の天狗党のことかな?」
山南が茶碗を手に取りながら言う。
「よくわかりませんが、伊東さんの弟の三木さんが…」
は数日前に前川邸の門前であったことを山南に語った。
「そうか。天狗党は、水戸の攘夷派でね」
と山南は始めた。
天狗党とは水戸藩内の急進改革派の異称で、尊皇攘夷を掲げている派閥である。
水戸藩は、二代藩主徳川光圀が編纂を開始した「大日本史」に基づいた尊王論が普及している。「大日本史」とは神武天皇から後小松天皇までの
歴代天皇の治世をまとめた物で、その内容から水戸藩は天皇を日本の頂点に奉じる尊王論を展開していた。そのため、自らを日本国の政治の
頂点とする幕府からは睨まれることもあり、政治からは遠のかされる一因となっている。
昨今の幕府は攘夷に対して消極的であると目した水戸藩内の一部過激派が一団を為したのが、天狗党である。
天狗党の党員は、尊皇攘夷の名の下に、過激な事件をいくつも起こしてきた。有名な事件に老中井伊直弼を殺害した桜田門外の変、同じく老中安藤信正を負傷させた坂下門外の変、
イギリスの仮公使館東禅寺襲撃事件などがある。
水戸藩は一橋慶喜の実家である。慶喜は、将軍徳川家茂が文久三(1863)年に上洛する際、一足先に入京した。その時、兄で水戸十代目藩主の徳川慶篤が追従している。
天狗党の武田耕雲斎や藤田小四郎といった面々が同道し、京で長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、そのほか攘夷志士たちと交わったらしい。
そして今年四月、とうとう天狗党は筑波山にて決起した。日光へ向かい、東照宮を拠点に攘夷を決行するつもりだった。しかし日光奉行所に拠点化を拒否され、
下野(現在の栃木県)や上野(同群馬県)方面にて資金調達を行い、北関東の志士たちを集めて再び筑波山に戻った。
しかし皮肉にも、党員が増えたことが徒になった。七百人ほどに膨れあがった人数の武器や衣食を賄うためには巨額の金が必要だった。それを
付近の富商、豪農から強要して取り立てたため、天狗党は攘夷の集団から強盗集団へと評判を落としてしまい、幕府にも非難されてしまったのだ。
幕府も手をこまねいていたわけではない。水戸藩に事態の収束を命じた。それに伴い藩主慶篤は、支藩の宍戸藩主松平頼徳に名代を命じて水戸へ向かわせた。
「三木さんが言っていた、天狗党の鎮撫に伊東さんが加わろうとした話は、その時のことじゃないかな」
山南は茶を啜った。
は三木の言葉をもう一度思い出す。
伊東は挙兵した天狗党の鎮撫に赴いた松平頼徳についていこうとして、上野の会合にまで出かけた。本当は天狗党を応援するためだったので、
忠告されて思い止まったという内容だった。
「もし私がその場にいても、伊東さんには道場があるし、掃討を命じられているところへ混じって実は応援に行くのはどうかなと言うと思うよ」
「…」
山南の解説には頷いた。
その時、すらりと障子が開いた。
「その通りですよ山南さん」
「伊東さん」
伊東が緩やかな笑みを浮かべて入ってきた。
「その時は諦めましたが、その後近藤局長とお会いして、その熱意に動かされて道場を畳んでまでこうして京に来たのです。、君も知っているだろう?
近藤局長の弁舌の力強さを! 人を引き込まずにいられない魅力を…ね」
そう言うと伊東はの前に膝をつき、手を取った。
「新選組の構成について山南さんに教えていただこうと思って来たら君までいるとは、何という幸運なんだろう。君も一緒に教えてくれるかい?」
伊東がの手の甲をゆっくりと撫でる。その指は整えられているものの剣術家らしく節がしっかりしており、手に厚みもあった。
「すみません、そろそろ戻らないと土方さんに叱られますので」
は笑顔を向けながら手を引っ込め、二人に頭を下げると出て行った。
廊下を早足で歩きながらは考える。
伊東の言うように、近藤の弁には人を動かす何かがある。それは敵も味方も問わない。
まだこちらの時代に来たばかりの頃、は、長州の間者だった田所なる男を近藤が説得しかけた場に居合わせた。血を滴らせた白刃を持った相手を前に、
近藤は全く臆することなく言葉を投げかけ、もう少しで説得に成功するところだった。
その片鱗に、伊東も触れたのだろう。
土方に言わせれば“かっちゃんは天然のタラシ”なのだそうだが、近藤は間違いなくそのような資質を生まれながらにして持っていると思う。
は近藤が伊東を口説き落とす場面を想像し、ふふっと笑った。
十一月一日。
徳川慶勝を総督に掲げた征長軍は大坂を発った。
京坂の感情は混沌としている。
長州を叩く。長州をかばう。
攘夷を決行する。攘夷は無理だ。
さまざまな思惑を持った者たちが、名を隠し、身を偽り、各地に潜伏するようになる。
土方は、がいつものように黒谷へ出かけて行った後、一枚の紙を取り出した。がさがさとそれを広げ、眺めてみる。
それは行軍録だった。
が大坂から戻ってくる前に山南に見せ、了承を得ていたものだ。
今回の長州征伐には参加しなかったが、いつどんな要請が来ても、これに従い、すぐ出撃できるようになる。
隊を九つの組に分け、それぞれに組頭をおく小隊編成。
一番隊組頭、沖田総司。
二番隊組頭、伊東甲子太郎。
三番隊組頭、井上源三郎。
四番隊組頭、斉藤一。
五番隊組頭、尾形俊太郎。
六番隊組頭、藤堂平助。
七番隊組頭、松原忠司。
八番隊組頭、谷三十郎。
そして九番目の部隊として小荷駄雑具方をまとめるのは原田左之助である。
本来であれば二番隊の組頭には永倉がいるはずだが、永倉はまだ謹慎中の身である。よって、近藤の薦めにより鳴り物入りで入隊してきた伊東を
据えることにした。
また、山南の名前もないが、これは山南が激闘に耐えるだけの体力を未だに取り戻していなかったことにある。
そしての名も勿論無い。土方は、余程のことがなければを戦場に連れて行く気などさらさらなかった。剣は碌に振るえないし、
数発しか連続で撃てない短筒などで、彼女がその身を守り切れるわけがない。自分がをかばいながら戦うことも出来ないだろう。
だったら初めから安全なところへ移すか、山南とともに負傷した者の手当や戦が終わった後の処理を頼んだ方がいい。
という理由で、上記の行軍録からは数名の名が抜け落ちている。
そして局中法度とは別に、行軍中における軍中法度なる隊規をこしらえた。
敵味方の強弱批判の禁止、美味な食べ物を求めることの禁止。陣中での喧嘩や口論の禁止。戦に勝った際の略奪行為の禁止。
事態の急変に際しては取り乱すことなく組頭の下知に従うこと。
厳しいのはここからだ。
組頭が討ち死にした時には、その配下の隊士たちはその場で戦死を遂げるべし。もし戦闘から逃げ出す者があれば、程度に応じて斬刑や懲罰を与える。
激戦に際しては、組頭以外の死骸を収容してはならない。組頭のために最後まで戦い、死をも恐れぬ忠義を見せるべし。
戦という極限状態の中では、素行が悪くなったり、隊として支障を来す動きをする者たちが出てくる。
それを鉄の掟で封じるのが土方の目的だった。
新選組はもはや浪士の寄せ集めではなく、会津藩御預として名乗る武装集団だ。
自分たちを預かってくれる会津のため、さらにはその上に君臨する将軍のため、評判を落とすような真似は一切許さない。
土方は、隊士が増えてもその態度を貫き通していた。
「増えても…か」
ふうっと溜息をつきながら、土方は障子の外へと目を遣る。
隊士が増えたと言えば、まず思い浮かぶのは伊東の顔であった。
文武両道に長け、弁も立つ。悔しいが顔もいい。
だが、あの性格がいただけない。
いつの間にか自分のすぐ近くに現れて、美しいだのなんだのとのたまう。
さらには神谷、そしてにまでつきまとい、食事や散歩に付き合わせるのだ。
本人曰く、
「僕は美しいものなら何でも愛でずにいられないんだよ」
だそうだ。
だいたい男に向かって“美しい”を連発すること自体が気味悪い。
自分は衆道が大嫌いだから、伊東につきまとわれるのなんかまっぴらごめんだ。
土方はぞくりと体を震わせる。
自分は神谷を餌にしたり、向こうの視界に入る前にその場から離れたりして難を逃れている。
が、はうまく付き合っているようだ。
誘われても容易にはついていかないが、何回かに一度は夕餉をともにしたり、朝晩に顔を合わせれば多少の立ち話もしている。
新入隊士には、特に伊東には気をつけろと言ってあるのに無防備な。
(何かあっても助けてなど…やるものかってんだ)
土方は行軍録を乱暴な手つきで畳んだ。
新しい隊士たちは、伊東を永倉が復帰するまで永倉の組の頭にし、その他は平隊士として編成した。
そしてしばらく様子を見てから、隊内の改革と同時に再編成を行った。
局長・近藤、総長・山南、副長・土方の三人は変わらなかったが、新たに“参謀”という役職を設け、そこに伊東甲子太郎が就任する。
隊士たちは先だっての行軍録を基にした小隊に組み込まれ、九番隊を新しく新設し、伊東の実弟である三木三郎が組頭になった。
さらには隊内に武術、文学を学ぶための塾のような体勢が整えられ、剣撃や柔術、槍術、馬術などが得意で腕の立つ者が、学びたい者に
教える構造が出来上がった。
「これで隊士の教育が出来るな」
と近藤は胸を撫で下ろす。
「ええ、局長。素晴らしいご発案です。僕もお手伝いした甲斐がありました」
伊東が近藤の横で笑った。
この徒弟制度は近藤が新入隊士を新選組の隊士として恥ずかしくないよう教育したいとの願いから生まれたもので、伊東を連れてきたのは
このためでもあった。
江戸で自分たちの志について話し合っている途中、近藤は、自分の理想とする隊作りを伊東に語った。すると伊東は
文学の私塾、剣術の塾の経営経験を語り、それを聞いた近藤は伊東にぜひ隊作りを助けて欲しいと頼んだのである。
伊東は二つ返事で引き受けた。そして京へ上ってきた直後から近藤と話し合いを重ね、この制度を瞬く間に作り上げたのであった。
伊東は自らを文学師範とし、講義を行った。
教材(主に和歌)を先頭に押し立ててゆく授業ではなく、自ら生徒の間に入り混じる。少しでも出来たところは大いに褒め、出来なかったところは
また次に出来るようになればよい、次はきっと出来るようになると励ます。
隊規にある“切腹”の二文字に震えていた隊士たちの中には、褒め上手な伊東の講義に夢中になる者が急増した。
厳しい掟で隊士たちを押さえつけていた土方は、伊東の行動を内心歯がゆく思った。
しかし隊規に背いたらどうなるかを曲げるつもりは毛頭無い。
背いた時が見ものだな、と土方は鼻を鳴らした。
ある日、が黒谷に出かけて居ない間に、騒動が持ち上がった。
伊東にまとわりつかれていた土方が、神谷を呼びつけて招餌にして逃げた。
それに怒った神谷が土方と口論し、売り言葉に買い言葉で土方が伊東と竹刀で勝負をすることになったのである。
黒ずくめに赤い面紐が際立つ土方。
目にも眩しい白の防具の伊東。
負けられない、勝ちたい、それぞれの思惑が竹刀と共に交錯する。
が、二人はいつしか純粋に勝負の世界へとのめり込んでいった。
試合を行っている道場内は二人の打ち合いに歓声を上げている。
二人にはその声がまったく聞こえていない。
つと、汗で土方が足を滑らせた。
そこに伊東が気づかないわけがない。
しかし伊東は土方を打たなかった。
土方は体を沈ませざま、伊東の首元に竹刀をめり込ませた。
その夜。
「土方さん、伊東さんと対決なさったんですって?」
が前川邸の土方の部屋に戻るなり聞いてきた。
「あ? ああ。何で知ってんだ」
黒谷に行っていて勝負のことは知らないはずのに、土方は驚いて振り向いた。
「前川邸の門の前で伊東さんからと、邸内に入ってから式台の前で神谷さんから聞きました」
は偶然それぞれの場所で出くわした二人から、同じ内容の話を聞かされたのである。
「伊東さんが…いえ、伊東参謀が、土方さんの剣筋を褒めてましたよ。あと、赤い面紐も。またぜひお手合わせ願いたいって」
「けっ、冗談じゃねえ。ところで奴はどこへ出かけた?」
「“これから島原の美しい蝶たちを愛でてくる”っておっしゃってました」
「そうか」
「それから、神谷さんが“副長が勝ったから伊東先生の小姓にならなくて済みました”ってとても喜んでましたよ」
「あいつのために勝負したわけじゃねえや」
「ふふ、でも神谷さんは助かったって言ってました」
「ほっとけ」
夕餉が終わり、土方もも思い思いの時間を過ごして、床に就いた。
先に眠ったの気配を背に、土方は思う。
今回、勝ったら神谷を自分の小姓にと言ったのは伊東個人の戯れ言だった。
が、もしこれが正式に、を間に入れての勝負だったら。
真剣試合を摸した勝負などではなく、本当に真剣を持ち出していたかもしれない。
その時こそ、足を滑らせるような真似は絶対に出来ないだろう。
誰にも、特に伊東になど、渡してやるものか。
助けてやらないと思いつつも、やはり最後にはそうしてしまうのだろうと土方は思い、溜息が出るばかりだ。
土方は、細い後ろ姿をちらりと見ると目を閉じた。
この後も伊東は何かと話題を振りまき続けた。
土方を、を、神谷を、ちらりとでも姿を見れば追い回す。
すでに隊に馴染んだと言い、離れから山南の部屋へ自分だけ移る。
それに土方は、神谷を山南の小姓から一番隊へ転属、部屋は沖田と斉藤の部屋へ移動させて反撃した。
神谷と同室になれると舞い上がっていた伊東は、天から地へ真っ逆さまに落とされたのであった。
こうしててんやわんやの年末が過ぎ、年は元治二年に改まる。
年が明けたばかりの正月早々、大坂から山崎がたいそうな手土産を持って戻ってきた。
「副長はん、今度は大坂が焼き討ちの標的になってるらしいです」
山崎の言葉に、土方も、も、口元の白い息が一瞬止まった。
20100225