久遠の空 ドリーム小説 片棒 5

片棒

update:2010.01.29

片棒 5 

 次の日、が起きるとすでに慶喜と辰五郎は揚屋から姿を消していた。
 は勝手に京屋へ戻るのも憚られると思い、慶喜か辰五郎が来るまで、あるいは連絡があるまで揚屋で待つことにした。

 慶喜たちは昼餉の時刻になってから揚屋に戻ってきた。
 「出かけるぞ」
 と慶喜は言い、茶も飲まずにを連れ出した。

 慶喜はと辰五郎を従えて御堂筋を南に進み、道頓堀にやって来た。
 戎橋を渡ると堀沿いにずらりと茶屋が並び、道を挟んだ反対側には公儀に許された印である櫓を掲げた芝居小屋が何軒も建っているのが見える。
 「今日は芝居を見るぞ」
 慶喜は立ち並ぶ茶屋の内の一軒に、すっと入っていった。と辰五郎も後に続いた。

 まずは茶屋で一服し、それから茶屋の前にある芝居小屋―――筑後の芝居に三人は連れだって入っていった。
 ここは元々竹本座と言い、義太夫節で有名な竹本義太夫が建てた芝居小屋である。竹本の組んだ相手が近松門左衛門で、『曽根崎心中』 『冥途の飛脚』『女殺油地獄』など多くの人気作品を世に送り出した。それらはいずれも人形浄瑠璃であったが、今は廃れており、人形浄瑠璃は 上演されていない。芝居小屋の名前も竹本座から筑後の芝居に変わっている。

 慶喜は広い座席の中でも真ん中辺りに席を取っていた。舞台が広く見渡せ、花道も奥から手前までじっくりと見られる良席だった。
 歌舞伎が上演され、は去年、四条河原に来た旅の一座のことを思い出しながら舞台を見ていた。

 三部構成の演目は、一部が終わるごとに長い休憩が入り、その度に慶喜は茶屋へ戻って飲み食いする。
 も共に茶屋へ戻ったが、座と茶屋を行ったり来たりに落ち着かず、僅かに茶を啜るだけだった。

 日が落ちる直前にやっと全演目が終了し、はこれで揚屋に戻って慶喜に大坂へ自分を呼んだ理由が聞けると思ってほっとした。
 が、慶喜はまたまた茶屋へ戻り、舞台に上がった役者を呼んでどんちゃん騒ぎの夜を繰り広げた。
 長い演目と慶喜へ質問出来ないことに少々疲れを感じ、は役者たちが話しかけてきても言葉少なに答えるだけである。
 そこへ慶喜が寄りかかってきて、
 「こいつあ今日が初めての芝居小屋なんでな、何も知らねえやぼ助なんでい」
 と役者たちに向かって言い放った。
 役者たちは生真面目そうに姿勢を正して座るに、芝居や芝居茶屋についておもしろおかしくあれこれと教授した。は話を聞く度に頷いたが、 怒濤の如く話しかけられて半分も頭に入らない。ぐったりして新町の揚屋に戻った。



 二日目はこうして見事に慶喜への質問に失敗しただった。
 が、その後も失敗は続いた。
 は揚屋で翌日の朝を迎えたが、慶喜たちはまたしてもが起きる前に消えていた。
 そして昼頃に揚屋に戻って来ると、を連れて外へ出るのを繰り返した。

 道頓堀には三日連続で通い、は様々な歌舞伎や芝居を見せられた。
 別の日には南にある、聖徳太子が建立したとして有名な四天王寺に詣でた。
 景観が名物の料亭で食事もした。そこでは両手で持たねばならないほど大きな貝殻を杯として酒を飲むという、変わった趣向もあった。
 堂島の米市、雑喉場(ざこば)の魚市、天満青物市の三大市場も見学した。
 住吉大社では神社建築史上最古の本殿や、豊臣秀吉の側室・淀君が奉納架替した反橋を見た。
 住吉大社の南側の安立町には松原があり、の背よりもうんと高いところに松の木が延々と枝を伸ばしていた。人に尋ねたところ、 東西十五間余(約27・1メートル)、南北十五間(約23・5メートル)、周囲五十間(約90・5メートル)ほどあり、 海岸からの風を受けて霰が吹き付けるように響くので「霰松原」とも呼ばれているのだそうだ。


 は慶喜が行くところ、どこへでも黙ってついていった。慶喜が自分に何をさせたいのかは全くわからなかったが、 常に慶喜に従っている辰五郎がただついていくのみと言っていたのを自分も信じてみることにした。慶喜は自分たち英吉利語 習得の面々の雇い主だからだ。
 それに、慶喜はふざけたように装っているが、時々ふと気がつくと自分を鋭い視線で見ている時があるのには気づいていた。 自分の反応を見ているような目だ。きっと何かあるに違いないとは思い、それを見極めるためにも慶喜の全てに付き合った。
 慶喜たちが迎えに来るまで英吉利語の書付や辞書を見るだけなのも暇なので、は部屋に備えてあった筆と紙を使い、 部屋の隅に鎮座している漆塗りの黒い文机の上で、毎日どこへ行ったのか、何をしたのかを書き綴っていた。 文机には螺鈿細工が施されており、光を受けて玉虫色に輝く。その光は穏やかで、早く京に戻りたいと急くの心を優しく宥めていた。



 数日後、慶喜は毎日そうしてきた如く、昼頃に辰五郎を伴って揚屋へとやって来た。
 「どうだい大坂は」
 平伏するの前に座り、慶喜は笑いながら聞いてきた。
 「はい、京とはまた趣が異なり、見るもの聞くもの全てが珍しいです」
 は思ったままを答える。

 「新門の」
 慶喜がくいっと顎で示すと、横に控えていた辰五郎がの前に風呂敷を差し出した。
 「山口、面を上げよ」
 「はい」
 は言われるままに顔を上げ、慶喜の胸元辺りに視線を移した。
 「大坂で見聞きしたことを、そこなる風呂敷の中身を使うてしたためよ。英吉利語でな」
 「英吉利語で…でございますか?」
 慶喜の言葉には目を瞬かせる。
 「そうだ。簡単にでよいぞ」
 慶喜はにやにやと笑ってを見るだけで、それ以上は何も語らない。
 「かしこまりました」
 何故英吉利語で書かねばならないのか。この男のことだ、聞いても答えてはもらえなそうだと察すると、は何も聞かずに従った。

 「中を改めよ」
 慶喜はぐっと風呂敷をの膝前に押す。
 「失礼いたします」
 は黒に金糸が混じる風呂敷の結び目を解いた。
 中には黒塗りの文箱が収められており、蓋を取ると筆が数本と硯、墨があった。箱の下には奉書紙に包まれた紙が置いてある。
 「いつ頃までに」
 は聞いた。
 「好きなだけしたためておってよい。終わったら京に戻してやろう」
 慶喜は好かない笑みを浮かべたまま答えた。

 これを書き上げたら京に、土方の元に戻れる。
 は早速文箱と紙を手にして、螺鈿細工が光る文机に向かった。



 一方、土方はと会えなかったことを報告に来ていた山崎を大坂に戻した。
 いつも通りの毎日が過ぎていく。
 土方は、京の各地に散っている監察や巡察を終えた隊の組長から報告を聞いてまとめたり、隊士たちが緩んでないか屯所内を回って 確かめたり、隊をこれからどう発展させていくかを考えたりなど、副長としての激務を次々とこなしていった。

 一日が終わると、部屋は静まり返る。
 夕闇が迫る中、行灯に火を入れた土方は煙草盆を引き寄せ、煙管に火をつけた。

 の行方は知れている。呼び出した相手の身分からして彼女の身の安全も守られている。心配することは何もない。 が、突然大坂に連れて行かれて何日も戻されないのが土方は気に入らなかった。

 きっと彼女のことだ、雇い主の命令に従っておとなしく滞在しているに違いない。
 しかも雇い主である上に、一橋慶喜は“山口”が女であることも知っている。まさかそれを楯にしてに何でも言うことを聞かせたり しちゃいねえだろうな、と土方の頭の中では慶喜との様々な場面が展開していった。

 消息を知らせる書状のひとつも寄越せねえのかと思いつつ白い煙を吐き出していると、部屋の外から声が掛けられた。
 「土方君、入ってもいいかい?」
 山南の声だ。
 「ああ」
 土方は我に返ると気のない声で返事をした。

 山南は明るい笑顔で土方の部屋に入ってきた。
 「これ、この前頼まれた君の考えた行軍の案。目を通しておいたよ。いいんじゃないかな」
 山南は土方の前に、折りたたまれた紙を差し出した。
 「もうすぐ近藤局長が江戸からお戻りだ。平助が向こうで調達している新人隊士たちを連れてね」
 「そうだな」
 「彼らが落ち着き次第、この組織を実行するつもりかい?」
 「ああ」
 土方は山南が差し出した紙を受け取ると、ばっと振ってそれを広げる。

 そこには新選組の新たなる戦闘の組織図が描かれていた。間もなく始まるであろう長州征伐が念頭に置かれている。 近藤が隊士をどのぐらい確保してくるのかによって変わるが、いくつかの組に分けてそれぞれに組頭を置く。組頭候補の名前の先頭には、 当然の如く沖田の名があった。後ろには、軍律の下書きが並べられていた。


 「すまない、土方君」
 山南は呟いた。

 土方は煙管をふかしたまま、山南に視線だけを向けた。
 行軍の案の中には山南の名がない。
 山南はごく普通の生活を送れるようになり、隊士たちの前に姿を現すことも出来るようになった。しかし、剣を振るえる程には回復 していないのが実情だった。

 池田屋以降、隊士が増えてきたために最近行った隊の組織変更では山南を総長に格上げした。今まで副長二人が 行っていた仕事を総長と副長の仕事に分け、隊内に関すること――隊士たちから意見を聞いたり、それを元に隊内の環境改善に取り組んだりを 山南が、逆に隊外に関すること――監察を使って情報を集めたり、必要があれば近藤と共に公的な場に出たりなどを土方が受け持つことにした。 それはつまり、格上げを隠れ蓑にして山南の負担を減らす作戦だったのだ。

 山南自身の強い希望もあり、山南の健康を保つために神谷を一番隊から引き抜いて小姓につけたのは大正解だった。 生真面目な性格から無理をしがちな山南であったが、医者の息子であり、新選組の阿修羅たる神谷に睨まれては、山南も言うことを聞いて おとなしく療養せざるを得なかった。その結果、山南の健康は医者も驚くほどの回復を見せたのである。

 そう、驚くほどの回復。島原に妓を作って通うほどの回復だ。
 今年の初めには腕を深く斬られ、横になって大坂から京に戻ってきた。やっと良くなってきたと思った矢先、夏は暑気にやられ動けなかった。 その山南が、今では足繁く遊里に通うほどにまでなったのである。

 そこまで回復したのは喜ばしいことだし、妓と遊ぶのも結構だと土方は思っている。それだけの仕事を山南がこなしているからだ。
 自分は新選組の鬼の面を引き受けているから、隊士たちは恐れて近寄ってこないし、いつもぴしりとした面だけを自分に見せている。 反対に山南は誰に対しても人当たりが柔らかく、隊士が不満を訴えたり相談したりしやすい。総長の部屋には時折隊士たちが 訪れているのを土方は知っている。

 だからこそ山南が引け目を感じているのも知っていた。
 実際に山南がやることと言ったら、総長室で隊士から話を聞いたり、局長室に出向いて会議に参加することぐらいだ。 隊士たちと巡察を行うことはおろか、北辰一刀流免許皆伝の身でありながら稽古をつけてやることすら出来ない。
 それなのに島原には想う相手を持ち、通っている。
 一体自分は何のために京で仲間とともにあるのだろうかと。
 そこで出た山南の言葉が、“すまない”なのだ。


 「…あんたにはあんたの仕事がある。俺は俺の仕事をしている。それだけだろ」
 土方は煙を長く吐き出し、煙管をこんと灰皿に打ち付けた。
 山南は土方の言葉に自嘲を浮かべるが、すぐにそれを引っ込めた。

 「土方君、もし君が今日はもうそれほど仕事がないのなら、どこかへ出かけてきたらどうだい?」
 山南が気を取り直して言う。
 「あ?」
 土方は雁首を懐紙で拭きながら問い返した。
 「ここのところ、ずっと屯所に詰め通しじゃないか。たまには外風にあたってくるといいよ。君ほどじゃないが、隊内には私が睨みを 利かせておくから」
 山南はそう言って眉を吊り上げる。しかし口元は笑っていて、迫力の欠片もなかった。
 確かに土方はこの前井上と出かけて以来、何日も前川邸に詰め切りだった。屯所でやらねならないことは山ほどあったからだ。

 「君が戻ってきた時にそんな険しい顔じゃあ、怖がられてしまうよ?」
 「余計な世話だ」
 ――の名が出ると土方は煙管に煙草を詰め始めた。
 「俺はこれから監察の報告を待つ。出かけてる暇はねえ」
 土方はじろりと山南を一瞥すると、再び煙草に火を入れた。
 「そうかい、じゃあ私は失礼するよ」
 予想通りの反応だったのか、山南は笑みを浮かべながら副長室を出て行った。


 考えねばならぬことが多いのは本当だ。新選組を今後どのように動かしていくか。隊内の規律をどのように締め、隊士たちを扱ってゆくか。
 そして、はどこで何をしているのか。いつ戻ってくるのだろうか。
 手駒として育てようとしていたことは、今はどうでもいい。何事もなく無事に戻ってくれば。
 自分が出かけている間にひょっこり戻ってきたらと思うと、おちおち外出などしていられない。
 やれやれと思いながら土方は、苦い煙を吸い込んだ。




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