片棒 4
は辰五郎に連れられ、町に足を踏み出した。
辰五郎はの荷物を預かり、がっしりとした体躯を揺らしながら大川と平行して歩く。
すぐにが適塾に行く時に通った今橋が見えたが、辰五郎はその次の高麗橋を渡った。
辰五郎は高麗橋を渡ると、右手にある高札場に目を遣った。何が書いてあるのかを素早く読むと、またすたすたと歩き出す。
も高札場を見たが、日が暮れてゆく中、提灯が点くか点かないかの黄昏時である。碌に読むことも出来ずに辰五郎の後を追った。
そのまままっすぐ進み、この時代には珍しい三階建ての櫓を備えた櫓屋敷の前を通って高麗橋筋に入った。
間もなく夕刻であるせいか、通りは家路を急ぐ者たちでごった返している。
店先に色とりどりの扇子を並べる玉露堂。江戸にも店を持つ大店の呉服商・岩城と、逆に江戸からの出店である三井呉服店が続く。
玉露堂の向かいにはスルガヤ、三井の先にも虎屋大和と菓子屋があり、甘味にも事欠かない。
は沖田がいればきっと神谷と共に寄り道をするのであろうと口元を緩める。
大店の並ぶ筋を抜け、左に曲がるとそこは堺筋であった。
店じまいを始めているところが多いが、左右に延々と店が立ち並んでいる。閉店ぎりぎり最後の売りに店の者が声を張り上げていた。
二人は雑踏の中を早足で抜けていった。
京屋を出て四半刻も歩いただろうか、辰五郎は堺筋を右に曲がってゆく。
もその背を追いかけて角を曲がった。
すると堺筋の人混み以上の混雑が目の前に広がった。
左右に店があることは勿論だが、その通りの真ん中にさらに出店が立てられ、人がそれを冷やかしながら歩く。
店の屋号や商品の名前が書かれた行灯や提灯が高く低く掲げられ、暗くなりつつある空を明るく照らしていた。
「大坂は初めてで?」
ここに来てようやく辰五郎は口を開いた。
「二度目ですが、京屋さんと適塾の辺りと…九条村しか来たことがありません」
は目を丸くしながら辺りを見渡す。
衣服、道具、袋物、下駄、草履、茶碗、鍋、野菜。
神棚、仏器、櫛笥、珊瑚、桶、飯櫃。
ありとあらゆるものが商品として店先に鎮座し、店の売り子の声が華やかに飛び交う。辻には占い師が座り、天眼鏡で人相を見て託宣を授けている姿がある。
「堺筋での商売の時分が終わると、ここがこうして賑わうんでさ」
辰五郎が、呆気にとられるを見て目を細めた。
「ここは順慶町、さっきの堺筋から新町を繋ぐ、夜店通りで」
「じゅんけいまち…」
京にもこのように混雑している通りはあるが、雰囲気がまるで違う。京はもっと人々が静かで、整然としているのに対し、
この順慶町はもっとくだけた感じで、雑然としていて、人も大声で話しながらひしめいていた。
目的地にはまだ着かないようで、は辰五郎の案内に従った。
はあまりの人混みに何度も辰五郎から離れそうになったが、その度に辰五郎は立ち止まり、が後ろにいるか確認してくれた。
おかげでは何とかはぐれずに辰五郎の後をついていくことが出来た。
二人はもみくちゃにされて、やっと順慶町の通りを抜けた。
目の前には川が流れ、はその涼しさにほっと一息つく。
辰五郎は変わらぬ足取りで、川にかかる橋を渡った。
橋を渡るとそこには大門があった。辰五郎はその門をくぐる。
も辰五郎に続いて中に入ってみると、
趣向は異なるものの、は京でも同じような光景を見たことがある。
右に左に遠くまで、置屋、揚屋、茶屋のあかりが煌々と灯り、男と女が芸と色を間にして繰り広げる別世界。
「山口殿、ここが新町です」
大坂唯一の公認遊郭、新町には連れてこられたのであった。
「若は…主人はこの先の見世でお待ちです」
辰五郎が大通りの先を指さした。
ははっとする。高麗橋筋や堺筋、順慶町の賑やかさに目を奪われていたが、大坂に来たのは一橋慶喜に呼び出されたからだった。
(一体何で…?)
本来の目的を思い出したは気を引き締めた。
しかし、そうは思ってもやはり遊里のきらびやかな様は眺めずにいられない。
門前の葉桜林を過ぎると万灯が見世の軒先を飾り、順慶町よりも深く誘うような色合いを放っていた。往来を行くのは男ばかりで、時折網笠で顔を隠した二本差しが
見える。身分を隠し、お忍びでやって来た武士たちであろう。
人垣の向こうには総二階の門構えに立派な格子造りを備えた揚屋が見える。客と妓が楽しんでいる声が、屋内から風に乗って聞こえてきた。
「おっと山口殿、ちいっと端に寄りやせんか」
辰五郎は後ろをちらりと見るとの前に手をやり、後ろに退かせた。
は後ろに進みながらも、道に何かがあるのだろうと思って辰五郎の横から首を伸ばす。
しずしず、しゃらりと。
太夫道中が、道の奥からやって来ていた。
黒い髪をふっくらと結い上げ、簪や櫛を豪勢に突き立てて、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。
禿が二人ついており、その後ろに朱色の長柄傘を持った男が続いている。
(あれは…蝶…?)
はその傘に、黒い蝶の模様が描かれているのに気がついた。
辰五郎は急ぎ足で数軒先の揚屋に入っていった。
「すいやせん女将、奥の間の」
「ああ、浮様のとこの辰五郎はん。お連れはんでっか?」
見世の女将は辰五郎の後ろで息を整えているに気づき、愛想笑いを浮かべる。も軽く会釈を返した。
「どうぞ」
と女将は言い、二人を長い廊下の奥へと案内した。
廊下の突き当たりまで来ると、女将は手前にある襖に向かって声を掛けた。返事があって襖を開くと、そこにあの人物がいた。
一橋慶喜が。
前と同じく町人風の姿で、単の前はすっかり開かれ、帯でようやく合わさっている。すでに酒を飲んでいるらしく顔は赤い。
「新門の、ご苦労さんだった。よう、よっく来たな。こっちに来い」
新門のと呼ばれた辰五郎はの荷物を襖の際に置いた。
「新門さん、ありがとうございました」
は辰五郎に頭を下げる。
「“辰五郎”で結構です」
辰五郎は口元だけで笑い、部屋の隅に座した。
「ぼさっと突っ立ってないでここへ座んな」
慶喜は入り口で立ったままのを促した。
は荷物を取り、その場で正座をした。
「何だよ、よそよそしい。もっとこっちへ来い」
慶喜は離れて座るを手招きする。
「山口、お召しにより参上いたしました。ご用向きをお窺いいたします」
は畳に手をついて頭を下げた。
「ご用向きねえ…じゃあまず頭を上げな」
「はい」
慶喜は目の前にある杯を取り、の前に突き出した。
「注げ」
「はい」
は慶喜に近づき、銚子を持つと慶喜の杯を満たす。
慶喜はぐっと飲み干すと、杯をに差し出した。
「お前も呑め」
「申し訳ありませんが、酒は得意でありませんので」
「つまらない奴だねえ。少しは付き合ってくれたっていいのによ」
断るに慶喜は口を尖らせる。
「…浮之助様」
は誰がどこで聞いているかわからないので、女将が彼を呼んだ名に従って慶喜を諫めた。
「たまにはお前さんをあんなむさくるしい男所帯から解放してやろうと思ってさ、ここに呼んだんだよ」
くくっと笑いながら、慶喜はに酌をさせる。
「それは」
は即座に反論しようとした。
「浮之助様、お着きです」
襖の外から女将の声がした。
「ああ、通してくんな」
慶喜がそちらに向かって返事をする。
「失礼いたします」
と声が掛かり、襖が開かれた。そこには年端もいかぬ禿が二人、ちんまりと座っていた。は二人の髪を彩る鮮やかな花の髪飾りに、慶喜にもう一言言おうと
思った気勢をそがれた。
人形のように可愛らしい禿の間から、衣擦れの音を立てて妓が入ってきた。幾重にも重なった着物の上に緋色の打掛を纏い、唇を飾る紅が光る。頭はどのように
結い上げているのかまったく推測できないような複雑な結いに、これまたどうやって指しているのか、簪や櫛が所狭しと差し込まれていた。
道中をやって来た、あの妓だった。
「俺の馴染みでね。てふ屋の天神、朝霧さ」
慶喜が紹介すると、朝霧はゆっくりと座って、優雅な手つきでに傅いた。
「朝霧どす。よろしゅう」
「山口です。こちらこそよろしくお願いします」
も座り直して挨拶した。
その後は“大坂までやってきたを労う宴”と慶喜が称して、呑んで歌っての騒ぎとなった。
朝霧はさすがに太夫の次を張る天神だけあった。舞を舞わせれば屋号のてふ、つまり蝶のごとく華やかに舞い、歌わせれば蝶の羽ばたく季節である春のように
暖かい雰囲気の声で歌う。
また慶喜自身も三味線を取り、爪弾きながら歌っては禿たちの拍手喝采を受けていた。
その中で歌も音曲も出来ないは、周りの人間が歌い踊るのに合わせて手拍子を打ちながら辺りを観察していた。
この部屋は今いる揚屋の中でもっともいい部屋なのだろう。ぴかぴかに磨かれた太い床柱がそびえ、床の間には気品漂う水墨画の掛け軸と派手な生け花がある。
立派な違い棚の天袋と地袋には、金銀砂子の紙が張り込まれていた。襖も美しい四季の花を配置され、前川邸と同じ襖とは思えないほど豪華である。
障子も細い組子で模様が形作られており、同じ意匠がその上にある欄間にも施され、部屋としての違和感が全くない。
庭は枯山水で、大きな石が山のように連なり、濃い緑の葉をつけた木々が、池を模した白い玉砂利の上に枝を伸ばしている。
建物も庭もいずれも格式の高そうな雰囲気に、はどことなく居心地の悪さを感じる。
「〜」
どん、と慶喜がにぶつかってきた。
「浮之助様?」
倒れたのかと思い、は慌てて慶喜の方を向いて腕を伸ばす。
「どこ見てんのさ〜、こっち見ろい」
慶喜はに抱きついた。
「大丈夫ですか?」
は慶喜の息が酒臭いのに気がつき、心配して顔を覗き込んだ。
「これぐらいたいしたことない。それより楽しめ」
ひっく、と軽くしゃくり上げながら慶喜は笑う。
「楽しんでますよ。お座敷もお庭も、朝霧さんも綺麗ですし」
酔っぱらいに絡まれ、助けを求めるようには朝霧の方を向いた。朝霧は口元を緋の衣で覆って含み笑いを返す。
慶喜はやがての膝に頭を乗せ、眠りについてしまった。
朝霧たちは帰らせ、辰五郎が見世の者に言って床を延べさせてそこへ慶喜を横たえる。
「辰五郎さん」
とは慶喜に薄い掛け物をする辰五郎に呼びかけた。
「あの、浮之助様はどういった用件で私をお呼びになったのですか?」
慶喜が自分をたまには男所帯から解放してやろうと思ったというのは本当か怪しい。別に真意があるような気がして、は
辰五郎に聞いてみた。
「若がなさることは我々下々の者にはわかりやせん。ただついていくだけで」
辰五郎は顔を上げる。その顔には慶喜を信じ、守っていくのだという決意が眉間の皺となって現れていた。
今夜はここに泊まるようにと辰五郎に言われ、は隣の部屋を与えられた。
京屋に連絡しなければ、土方からの書状を受け取った山崎が心配するだろう。が辰五郎にその旨を伝えると、辰五郎は
手はずを整えて京屋へと使いを出してくれた。
一人で眠るには広すぎる部屋で横になると、秋の虫の音が聞こえてくる。
今夜ははぐらかされてしまったが、明日はきっと慶喜に真相を聞きたい。は困っているであろう山崎の顔と、怒っているであろう土方の
顔を交互に思い浮かべながら目を閉じた。
の予想通り、京屋では山崎がおろおろしていた。
金持ちのぼんぼん風の出で立ちで探索を終えて京屋に戻って来ると、京屋の主人から書状を渡された。
中を改めてみると副長である土方からで、が急に下坂することになったのでよろしく頼む、と一緒にあれこれをして欲しいと書いてある。
しかしそのが京屋から出て行ってしまいここにはいない。辰五郎という男が迎えに来たこと以外何も解らなかったが、山崎はとりあえずを捜した。
緒方拙斎の適塾に行ってみたが、が訪問した形跡はなかった。が、この大坂でに縁のあるところは適塾ぐらいしかない。山崎はそれでも
諦めることはせず、闇雲に歩き回った。
山崎が途方に暮れながらを捜している最中、揚屋から京屋へやって来た使いがの宿泊を伝えた。
必ず無事に帰すので、揚屋には来ないようにと伝言していった。
夜遅く京屋へと戻ってきた山崎は、居所が知れたことには安堵したが、これからどうするべきか悩んだ。
そして翌日、京に上って土方と面会し、と会えなかったことを謝罪した。
土方は黙って頷いたが、苦虫を噛み潰したような顔になっていたのは言うまでもなかった。
20100116