久遠の空 ドリーム小説 片棒 3

片棒

update:2010.01.15

片棒 3 

 は土方の代筆をこなすため、斎藤に頼んで季節ごとの文頭の挨拶を教えてもらい、自分なりにまとめて一冊の冊子にした。 それを見ながら頭の中で文章を作ってみたり、その文章が適当かどうかを土方や斎藤に聞いたりして数日が過ぎた。


 その日、は英吉利語の授業を行う宿坊に入り、いつも通りに掃除をしてから机を並べた。
 他の生徒たちが集まり、講師のハーバーがやって来て滞りなく授業が行われる。
 そこへ公用方の外島機兵衛が飛び込んできた。

 「山口はおるか。おお、おったか。お主に頼みたいことがある。今日はもう授業は仕舞いにして、荷物を持って来い」
 外島は一番奥の机で帳面を広げていたに目を遣る。
 は荷物をまとめ、言われるまま外島について宿坊を出た。



 外島はを小方丈に隣接する清和殿に連れて行く。
 清和殿には公用方筆頭の野村左兵衛が待っていた。

 は野村の前に正座し、畳に手をついて頭を下げた。
 「山口を連れて参りました」
 「うむ」
 外島と野村のやり取りが、の頭上を通過する。

 「山口、大坂へ行け」
 野村が短く切り出した。
 「大坂…でございますか?」
 は突然の申し出に思わず頭を上げる。
 「ああ。さる御方のご指名でな、お主に大坂へ来るようにと連絡があったのだ」
 野村は懐から一通の書状を取り出し、に手渡した。
 は押し頂いて受け取ると、かさりとそれを広げた。

 “山口 至急大坂へ参らせ候 一橋慶喜”

 は最後に署名された名前を見て、あの男を思い出した。少し前に英吉利語の宿坊へと現れ、自分を女だと見抜いた町人風の男を。
 「実はこの黒谷で英吉利語の授業を行うようにと指示を出されたのが一橋公であらせられてな」
 野村は鋭い姿勢を保ったまま言葉を続ける。
 「どういう訳だかはわしも知らぬが、こうしてお主を名指ししておられる。用件も書かれていないが、おそらく英吉利語に関する 何かだろう。すぐに大坂へ発て」
 「私一人で…でございますか?」
 すでに自分が大阪へ向かうことは決定事項のようだ。しかも単身である。何をするのかもわからない。は不安でだんだんと心臓の音が高鳴り、 耳元まで鼓動が上がってくるのを感じる。
 「そうだ。長州征伐へ向かおうとしている今、他の生徒の面々の腕前も必要になるかもしれぬからのう。その点、お主なら 剣術の腕前も大したことないし」
 野村は豪快に笑った。
 はその通りだと思って、心の中で苦笑いする。
 「まあそれは戯れ言よ。もし必要があれば大坂から知らせるがよい。すぐに人なり道具なり揃えて送ろうぞ。しかと働いてこい」
 「はい」
 野村は口元を引き締めるとの肩にぽんと手を置き、清和殿から出て行った。



 外島と別れると、は息を切らせて前川邸に戻った。
 廊下を小走りで進み、土方の部屋に踏み込む。
 「土方さんっ…」
 ところが部屋の主はいない。
 隣の局長室も覗いてみたが、姿はなかった。
 それならばと斎藤を訪ねていったが、同室の沖田に留守だと言われてしまった。

 はもうひとりの副長である山南の部屋に行ってみた。
 「山南副長、山口です。入ってもよろしいでしょうか」
 「君かい? どうぞ」
 山南の柔らかい声が聞こえ、は障子を開いて室内に足を踏み入れた。

 山南は体調もかなりよくなってきたらしく、外出も出来るようになってきた。池田屋の後には恩賞を与えられた出動部隊に連れられ、島原へ行ったぐらいである。 本人に確かめていないが、噂では島原に通う妓が出来たらしい。
 今日も山南は顔色が良い。もう心配はないだろうとは思った。

 が、今はそれを話している場合ではない。
 「失礼します。あの、土方さんはどちらに行かれたかご存じありませんか?」
 「土方君? ああ、何やらだいぶ煮詰まっていたようで、井上さんが心配して外へ連れ出したよ。昼餉をとってそのままぶらぶらしてるんじゃないかな」
 「…そうですか」
 は季節外れの汗を額から流しながら呟いた。

 も土方については気に掛けていた。ここのところ土方が自分にあれこれ教えてやらせているのは、彼の仕事が忙しくなり、 簡単な仕事を任せようと思っているに他ならないと気づいていた。だから井上が土方を息抜きに連れ出してくれたことは有り難いと思う。

 が、今はすぐにでも単身の大坂行きについて相談したかった。
 「何か相談事かい?」
 「いえ、何でもありません。ありがとうございました…」
 不在なら仕方がないと肩を落とし、は山南の部屋を辞した。


 とにかくすぐに支度をして出かけなければならない。
 大坂までは以前行ったとおり伏見から舟に乗ればいいだろう。島田がいれば前に行った時のように送ってくれるよう頼みたいが、隊士部屋にいるだろうか。
 は自分の辞書と多少の着替えを風呂敷に包みながら、どうやって大坂まで行き、その後どう行動したらよいかを考える。
 そして土方と斎藤に不在の旨を書いて残していかねばならないと、筆を執った。


 その時、ちょうど土方が井上と戻ってきた。
 土方は井上と部屋の前で別れ、自室に入る。するとが大きめの荷物を傍らにして、何やら書き物をしている姿が目に入った。
 「あ、土方さん」
 は土方を見上げて緊張を緩める。
 「何だその荷物は」
 黒谷から戻ってきたにしても、これからまた行くにしても大きすぎる荷物だ。土方はと荷物を交互に見比べた。
 「大坂に行くことになりまして」
 とは黒谷であったことを土方に語り始めた。



 「一橋公のご命令で…大坂だと?」
 土方の胸に不安がよぎる。がたった一人で大坂へ行き、女子だとばれずにいられるのか。一橋公が彼女を呼ぶその内容とは 一体何なのか。それを無事に果たせるのか。そして、もし果たせなかった場合はどうなるのか。
 「はい、名指しで指名されて、お断りすることもどなたかに代わっていただくことも出来ませんでした」
 は俯く。

 土方は考え込んだ。の雇い主である一橋公直々のお声掛かりでは断ることは出来ない。心配なことは多々あるが、仕方がないだろう。 こうなったらが大坂で少しでも安全に過ごせるよう手配するしかない。
 「わかった。俺が伏見まで送る。向こうに着いたら、大坂で探索の任に就いてる山崎と合流しろ。今すぐに俺から山崎に子細を書く」
 「本当ですか? よろしくお願いします」
 「山崎は京屋を足掛かりにしてうろついてるはずだ。京屋の主人に頼んでおけば、山崎の出入りを知らせてくれるだろう」
 「わかりました」

 土方は紙の上に筆を走らせた。
 山崎に頼むことは、探索の任務を極力他の者に任せてに付き添うことだ。一橋公直々のお呼びであることを書き、護衛を頼む。 本当ならば自分が行けば万事いいように取り計らえるが、組織を形成しようという今、屯所を離れるわけにはいかない。 だとすれば大阪に行っている面々の中で頼めるのは山崎だ。女子であること以外なら、困ったことは頼めるだろう。

 書状を書き終え、土方はを見遣った。
 彼女を小さいながらも手駒として育てようとしていることを思い浮かべる。大坂に行っている間は仕込めないが、何か向こうでやらせることは ないだろうか。
 「そうだな…」
 ふと土方はあることを思いつき、書状に続きをしたためた。

 「用意は出来てるな? 出かけるぞ」
 土方は書状をに渡すと立ち上がり、身支度を調える。
 も荷物を確かめ、土方の後ろに従った。



 二人は馬に乗り、鴨川東の竹田街道を下って伏見へ向かった。
 「ありがとうございました。では行って参ります」
 は船の手配を終え、船着き場に降りる手前で土方に会釈する。
 「ああ」
 土方は腕を組み、を送り出した。

 の乗った船がゆっくりと岸辺を離れてゆく。
 (とにかく大坂まで無事に着きゃあ、後は何とかなるだろう)
 土方は見送りの雑踏から小さくなってゆく船影を眺めながら思った。大坂に着けば京屋はすぐ目の前だし、山崎と行動すれば心配はいらない。 が一橋公から課せられている用件についてはが自分自身で解決するしかない。
 夕日を映す川面は赤く焼け、美しく光り輝いている。土方はその眩しさに背を向け、船宿に預けた馬の轡を取ってその背に跨った。


 は土方の姿が人波に消えていくのを見届けると船の進む方向を向いた。川底の深い色の上に、落ちてゆく太陽が明るく重なる。
 笠で日を防いではいても汗はだらだらと流れてきて、は懐から出した手拭いを何度も額や首筋に当てた。
 急な話だが、必ず成功させて戻ってこよう。そう心の中で決意すると、無意識のうちに荷物をかかえる手に力がこもる。
 しばらく行くとすっかり日が落ちて夜になった。は羽織を脱ぎ、荷物を覆うとさらにその上から笠を被せる。 荷物に体を預け、起きたら大坂についているはずだ、少しでも休んでおこうと目を閉じた。



 は慣れていない船の揺れにあまり眠れず、うとうとしながら朝を迎えた。周りでは大いびきをかいて寝ている者も、静かに頭を垂れている者もいる。 水面が朝日を受けると、水面の細波に合わせて煌めきだした。

 船は八軒屋に到着した。まだ夜が明けたばかりなのに、船着き場はすでに賑わっている。船から運ばれた荷を忙しなく降ろす人足、客を引く船宿の女。 次の客を乗せ、伏見へ折り返していく船。あちこちから人の声や打ち寄せる水の音、船の行く音が聞こえてくる。

 はうちの宿へどうぞと袖を引く女の手をやんわりとふりほどき、京屋へ入っていった。
 「おはようございます」
 「へえ、おいでやす…あ、新選組の山口はん、どしたな」
 京屋の主人・忠兵衛は出てくるなりを見て笑みを見せた。適塾訪問と将軍警護の際にも京屋を訪れたのを覚えていたらしい。
 「すみません、ひと部屋お願いしたいのですが。あと、山崎さんいらっしゃいますか?」
 は重い荷物を式台に置き、京屋に頼んだ。
 「へえ、お部屋はすぐにご用意できまっさかい。山崎はんはゆうべから帰っておりまへん」
 「そうですか」
 「朝餉、いかがいたしまっか?」
 「お願いします」

 京屋は部屋にを案内した。
 はごゆっくりと言われて障子が閉められるとふうと息を吐き、緊張を緩める。
 すぐに朝餉が部屋に届けられ、は手を合わせると食べ始めた。

 無事に八軒屋まで着いたのはよかった。大事なのはこれからだ。
 一橋慶喜は“山口誠 大坂まで参らせ候”の他にもう一通、書状を寄越していた。それには表に“山口誠”とだけ書かれており、 だけが開封して中身を見るようにとの指示を表している。

 は食べ終わって茶を飲むと、その書状を開いてみた。
 “京屋にて待て”とそこには書かれていた。
 は首を傾げた。待てとの指示だから、待っていれば迎えに来てくれるのだろうか。一橋公と会うには、今は待つしかないのだろう。 は宿屋の玄関へと足を運んだ。
 「あの…京屋さん、私を誰か訪ねてくるかもしれないので、来たら教えていただけますか」
 「お待ち合わせで?」
 「京屋さんで待っていろとのご指示なんです」
 「ほな、山崎はんが帰って来るか、そのお方が訪ねてきたらお呼びすればよろしゅうおますな」
 「そのようにお願いします。それまで部屋におりますので」
 は京屋にそう頼むと部屋に戻り、荷物の確認をしたり、英吉利語の辞書や書付を読んだりして過ごした。



 「すいやせん、お訪ね申す」
 夕刻になり、京屋を男が訪ねてきた。
 「へい」
 京屋は客だと思い、式台に進み出る。
 「こちらに山口殿と申される方が来ていらっしゃいやせんか」
 その男は大きな体をかがめるようにして、江戸弁で京屋に話しかける。
 「どういったご用件で」
 京屋は男に穏やかな笑みを向けた。しかしその目には人物を値踏みする光がある。この男がもし山口に、つまりに害をなす目的でここに 来たのならば、新選組の定宿の主として通すわけにはいかない。京屋が店の看板を長く守っているのは伊達ではないのだ。
 「手前は辰五郎、主人より山口殿をお迎えに上がるように言いつかってきやした」
 辰五郎と名乗った男はより深く頭を下げた。
 京屋は、辰五郎が頭を下げている間に素早く相手を観察する。こざっぱりした着流しに、きりっと結い上げられた髷。しっかりとした口調。 おそらく大丈夫だろうと京屋は判断し、を呼んだ。

 「山口です。念のため、あなたのご主人のお名前を伺ってよろしいですか?」
 呼び出されたは京屋の後ろから辰五郎の前に進み出る。
 「…」
 ちらりと辰五郎が京屋を見た。はここで一橋公の名を出すわけにいかないのだと察し、辰五郎に近寄って耳を傾ける。 辰五郎はこそりと一橋公の名をに囁いた。も懐にしまっておいた自分宛の一橋公の書状を辰五郎に見せる。 互いに身元の確認が済んだ。

 「京屋さん、この方が連れて行ってくださるそうなので行ってきます。もし山崎さんが戻ってきたら…えっと… あ、あった。これを渡してくださいますか?」
 は土方の書状を取り出し、京屋に渡す。
 そして部屋から荷物を持って来て、辰五郎と一緒に京屋を出た。




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