久遠の空 ドリーム小説 元治元年六月五日 20

元治元年六月五日

update:2009.08.13

元治元年六月五日 20 

 池田屋での大捕り物、柴司の切腹から一月半。八月も終わりに近づき、日が暮れてゆく風景には秋の気配が漂う。 はその中を、土方よりやや後ろで歩いていた。
 二人はが黒谷から戻るのに待ち合わせて夜の祇園に繰り出し、これから食事に行くところである。 以前土方が池田屋の報奨金でおごると言っていた約束を、やっと果たせる日が来たのだ。 は当然断ったが、土方はさっさと料亭を予約してとの待ち合わせ場所まで指定してきた。

 は土方の広い背中を見つめながら、ここ一ヶ月半の出来事を思い出していた。



 柴が切腹した六月十三日、長州藩に池田屋での悲報がもたらされた。使者は長州藩の京都留守居相談役であった熊野清右衛門と、 池田屋から早くに脱出した藩士の有吉熊十郎だった。先年の八月以来、赦免を請願し続けているにも関わらず受け入れられない長州藩は、 藩内において反幕という名の矢が引き絞られていた。そこへ池田屋での報が届き、矢は放たれてしまったのである。

 六月十五日から長州は続々と軍を進発させた。まずは来嶋又兵衛が遊撃軍四百人を率いて長州を出発、翌十六日には久坂玄瑞と真木和泉ら 六隊三百人が三田尻から船で東上、福原越後が三百人を従えて出立した。

 二十一日には久坂らが大坂に上陸して淀川を遡上、二十五日には久坂らは山崎や天王山、福原ら三百は伏見、来嶋や国司ら六百は嵯峨野の天竜寺、 益田右衛門介ら六百は石清水八幡宮のある八幡に着陣し、全軍が布陣を完了させた。
 これに対し幕府側は、禁裏守衛総督である一橋慶喜が、洛内に通じる街道などの警備を固めるよう命令を発する。

 新選組は会津藩から出動命令が出された。六月二十一日の夜半に、六条の西本願寺付近に西国浪士が多数潜伏しているとの情報がもたらされて 西本願寺に急行し、そのまま境内に一泊して、翌日壬生に戻った。

 二十四日には再び会津藩からの急使がやって来て、新選組は武田街道九条に出動する。池田屋には参加できなかった病人たちも回復し、 そのほとんどが今回の出動をともにした。が、山南はよくなったり悪くなったりを繰り返し出陣できず、その看護として神谷が残された。 もちろんも屯所の守りという名目で置いて行かれた。

 ここから新選組は一月ほど屯所へ戻らず、留守を預かるたちは、同行していた島田から届く報告の書状を読みながら気をもむ毎日が続いた。

 六月二十七日に新選組は九条川原に移動、会津藩とともに銭取橋に布陣する。ともに橋の守備についたのは、 柴司が所属していた会津藩の加須屋隊だった。
 抜けるような青い空の下、他の軍勢に負けじと新選組も旗を掲げる。緋羅紗に金糸で誠の文字を縫いつけられたものが大小三丁、 緋色の旗に誠忠の二文字と、その下に白いダンダラがついたもの、赤い旗の周りを白く縁取り誠の文字を入れたもの、白地に赤で誠と書いたもの、 赤字の絹に誠を白く染め抜いたものなど、実に様々であった。

 長州藩は各所に兵を配したまま、朝廷と幕府に入京許可の嘆願書を提出した。武装をしているものの、攻め入ってしまったら長州藩の立場が どうなるかは理解していた。
 孝明天皇は「長州人入京の儀は、決してよろしからず事と存候」と拒否の宸翰(天皇直筆の書)を執筆し、中川宮朝彦親王と一橋慶喜を経て 在京諸藩に回覧させる。


 膠着状態が続く中、互いに間者が放たれた。
 新選組では川島勝司が長州の本陣となっている天竜寺を探索し、他の場所を調べた監察たちと報告書を提出、人数や布陣を近藤たちに知らせた。
 長州の間者は西瓜売りに変装して新選組の陣までやって来たが、物売りにしては生白い肌が怪しまれ、被っていた笠を取らせると長州風に 月代を細く剃っていた。荷を改めると菰に包まれた大小が見つかり、出陣をじらされる隊士たちの格好の“遊び相手”とされてしまった。

 間者の手は陣だけでなく屯所にも及ぼうとしていた。
 屯所からほど近い西院村付近で二人の長州人が確保され、尋問すると泣き叫んで命乞いをし、 長州の布陣から内情までをぺらぺらとしゃべった。処分を仰ごうと留守居の隊士が二人を九条河原まで連行したが、一人は逃亡、一人は再び捕まり、 九条河原で斬り捨てられている。


 七月に入り、十一日。
 幕府は伏見に布陣する長州藩家老の国司信濃に撤退勧告を出すが、国司はこれを拒否する。
 一橋慶喜はこの態度に対し、何の手だても講じなかった。十七日、それに激怒した新選組と会津藩兵の一部が慶喜の宿舎に乱入しようとしたが、 会津藩の公用方である外島機兵衛に止められて事なきを得ている。
 これの先頭を切ったのが新選組の局長と副長だと聞いた時、は山南と神谷と三人でがっくりと肩を落とさざるを得なかった。 この後に神谷は九条河原へと、組頭の沖田を追っていった。


 そして七月十八日。
 長州藩は会津藩討伐を掲げ、京都市中への進軍を決意した。

 翌十九日、深夜。長州藩は行動を開始した。

 伏見の福原越後軍は伏見街道を北上、明け六つ(午前四時)頃に大垣藩と激突したが、軍を率いる福原が落馬して顔面を負傷し、伏見へ退却。

 本陣である天竜寺からは来嶋又兵衛と国司信濃が御所西門の中立売、蛤、下立売の各門を夜七つ半(午前二時)に攻め寄せた。 中立売門を守る筑前福岡藩は長州に同情的で、門を開けてしまう。長州勢は門をくぐると、会津と桑名が守護する蛤門へ殺到した。

 蛤門で会津藩・桑名藩、長州藩は一進一退の攻防を繰り広げた。土埃が上がり、刀の打ち合う音が響く。薄明るくなってきたばかりの空の下、 合印がかろうじて敵と味方を区別する。さらに蛤門の外には遊撃軍が迫り、会津藩は敵に挟まれる格好となった。

 互いの軍が寄せては引き、引いては寄せる中、薩摩藩が会津の加勢に駆けつけ、鉄砲隊が一斉に火を噴いた。来嶋は銃弾に倒れ、 ここに攻め込んだ長州の兵は撤退を余儀なくされた。

 また、天王山から駆けつけて御所内に突入をはかった久坂玄瑞と真木和泉は堺町門へと向かった。八月十八日の政変まで 長州藩が守っていた門だった。だがこちらも諸藩の兵の来援が加わり、久坂は戦いの末に自刃した。門内東側の鷹司邸は戦で炎上し、 長州藩兵が五、六十人焼死した。

 この火災は瞬く間に燃え広がった。河原町と伏見にあった長州の藩邸や屋敷は自焼し、上記の火災と相まって下京を焼き尽くし、 のちに「どんどん焼け」と呼ばれた。被災家屋は二万八千戸にのぼり、鴨川の河原は難民たちであふれかえった。

 新選組は九条川原を守っていたが、市中の様子がおかしいことに気づき、会津兵と御所へ急行した。御所に着くと御所公卿町の守備を命じられた。
そこへ日野大納言邸などに八十人の長州兵が潜んでいるとの情報が入り、土方は永倉、井上、原田に命じて手下の隊士たちとともに 日野邸へと突入させた。やはり長州兵が隠れており、激闘の末に永倉は股に、原田は左肩に軽傷を受けた。

 二十日は市中が大混乱に陥り、六角獄舎に拘留されていた未決囚三十三名が、奉行である滝川具誉の命により緊急処刑された。 山南と藤堂は現場に急行し、滝川と一悶着起こしている。が、松平容保が滝川のあまりの行動に激怒し、山南たちにはお咎めなしとなった。

 二十一日になると、新選組は伏見より橋本に出て桂川を渡り、会津藩と協力して天王山に敗残兵を追った。自刃した久坂と一緒に軍を率いてきた 真木和泉が立てこもっていた。
 近藤が隊の半数を率いて山頂に向かうと、真木らは銃を乱射した後、陣営としていた仮小屋に火を放ち自刃した。 焼け跡からは十七名の遺体が見つかり、真木と思われる金の烏帽子に錦の下垂をまとった者がいた。

 二十三日、新選組は休むことなく摂津高槻に向かい、長州兵が逃げる際に残していった武器弾薬を押収した。その内訳は、鉄砲八十六丁、 具足四十八領、十二ポンド榴弾九箱、銃弾三箱、火薬一荷、槍一筋、長持一棹であった。

 幕府は長州藩の征討に動き出した。御所に向けての発砲は理由の如何を問わず逆賊であると、朝廷からの許可がおりた。 それに加え、蛤門を攻めた国司信濃の軍の遺留品から、藩主毛利慶親、定広親子の出した軍令状が発見されたことも、 朝廷と幕府の怒りを確固たるものにさせた。軍令状には公文書に押される黒印があった。 それは、この度の長州勢の進発が藩主の正式な命令によってなされたものという何よりの証拠なのである。

 京での戦は、池田屋に始まり禁門の変、激戦だった門の名前を借り、別名蛤御門の変にて幕を閉じた。現在幕府は軍を仕立て、 長州追討の準備を進めている。新選組も声がかかるのを待っている状態だ。




 「どうした」
 土方は箸を下ろしてに問うた。
 は呼ばれてふと顔を上げる。

 土方は今年に入ってから少し痩せた。多忙を極めていたのだから無理もない。目つきも鋭くなったし、新選組の副長として研ぎ澄まされて きている印象を受ける。あれだけの戦いをくぐり抜け、一個の団体を動かす役目をしてきたからだ。

 ここまで無事で本当によかった。
 は自分を訝しげに見る土方の眉がぴくりと上がるのを見てそう思った。
 池田屋から戻ってきた時と同じ安堵感が心の中に広がってゆく。

 「おいしいです」
 とは言い、膳の上に視線を落として食事を続けた。

 未だ「どんどん焼け」の火災から、京の町は復興を遂げていない。
 その中でもこうして上品な美味に与れるのは、土方のおかげだとは思う。
 そもそもこの時代にやってきて拾ってもらったのもそうだし、大坂行きでは寝床を奥にしてもらい、京に戻ってからは春の景色の中を 引き回してくれた。池田屋の件では探索の隊に入らないように気を遣ってもらいながらも、病人や怪我人の世話などを割り当ててくれて、 仕事が常にあるようにしてくれた。

 これだけ土方に世話になっておきながら、返せるものが何もない。それが歯がゆい。
 今日のこの夕餉とて土方の金だ。にも会津藩から手当が出ているので、金がないわけではない。払うと言ったのだが、 予約した際に金は払っていると土方に突っぱねられてしまった。
 何も、返せない。
 は心の重さのままに項垂れた。


 「何だ」
 うまいと言っている割には元気がない。土方はを見て眉を寄せた。
 今年に入ってから、彼女の身にはいろいろあって疲れていることはわかっていた。まず彼女自身、遠い黒谷まで毎日のように通っている。 それに加えて大坂とて無理に追いついてきたようなものだし、山南の大怪我の世話もあった。春には自分の故郷の名主の富沢とともに 京を歩き回ったし、黒船野郎のハーバーに女子であることがバレた。池田屋前後では凄惨な場面も見て、怪我人病人の世話もし、 心も疲れたに違いない。
 土方はそれを少しでも軽くしてやろうと思って、今夜この料亭に誘った。わざわざ離れのある店を選び、料理が運ばれてからは誰も来ないように した。静寂な佇まいの彼女が、わいわいと煩いところで食事をしても心を解すことなど出来やしないことを考慮してのことだった。


 「何でも」
 「何でもねえは聞かねえ」
 が心配させまいとして発した言葉を、土方は即座に切り捨てた。
 二人の間に沈黙が訪れた。


 「…何も、お返しするものがないなあって」
 折れたのはのほうだった。
 「いつも土方さんにはよくしていただいているのに、何もお返しできなくて」
 ことりと箸を膳に置き、は居住まいを正した。
 「この時代でお役に立てるものを何も持たずに来てしまって、ご迷惑をおかけするばかりで…」
 はそう告げながら、自分がこの時代に来た時のことを思い出す。着物一つ満足に着ることも出来ず、字もほとんど読めなかった。 それを土方と斉藤が根気よく教えてくれて今の自分がある。
 そして土方には命を助けてもらったこともあった。最初に拾ってもらった時ももちろんだし、桂とともにいた男に斬られそうになった 時だってそうだ。もし彼がいなければ、自分の命がどうなっていたかわからない。
 「ほんとに、すみませ」
 有り難い、とは心から感謝した。思わず声が震えてしまうほどに。


 「…お前、返せるものがねえからそんな風に思ってんのか」
 互いの膳を挟んだ向かい側で、土方が言う。
 はこくりと頷いた。

 土方は黙って席を立つとの横に座った。
 そしてその肩に手を置いて、の顎を指で持ち上げた。
 はされるがままに顔を上げた。

 「返してもらおうか」
 「え?」
 何か自分に出来ることがあるのだろうか。聡い土方のことだから何か思いついたのかと、は真っ直ぐに土方を見上げた。




 「その体で」




 どさり。
 二人の体が、畳の上に落ちた。



 「ちょっと、土方さん?」
 は抱き締めようとする土方を懸命に押し戻す。
 「気にしてるんだろ、だったら今ここで精算してやる」
 土方は大きな手での手首を掴むと、畳に縫い止めた。

 「駄目です!」
 それだけは出来ない。この時代の誰とも、もっとも世話になっている土方であっても、それだけは。
 いつか還る自分が、未来から来た自分が誰かと結ばれるなど、絶対に。

 は必死で抵抗した。
 が、思うように力が入らず、すぐ土方に覆い被さられてしまった。
 「駄目…っ」
 土方の唇がの耳元に近づく。
 土方の呼吸が耳にかかり、はびくりと体を震わせた。

 「土方さ、だっ…」
 軽く、柔らかな感触がの首筋に当てられた。
 その感覚にの体から力が抜けていく。
 はね除けなくてはならないのに。
 抵抗しなくてはいけないのに。
 何故か力が入らない。


 まるで、受け入れてしまうかのように。


 土方はの首筋に沿って唇を這わせ、華奢な身を包む衣の結び目に手を掛けた。
 それに気づいたが慌てて土方の手をどけようとするが、いとも簡単に結び目は解かれ、帯も緩められてしまった。
 「駄目、土方さん、お願い」
 肩まで着物を引き下げられ、白い肌があらわになる。
 土方はの手を離し、背に手を当てて彼女の鎖骨に唇を落とした。
 力が入らない上に、頭のどこかでこれで恩を返せるならという考えがよぎる。
 はされるがままになるしかなかった。


 胸を覆う晒しまで土方の唇が進んできた。
 晒しの縁に沿って丁寧に唇が押し当てられる。
 もう受け入れるしかないと、は固く目をつぶった。



 「これでいいだろ」
 ふと土方が身を起こして、の上から言った。
 「…へ?」
 てっきりその先まで続けられてしまうと思ったは、上を向いて目を丸くした。
 「だから、これで勘弁してやるって言ってんだ」
 きょとんとするを見下ろし、土方は意地の悪い笑みを浮かべた。

 自分に恩を感じていて。
 返せるものが何もなくて、悩んでいるのなら。
 考え得る限界のところで手を打って、それでチャラにしてやろう。
 自分が彼女にしてやったことを返してもらおうだなどと思ったことはない。惚れた彼女のためなら例え火の中水の中だ。



 「ふ」
 が小さく声を発した。
 「ん?」
 土方がその目を覗き込む。


 「ふえ」
 の目に、透明なものがみるみるうちに湧き出した。


 は顔を覆って泣き出した。
 土方は彼女が思いも寄らぬ行動に出て驚き、咄嗟にその身を抱き締めた。
 は土方の胸に顔を埋めてきた。



 気づいてしまった。
 私は、この人が好きなのだ。



 口は悪いし、態度も素っ気ないけれども、いつも自分のことを考えて、最良の選択をしてくれる。
 今だって、ぐだぐだといつまでも悩んでいる自分を解放するために、演技してくれたのだ。
 優しいこの人に甘えているうちに、こんなにも惹かれてしまっていた。

 いつなのだろう、この気持ちが芽生えたのは。
 どこかでもっと早く気づけばよかった。
 そうすれば自分に釘を刺して、ここまで好きにならずに済んだかもしれないのに。
 土方が妓を巡って争ったという話を聞いた時も。
 遅くなって帰ってきて香の匂いを漂わせていた時も。
 土方の故郷の名主である富沢と飲みに出かけて、探索目的でとはいえその店の仲居を口説いていた時も。
 あの時感じた言いようのない気持ちは、全て嫉妬だったのだ。


 いつか、二度と会えない遠い世界に還らねばならない身で、この人のことを。
 それが悲しくて、この人が好きだと気づいたのに悲しくて。
 涙が、止まらない。



 (何なんだよ…)
 土方は、自分の腕の中で激しく嗚咽するを抱き締めながら、何故彼女が泣き出したのか考えを巡らせた。
 好きでもない男に押し倒されて驚いたのか。
 畳に押さえつけたのがよくなかったのか。
 それとも、途中で止めたことが彼女を傷つけたのか。
 いや、最後のはねえなと土方は思い、他にも思い当たることがないか頭の中でぐるぐると考えた。




 「…泣くな」
 いつまでも泣き止まないに、土方が話しかける。
 とりあえず自分がしたことでが泣き出したのは間違いない。土方は素直に謝罪の言葉を口には出来なかったが、 の頭を撫でて宥めようとした。

 しゃくり上げながらが上を向いた。
 土方の目に映る彼女は、目元も鼻も真っ赤にして、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
 それなのに、唇だけが艶めいて。


 土方はそっと、の顎を取った。
 いつもなら笑って誤魔化せる。なんて面してやがんだと。
 よせ、何してやがんだと、頭の中で自分を制する声もする。


 がまつげを伏せた。
 二人の距離は縮まってゆく。



 かたり、と部屋の戸の前で音がした。
 はっとして二人はそちらを向く。
 おそらく店が閉まる時間になり、仲居が伝えに来たのだろう。


 「…帰りましょう」
 が土方の腕から抜け出し、背を向けて着物を肩に掛けた。
 「そうだな」
 土方は立ち上がり、羽織を手に取ると先に部屋を出た。


 が身なりを整えるのを外で待ちながら、土方は離れの庭に目をやった。
 コオロギが鳴いている。
 空を見上げると、闇の中に薄く白い雲がたなびいていた。

 これでいいんだ。
 彼女はその身の宿命に従って、この時代の誰にも振り向くことはない。
 もっとも身近な自分にすらも。
 それが自分たち二人の間柄なのだ。

 土方は自嘲し、が出てくるまで雲の流れる様を見つめていた。



 (雰囲気に流されて、とんでもないことをするところだった)
 はもつれる指先で身を整えながら、先ほどの行動に赤面した。
 わかっているのに。絶対に誰にも許してはならないと。自分の気持ちに気づいたところでそれは同じなのに。

 むしろ気づいたからこそ、今まで以上に気をつけねばならない。
 の手が止まった。
 この気持ちは元の時代に戻るまで、絶対に気づかれてはならない。あの池が光るまで、土方と気まずくなったりしたくない。
 それに土方だってわかっている。この時代の者ではない自分が、誰とも関係を持ってはならないことを。

 は袴の紐をきゅっと締めて羽織を持つと、戸の前で一度深呼吸をしてから外に出た。
 「土方さん、お待たせいたしました」
 その声はもう、いつもの彼女だった。


 二人は店を出ると、並んで歩き出した。
 空には月がなく、店と星の明かりだけが辺りを照らしている。
 「…今日は、昼間に三日月が出てたな」
 土方が呟いた。
 「あ、そうだったんですか」
 も空を見上げる。
 「ああ、見なかったのか?」
 「ずっと黒谷で勉強していたので…それに雲も多かったですから、気づきませんでした」
 「そうか」
 確かに昼間の空にも薄く白い雲がたなびき、同じく白い、しかも細い三日月は、時折雲に隠れていた。


 月のような。
 昼間の青い空にひっそりと白くその姿を見せる月のような彼女を、これからも守っていこう。
 土方はそう心に決め、を見下ろした。
 はそれに気がついて土方と視線を合わせる。
 互いが同時にふっと笑みを浮かべた。



 元治元年八月。
 新選組史に大きく名を残した池田屋事件は、その後ろに禁門の変という大戦争を従えて終幕を迎えた。
 そして土方とが、決して向かい合うべからずと互いに決めた遠い日もまた、同じ頃であった。



 20090812