元治元年六月五日 18
と神谷は前川邸内を回って犠牲を調べた。
裏口を守っていた新田革左衛門や安藤早太郎は重傷、奥沢栄助が即死していた。裏口から逃亡しようとして二階から飛び降りてきた浪士に斬られたようだ。池田屋突入直後は裏から逃げようとする者が多く、たった三人の守り手で防ぎきれるものではなかった。しかし近藤が加勢に向かってからは形勢が逆転、ほとんどが表口に回って始末されていた。
沖田は昼間に笠もかぶらず駆け巡ったことが原因と思われる熱中症による昏倒、永倉は手を負傷、藤堂は額を割られ、三人ともすぐには動けないほどの重症だった。
また、池田屋の表口を守っていた谷・武田も刀傷を受けているがいずれも軽傷、後に駆けつけた部隊もたいした怪我はなかった。
池田屋へ最初に突入した部隊が体を休めている間、ある人物の噂で持ちきりになった。
神谷清三郎である。
何せ二階を沖田とたった二人で固め、沖田が倒れてからは一人で奮戦、二人を斬って一人を捕縛するという勇猛ぶりである。額の鉢金には自ら当てていった刀傷がくっきりと残り、死をも恐れぬ阿修羅の心意気が見えた。
突入部隊の面倒を見る留守居部隊も負けてはいなかった。
普段は黒谷に出入りしてばかりで屯所にほとんどいない山口誠―――の射撃姿もなかなかのものだった、と切り出した。
侵入者は僅か二人であったが、たった一発の銃弾でその足を止め、敵に隙を作ったのである。預かり元の会津藩にて夷荻の言葉を学んでばかりでほとんど姿を見せない。しかしあの鬼副長をはじめとして幹部連中にはおおいに気に入られている。斉藤の従弟という以外は謎だらけだ。本当に新選組の隊士なのかと訝しむ者も少なくなかった。しかし今回の出来事で、やはり山口誠も屯所を守るために、新選組の一員として引き金を引いてくれたのだという雰囲気になった。
隊内は“神谷派”と“山口派”に別れ、どちらがより男前かが密やかに議論された。
だが本人たちは怪我人の手当や屯所内の雑務を引き受けて忙しく、そのことに全く気がついていなかった。
池田屋で大捕物が行われた翌日は雲ひとつない青空で、祇園祭りの宵山が行われるために道は混雑していた。
しかし諸藩の兵は鴨川近辺を二条から四条まで、不審箇所を徹底的に捜索した。
新選組も会津藩ら京の治安担当の軍隊も、朝五つ(午前七時頃)から人混みをかき分けての浪士探索を続けた。少しでも怪しげな動きを見せればすぐに身柄を拘束し、尋問が行われる。嫌疑のかけられた数十名が逮捕された。
そして長州藩の屋敷には、朝から親長州派の公家や諸藩からの見舞いの使者が次々にやって来た。すでに京でこの事件を知らない者はいなかった。
新選組も突入部隊以外は捜索や巡察に出ることになった。
柴から新選組の様子を聞いた会津藩は、柴をはじめとして七名を応援に派遣してきた。
「お手伝いさせていただきます。何なりとお申し付けください」
と柴は近藤に言い、近藤は藩主松平容保の心遣いに涙を流して柴たちを受け入れた。柴たちは二手に分かれて巡察や捜索に加わった。
七日は祇園祭りの本祭であった。明け六つ(午前六時頃)から山鉾の行列が四条通りを練り歩き、それを見物する人々で道はかつてないほどの混雑ぶりを見せた。諸藩の兵は人の多さに捜索が思うように進まないながらも、祭りの空気そっちのけで働いた。
五条大橋にも黒山の人だかりが出来た。人々の目は祭りだけでなく、張り紙にも注目していた。「天下雄士」の名で「奸賊一橋中納言の宿舎へ放火して天誅を加える」と書かれていたのである。
一橋中納言とは一橋慶喜のことである。つまり禁裏守衛総督宿舎を襲って火をつけるという脅しだ。これに対しては、一橋公の宿舎だけでなく会津や桑名の宿舎でも厳戒態勢をしいた。ここ数日の流れでは何があってもおかしくはなく複数の宿舎が狙われることも当然考えられることだった。
八日。
新選組は、枡屋をはじめとして今日までに各所で没収した具足、槍、刀、火薬、弓矢などを会津に引き渡した。すべてを荷車に乗せて平隊士が押し、近藤、土方、沖田、井上、島田、そしてが赴いた。主に池田屋にて血刀を振るった者たちが選ばれたが、がそこに加えられているのは、屯所襲撃に居あわせた者の一人として土方が引っ張ってきたからである。しかし本当は、ここ三日ほど黒谷へ出向いておらず、英吉利語習得の仲間や講師がどうしているのか心配しているのために、土方が気を使ったのであった。
荷車を出迎えた藩士に預けると、近藤たちは大方丈に通された。そこには公用方筆頭の野村左兵衛、秋月悌次郎、広沢富次郎らも同席していた。
しばらく待たされた後、会津藩主松平容保が入ってきた。
「面を上げよ」
平伏する皆に、容保は重々しく告げた。
近藤以下全員は容保の言葉に従い顔を上げる。が、容保の顔を見ると皆が息をのんだ。容保が体調不良を訴えていることは前々から聞いていたが、今の容保の顔色は血の気が失せ、座っているのもやっとなのではないかと思われるほどに弱々しい佇まいだった。それでもこの場にいようとする容保の気概に、場の一同は驚かずにいられない。
「近藤、子細を報告せよ」
野村が促した。
「はっ、では土方より申し上げます」
近藤は我に返ると土方を指名した。
「では僭越ながら私から申し上げます。五日、四条小橋西の真町、薪炭商枡屋に不逞浪士出入りの嫌疑ありとして枡屋を捕縛したのはすでにご報告した通りですが ―――」
土方は枡屋捕縛から池田屋襲撃までを詳しく語った。そしてと神谷が調べた新選組の被害状況も付け加えた。
さらに土方は監察から集まってきた情報も公開した。それはあの枡屋喜右衛門の素性であった。
枡屋喜右衛門―――本名・古高俊太郎。父は大津代官の手代だったがその職を捨て、京都堺町丸太町下ルに居を移した。そして有栖川宮幟仁親王の弟、山科毘沙門堂門跡の慈性法親王に仕える。
が、仕えてすぐ翌年に父が亡くなると俊太郎は家を継ぎ、山科毘沙門堂にいた輪王寺宮の里坊に仕えた。弟も鷹司家に奉公し、家族揃って勤王の道を歩んだのである。
俊太郎はさらに、八月十八日の政変まで政権に携わっていた烏丸光徳という攘夷派に和歌を習ってもいた。丸太町下ル自宅を骨董屋に変え、そこに宮家や堂上方に仕える侍たちや勤王家たちを出入りさせた。
今より二年ほど前、俊太郎は養子として枡屋に入る。枡屋は長州屋敷より徒歩で四半時もかからない。何の目的で三十を過ぎた俊太郎が養子に入ったのかは明らかだった。勤皇家で宮家とも繋がりのある男であれば、長州屋敷近くの商家に邸宅を構えるために遅い養子縁組をしても納得がいく。
容保は微動だにせず土方の話を聞いていた。
「左様であったか…よくそこまで調べあげたな。新選組の監察は大したものだ」
野村は目を見開いて呟いた。
「恐れ入ります」
土方は手をついて深々と頭を下げる。監察が優秀なのは当然だ、日夜京と言わず大坂と言わず各地を駆け回り、どんなに小さな情報も漏らさず拾ってくる。土方は陰で新選組活動を支える山崎たちの顔を思い浮かべ、また、後ろに控えている島田がどんな表情でいるかを想像し、口の端を少しだけ上げた。
「さて、こちらからもお主らに報告することがある」
野村が居住まいを正した。近藤たちも気持ちを改める。
「枡屋に事を白状させた直後にお主たちから書状をもろうたであろう。枡屋に出入りしていた浪士どもの名を記したものだ」
そう野村は言い、懐から巻いた紙を取り出した。
「池田屋でそなたらが処断した者どもの身元を洗ったところ、ここに書かれていた名前に五人ほど該当するものがいた」
「えっ」
野村の言葉に近藤は思わず声を上げ、慌てて畳に伏した。
「よいよい、無理もないだろう。我々も驚いていたからな」
野村は会津藩が入手した情報を近藤たちに話し始めた。
近藤たちが突入した際に池田屋にいたと思われる人数は二十名から三十名。戦闘のはじめに逃げた者もいたためはっきりとはわからない。
しかしあの夜、池田屋や路上で死亡した者は十一人おり、長州の広岡波秀、土佐の石川潤次郎、肥後の松田重助、播磨林田の大高又次郎が池田屋で成敗されていた。
「そしてな」
野村は一度言葉を切り、真っ直ぐ近藤たちを見た。
「同じく池田屋で、宮部鼎蔵が屠腹しているのが見つかった」
宮部が。
新選組一同は思わず息を呑んだ。
あれだけ探していた肥後の宮部鼎蔵が池田屋におり、戦って誰かと刀を交え、切腹していたのだ。暗い中であった上に誰も宮部の人相を知らないのでわかるはずもなかった。
「さらに伝えることがある。同じく足取りを追っていた吉田稔麿、こちらは池田屋から逃げたようだが、長州藩邸の門前で自害していた」
長州の吉田稔麿も行方を探していた一人だ。それもまた池田屋におり、閉じたまま一晩中開かない長州藩邸の門の前で腹を切っていたのだ。
「もうひとつ。お主らは桝屋などで武器弾薬を押収したが、先日、それだけではないとんでもないものが四条千本から発見された。砲弾、つづら六杯。硝煙大量。川舟に六杯の鉄砲と大筒だ。これを秘匿していたのは六条新地の近江屋弥三郎・菊次郎親子に念道・光山なる二人の僧侶である。…恐ろしいものよ、これだけの武器などがあれば、京に火を放ち混乱を招くことも可能であろう。お主たちの池田屋での懸命な働きが各藩兵の心に火をともし、この度の武器発見を促すきっかけになったのであろうよ」
近藤たちは再び驚愕の顔つきになった。
自分たちは、知らずのうちに敵方の首領格を追いつめていたのだ。
やっと会津公の役に立てたのだと、彼らの心は震えた。
「近藤」
「ははっ」
近藤は再び素早く平伏した。
「こたびの働き、まことに大儀であった。大樹公も今上帝も、ことのほかお喜びである」
ゆっくりした口調で容保が話し終わると、容保の小姓が一通の書状を公用方の野村に手渡した。野村はそれを受け取ると、近藤の前に進み出て差し出した。
「それは幕府と朝廷からである。受け取るがよい」
容保が言い、野村が近藤に書状を渡す。
近藤は押し戴いて中を改めた。
謁見が終わり、近藤たちは控えの間でひと休みしてから帰営することとなった。
その合間にと土方は英吉利語の宿坊へと向かった。
二人は宿坊の中に入り、英吉利語習得の仲間たちに挨拶をした。
新選組が池田屋を襲撃した夜、屯所は逆に狙われたのだ。そこへ柴と英吉利語の仲間たちが駆けつけて夜警を手伝ってくれた。
襲われてから朝まで、屯所の周りは静かで何も起こらなかったが、病人(と女)がほとんどの前川邸には心強い味方であったことには代わりがない。はもちろんのこと、土方も礼を述べた。
英吉利語習得の者たちも池田屋での一件をすでに耳にしており、近藤たちの武勇を称えた。
ハーバーも自分が渡した銃がの身を守ることに繋がって喜んでいた。そして屯所が落ち着くまで授業は免除すると言い渡した。
黒谷からの帰り道は、じりじりと着物の上からも熱く射す夕焼けの中であった。
「ったく、かっちゃんもだらしがねえ」
土方は呆けながら荷車の前を歩く近藤にふんと鼻を鳴らした。
「あそこは驚くべきですよ、土方さん」
はその少し後ろを歩きながら言う。
「俺たちは命をかけて戦ったんだ。これぐらいしてもらっても罰はあたるめえよ」
そう言って土方は荷車の上の、菰で隠されたものを見遣った。
はその視線がとても彼らしいと思い、汗を拭う振りをしながら笠の影でふふっと笑った。
その夜、局長室と副長室の間の襖が取り払われ、全員がそこに集められた。
「諸君、本日黒谷にて肥後守様(松平容保)にお目通りをしたところ、先日の池田屋改めについて、報奨を頂戴した。幕府から五百両、朝廷から百両である」
近藤が堂々たる発声で皆に告げた。
金額の大きさに、隊士たちはざわめく。
「局長と相談して、これは出動した隊士たちに分配することにした」
土方が近藤の隣で言うと、出動していなかった隊士たちから不満の空気が漏れた。が、鬼副長の前でそれを口に出来る者はいなかった。
出動した者たちは、近藤が金額の取り決めが書かれた紙に熱い視線を注いだ。
「まず出動した隊士たちに十両ずつ」
おお、と人の合間から声が上がる。
「そこへ以下のように加算する。局長…私だな、二十両。副長土方君に十三両。私の隊にいた者に十両。井上君の隊にいた者に七両。土方君の隊にいた者に五両だ」
これでしめて五百七十両だが、死亡した奥沢の遺族に十両を送ることにした。重傷で床についている新田と安藤も長くは持たないだろう、その二人のために
残りの二十両は取り置いてある。
「留守居で分けられなかった奴もがっかりすることはねえ。京にはまだ不逞の輩がうじゃうじゃいやがる。とっとと病を治して刀を振るえ、いいな」
金が勘定方から各自に渡されると、土方は解散を申しつけた。
皆が部屋を出て行き、近藤と土方の部屋の間にある襖がいつも通りに直された。
「お疲れ様でした」
が土方に茶を差し出す。
「仕事だ。疲れてなんかいねえ」
ぶっきらぼうに言いながら、土方は湯飲みを手にした。ぬるめに入れられたそれをぐっと一気に飲み干すと、短く息を吐く。
土方の行動は迅速だった。荷車に乗せた報奨金を守って前川邸に戻り、額面の大きさと会津公や幕府、朝廷からの気持ちにぼんやりとする近藤を叱咤し、急いでその金の処遇を決めて勘定方を呼びつけて体裁を整えるまで僅かな時間しかなかった。しかしも懐紙に金を包むのを手伝わされ、あっという間に土方は報奨金を分配する準備を終わらせてしまったのである。炎天下、黒谷までの道のりを往復し、謁見で緊張し、戻ってからこれだけの作業を行わせる土方の器量は恐ろしいほどだ。から見れば、疲れていないなどという台詞は強がりにしか思えない。
「何だ」
じっと自分を見つめるを、土方はじろりと睨み付けた。
「土方さんはすごいなと思って」
は思ったままを口にする。
「今更かよ」
土方はニヤリと笑った。
「…そのうち、うまいもんでも食いに行くか」
明後日の方向を向いて土方がぼそりと呟いた。
「はい?」
はその背に首を傾げる。
「今回、留守居した奴は金もらってねえだろ。おごりで何か食わしてやるって言ってんだよ」
「いいですよ、私は。それよりもご病気の山南副長に元気の出るものでも」
「野郎におごる趣味はねえ」
「一応私、男ですけど」
「…」
「土方さん?」
「もういい、風呂に入ってくる」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
その後も諸藩の兵による京の捜索は続けられた。新選組も毎日、巡察以外に人数を出してあちらこちらを探って回った。
だが長州たち勤皇派も黙ってはいなかった。
六月九日には、長州藩留守居役の乃美織江から禁裏守衛総督の一橋慶喜に対して抗議文が送りつけられた。一橋や会津らの指図で旅宿に乱入し、一言の吟味もなく殺戮に及び、用事ありとして姓名を届けている者たちまで捕縛、惨殺を行うとは何事か、といった内容である。
長州だけではない。備前、因州、筑前、安芸、対馬ら諸藩も朝廷と会津への伺い書を提出した。一応の取り調べもなくいきなり事を起こしたのは何故か、今後も同じようなことが起こるのであれば、在京の藩士たちはもちろん、国元の者に至るまでその心づもりでいるように伝えねばならない、と憤慨した。
会津藩も負けてはいない。
六月十日に京都守護職の名で諸藩や諸役所に通達を発した。
「諸藩や町家に潜伏しているあやしき者は召し捕って差出すこと。場合によっては斬り捨てても構わぬ」
といった過激な言葉だった。
また、それ以前に会津藩は、捕方の最中による誤殺と誤認逮捕の許可を藩士に出していた。
京を守るための、頑強な盾であった。
しかしこの盾が、若い命を散らす原因となる。
通達が発せられた同日、東山の明保野亭に長州人二十人が潜伏中という情報がもたらされ、新選組は隊の者十五人、会津からの派遣五人を出動させた。
亭を取り囲んで様子を窺っても、ごく普通の営業をしているようにしか見えない。捜索隊は明保野亭の主人に御用改めである旨を申し伝え、亭内を捜索した。が、長州人らしき人影はなかった。
捜索に加わっていた柴司は、建物の一階から庭へ出た。緑来い風景が目の前に広がる。
そこへがたりと物音がし、四、五人の武士らしき男が庭に下りて外へ逃げた。
柴は槍を構え、男たちを追いかける。
新選組の武田観柳斎が、柴に男たちを逃がさないように一声した。
柴は男たちの一人に追いつき、その横腹を突いた。
隊士たちが男に駆け寄り名を問うと、土佐藩の麻田時太郎と名乗った。
土佐藩は幕府とは友好関係にある。柴は誤りとはいえ刺してしまったことを詫び、捜索隊は出来る限りの手当をして、麻田を奉行所に引き渡した。会津藩にも一部始終を報告して、新選組は前川邸に戻った。
先だっての通達や誤殺・誤認逮捕の許可から考えると、柴の行動に落ち度はない。
そのまま何もなく、時が過ぎるはずだった。
20090730