元治元年六月五日 17
近藤たちが突入してから約一刻後、やっと会津藩の兵たちが市中に散らばった。
一軍を率いる公用方の野村が報告を受け、池田屋まで出向いて来た。
野村は入り口に立つ土方を見つけて声をかける。
「土方、どうしたこれは。ものすごい臭いではないか」
土方は振り返ると、辺りに漂う血の臭いに閉口する野村に一礼した。
「野村様、ご足労様です。新選組を三つに分けて鴨川沿いを捜索したところ、局長の隊がこの池田屋に行き当たりまして。中に怪しい浪士風の者どもが屯して
おり、斬り合いとなった次第です」
「何と…! それは古高の仲間たちなのか? 京を焼いて玉をお連れするというあの」
野村が血相を変える。
「そこまではまだわかりませぬ。とりあえず局長を呼びましょう。局長!」
土方は池田屋の邸内で指揮を執る近藤を呼んだ。そして野村と対面させ、突入の一部始終を語らせた。
「そうか…手向かってきたということは恐らく尊攘派の連中だろう。身元を洗わねばならんな」
野村は考え込む仕草を見せた。
「何はともあれご苦労である。中を検分したい」
「はい、ではこちらへ」
近藤が野村と藩士数名を池田屋の中へ引き入れた。中では井上の隊がせわしなく動き、池田屋の内部を細かく調べていた。
土方は外にとどまり、自分が引き連れてきた隊士に池田屋の表と裏を警備させ、自分は池田屋内外から上がってくる情報の収集に努めた。
この夜、京都守護職の会津藩や京都所司代の桑名藩、禁裏守衛総督の一橋慶喜、京都町奉行所などが軍を仕立て、市中の浪士狩りおよび見廻りに
動いた。その数は総勢三千とも五千とも言われており、怪しい浪士たちを次々に捕縛していった。
そして夜半から朝にかけて、去年の八月十八日の政変以来睨まれている長州藩は、河原町の長州藩邸を七百人の軍勢に取り囲まれた。
留守居役の乃美織江は、以前から幕府当局に目をつけられている長州藩士や他国の藩士が長州屋敷を根城にしていることに危機感を抱いていた。
新選組が必死で探していた宮部鼎蔵も吉田稔麿も出入りしていた。この日も古高捕縛を聞いていきり立つ宮部らを諭したが、夕刻に屋敷を出て行った者たちの
挙動がおかしいことから何かがある、どこぞで話し合いでもするのだろうと予想していた。吉田は長州藩主の世子から下賜された笄、目貫、小柄といった
三所物を乃美に預けていき、宮部は弟と共に外出を届けて出て行った。他の浪士たちも次々と屋敷を出て行く。近いうちに何かが起きようことは十二分に推察できた。
乃美は尋常ならざる空気に、門の警備を厳重にするよう命じて、出入りを差し止めた。
そして池田屋で事件が起き、斬り込みの初期に脱出してた美作出身の安藤鉄馬が長州屋敷に報をもたらした。
長州屋敷は天地をひっくり返したような騒ぎになり、池田屋に助太刀に行こうとする者たちが今にも門を押し破って出て行こうとする。
乃美は門を決して開けぬよう固く申しつけ、怒りに沸き立つ者たちを説得した。
しかし、本門を守っていた長州藩足軽の息子・杉山松助が槍をひっさげて屋敷を飛び出してしまう。すぐに戻ってきた杉山は右腕を斬られていた。
屋敷はすでに会津兵に囲まれていた。長州屋敷の南に隣接する加賀藩屋敷の前で、杉山は包囲網を突破しようとして斬り合いになったのだ。
「大変、御門非常御差留!」
と叫んだ杉山の言葉を最後に、この門が朝まで開くことはなかった。門の内側では武装した者たちが歯がみし、血が滲むほどに拳を握りしめていた。
朝になると会津兵は引いてゆき、乃美も開門を命じて辺りの様子を探らせた。
門の外で、男が一人、割腹して果てていた。
新選組は土方の指示の元、まず怪我人を祇園会所へと運び込んだ。すでに運ばれている沖田をはじめ、額を割られた藤堂、左手親指の下をそがれた永倉、
池田屋の裏を守って奮戦した新田や安藤らも会所へ送られ、応急手当を受けた。
井上が率いる隊と土方の隊は後から駆けつけたため負傷した者が殆どおらず、惨劇の終わった池田屋の片づけや警備、邸内の捜索、
序盤で逃げた浪士たちの追跡などを担当した。
池田屋に転がった死体は近くの三縁寺に運び込まれ、池田屋の主人や女中、尊攘派の浪士がよく出入りしていたと思われる旅宿や料亭の女将たちによる
検分が行われた。しかし狭く薄暗い中での戦いであったため、急所以外の場所を斬られた者も多く、誰であるか判別しない遺体もあった。
昼頃にはあらかたの作業が完了した。新選組はいったん祇園会所に集まり、点呼をとると外へ出て、隊列を組んだ。
「新選組、これより帰営する!」
近藤のかけ声で隊士たちは歩を進め、屯所への道のりをたどった。
四条通は人であふれ返っている。祇園祭りを楽しむための群衆だった。しかし血塗れの集団が通りの真ん中を行進していくと人波は左右に割れて、
老若男女を問わずその表情は恐怖に染まった。
局長の近藤が先頭をゆく。馬に乗り、誠の旗と同じ白地に赤のダンダラ模様の羽織と白い袴を深紅に染めた出で立ちであった。
その後ろには一番隊組長の沖田がいる。近藤と同じく血染めの衣を身に纏い、まだ顔色は悪いものの、足取りはしっかりとしていた。傍らには神谷が歩き、
沖田を心配そうに見つめている。
さらにその横には二番隊組長の永倉。着ているものは斬り裂かれてぼろぼろになり、左手は晒しでぐるぐる巻きに
されていた。その晒しの下からは血が滴り落ち、地面に赤い点を垂らしている。
八番隊組長の藤堂は釣り台に乗せられていた。額には永倉同様、晒しが幾重にも巻かれている。多量の出血のため一人で歩くことができない状態だった。
池田屋突入部隊の後ろには、通報を受けてから駆けつけた六番隊組長の井上、十番隊組長の原田、三番隊組長の斉藤がそれぞれ衣服に血をべったりとつけて
歩いていた。
皆、人を斬ってきた後とは思えない晴れやかな顔つきだった。京に来て浪士組を結成し、新選組の名を賜ってから一年と四ヶ月。やっと自分たちは天下の役に立つ
大仕事をやってのけたのだ。そしてこうして生きている。自然に笑みも沸いてこよう。
副長の土方は馬上の近藤に付き従っていた。後ろで互いの怪我を軽口で語り、笑い合っている者たちの声を聞いて、内心胸を撫で下ろしていた。
まだ断片的な情報しか集まってきていないが、犠牲は最小限で済み、相手に与えた打撃は大きかったはずだ。
しかし常に油断なく周囲を警戒することも忘れていなかった。隊列の一番外側に自分が引き連れていた隊の人間を配置し、襲ってくる者がいないか見張らせた。
池田屋から脱出した者や襲撃された関係者がこの隊列に立ちはだかる可能性は充分にあったからだ。
が、幸いなことに帰りの行軍を邪魔する輩はいなかった。新選組は白と赤の旗を真夏の日差しに翻し、意気揚々と屯所である前川邸へ引き上げていったのである。
「局長たちのお戻りだ!」
門で番をしていた隊士が大声で触れて回る。
仏間に控えていたと山南は立ち上がり、すぐに式台へと向かった。
玄関で出迎えた二人は、戻ってきた近藤たちの姿に息を呑んだ。どこもかしこも血だらけで、服はところどころ斬られている。
「近藤さん!」
山南が近藤に駆け寄った。
「山南君、今戻ったよ」
近藤はえくぼを見せて山南に帰営を告げた。
「戻ったよじゃないよ、無事なのかい、怪我は?」
山南は近藤を上から下まで何度も眺めた。
「私は大丈夫だ。だが平助が…」
近藤は顔を曇らせて後ろを向いた。そこには釣り台に横たわり、目を閉じている藤堂がいた。
「平助!」
山南は釣り台に近づき、藤堂の顔を覗き込んだ。
「眠ってるだけだ。庭での奮闘ぶり、山南さんにも見せたかったぜ。さっきまで起きてたんだが、屯所に戻るとわかって気が緩んだんだろう」
永倉が山南の横に立った。
「永倉君、君もその手…早く医者を」
山南は永倉の手を見て青ざめる。
近藤、永倉、藤堂といった使い手がこのような姿とは。山南には、これはただの捕縛ではない、壮絶な激闘であったことが容易に想像できた。
も山南の後ろから皆の様子を見、血の臭いを嗅いで胸を詰まらせる。
そしてはっとし、次々に入ってくる隊士たちの中に土方を探した。
土方は、一番後ろから邸内に入ってきた。いつも通りの、些か尊大とも思える足取りで。着物の前は他の隊士たち同様血に染まっていたが、動きにぎこちなさは
みられない。
「土方さ…」
は土方の前に進み出た。
よかった。
無事だった。
の目に、じわりと何かがこみ上げてきた。
土方はを一瞥すると草履を脱ぎ、式台を上がった。
そして前に立つとの頭に手を伸ばした。
「この野郎、ぼさっとしてんじゃねえ!」
土方はそう怒鳴りつけるとの髪を乱暴にかき乱し、頭をぐっと下へ押し下げた。
「わっ」
は思わず前へつんのめりそうになる。
「怪我人が出てんだ、さっさと部屋を整えて収容しろ! それから風呂、飯、茶の用意だ! 屯所でのんびり待ってた奴がぐずぐずするな!」
「は、はいっ」
体に響く怒鳴り声を聞き、これぞ土方だとは思わず笑みを漏らした。
はすぐに怪我人の状態を聞いて回り、神谷とともに布団や怪我の手当の準備をしに奥へと消えていった。
「土方君、のんびりなど待っていなかったよ、我々は」
山南が苦笑いをしながら土方の側に来た。
「何だと?」
土方が眉を吊り上げる。
「屯所に“お客様”がお見えになってね」
山南は小声で土方に告げた。
「…後で聞こう。今は隊士たちを落ち着かせることが先決だ」
土方は何があったのかうすうす感づいたが、怪我人を医者に診せることが第一であるし、無事な隊士たちも一晩中動いて疲弊している。休ませなければ
次の行動に移ることが出来ない。
「わかった、では後ほど。私も手伝ってくる。君もご苦労だったね、出来るだけ早く君を部屋に戻すよ」
「必要ねえ」
山南は土方の肩を叩き、たちの後を追った。
(“客”だと…?)
土方は自室に向かいながら山南の言葉を思い返した。屯所に襲撃者がやって来たということだろう。
だが見たところも山南も無事だし、屯所の中も変わった様子はない。後で話を聞いてもよさそうだ。
それよりも今やらねばならぬことに集中しなければならない。
土方は自室に戻ると血のついた衣服を脱いで、井戸端で水を浴びた。とりあえず簡単に血と汗を洗い流す。後で風呂に入った時にしっかり洗えばいい。
そして再び部屋に戻って着替えると、怪我人が横になっているか、疲れている者が休んでいるか、飯と風呂の支度は調っているかなどを見に
邸内を歩き回った。
神谷、山南、の適切な行動と指示出しで、土方が伝えた要望はすぐに形になった。
もっとも怪我のひどい藤堂は優先して部屋を設えられ、神谷が晒しの交換と傷の手当てに当たった。
永倉も手を巻いている晒しを清潔なものに交換してもらい、自室で横になった。
沖田も神谷によってすぐに着替えさせられた後、布団に押し込まれ、安静にするよう強く言いつけられた。
皆、おとなしく神谷の言うことに従った。
は神谷の手伝いをし、神谷一人で他の隊士たちの怪我を見られる程度になると台所へ行った。
すでに出来上がっている煮物と味噌汁の釜に火を入れ、温めた。
ゆうべ侵入者を捕らえた後に山南が、出動組が戻ってきたらきっと腹を空かせているだろうからと、を台所に行かせて飯の支度をさせておいたのだ。
時々釜の中身を確かめながら、は漬け物を切る。
本当に、皆が無事でよかった。ひどい怪我をしている者もいるが、命に別状はなさそうである。
そして何より、土方の姿を見た時に心の底から安堵した。
先に屯所へ入ってきた者たちが血塗れで怪我だらけで、なかなか土方の姿が見えなかった時には、もしや土方に何かあったのかと胸が塞がれる思いだった。
しかし、土方は何事もなく平然と姿を現した。
その姿を思い出し、は柔らかく息をついた。
食事の支度が調い、は膳を持って近藤の部屋へ向かった。
「近藤局長、お食事でございます」
「ああ君か、ちょうどいい、入りたまえ」
近藤はの入室を許可した。
が中に入ると、近藤と土方、山南、そして会津藩士の柴司がいた。
「君、ちょうど今君の話をしていたところだよ。短筒でもって、招かれざる客を撃退したんだってな」
近藤が興奮気味に言った。柴と山南から、留守中の襲撃事件を聞いたらしい。
「山南副長のおかげで何とか…」
自発的に敵を狙ったわけではない。山南に促されなければ、懐から拳銃を取り出すことすら出来なかったかもしれないとは思った。
「なかなかの勇姿だったよ、君」
「いいえ。それよりも柴さんたちが応援に来てくださって、本当に心強かったです」
は柴に視線を移した。
「いや、我々が来たときにはすでにあいつらは取り押さえられてましたからね。私たちは奴らを奉行所に連れて行って、襲撃が終わった後の門を守っていた
だけですよ」
柴がにこやかに笑いながら言った。
「病人だらけだったからね、相手がたった二人でも襲撃されたら危なかったかもしれない。そこへ五人も応援が来てくれたのだからありがたかったですよ。
おまけにお医者の手配までしていただいてかたじけない」
山南は自分より十一ほど年下の青年に丁寧に頭を下げた。柴は戻ってきた隊士たちを見ると、ともに来た藩士の一人をすぐ黒谷へ行かせて、上京している藩医を
屯所に寄越してくれるよう公用方に頼んだのだった。程なくして会津藩の医者が来て手当してくれるだろう。
「少しでもお役に立てたのなら来た甲斐がありました。近藤局長、では私はこれにて」
柴は軽く会釈をすると、近藤の部屋を去ろうとした。
「あ、柴さん、よかったらお食事を」
が柴を留める。
「また今度にするよ。今、近藤局長や土方副長から聞いたことを報告しに黒谷へ戻るから」
柴は障子に手をかけた。
「そうですか」
も黒谷へ報告に行くと聞いたらそれ以上何も言えなかった。
「俺が見送ろう。近藤さんたちはゆっくり飯を食っててくれ。、俺もすぐに戻るから膳を用意しておけ」
「かしこまりました。では柴さん、また。本当にありがとうございました」
は土方の横に立って柴に深々と頭を下げた。
「ああ、じゃあ」
柴も頷いて、近藤の部屋を出て行った。
「土方さんにもお見せしたかったですよ、山口さんが銃を構えたところ」
式台で草履に足を通しながら、柴は土方に話しかけた。
「そうか」
「正直なところ、惚れ直しました」
「ああ?」
土方は不機嫌そうに眉を寄せる。
「冗談ですよ。もちろん山口さんが無事でよかったとは、心から思ってますが」
まっすぐに立った柴は笑った。
土方も草履を突っかけて、柴と一緒に門の外まで行った。
「…何にせよ、この新選組屯所を留守の者たちとともに守ってくれたことには礼を言う。後ほどご報告に伺うと、肥後守様にお伝えしてもらいたい」
「承知いたしました」
柴は門の外で待っていた他の藩士たちと、黒谷へ戻っていった。
土方はその後ろ姿を見送って中に入った。玄関の前の目隠しがふと目に入った。
この陰から、あいつは短筒を撃ったのか。
あの細い肩で、細い腕で。
いくら山南が撃てと言ったとはいえ、よくも引き金をひいたものだ。
なかなか肝が据わってきたじゃねえかと、土方は口元に笑みを湛えた。
池田屋強襲は、新選組の圧倒的勝利に終わった。
この時点での新選組の被害は死亡一名、重軽傷者数名である。
対して池田屋に集結していた浪士たちは死者も重軽傷者も多数に上っている。
しかし時は新選組にも、京にいる様々な藩の人間にも、幕府にも朝廷にも休む暇を与えなかった。
喜びに沸き、悲しみの涙に暮れ、さらなる戦いの炎が京に落とされる。
池田屋事件の終幕には、そんな結末が待っていた。
20090725