元治元年六月五日 15
「ふう…」
は額から流れ落ちる汗を拭きながら、鉄瓶を竈の上に置いた。
軒先の向こうの空を見上げると、すでに日は落ちて星が瞬いている。今頃土方たちはどの辺りにいるのだろう。
つい先ほどまでの忙しさを思い出し、は息を吐いた。
は土方が出て行ってからすぐに山南の部屋へと行った。山南は布団を上げ、脇に刀掛けを置いて座っていた。
ここ数日の山南は中暑にやられてすっかり憔悴していたが、いざ捕物の話を聞くと体を起こして屯所の留守居を引き受けた。
「やあ君」
「土方さんから留守居を仰せつかりました。何分初めてですので、ご指示をお願いします」
は部屋に入ると袴をさばいて座り、頭を下げた。
「じゃあ早速お願いしよう。まず八木邸にいる留守居の隊士たちを前川邸に集めてきてくれ。ばらばらだと襲われた時に危険度が増す。
それと、八木家の皆さんに、どこか知り合いのところへ避難しておくよう頼むのも忘れずに」
「はい」
山南の指示にはすぐ行動した。分宿している八木邸に行き、山南と同じく中暑で倒れている隊士たちには前川邸へ移るように、
八木一家には別の場所に避難するように伝えた。皆はすぐに八木邸を出、全員がいなくなったのを確認するとも前川邸に戻った。
山南はから八木邸撤収完了を聞くと、隊士たちを玄関脇の部屋に集めた。
「諸君、すでに知っているだろうが、近藤局長をはじめとした同志の面々は、天子様を京より連れ出す計画を立てている
不逞の輩を取り締まるために出動した。我々は屯所の守りという大事を任された」
全員の前に立ち、落ち着いた声色で山南が言う。
「捕縛した古高俊太郎を取り返しに、古高の仲間がここを狙ってくるかもしれん。古高はじきに奉行所が引き取りに来るが、
それでも彼らは襲ってくるかも知れない。気を引き締めて屯所を守ってくれ。皆、頼んだぞ!」
「「「おう!!」」」
本当は具合が悪く、現場に出ても足手まといになるために居残りをさせられているのを皆が承知している。しかし誰もそのことを口にしなかった。
たとえ病に倒れていようとも、我々は新選組の一員。出動の面々がいない間、何があろうとも前川邸を守ってみせると、
全員が目の奥に闘志をちらつかせていた。
も隊士たちの一番後ろに座り、懐に納めている短筒に着物の上からそっと手を触れた。
山南は体調が悪くて動けない隊士を長屋門に並ぶ隊士部屋に、何とか動ける隊士を門の守衛室に控えさせた。
山南とは母屋の玄関付近にある仏間に陣取った。ここからなら全ての部屋の襖を開け放てば古高を押し込めている蔵の入り口がよく見えるし、
門で動きがあってもすぐ察することが出来る。塀は高いので、敵がそこを乗り越えてやってくることはあまり考えられない。
こちらが守っていることを承知していても、相手は門から入ってくることが予想された。
本当は山南とが守衛室に入ると言ったのだが、幹部と土方の小姓にそのような危険な場所へ真っ先に居させることは出来ないと、
動ける隊士たちが反発したのであった。
「山南副長」
まだ出動していなかった監察の島田がやって来た。
「土方副長が、祗園会所を支度場所とするので会所に腹拵え出来るものを寄越すようにとのご伝言を残されていきました」
「わかった。すぐに用意させよう。病でないのは君しかいないから…君、すまんが台所の竈を全て使って、
握り飯を作れるだけ作ってくれないか? 島田君、君もまだ出かけないならば君の手伝いを」
「かしこまりました」
「承知いたしました」
と島田は台所へ入り、三つの竈に火を入れて麦飯を炊き出した。大量の飯が炊き上がると二人は皿に広げて
冷まし、中に梅干しを入れた握り飯をせっせと作った。竹の皮を広げ、その中に三つずつ握り飯をしまい、人数分の包みが出来た。
島田が握った飯が入っている包みは大きく、のものは少し小さい。
「では私はこれを持って出動します」
「はい、島田さん、えっと、ご武運を」
「ありがとうございます。山口さんもお気をつけて」
島田は握り飯を風呂敷に包むと前川邸から出ていった。
島田が出ていって少しした頃、奉行所から役人がやって来て古高を引き取っていった。
が古高を押し込めてある蔵の鍵を開けて重い扉を開くと、古高は両手足を縛られ気を失ったままだった。役人はそのまま古高を駕籠に乗せて連行した。
は土方から頼まれた役目を終え、ひとつ荷を下ろした気分になった。
そうこうしているうちに太陽が傾いてきたので、は皆に握り飯を配った。出動の賄い分のほかに握っておいたものだ。
そして必要な者に神谷から頼まれていた薬湯を配り、台所の片づけをして仏間に戻るところで今に至る。
「山南先生、お薬湯を」
襖を僅かに開けて入ったところでは動きを止めた。次の瞬間、ひゅっと左側の空気が動くのを感じ、盆を持ったまま後ろに素早く下がった。
の目の前には、山南の手があった。
「お見事。よく気づいたね」
満足そうに山南は笑みを浮かべる。
「山南副長…」
試されたのだとわかり、は胸をなで下ろした。
山南はから薬湯を受け取ると、ごくりと飲み干した。
「いつどこに敵が現れるかわからない。今のように心がけておくべきだよ」
「はい」
は正座し、腰の刀と懐の短筒を触って確認した。その場になって使えるかはともかく、
あるんだということを意識しておけば多少は違うかも知れないと思いながら。
「大丈夫かい?」
「はい、どこも悪くはありません」
「さっきから腹の辺りをさすってるから、痛いのかと思ったんだけど」
「あ…」
山南に話しておくべきか一瞬躊躇したが、は懐から短筒を取り出して山南の前に置いた。
「これは…」
山南が目を見開いた。
「英吉利語の先生のハーバーさんから授かったものです。万が一の時のためにと」
は静かに言った。
「手に取ってみてもいいかい?」
「はい、どうぞ」
の許可を得て山南は短筒を手にした。
山南は短筒をあちこちから眺め、に撃ち方などを質問してきた。は撃鉄の起こし方や引き金の引き方、狙い方などを簡単に答えた。
「へえ、人づてに話は聞いていたが、これが短筒か」
山南はに短筒を返し、は再びそれを懐にしまった。
「君まで腹が痛いのでなくてよかった。何だかいつもより君の顔が赤いような気がしてね、痛かったり具合が悪いのを我慢しているのかと思って」
「えっ」
山南の指摘に、はどきりとした。
先ほどの土方とのことが思い出され、自分でも顔に血が上るのがわかる。忙しく動いていたので意識していないつもりだったが、
顔に出ているのだろうか。
「あ、暑いからだと思います。緊張…してますし」
はぱたぱたと手で顔を仰ぎながら答えた。
「そうかい?」
山南は笑った。
「何もありません、何も」
土方とキスしたなんて言えない。しかもこんな非常時に、自分がぼんやりしていたせいでなど。いろいろ不行き届きすぎる。
はますます赤くなって、取り出した手拭いで汗を拭き、口元を隠した。
山南はその慌てようがおかしくて、ぷっと吹き出す。
「も、もう、副長、何もないって申し上げ」
さらに否定を重ねようとしたの眼前に、山南の大きな手のひらが差し出された。
がたがたと裏門を確かめる音が聞こえる。そして仏間の窓に、過ぎてゆく人影が幾つか見えた。
「副長…」
「静かに。玄関へ」
山南の面が厳しいものに変わる。それを見たも気持ちを切り替えて、山南の後ろについて行った。
表玄関には目隠しの板塀が巡らされている。その板塀の切れ目から、山南とは長屋門を窺った。
門の外は暗闇で、入り口にある小さな提灯の明かりだけがその周辺を照らしている。物音は一つも聞こえない。
しかしその暗闇の向こうに、先ほど裏門を探った輩がいるはずだ。
が手で額の汗を押さえると、山南は動くなと目で合図した。は同じく目だけで返事をした。
どのくらい時間が経っただろう。の顔を伝って落ちる汗が胸元をじわりと濡らしてゆく。
ふっと門の外を、黒い影が横切った。
も山南も気を引き締める。
ざざっと音がして、二人の男が入り込んできた。
門の提灯にちらりと照らされた男たちの顔は、明らかに屯所の人間ではなかった。それどころか、はそのうち一人の男の顔に見覚えがあった。
(あれは…桂と一緒にいた男…)
そう、その男は桂小五郎とともにいた男だった。
は山南の袖を引いて、目を合わせるとこくりと頷いた。
山南は侵入者の動きを見ながら少し考え込んだ。
男たちはきょろきょろと辺りを見回している。
山南は意を決したようにひとり頷くと、の着物の上から短筒を触った。出せ、ということらしい。はそっと短筒を引き出した。
男たちは暗い中、蔵の方に向かって足を踏み出した。
石灯籠の明かりが男たちの足下を照らす。
くいっと山南が顎でを促した。
撃つんだ、と。
は躊躇した。
人に向けて、撃つのか。
相手はどんどんこちらに向かって歩を進めてくる。
山南はじっとを見つめ、視線で撃つように示し続ける。
もし相手がこの玄関に入ってきたら。
自分たちがこの板塀に隠れていることがばれたら。
(身を守るために、これを使いなサイ)
ハーバーの言葉が脳裏に浮かぶ。
そして、
(万が一の時にはこれを使うんだ、いいな)
と出掛けの土方の声が再び響く。
(、撃て!)
土方が、の頭の中で叫んだ。
は撃鉄を起こし、脇を締めて両手で短筒を構え、引き金を引いた。
鋭い音が空気を切り裂き、弾が暗闇に吸い込まれていった。
「うわっ!」
男たちが足を止める。
「新選組の屯所に、何かご用かな?」
山南が板塀の後ろから姿を現した。
「き、きさま、今のはっ…!」
音が銃声だとわかり、侵入してきた男二人は山南を睨みつける。
「君、そのまま出てきたまえ」
山南が促すと、も板塀の影から出てきた。短筒の照準と視線は男たちにしっかりと定めている。
明かりに浮かび上がるその姿には、些かの震えもない。
「古高はどこだ! きさまらが古高を連れていったのはわかっている! 古高を返せ!」
ひとりの男が叫んだ。
「待て、俺が話す。…やはりきさま、新選組の者だったんだな。木屋町の火災の時、新選組の羽織を被っていただろう、
あの時にもしやと思っていたが…」
と言って、の見覚えある男の方が前に出た。
は四月に起きた木屋町での火災を思い出した。たまたま通りがかって、沖田と原田と話していて原田に羽織を掛けられた、あの時の
ことに違いなかった。あの場にいたのは、やはりこの男だったのだ。
「昼頃、古高がお前らに捕まったと聞いて、俺はすぐにここを襲おうと同志に呼びかけた。が、夜に開かれる会合を待てと桂さんはおっしゃった。
待っている間に古高はひどい目に合っているやもしれぬ、それがお前のいる新選組かと思うと居ても立ってもいられなくなってな」
それで今、ここに来たのだと男は言い、刀を抜いた。
「すぐここを出なさい。そうすれば何もなかったことにしよう」
山南は笑みを湛えて一歩前に出た。
「うるさい、まず後ろの奴と勝負させろ。お前はその次だ」
男は刀を構えた。
「そうはいかないな。こちらは鬼の副長からの大事な預かりものなんでね。お相手なら私がいたそう」
と、山南も刀身を引き抜いた。
「山南副長」
指名されたものの刀の勝負で勝てるとは思っていない。しかしだからと言って山南を盾になど出来るわけがない。は自分が前に出ようとした。
「大丈夫、任せなさい。これでも北辰一刀流免許皆伝だよ」
山南が自信たっぷりに笑みを見せた。
「でも、山南副長はお体が…!」
「真剣勝負に体調は関係ない。刀を抜いた以上、もうこれは私の勝負だ。君は見ていなさい」
に背を向け、山南は相手と同じように身構えた。
そこまで言われてはももうどうすることも出来ない。短筒は相手に向けたまま、は少しだけ後ろに下がった。
そこへ、大声とともに守衛室に待機していた隊士たちがなだれ込んできた。侵入してきた男たちはあっと言う間に捕らえられ、縄をかけられた。
「君たち遅いよ」
ははっと山南が苦笑いをこぼし、刀をしまった。
「いやあ、あまりにも山口さんと副長が勇ましかったので、出る機会を失いました」
隊士の一人がにやにやしながら言う。
「馬鹿なことを言うものじゃない、こちらは腹が痛いのをこらえるのがやっとなんだぞ」
山南は腹に手をやった。
「副長、大丈夫ですか?」
が山南に駆け寄った。
「ああ、大丈夫だよ。それより彼らを蔵に閉じこめておくんだ。奉行所にまた引き渡さないといけないね。誰か使いを」
「それは我々が引き受けましょう」
と門からまた誰かが入ってきた。
は振り向きざまに短筒を向ける。
「おっと山口さん、それは止めてくれないかな」
「…柴さん?」
そこには会津藩士の柴司が立っていた。その後ろには英吉利語の生徒の面々が揃っていた。
「新選組が市中探索に出ると聞いて、屯所が手薄になると思ってね。藩からの探索の人数は足りているので、
私たちは公用方筆頭の野村様に願い出て屯所固めにやって来たんだ」
「そうでしたか、ありがとうございます」
は柴に深々と頭を下げた。
「いや、きっとあの人、土方さんだっけ? 君を探索には出さない、留守居させるだろうなって」
こそりと柴はに耳打ちした。
その通りで、はふふっと笑った。
「その輩は私たちが奉行所に届けます。皆さんは持ち場に戻ってください」
と柴が言い、英吉利語の生徒の石井藤太郎とともに侵入者を奉行所に届けに行って、残りは長屋門の前で守りについた。
山南は救援が来たので少しだけ横になることにし、仏間に座布団を敷いた。
「おそらくもう今宵は誰も襲ってこないだろう。本当に取り返しに来るのならたったの二人だなんてあり得ないと私は思う。
他の面々はどこかで会合に出ているんだろう」
座布団の上に転がりながら山南は見解を述べる。
はそうであってほしいと思いながら頷いた。
は立ち上がり、仏間の障子を開けて空を見上げる。
星は先ほどと同じように、ただ小さく瞬いているだけだった。
人に向けて発砲してしまった。
もちろん、普段ハーバーから言われているように、人を傷つけるために引き金を引いたつもりはない。威嚇するため、足を止めるためだけに引いた。
当てないつもりでも、怖かった。
頭の中で土方の声がしなかったら、どんなに山南に撃てと言われても、恐怖で引き金など引けやしなかった。
同じ空の下で、今、土方はどこにいるのだろう。
目的の浪士を捕縛しているだろうか。
危ない目に合っていないだろうか。
多少の怪我などどうでもいい。
どうか無事に戻ってきてほしい。
は胸の前で手を握り締めた。
「土方君なら大丈夫だよ」
いつの間にか山南が起き上がり、の横に立っていた。
「山南副長…」
小さな声でが呟く。
「土方君はいつでも必要な行動が取れる男だ。物々しく用意して出ては行ったけど、たかだか不逞浪士どもの捕縛程度でやられるようなことには
ならないよ」
山南は力強くの肩に手を置いた。
「はい…」
は首肯したものの、胸が詰まるのを感じて顔を曇らせた。
山南はぐっとの肩を引き寄せた。
は山南の胸に頭をもたれ掛からせる。
違う。
この胸じゃない。
何が違うのか、本当はわかっている。
でもそれを認めることが出来ない。してはならないことだからだ。
今はただ、土方の、そして捕縛に出ていった皆の無事を願うのみ。
どうか無事で、とは星に祈った。
20090708