元治元年六月五日 12
沖田は桝屋に見張りを一人つけ、報告のためもう一人を先に屯所へ急ぎ戻した。
その沖田が巡察を終え、一番隊を従えて帰営すると、土方が副長室で待ち構えていた。
「怪しい野郎が肥後藩の宿陣に入るところをとっつかまえたんだってな?」
「はい」
土方は身なりこそ整っているが、目の下は落ちくぼみ、顔色も悪い。文机の上の書類の山は一向に減っておらず、
監察や会津藩からの報告と探索要請に目を通して策を練り続けているのがありありと見えた。
「名は忠蔵、肥後藩宿陣の小者だそうだが」
「はい、でも挙動不審だったのでちょっと泳がせてみたら、件の家に飛び込みました」
沖田が状況を説明する。あの場ですぐに忠蔵を捕縛してもよかったのだが、宿陣に出入りするだけでそれは出来ない。
もっと決定的な証拠がなければ、万が一忠蔵が潔白の身であった場合に肥後藩から文句が出ることは火を見るよりも明らかだ。
「三条小橋…桝屋…」
土方は忠蔵が駆け込んだ家宅の名の走り書きに目を落とした。三条も監察に探らせていたが、何しろ人手が足りない。
出入りの目立つ建物ばかりを報告させていたため、人気の少ない桝屋なる商家は対象になっていなかったのだろう。
「今、監察を遣って桝屋の周りを探らせている。一番隊の見張りは戻すから次の巡察に備えろ」
「承知しました」
「報告が以上ならもう行け」
「はい」
土方が退出を許可すると、沖田は部屋を出て行った。
一番隊の者が一足先に報告に来た後、土方はすぐに控えの監察を桝屋へ急行させていた。押し入るなら一番隊に任せるが、
周囲を探るとなると監察のほうがいい。細心の注意を払って探索を行わなければ、相手に容易に気づかれてしまうからだ。
すでに芹沢鴨を粛正してから一年以上が経っている。しかし無理に押し入って芹沢のような悪名を再び立ててしまったら、
せっかくやりやすくなってきた京での活動が水の泡になってしまうだろう。
力で押すのは、証拠を握ってからだ。
ここが堪えどころだと、土方はぐっと腹に力を入れた。
まる一日見張ったところ、忠蔵が入ってから桝屋に人の出入りはなかった。忠蔵も中から出てくる気配がない。
夜になり、山崎が大坂探索から戻ってきて土方に子細を報告した。大坂でも長州が攻め上ってくる噂はあちこちで聞こえており、
夜陰に紛れて荷車が何台も動いている。その中身を改めたくとも山崎のほうは一人で、相手は複数にて荷車を押している。
山崎がたった一人で誰何するのは危険だ。
荷車が怪しい商家に出入りするのを目撃する度に山崎はその家を覚えておいて奉行所に逐一報告し、あとの探索は奉行所に任せていた。
「報告してんなら大坂は奉行所が何とかすんだろ。山崎、実は三条にちっと妙な出入りがある。見張りを一人つけているが、お前も行って探っちゃくれねえか」
「承知」
忠蔵がすっとんで行った割には静かすぎる。そう土方は直感し、山崎を桝屋の探索に派遣することにした。
その夜、土方の元にもう一件報告が入った。夜の巡察で藤堂が、鴨川の近くにいた二人の男を捕縛した。どこぞの中間風で、
酔って大声で話している内容といい物腰といい、どうにも怪しい。その場で強引に問いつめたところ、長州浪士が先月より京に四十余人、
伏見に百人、大坂にはおよそ五百人ほど潜入し、洛中を混乱に陥れる計略を練っていることを白状した。もっと知っていることがないかと捻りあげたが、
二人はあっけなく気を失ってしまい、身柄を奉行所に引き渡してきたとのことだった。
「厄介なことになってきたなあ」
藤堂が目頭を押さえながらこぼした。
「全くだ」
土方もやれやれと肩を叩く。
が、二人とも本当は手応えを感じていた。何も情報を得られずに悶々としていた頃を思えば、今の状況は遙かに前進している。
今は小さな情報をこつこつと積み上げていくしかない。
土方は藤堂が下がると近藤に現在の状況を伝えに行った。
今までの浪士潜伏の風聞が具体的な数となったことで、近藤も一層緊張を高めた。
「なあトシ、俺も探索に加わることは出来ないのか?」
「あんたは駄目だ。大将はいざって時に動くもんだぜ」
近藤も本当は探索に出たくてうずうずしている。自分も皆と同志だ、探索でも何でも加わりたい。が、土方がそれを制している。
人手は足りていないが、今やっている探索程度は組の頂点に立つものの仕事ではない。もし近藤が出てきてしまったら、
新選組はそれほどまで人数的に切羽詰まっているのだ、余裕がないのだと思われてしまう。
「いずれ出番は来る。それまで待ってろ」
土方はそう言うと局長の部屋を出た。
「…というのが本日の情勢です」
夕方、黒谷から戻ってきたは土方から聞いた話をそのまま山南へと伝えた。
山南は切り傷のほうは癒えて完全に回復したものの,今度は暑さにやられて倒れていた。そして未だにと神谷の世話になっている。
「こちらが捕まえられるほど、不逞の輩が京地に蔓延してきたってことかな。人数が多くなればなるほど、組織というものはまとまりにくく
なるものだからね。彼らを統率している頭の目が届かないところも出てくるんだ」
山南は布団から出て、が運んできた膳の前に座った。
「それにうちの監察は優秀だからね、そろそろ情報が絞り込めてきたんだろう。本腰を入れて探索を始めてからこれだけの時間でよくやってるよ」
「はい」
山南の言うとおりだとも思った。朝に黒谷を出て夕刻に前川邸へ戻ってくると、必ず新しい情報が寄せられている。
そして毎晩山崎か島田が土方の部屋にやって来て、報告をしているのも知っている。
あれだけの情報をどこからどうやって仕入れてくるのか、にはまったく想像できなかった。
「君、もし君が相手ならどうする?」
山南が飯を口に運びながら聞いた。
「えっ?」
は山南に出す茶を注ぐ手を止めた。
「もし君が我々から逃げ回るならどうする?」
「…」
山南は試すような笑みを浮かべている。はその顔を見ながら、自分が新選組から逃げているところを想像した。
京の町屋のどこかに身を隠し、英吉利語の勉強をしながらひっそりと暮らしていると仮定する。
そこへどすどすと荒々しい足音が聞こえてきて、勢いよく家の障子が開かれる。
「こんなところに隠れていたのか、この野郎」
土方が恐ろしい笑みを貼り付けて土足で上がり込み、自分の着物の襟をひっつかんで――――
「…」
無理だ。土方からは逃げられそうもない。は僅かに眉を寄せた。
「君? 何を想像しているのかな?」
山南は何となくの考えている事がわかり、乾いた笑いを漏らした。
「まあともかく」
ごほんと山南は咳払いをして話を続けた。
「まず宿所を転々とするだろうな。同じところにいたら危険だからね」
もそれが妥当だと思い、こくりと頷いた。
「そしていずれは同志と集まって、これからどうするべきなのか話し合うだろう」
山南は箸を止め、宙を見据えた。
「旅宿だけでなく商家にまで潜んでいるとは、土方君も頭が痛いだろうね。この京にどれだけの宿や商いどころがあると思う?」
「…」
「ははは、そんな真面目な顔で考え込まなくてもいいよ。そのすべてに怪しい奴らがいるわけはないけれど、
監察が絞り込んでくれたって探すのは大変だってことさ」
「はい」
は再び頷いた。自分が街中へ買い物に出るときの事を思い出す。たくさんの店が軒を連ね、見ているだけでも楽しい風景を。
そしてその町並みが、今は不逞の者どもがどこに潜んでいるやも知れぬ、薄暗い陰をなしているのだ。
は食べ終わった膳を持って山南の部屋を辞した。
しとしとと雨が降っている。夜を迎えた廊下は静まり返り、雨垂れが庭の草木を打つ音だけが聞こえる。庭と道を隔てる塀の近くは吸い込まれるような暗闇で、
はふるりと体を震わせた。その振動が手から膳に伝わり、皿がカタリと音を立てた。
二日が過ぎ、四日。
この日も雨で、しかも風が吹いていた。は黒谷への往復で濡れないよう、
傘の差し方に非常に気をつけた。連日の雨で気を遣い、前川邸に戻れば空気は張り詰めている。夜は時間を問わずに山崎か島田が
監察の動きをまとめて土方の部屋へ報告に訪れる。土方も勿論だが、も疲れが取れずにいた。
深夜、いつも通りに山崎が土方の元へ報告にやってきた。
その内容は、眠気など吹き飛ばすようなものだった。
「副長、桝屋はやはり怪しいですわ」
山崎は頭に巻いていた手ぬぐいを解くと、濡れた着物の水気を軽く拭き取った。
「桝屋喜右衛門、齢三十数歳で独りもん、薪炭渡世を営んでいるとのことですが、商売している様子は皆無。町内での付き合いも希薄らしいです。
私ともう一人が見張っていたここ二日は、誰も出入りがありまへんでした」
「ふむ」
「で、近所に聞いて回ったところ、先代の桝屋は名を湯浅喜右衛門、丹波の世木村から出る割木を扱っているとのことで」
「…」
「その丹波の世木村、肥後藩の飛地領なんだそうですわ」
「すぐ黒谷に使いを出す! 桝屋を調べるぞ」
肥後藩の名を聞いた途端、土方の頭の中で、糸が一本に繋がった。
肥後藩の宿陣に入ろうとした小者の忠蔵。
その忠蔵が走り込んだ桝屋は肥後藩の飛地領の割木取り扱い。
そして自分たちが追うのは、肥後藩の宮部鼎蔵。
どこかで繋がっていてもおかしくはない。
繋がっていなかったとしても、何かの手がかりぐらいは掴めるかも知れない。
土方は山崎に引き続き桝屋の身元を洗うように命を下し、山崎を下がらせた。
そして寝間着のまま行灯に火を入れ、文机に向かった。会津藩に桝屋探索の許可を求める書をしたためる。
「、斉藤を起こしてこい」
「はい」
は言われたとおりにすぐ斉藤を起こしに行った。斉藤は素早く身支度を調え、土方の部屋に入った。
「副長」
「来たな斉藤。四条小橋西の真町の薪炭商、桝屋が怪しい。会津藩に捜索の了承を頼みたい」
「承知しました」
「これを」
「は」
短い言葉で土方は斉藤に用件を伝えた。斉藤は書状を懐深くしまうと合羽を着て馬に乗り、即座に前川邸を出た。
土方は斉藤を送り出すと着替え、隣室の近藤に事の次第を報告に行った。
も土方の尋常ならざる気配にすっかり目が覚めてしまい、着替えて布団も上げた。
局長室に次々と人が入っていく様子が伝わってくる。斉藤と同室の沖田がまず察知し、他の部屋の幹部たちに伝えに行ったのだろう。
「」
近藤の部屋のほうから襖が細く開き、土方が目を覗かせた。
「はい」
は襖にいざり寄った。
「野郎どもが集まってきて手狭だ。ここを開けて続き部屋にする」
「かしこまりました」
土方はが頷くのを見て襖を開け放った。
が近藤の部屋へ視線を移すと、皆が緊張の面持ちで座っていた。
「あ、そうだ」
と原田がを見た瞬間に立ち上がり、一度部屋から出て行って戻ってきた。その手には羽織が鷲掴みにされていた。
「よう、」
原田はのそばに寄ってきた。
「原田さん、おはようございます」
は原田に頭を下げた。
「おはようっつうにはまだ暗すぎやしねえか」
原田は障子の外を指さした。もう丑三つ時は回っているだろうが、確かにまだ外は暗い。夜明けの気配は遠かった。
「この前、お前に羽織が臭いって言われたろ?」
「あ、はい」
四月に木屋町で火災が発生したあの時のことだろう、たまたま現場を通りかかったに原田がふざけて浅葱色の羽織を被せ、
その臭いには無表情を貫かずにはいられなかった。
「あの後、俺、羽織を洗ったんだぜ」
ほらと言って、原田は羽織をばっと広げた。
その羽織からはもう先日のような臭いはしなかった。
「偉いだろ」
原田は肩を聳やかした。それを見てはこくこくと頷いた。
「何言ってんですか原田さん、それ神谷さんに洗わせてたでしょう」
沖田が苦笑いをしながら二人の側に寄ってきた。
「え?」
は原田を見た。
「総司、余計なこと言うない」
原田は沖田をつつくと、ばつが悪そうに笑った。
「神谷さんに…」
ふふっとは笑った。自分で洗うのは勿論“えらい”が、神谷に頼んだというのがいかにも原田らしい。
「でも、くしゃくしゃじゃないですか。火熨斗をお掛けしましょう」
「そうか? じゃあ頼むわ」
は原田から羽織を受け取った。洗って乾いてからも神谷が火熨斗をかけたのだろうが、もう時間が経っているため、羽織はくたりとしていた。
「お、じゃあ俺も頼もうかな。、いいか?」
「はい」
永倉も立ち上がり、羽織を持ってきた。
「あー、なら俺も」
と藤堂が続く。
結局、その場にいたほぼ全員がに火熨斗をたのんだ。頼まなかったのは沖田だけだった。
「私のは神谷さんがいつもやってくれているので」
と沖田は笑った。
東の空が薄明るくなってきた頃、斉藤は前川邸に戻ってきた。雨は次第に弱まってきたようで、葉を打つ音が小さくなってきていた。
「局長、副長、お待たせいたしました」
斉藤が差し出した一通の書状を近藤が改める。
近藤は内容を確かめて山南に渡し、山南も書面に目を通して土方に渡した。
土方は黒々とした文字で書かれた文面と、その最後に会津藩公用方筆頭・野村の署名がしてあるのを確認した。
「桝屋探索の許可を得た。…本日巡察の当番でない者」
顔を上げて土方が、室内にいる男たちを見渡す。巡察の当番である者も無い者も、これからの任務に選ばれたいと目を煌めかせていた。
「永倉、原田」
「ういっス!」
「よっしゃ!」
二人はニヤリと笑って拳を握る。
土方は近藤に目配せをした。
「桝屋を捜索し、肥後藩宮部鼎蔵との関わりがあるか否か、徹底的に調べてきてくれ。頼んだぞ!」
近藤が檄を飛ばす。
「がってんでい!」
永倉と原田はざっと立ち上がり、廊下を踏みならして消えていった。
いったん全員が部屋へ戻ることになった。は台所へと向かい、火熨斗を片づけて朝餉を土方の部屋へと運び入れた。
「お前、今日は黒谷に行くな」
さっさと食事を終えた土方がに言った。
「何かご用ですか?」
は汁椀をことりと置いて土方に聞く。
「もし桝屋が当たりだったら緊急の出動も有りうる。お前にはその準備を手伝ってもらいてえ」
土方は懐紙で口元を拭くと、まっすぐにを見据えた。
桝屋が当たりだったら。つまり桝屋が肥後藩と繋がりがあり、宮部をはじめとする浪士捕縛のきっかけが掴めたらそれなりの準備をして全員が出動しなければならない。
「わかりました」
は土方の言葉に従うことにした。幸い、は黒谷への出仕を自己判断で自由にする許可をハーバーから得ている。
雨は上がった。雲の切れ間から日が射し込んできている。
永倉と原田からの連絡を、皆がじりじりと待ちわびていた。
20090617