元治元年六月五日 10
京都御所の南側に位置する木屋町。
四月二十二日の夕刻、その空にもうもうと黒煙が上がった。
外の様子に気づいた隊士の通報を受けて新選組が現場に到着すると火はもうあらかた消し止められていて、焼け焦げた建物の残骸が
無残な姿をさらしていた。
「怪我人はいませんか!」
派遣された一番隊の神谷が大声で周囲に問う。
煙を吸って咳き込んでいる老婆がいたので、神谷は介抱にあたった。
一番隊隊長の沖田と、同じく現場への急行を命じられた十番隊の原田は火消しから話を聞き、両方の隊の全員で現場の片付けと
野次馬の整理に乗り出した。
「そっちへは行かないで、こっちへ抜けてください」
白い鉢巻きをした新選組の面々が往来の流れを作り、誘導した。
物見高い町の人々は人垣の間から火事の現場を確認しようと集まっていたが、浅葱色のダンダラ模様に立ち退くよう言われると
しぶしぶとその場を離れて行く。
京雀たちが遠巻きに見守る中、一番隊と十番隊は統率の取れた動きで仕事をこなした。
「ご苦労様です。何かわかりましたか?」
沖田が火消人足の頭に聞いた。京は江戸ほど火災が多くないのでいわゆる町火消しが存在しない。
その代わりに淀藩・亀山藩・膳所藩の各京屋敷に火消人足がおり、火事の際に出動することになっている。この度出動の火消人足は膳所藩の者たちだった。
火消人足の頭は陣笠の縁を持ち上げて、ふーと溜息をついた。
「焼けた家には災難だったが、これだけの火で済んでよかったな」
頭の指さす先を沖田が見ると、火元と見られる家は全焼、両隣二件も半焼だった。
「火付けだな。火元の家は空き屋だったようだ、そこを狙われたってところだろう」
「そうですか…」
火付けはいったい誰が、何の目的で。沖田は、盗賊と不義密通と併せて三大犯罪の火事を起こすほどの理由とは何なのか考え込んだ。
「おーい総司、ちっと来てくれ」
諸肌を脱いで片付けをしていた原田が向こうから声を掛けた。沖田は火消人足の頭に会釈をすると原田の元へ行った。
「これ、何だと思う?」
と原田が黒く焼け焦げた紙切れを差し出した。沖田が手に取って白く残っている文面を確認すると、“長州人”“潜伏”“およそ二百五十人”
という文字がかろうじて確認できた。
「これをどこで?」
沖田の目がすっと細くなる。
「丸焼けの家からだ。梁の下敷きになってた」
原田も声を低めて目つきを鋭くした。
「…まさか…」
長州が京に出兵するかもしれないという風聞は流れている。大坂でまず集合しているとの情報を確かめるために監察が現地へ出張っていて、
未だに戻ってこない。この紙片に書かれている文言を繋ぎ合わせて想像するに、すでに京には長州人が二百五十人も潜伏しているかもしれないのだ。
もし彼らが京の攪乱を狙ってこの火付けを行ったとしたら。
沖田と原田は目を合わせて、軽く頷いた。
「沖田先生、原田先生」
一番隊の相田が二人の元にやって来た。相田の隣にはが立っていた。
「よぉ、」
「黒谷から、今お帰りですか?」
「はい、お疲れ様です。これは…」
周りを見れば一目瞭然の光景に、は少しだけ眉を顰めた。
「どうやら付け火のようですよ」
沖田が全焼した家の方へと視線を投げた。
「…そうなんですか」
も同じ方向を見て、あの家から出火したのだと悟った。空気にはまだ熱っぽさが感じられる。
「ちょうどいいじゃねえか、にコレ、土方さんとこへ持ってってもらえば」
原田が先ほどの焦げた紙切れをに渡した。
「ああ、そうですね。悪いんですけどさん、土方さんに付け火だったことと、これが焼けた家から出てきたって伝えてもらえますか?」
「それだけでいいですか? 他に何か」
「そうですね…今のところはないです。犯人を見たって話もないし」
「承知しました、では」
は持っていた帳面に紙を挟むと懐に押し込み、前川邸へと戻ろうとした。
「おっと、俺の羽織も持って帰ってくれ、邪魔だ」
原田がダンダラの羽織をの頭にばさりと被せた。
は素早く羽織を頭から取り払った。
「頼んだぜ」
原田が歯を見せて笑う。
「原田さん…これ、いつ洗いました?」
は羽織を原田の前に突き出した。息をしないようにしているのは、推して知るべしである。
「オトコがいちいち洗うか、めんどくせえよ」
しれっと原田は答えた。
「沖田さん…お手紙はお届けしますが、これはちょっと…」
こそりとは沖田に囁き、羽織を渡した。沖田は苦笑いをして受け取った。
「なんだよう」
原田はいまいち不満げな顔をした。
は沖田たちに挨拶をして、くるりと後ろを向いた。
ふとその視界にあった黒い影には目を留めた。
押し合いへし合いして火事場を見物しようという人で辺りは騒然としている。その人垣が少し薄くなったところに、見覚えのある男が立っていた。
どこで見たのだろう、どこかで見たことのある顔―――
その男が人の波に消えた瞬間、は思い出した。
自分が桂と出会った時にいた男だった。
は男の後を追って小走りに駆け出した。
あの時、桂とともにいたのは二人。一人はひどく酔っぱらっていて、通りかかった土方に斬られた。もう一人は桂と共に逃げた。
逃げた方の男だ、間違いない。
大勢の人の間に見え隠れする頭を見失わないように、は人垣をかき分けて進んだ。
が、男の早足について行けるわけもなく、見失ってしまった。
(またしても逃がしてしまった…)
は額の汗を拭う。あの男を捕まえられれば、土方が望んでいる桂の捕縛へと近づくことが出来たかもしれないのに。
「、どうしたよ?」
後ろから原田が追いかけてきた。
「私が見た、桂と一緒にいた男がいたみたいなので…」
逃げられてしまいましたけど、とは唇を噛んだ。
「この人の多さだ、紛れ込まれたら逃げられもするだろうさ」
原田はきょろきょろと回りを見渡して言う。新選組の誘導に従いつつも、野次馬は十重二十重に場を囲んでいた。
「一応今のことも土方さんに言っとけよ。じゃ、気をつけて帰れ、な」
の肩をぽんぽんと叩き、原田は再び火事の現場へと戻っていった。
はもう一度人の波をぐるりと見回す。が、当然その中にあの男の影はない。
前川邸に戻る道中、は常に回りを何気なく観察しながら歩いて行った。
前川邸の土方の部屋に戻ったは、すぐに土方へと紙切れを渡し、桂と一緒にいた男と思われる人物の目撃を報告した。
土方は黙って紙を凝視し、の話を聞いた。
「わかった。後は総司たちが帰ってきてからの報告を待つ」
しばらく考え込んだ後、土方はそれだけを言って近藤の部屋へと向かった。近藤にもこのことを報告するのだろう。
部屋に一人残されたは黒い羽織を脱いで衣桁に掛け、風呂敷包みを納戸にしまった。
ぱたりと納戸の戸を閉めると、隣の部屋からぼそぼそとした声が聞こえてきた。近藤と土方が話し合っているのだろう。
土方の苛立ったような声色が聞こえ、それに続けて近藤が宥めるような口調で語った。
ここ何日も土方は焦りをちらつかせている。桂を一刻も早く捕まえたいばかりに。
初めて桂と遭遇した時に何とか出来れば土方の役に立てたかもしれない。
そして今日も、桂と一緒にいた男を見逃してしまわなければ、桂の捕縛に一歩近づけたかもしれない。
そう思うと、は己の手が悉く砂をこぼしているような気持ちになった。
他の人間であればきっと掬ったままでいられるはずの砂を。
役立たずな自分が、歯痒かった。
土方の焦りもむなしく、桂を捕縛したい新選組や会津藩にとっては最悪の報がもたらされた。
桂の故郷である長州から使者が京に到着し、桂小五郎を京都留守居役に正式に任命するという辞令を発表したのだ。
長州は現在、京へ入るのを禁止されている。しかし、
“かねてより留守居ほか用事これあり上京つかまつり候者は、名前相達するようおおせ出されおき候”
との触れが出されているように、藩邸の要員に関しては身柄が保障されていた。
そこを長州は利用し、以前から留守居役に任命している乃美織江と同じ立場に桂を引き上げたのである。
これで桂は名実共に京都出先の最高責任者になり、無闇に彼を狙うことは出来なくなった。
夜遅くに黒谷へと呼び出された土方は、会津藩公用方の広沢からこの話を聞かされて呆然とした。
やられた。
畳についた両手の指先に力が入るが、悔やんでももうどうにも出来ない。
土方が懸念していたのはこのことだった。
桂が広く活動しているという情報は、監察や会津藩から散々聞かされている。
もし自分が桂だったらどうするか。いつまでも潜伏者として窮屈な活動などしてはいたくない。
それならば堂々と動けるように、公的に自由な身になろうとするだろう。目の前には京都留守居役という最高の立場がある。
養子ではあるが藩士を継ぎ、藩費で江戸に留学して練兵館の塾頭を務め、同時に江戸において最先端の西洋式技術を学んだ桂は人望も厚く、
留守居役に推挙される充分な資質があった。それを利用しない手はない。
土方は、同じように悔恨を述べる広沢の言葉を平伏したまま聞いていた。
「…しかし、本日お主らに伝えねばならぬ事はこれだけではない」
広沢は唇を引き締めると、徐に次の言葉を述べた。
「大樹公の東帰が決定した」
「…っ、広沢様、まさかっ…!」
近藤が思わず身を乗り出した。
「落ち着け近藤、もう決まったことだ」
「しかし…攘夷はどうなるのです? それをお決めになるための上洛ではなかったのですか?」
諦観を含んだ広沢の目に諌められ、近藤は再び居住まいを正した。
「それは参予が解体した時点で、もううやむやになってしまったのはお主も知っておろう」
静かに広沢は事実だけを伝えた。
「日取りはお決まりですか?」
土方が近藤の斜め後ろから問う。
「七日に京を立たれる。数日大坂に滞在後、江戸へと船でご帰還の予定だ」
「我々も大坂までお供させていただきたいのですが」
「相わかった。そのことについては追って沙汰する」
「はっ」
広沢の確約を得て、土方は平伏した。
「近藤よ」
広沢は近藤に向かって言った。
「お主の落胆もよくわかる。我が殿も“玉(天皇)”の御ために病を押して朝廷と幕府の間を奔走しておられたが、大樹公のお戻りが
決まったのを聞いて、この黒谷に戻ってくるやいなやすぐ横になられた」
「公が…」
はっとして近藤は顔を上げる。
「“玉”が大の夷荻嫌いであらせられるのを、殿はよくよくご承知だ。その攘夷が適わず、せっかく朝廷も殿も乗り気でいらっしゃった
朝廷と幕府が一体となっての政の形も、大樹公が京を離れられることで実現せなんだ。よほど御身に堪えたとお見受けする」
「肥後守様…」
広沢が容保の様子を零すと、近藤は俯いて肩を震わせた。
近藤と土方が黒谷を出たのは、とっぷりと夜も更けてからだった。会津藩から召し出しの急使が来たのが遅い時刻だったので、
当然の時間の経過と言えよう。空には薄い雲がかかり、星が見えない。
二人は馬に乗ると、無言のまま前川邸に戻った。
土方が部屋に戻ると、が起きて待っていた。
「お帰りなさい」
は読んでいた本を閉じて土方を迎えた。
「ああ」
こんな夜遅くまでが起きているなど珍しいと思いながら、土方は寝間着に着替えた。
「…土方さん、ごめんなさい」
土方が帯を締め終わるとの同時にが口を開いた。
「何だ」
土方は頭の中で最近の彼女の行動を浚ってみたが、特に問題はなく、あったとしても解決済みのことばかりだった。
「私が桂や、桂と共にいた男の人を逃してしまったばかりに…桂をもう捕まえられなくなったのでしょう?」
は立ったままの土方を見上げた。
「奴が留守居役になったからか? その話をどこで聞いた?」
土方はが用意しておいた布団の上に腰を下ろして胡座をかいた。
「会津藩からの急使が柴さんで、ちょうど私が帰ってきた時に前川邸の門のところで斉藤さんと喋ってて」
それで知ったんです、とは言った。
柴とは確か、に好意を抱いている若い会津藩士だったなと土方は思い出した。黒谷で辞書を完成させたを柴が送って来た時に
一度会ったことがある程度だが、個人的な感情を覗けばなかなかの好青年であったと記憶している。小回りもききそうな感じだったので、
何かと便利に使われているのだろう。
「別にお前のせいじゃねえだろ」
土方は肩に手をやって凝りを解しながら言った。
「でも」
は、相手が誰だかわかっていて二度も接近しておきながら何も出来なかったことが心苦しくて仕方がなかった。
「お前にそんなことを頼んだ覚えはねえ」
溜息をついて土方は膝を進めた。
「だいたいな、そんなことしてお前に何かあってみろ。その尻ぬぐいをするのは誰だ」
小さくとも鋭い声色で土方が言う。は一瞬言葉に詰まり、こくりと頷いた。
「余計なことはするな。お前はただ黒谷に行って帰ってくりゃいい」
そのことだけを無事に済ませることが出来れば、後は自分たちの領域である。女の出る幕ではない。
それにが桂と遭遇し、似顔絵作成に協力してくれたおかげで、それらしき人物の目撃情報も集められている。
それだけでも大いに助かっているのだが、土方がそれを口にしないのでは気がついていない。
「……はい」
いつもより眺めの沈黙の後、は短く返事をして床についた。
は不満そうだが、無理をして彼女に何かあったら、特に女だとばれてしまったら大事になってしまう。
そうならないために、彼女の気持ちは理解できても危ない橋を渡らせることは厳禁だ。
土方もすぐ布団に入ったが、夜が明けてからの行動をあれこれと頭の中で考えていると眠れなかった。
どうも追い風がこちらでなく長州から吹いてきているような気がしてならない。
まだそれが緩い今のうちに、流れをこちらに引き寄せたい。
そのためにすべきことは山のようにある。
横になったまま考え込んでいた土方がやっと微睡み始めた頃、朝日が昇ってきた。
ゆうべと同じく空を覆っている薄い雲の、その後ろに。
雲から透ける日差しは柔らかいが直接の光ではない。
怪しく放たれる光が、京の町を照らしていた。
20090604