久遠の空 ドリーム小説 元治元年六月五日 9

元治元年六月五日

update:2009.05.29

元治元年六月五日 9 

 新選組が長州の要人を捜索している間にも、京の情勢は動いていた。

 すでに二月二十日に元号を文久から元治に改元。
 松平容保は以前からの体調不良を理由に、正式に任命されてから十日と経たずして軍事総裁職を辞職した。
 幕府は容保に大きな期待を寄せ、陸海軍の総帥として陸海軍奉行・諸武所奉行・騎兵奉行・歩兵奉行など一般軍事職の進退を一任し、 陸海軍の軍備を拡張、会津藩も兵制を再構築して洋式訓練を取り入れた矢先であった。

 体調が坂を転がるように悪化する中、容保は政治の再編にも取り組んでいた。容保は幕府を政権の頂点に立たせるとの同時に、 幕府の威光を補足する意味で天皇がその上に立つことを提唱した。今までと違い、天皇の存在を強く意識した朝廷幕藩体制である。
 これには朝廷も同意した。しかし幕府は拒否し、江戸へ帰る許可を申し出た。

 そして街中では尊皇攘夷派の動きが活発になってきた。
 捕縛される者も多かったが、捕まらずに活動している者の方がもっと多い。
 逃げの小五郎と同様に名前も身分も偽り、旅宿や知人の家に仮寓していた。

 “固めの場所々々において軒別日々相あらため、旅宿のたぐいは、宿泊の者は国所と姓名をはっきりさせ、 帯刀の者は旅行中の一泊は許すが二泊は相成らず、町人百姓体の者も、あやしい者は取り押さえよ” という触れが出ているため、決して大きく動いてはならない。
 浪士たちは巧妙に潜伏し、尻尾を出さないよう細心の注意を払っていた。
 彼らは密書をしたためて連絡を取り合い、こっそりと会合を開いてこれからの情勢について語り合うのを繰り返した。

 その最たるものは、三月十八日に行われた東山清水にある明保野亭での意見交換会であろう。
 対馬、因州、備前、筑前、加賀、水戸、津和野など十四の藩から四十人以上が出席し、激論飛び交う一時を過ごした。主催は対馬藩であるが、 これも桂の手引きによるものであり、彼の顔の広さが窺える。

 桂の人脈は日本国中に広まりつつあり、特に西国では対馬藩と密接な繋がりがあった。ちょうどこの頃に長州の藩是、 つまり藩としてどのように行動するのかが決定したのだが、それは「家老である国司信濃に二百三十人の軍勢をつけてひとまず大坂に上らせ、 滞在している井原主計(こちらも家老)を助けて伏見まで出向いた上、長州藩主の勤皇の趣旨を貫徹する」という過激なものだった。

 折角在京の長州藩士を抑えているのにそんなことをされては、また新たな火種を生み出しかねない。桂は京に滞在している対馬藩主から 長州藩主に使者を送って暴挙を戒めてもらえまいかと、元対馬藩京都留守居役の河田佐久馬に頼み、河田は桂の要望通りに 使者を送っている。

 自藩の長州の舵取りと他藩との連携。桂は腐心しながらそれを見事にやってのけていた。
 だからこそ桂を捕らえねばならない。長州そして西国の、幕府と方針を異にする者たちの息の根を止めるために。
 そのために、同じ京にいる新選組や会津藩は、桂を捕縛するために躍起になっていた。

 しかも桂を一刻も早く捕まえなければならない理由が、彼らにはあった。
 土方が精鋭部隊である一番隊を差し向けたのも、取り逃がして戻ってきた沖田を怒鳴りつけたのもそれに繋がる。
 土方は心の中では焦りを感じていた。


 そんな中、土方も桂のように、各所方面で動いていた。
 新選組としての仕事を一番にこなしていたが、故郷の多摩蓮光寺の名主・富沢政恕と積極的に交流していた。富沢は前に屯所を訪れ、 八木邸で酒を飲んでいった男である。
 将軍の上洛の警護隊の一員として京に上った富沢は、暇さえあれば壬生を訪れ、近藤や土方たちと語らっていた。 京の情勢はどのようなものであるかが最大の焦点だったが、その話が終わると後は柔らかい話題になることも多かった。 京は江戸と異なる“はんなりした”魅力にあふれていた。特にこの花の美しい季節は、王城の地の風景と相まって、さらなる美を醸し出していた。 富沢は、いや、京に来た者たちは皆その美しさに心を奪われずにはいられなかった。

 土方は、新選組の創生期に金や物を送って力を貸してくれた故郷に深く感謝していた。それを言葉には表さなかったが、今の自分たちの様子を富沢を介して故郷に 伝えてもらうことで、故郷の皆を安心させたいと考えていた。それ故に、富沢にはまめに付き合ったのである。

 勤王派による明保野亭での会談より数日前のある日。は英吉利語の授業が休みだった。
 ハーバーは皆の学習が進んでくると、自主学習の日と称して数日に一度、授業を休みにした。その日にこれまでの学習を自分でまとめ、反復する日を 設けたのである。が、それは建前で、女であるが少しでもほっとできる日を作るための隠れ蓑に過ぎなかった。
 実はさらにそれも建前の建前で、ハーバーがを厳しく育て始めると、彼女はめきめきと上達していった。元の時代で多少は覚えがあっても、 その学習速度は並のものではなかった。打てば響くとはまさにこのこと、とハーバーは密かに喜んだ。それ故に他の生徒たちとの学習速度が 異なりすぎてしまったので、ある程度歩調を合わせるための措置でもあった。出る釘は打たれることを、もハーバーも充分に心得ていたのである。

 「今日は富沢さんと出掛ける」
 土方が立ち上がり、羽織を身につけて腰に二本を差した。
 「あ…あの、土方さん」
 も腰を浮かした。
 てっきり行ってらっしゃいと彼女が言って送り出してくれると思っていた土方は、何だとを振り返った。
 「私も、その、ご一緒させていただけませんか?」
 「あ?」
 は眉を寄せて自分を見遣る土方を見つめ返した。
 「お前、この間自分であまり知り合いを作らない方がっつってなかったか?」
 「そうなんですけど…ハーバーさんが…」
 ハーバーに女だとばれて説教された時に、もっと積極的に他人と接触して会話の力をつけるように約束させられた。そのためには黒谷での授業を 休んでもいいとまで許可が出ている。だがそこまでするのは心苦しいし、今日は運良く休みだ。
 「昼の間だけでいいんです。ご迷惑でなければ、協力していただけませんか?」
 は土方に一歩近づくと頭を下げた。

 土方はしばし考え込んでから口を開いた。
 「最初に富沢さんと八木邸で飲んだ時には来なかったのに、黒船野郎に言われたらついてくるのか」
 「えっ、別に…そんなつもりじゃありません」
 ついとは顔を上げる。
 「だが事実だ」
 「そうですけど…」
 土方が鋭く突き詰めると、は項垂れた。

 黙りこくるを見て、土方は少し言い過ぎたかと思った。
 来るなと言いたいわけではない。むしろ喜んで連れて行くつもりだ。
 だが、それがあの黒船野郎に言われたからというのが気に入らない。

 「ごめんなさい」
 がぽつりと呟いた。
 「私、土方さんならお願いできると思って、甘えるところでした。自分でなんとかします。失礼しました」
 そして再び頭を下げると、羽織を手にして部屋を出て行こうとした。
 「待て、何でそうなる」
 土方はやはり言い過ぎたのだと慌て、の腕を掴んで引き留める。
 は目を伏せた。

 土方は大きく溜息をついた。
 「誰が連れて行かねえと言った? 最後まで人の話を聞け」
 「え?」
 自分を見上げるの目が微かに期待を含んで瞬く。
 土方は無言で頷いた。
 「…ありがとうございます」
 の口元が弧を描いてほころんだ。

 二人はまだ薄ら寒い朝の空気の中を、富沢の宿泊している家まで歩いて行った。
 「今日はどちらに行かれる予定なんですか?」
 が聞く。
 「まずは清水寺だな。富沢さんがぜひ行きたいと言ってた」
 「はい」
 清水寺に行くのは修学旅行以来だな、とは頭の中で記憶を探った。ただしあの時はそんなに興味もなく、ただ学校の行事で 行っただけだったので、あまりよく覚えていない。
 「お前、さっきどこに行くつもりだったんだ」
 ふと土方が尋ねる。連れて行ってもらえないと独り合点して部屋を出て行こうとした時のことだ。
 「巡察の当番でない方に、どこかへ連れて行っていただこうかと思って」
 前を見たままが答えた。
 「えっと…今日のお休みは十番隊、原田さんでしたね」
 「…悪いことは言わん、それだけは止めておけ」


 富沢の宿所に着くと、土方は富沢にを紹介した。
 「先日は八木邸にまでお越しくださったのに、顔も出さずに失礼いたしました。気分がすぐれませんで」
 は丁寧に頭を下げた。
 「そうですか、それで本日は歳三と共に挨拶に来てくださったのか」
 富沢は満足そうに笑った。
 本当は違うが、二人は富沢が嬉しそうにしているので、そういうことにした。


 三人で清水寺に向かった。春の陽気が心地よい。足下を緩く吹き抜ける風も爽やかだ。
 清水寺に着くとすぐ本堂に入り、清水の舞台に上がった。
 「わあ…」
 思わずは感嘆を漏らした。舞台の上からは桜が雲のように眼下に広がり、どこまでも色彩豊かな美しい景色が広がっている。
 「これが錦雲渓か…」
 富沢がの隣に立って、ほうと息をついた。
 「私の友人が、春の京に行ったらこの景色を見なきゃあ駄目だって教えてくれてな」
 まさしく錦絵の織りなすような、雅で、あでやかな風景だ。

 富沢と反対の傍らに、土方が立った。
 日が昇り暖かくなってきた中に、鶯の鳴き声が澄んだ空に響き渡る。
 薄紅、緑、茶、黄。自然の色が遙か眼下に霞む。
 土方と同じ視線の先を見ると、遠く京の町が広がる。あのどこかで今も陰謀が繰り広げられているなど嘘のようだ。
 「歳三」
 と富沢が土方に声をかけた。
 「何ですか」
 の頭越しに土方も返答する。
 「ここで一句捻ってみたらどうだ」
 「え?」
 「この美しい風景を、お前の得意な俳句に留めてみなさい」
 富沢に笑顔で言われ、土方は眼前の景色を見つめた。
 「…今は出てきませんな。これだけの風景だ、圧倒されてしまいます」
 「そうか、それは残念だ。なあ山口殿」
 「は、はい」
 確かにこの春の絶景を言葉に移すのは容易ではないだろう。
 だがは土方の口調にわずかな違和感が混じっているような気がした。

 三人はしばらく景色を楽しんだ後、音羽の滝や塔頭の慈心院を眺め、参詣道を逆にたどって清水寺を辞した。
 三年坂と二年坂を通って、土産物を見たり、甘味を味わいながら小休止をとったりした。

 そしてゆっくりと歩きながら鴨川を渡り、夕刻の早い時間に茶屋へ入った。長い廊下が続く、広い店だった。
 「いやはや、本日は堪能した」
 富沢が満足そうに酒を含んだ息を吐いた。
 「それは何よりで」
 土方も口元に笑みを浮かべながら杯を傾ける。
 「長く歩いたな。お疲れではないか、山口殿」
 「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
 本当は疲れていたが、も二人に合わせて背筋を伸ばして座り、富沢の杯に酒を注いだ。
 「ありがとう、どうだね山口殿も一杯」
 と富沢はの手に杯を乗せて、とくとくと酒を注いだ。
 「すみません、まったく飲めないものですから」
 はおしいただく動作だけをすると杯を膳に乗せ、代わりに茶の入った湯飲みを持った。
 「そうか、しかし一口ぐらいつきあえる方がよいぞ」
 富沢は笑ってまた杯をあおった。
 「そうだといいのですが、本当にこいつは駄目なんですよ、富沢さん」
 含みのある表情で土方はを流し見た。
 (そうだけど…そんな目で見なくても…)
 はつと目を逸らした。

 は富沢が名主だと土方から聞いていたので、その苦労はいかばかりかと話を振った。
 富沢は喜んでの話に乗り、いろいろと話した。
 これも会話の練習だと、は富沢の話を聞いてわからないことを質問したり、感想を述べたりした。
 土方も所々でうまく合いの手を入れ、さりげなくの会話を助けた。

 しばらくすると、土方は厠だと言って出て行った。
 は富沢と二人で話を続けていたが、なかなか土方が戻ってこない。
 何かあったのかと思い、も厠の振りをして部屋を出た。

 はとりあえず厠のある方へと向かってみた。
 土方はここのところ出ずっぱりで疲れているかもしれない、倒れてはいまいかと思うと自然に足が早くなる。

 廊下の角を曲がったところで、は遠くに土方の後ろ姿を見つけた。
 よかった、倒れたわけではなかったのだと小さく息をする。

 土方さん、と声をかけようとしたその時。
 土方と壁の間に、ちらりと別の人物の姿が見えた。

 おそらくはこの店の仲居か何かだろう、手にした盆には銚子が何本が立っている。
 土方は片手でその女の左側をふさぎ、顔を近づけると耳元に何かを囁いた。
 すると女は真っ赤になり、空いている方の手で土方の胸元をぽんと叩くと、同じように土方の耳に何かを呟いた。

 周りの部屋から聞こえてきていた酔っぱらいの喧噪が、一瞬にして聞こえなくなる。
 はそのまま音を立てないように、角から影を引いた。

 見て、しまった。
 あんな風に、あの人は女の人を口説くのだ。
 自分を押し倒して悪戯するぐらい、彼にとってはただの挨拶程度でしかなかったのだ。

 とくり、と心臓がまたあの音を立てる。
 何でもない、何でもない。
 私にとってあの人は、あの人にとって私は、何でもないのだ。
 第一、この時代の誰とも何かをどうにかすることは絶対にあり得ない。
 だからこんな音、する必要がないのに。

 どこをどう戻っていったのか、いつの間にかは自分たちの部屋に戻ってきた。
 富沢に中座の詫びを言い、自分の席に座る。
 のどが渇いた。膳の上に湯飲みがあったはずだと手で探った。
 はぼんやりしながら手に持ったそれをぐっと飲み干した。
 「あ、山口殿、それ」
 「え?」
 富沢に言われて手元を見ると、それは赤く塗られた杯。
 中身は、酒だった。



 左右に緩く揺られるのを感じて、は目を開けた。
 目の前は暗い。いや、黒い。
 「…?」
 頭を上げると、視界がぐらぐらと揺れて気持ちが悪い。
 「目ェ覚めたか」
 黒い風景のすぐ向こうから土方の声がした。
 「え? あれ? 私…?」
 はっとして体を起こして辺りを見渡すと、そこは茶屋の室内でなく、前川邸へのよく見知った道だった。しかもすでに空には星が瞬いている。
 「馬鹿かテメェ、何だって酒なんか飲んだんだ」
 呆れたように土方が言った。
 「え?」
 まだには状況が飲み込めていない。
 気がつけば自分は土方に負ぶわれているではないか。

 「お、下ろして、ください」
 吐き気をこらえながらは言った。
 「厠から戻ってくりゃあお前が前のめりになって倒れてて、富沢さんが心配してたぞ。一杯ひっかけたんだってな」
 じろりと土方は背中のを睨み付けた。
 「間違えて杯のものを飲んでしまったんです、お茶だと思って。すみませんでした」
 は素直に謝った。
 が、土方が厠云々というのはちょっと違うだろう、と心の中で呟き、は土方の背中に顔を伏せた。

 「何だ、言いたいことがあるなら言え」
 その気配を感じて土方は問うた。
 「何でも」
 「何でもねえって雰囲気じゃねえな。隠すんじゃねえ」
 お見通しなんだよ、と土方は鼻を鳴らした。

 「…隠してるのは土方さんじゃないですか」
 は顔を上げた。
 「あ?」
 「厠だなんて、厠に行ったのは本当かもしれませんけど、その後…」
 女の人を、口説いていたでしょう。
 そこまでは口に出さず、は再び土方の背に顔をつけた。
 「…あれか。お前、見てたのか」
 土方は少し考えた後に、厠の帰りに店の仲居と話していたのを思い出した。
 「見てたってわけじゃ…」
 ただの偶然です、とは続ける。

 土方はまいったなと言って頭を掻いた。
 「あれは、あの店で怪しい野郎どもが会合を開いていねえか聞いてたんだよ。あそこにも浪士どもが出入りしたって話を島田が持ってきてたからな」
 本当だろうか。の心の疑いは晴れない。
 「本当だって」
 の心を見透かしたように、土方が畳みかける。
 「ったく、仕方ねえな。ここんとこ出掛けてんのも、浪士どもの情報が多すぎて監察の人手が足りねえから俺が直々に手伝ってんだよ」
 「…え?」
 はばっと頭を上げた。
 毎夜の外出は、遊んでいたのではなく探索のためだったと言うのか。

 土方は何気なく周囲を見回し、すっと細い路地に入った。さらに周りに誰もいないことを確認すると、静かに話し始めた。
 「いいか、他言するなよ。監察からも会津藩からも、浪士の目撃情報や探索願いが次々と組に届いている。それを全部捌こうと思ったら、監察だけじゃ頭数が足りねえんだ」
 土方の歩調に合わせて揺れる背中に、は黙って体を預ける。
 「この前は八郎にも頼んだんだが、あいにく奴と上京した仲間が京の空気に浮かれやがって、揚屋入りしちまったんだと。仲のいい奴だったらしいから、 八郎も連座して何日か謹慎するって手紙を寄越しやがった。それで代わりに平助を連れて行ったんだが、その時は空振りだったな」
 酒でまとまらない頭では何日前だったかはっきりと思い出せないが、確かに手紙が届いて、藤堂を呼んで祇園に行った日があったとは思い出した。
 たぶん“お上りさん”状態になってしまった仲間がおり、何かをしでかしてしまったのだろう。それで八郎、つまり伊庭が連座して謹慎することに なったに違いない。トシさんトシさんと懐く様子を見る限り、人当たりもよさそうで情にも厚そうだし、あり得ないことでもないとは思った。
 「…そうだったんですか…」
 そして清水の舞台から京の町を眺めていた時のことがの脳裏に浮かんだ。あの時彼が町並みを眺めていたのも、咄嗟に一句詠むことができなかったのも、探索のことを考えていたからに違いない。
 は肩口から土方を見た。
 土方も振り向いてと目を合わせる。
 その目に嘘は見えず、はほっとして土方にしがみついた。

 「何だよ」
 くっと土方が笑う。
 「酔ってます」
 はふふっと笑った。
 「そのようだな」
 「酔ってるんです…」

 何故、関係ないはずの土方の女性関係が気になったのか。
 どうして、それが誤解だと知って安堵したのか。


 考えたら、駄目。


 はそこでふっと意識を途切れさせた。まるで考えるのを拒否するように。
 土方はの体から力が抜けたのを受けて、彼女を背負い直した。



 土方はその後、をなるべく外出に誘うようになった。
 富沢と出掛けた二日後にも、今度は幹部たちが出席しての桃花の宴が島原で設けられた。これもやはり探索の一環であった。長州の上方出兵の噂が 京にまで流れてきて、まず大坂に兵が集まるとの情報を得た新選組の監察は、大坂へと活動場所を集中させた。そのために京での諜報活動が 手薄になり、とうとう隊の組長たちまでが引き摺り出されたのだ。
 は早々に帰ったが、沖田は酔った振りをして宴会場の木津屋の中をこっそりと探り回り、他の者は呼び出した妓とともに消え、彼女たちから情報を引き出した。

 さらにその六日後にも同じ目的で壬生遊郭の千紅万紫楼にて宴会が催されたが、こちらは収穫なしに終わった。 が、島原の別の店に河岸替えをする際に、この日に公務がなかった富沢と合流して酒を酌み交わした。 は富沢に先日の非礼を詫びた。富沢は本当にが酒に弱いのを目の前で見たので、そういうこともあると肩を叩いて笑った。


 桂が対馬藩に頼んだ使者は三月二十二日に長州に到着し、対馬藩主・池田慶徳から長州藩主・毛利慶親への親書を手渡した。 それにより、長州藩家老国司信濃を担いだ軍隊の東上はとりあえず中止となった。
 だが同時に、八月十八日の政変で七卿とともに落ちていった久坂玄瑞と、藩士・来島又兵衛ら十四人が上方探索の名目で上京してしまう。 来島の統率する遊撃軍も五十人が脱走して来島たちと合流、大坂から伏見へと進み、長州藩邸内の屋敷へと身を潜めた。

 幕府側の動きとしては、参予に任命されていた山内容堂が帰国したのを皮切りに、島津久光、伊達宗城、松平春嶽らが続けて国元に戻っていった。
 三月二十三日には諸藩兵の京師巡察を廃止し、改めて京都守護職、新選組、京都町奉行が市中警護に任せられた。
 四月に入るとそれまで京都所司代を務めていた淀藩主・稲葉正邦が老中に就任し、桑名藩主・松平定敬にその地位を譲る。 定敬は会津藩主・松平容保の実弟である。ここに従兄弟という血の繋がりのある一橋慶喜、守護職に復帰した松平容保、松平定敬の京都護衛体制、 世に言う「一会桑」が確立した。
 新選組も水も漏らさぬような探索を続けていたが、捕縛出来たのは雑魚ばかりだった。彼らを問い詰めてもたいした情報を持っていなかった。
 早く桂を捕まえたい土方は、いらいらが募るばかりだった。
 その心情は傍らで見ているにも伝わってきて、自分が桂と最初に出会った時に何とか出来なかったのだろうかと後悔の念が浮かび上がった。

 そうこうしているうちに、富沢が日野へと帰ることになった。
 土方は別れを惜しみ、近藤も送別会を開いた。
 もその会に出席し、富沢に別れを告げた。
 「山口殿、お忙しいとは思うが、ぜひ日野にも来られよ」
 富沢はが気に入ったようで、ぐっと手を握りしめてきた。
 「柔らかい手だな、少しは剣術の修行もした方がよろしかろう」
 以前は黒谷で少しだけ剣術の稽古にも出ていたが、今はハーバーに銃の扱いを教えてもらっているため、手にあったまめもなくなってきている。
 は丁寧に頭を下げて、富沢に挨拶をした。
 二日後に土方は井上と共に富沢を伏見まで見送り、手紙と鉢金を日野に届けてくれるように言付けた。

 その富沢が京から十一番目の宿場である桑名宿へと到着した日。
 京の木屋町で、不審火が上がった。




 20090527