元治元年六月五日 8
監察の微に入り細に入る探索の結果、桂が現れると思しき会合の場所を突き止めることが出来た。
尊皇攘夷派の浪士たちは藩という枠を飛び越えて積極的に交流を行っており、京都のあちこちで会合を持っていた。監察たちは、浪士どもが集まると聞いた旅宿では客を装って中の様子を調べたり、泊り客についてそれとなく店の者に聞いたりした。花街では反幕の徒と繋がっていると聞いた女を買い、尊攘派の振りをして、浪士たちが寝物語に女へ漏らした情報を聞き出した。
蜘蛛の糸を繋げるようなそれは、昼夜を問わず相手を問わずの、忍耐の要る活動だった。
しかし。
「桂を、取り逃がしただと?」
土方は帯に差した扇子を取り出すと、ぱちりと打ち鳴らした。
「申し訳ありません、土方さん」
桂捕縛に出動した一番隊組長の沖田が伏目がちに謝罪する。
「…テメェ、それで済むと思ってんのか!!」
土方の怒号と扇子を文机に叩きつける音が前川邸内に響き渡った。
はその恐ろしさに、部屋の隅で飛び上がりそうになった。
沖田の胸倉を掴むと、土方は険しい目つきで沖田を見据えた。
「山崎や島田がやっとの思いで桂が顔を出す場所を突き止めてきたってのに、取り逃がすたあ一番隊は何をしていた?」
土方は沖田の着物を握る手に力を込める。行灯の灯りに浮かびあがったその顔は、鬼以外の何者にも見えない。
沖田は一言も発さず、抗うこともせずにいた。
「たかが捕り物だぞ! そのザマで万一のときに近藤さんを守れると思ってんのか? ああ?」
一番隊はただ便宜的に一番という番号が割り当てられているわけではない。もしもの場合には局長である近藤の護衛を任される精鋭部隊なのだ。
その一番隊が、居場所の判明しているたった一人の男を取り逃がすなどあってはならない。
「すみません」
近藤の名を出され、さすがの沖田もうな垂れた。
「ったく」
土方は手を離すと座り直し、沖田を睨み付けた。
沖田は崩れた胸元を直しもせずに、その視線を受け止めた。
「監察や会津からの報告じゃ、街中には長州の野郎どもがまだ大勢身を隠して潜んでやがる。お前らが今回踏み込んだ先で捕縛してきた中にもいるはずだ。“玉”から入京を禁じられているのに入り込むたあ、ますますいただけねえ。捕縛してきた奴らを尋問して、一人残らずひっ捕えろ」
「はい」
「さっさと行け。お前は“倒れるほどコキ使う”から“死ぬほどコキ使う”に変更だ」
土方はそう言うと沖田から視線を外した。
沖田は一礼すると土方の部屋を出て行った。
沖田が自室に戻ると、部屋の前には一番隊の面々がたむろしていた。土方の大声を聞いて集まってきたようだ。
「沖田先生!」
「沖田先生、すみません。私が余計なことをしたばっかりに…」
わっと駆け寄る隊士たちの中に神谷がおり、沖田に頭を下げた。
神谷は、朝の巡察後に一人で桂と思しき人物(実は変装した山崎)の後をつけて、たまたま本物の桂と行きあってしまった。神谷がそこで新選組と名乗ってしまったため、桂は仲間にかばわれて逃走、その直後に一番隊が到着して桂を取り逃がし、残りの浪士どもを捕らえるだけとなったのだ。
「勝手な行動をしたあなたに全く非がないとは言えませんが、桂の運もよかったんでしょう」
沖田はぽんと神谷の頭に手を乗せた。
「皆さん、今回は残念でしたが次こそは必ず桂を捕まえますよ。“逃げの小五郎”の名を返上させるのは我ら一番隊です!」
沖田が皆をぐるりと見渡して言った。
「「「「おう!」」」」
一番隊の面々は、組長の言葉に呼応して天井に向かって拳を突き上げた。
沖田も共に手を上げる。
横を向くと、隣の神谷も気合を入れて腕を伸ばしていた。
次こそは、必ず。
そう一番隊の全員は思っていた。
しかし、彼らが桂を捕縛できたはずの機会は、後にも先にもこれっきりだった。
桂は逃げる、隠れるの名人だった。名を変え、服装を変え、足腰の強さを活かして逃げに逃げた。
桂の理解者も逃亡を助けた。長州の過激な尊攘派とも話し合うことが出来、他藩の同調者たちとも積極的に関わりあえる、そんな逸材を失う事は、彼らの考える天下の一大事であった。
武士にとって敵に後ろを見せるなどあってはならない行為だったが、“生きて事を成す”という新しい時代の生き方を、桂はいち早く実践したのであった。
新選組は再び桂の捜索に乗り出した。巡察での宿改め、監察から上がってくる不審人物の捜索、捕縛、尋問。
しかし桂はなかなか馬脚を現さなかった。
そんなある日のことだった。
が黒谷から前川邸に戻ると、土方が部屋にいた。
土方はここ数日、が帰ってきても他出していることが多く、帰ってくると薄っすらと妓の香りを漂わせていた。はその香りを感じるたびに、自分の胸の奥で何かの音が聞こえたが、聞こえない振りをしていた。
今日は珍しく土方が部屋にいる。そう思うとはどことなくほっとし、羽織を脱いだ。
自分宛の書状に目を通していた土方の手がふと止まった。
「…何だと、あの野郎。仕方ねえな…」
土方はぽつりとそう呟くと後ろを向いて、風呂敷包みを片付けているを見遣った。
「…何か?」
その視線に気がついて、が土方を見る。
「いや、何でもねえ。今夜の非番は八番隊だったな。平助を呼んできてくれ」
「かしこまりました」
は立ち上がると静かに廊下を進み、藤堂を呼びに行った。
「何、土方さん」
藤堂が土方の部屋にやって来た。
「暇か?」
土方が書き物の手を止めて、顔だけを藤堂に向けた。
「うん、予定は無いよ」
藤堂は朗らかな笑顔で答えた。
「じゃあちっと付き合え。祗園だ」
「…承知」
土方の視線を受けて、藤堂はにっと口の端を上げた。
「これを書き終えたらすぐに出る。その間に支度しておけ」
「はーい」
返事をすると、藤堂は足取り軽く部屋を出て行った。
土方がふうと息を吐いて筆を持ち直すと、背中に視線を感じた。
振り返ると、が土方を見つめていた。
「何だ?」
「あ、いえ、その、今日はもうお出かけにならないのかと思っていたので…」
もう日も暮れて外は暗い。この時分に土方が部屋にいてその後に外出することは今まで殆どなかった。なのでは土方が出かけると聞いて驚いた。
しかも行き先は祗園、つまり遊びに出かけるときた。監察や巡察の隊が懸命な探索を行なっているというのに。
土方はさらさらと筆を走らせると書き物を終え、体裁を整えてに渡した。
「こいつを明日黒谷へ届けてくれ。じゃあ出かけてくる」
「はい…いってらっしゃいませ」
は書状を受け取ると畳に手をついて頭を下げた。
の口数が多くないのはいつもだが、今日は何か雰囲気が違う。
そう思った土方は、頭を上げたの傍に膝をついた。
「どうかしたのか?」
「別に」
「黒谷で何かあったか?」
「いいえ」
黒谷ではが女だと知ったハーバーから、より厳しい英吉利語の特訓を受けてはいるが、理不尽な扱いは受けていない。
土方は否定の言葉を聞いたものの、が纏う空気の違和感を払拭できない。
の腕を取って引き寄せると、彼女の匂いを嗅いだ。
「土方さん?」
首元に鼻を近づけられ、は肩を竦めた。
「黒船野郎に何かされたってわけじゃなさそうだな」
先日、がハーバーに連れて行かれて抱き締められ、匂いを移されたのを土方は思い出した。あの時は何もなかったが、またにちょっかいを出して、彼女を困らせたのではないかと思ったのだ。
も土方が何を訝しんでいるのか理解した。ハーバーはあの日以来にとても気を使っており、近づくどころか無闇に触れないようにすらしている。他の英吉利語を学ぶ生徒たちにはよく出来たといって肩を叩く場面でも、には軽く頷く程度だ。
「ハーバーさんはそんな人じゃありませんよ」
は土方の肩をぐっと押し、体を離した。
「それに…別の人の香りがするのは、土方さんのほうじゃないですか」
「…あ?」
土方は、の言ったことが何を示しているのかわからず、眉を寄せた。
ははっとした。
無意識のうちに言葉が出てきてしまった。一体、自分は何を言っているのだろう。かあっと顔が熱くなった。
「土方さーん、お待たせ」
そこへ藤堂が羽織を身につけてやって来た。
「お、お二方、いってらっしゃいませ。私は山南先生のお食事の当番ですので失礼します」
早口で捲くし立てると、は足早に部屋を出て行った。
「のあんなとこ珍しくない? 何かあったの?」
開け放たれた障子を見遣り、藤堂が言った。
「いや、何もねえが…どうしたんだあいつ」
土方もぽかんとしたままが出て行った後を見た。
は山南の膳をもらいに台所へ入った。
誤魔化すように土方の部屋を飛び出してきたが、山南の食事を運ぶ役目があるのは本当だ。
すぐに台所を出ては、出かける土方たちと顔を合わせてしまうかもしれない。は盛り付けを直す振りをしながら、台所でしばらく土方たちが出て行くのを待った。
「山南先生、お食事です」
土方たちをやり過ごした後、は山南の部屋に入った。
「ああ、ありがとう」
山南は読んでいた本を膝の上に置いて微笑んだ。
山南の右腕の傷はだいぶ良くなってきている。傷口も塞がり、日常のことは一人で出来るようになってきた。もちろんまだ痛みはあるし、竹刀を振るなどもってのほかではある。それでも体を起こして本を読み、筆を握れるようになったのが有り難い、そして土方の許可が下りて仲間が尋ねてきてくれるのが楽しいと山南は語っていた。
さらに食事も神谷やが持ってくることを今まで通り頼んで、話し相手にするのを続けている。
「君も膳を持ってきて一緒にどうだい? 土方君が出かけて一人だろう?」
「え…」
何故ずっと部屋にいる山南がそのことを知っているのだろう、は目を丸くした。
「さっき平助が、土方君と出かけるからって声を掛けてくれたんだ。さあ、持っておいで」
「は、はい」
はもう一つ膳を取りに、再び台所へ行った。
大勢で食事をする賑やかな声が遠くの部屋から聞こえてくる。
と山南は黙々と夕餉を口に運んだ。
食事が終わると、茶を啜りながらは山南に土方の近況を報告した。
「そうか、桂を逃したか…それで土方君があんなに大声で怒鳴っていたんだね」
「はい」
「土方君にしてみれば当然だな。早く桂を捕まえたいだろうからね」
山南はごくりと茶を飲み込んだ。
長州が、藩主かその跡継ぎが上京して弁明をし、その後は京へ関わることは最低限として自国の力を蓄えようという「防長割拠論」を推し進めたい保守派と、京を武力で制圧することばかりを考えている過激派に分かれていることは章の冒頭で語ったとおりだが、その両方とも繋がりを持ち、世情を見ながら長州にとってもっともいい方へと操っているのが桂小五郎だというのが、多方面からの情報を分析して導き出された結果だ。ゆえに、桂を捕まえれば長州は舵取りを失い、朝廷・幕府の両方への手出しが出来なくなるだろう。
にもその話は理解できる。だからなおさら今夜の、いや、最近の土方の行動は理解しがたい。
それだけの急務がありながら、毎夜のように妓遊びとは。
土方とて男だ。激務の間に身も心も緩めたいこともあるだろう。
わかってはいるが、の中のどこかで何かがひっかかる。
「ぷっ」
山南が吹き出した。
「?」
は顔を上げて山南を見た。
「す、すまん。君があまりにも固まってるものだから…」
茶碗を置いて山南は腹を抱えて笑い出した。
急にが黙りこくったので、山南はを観察した。瞬きもせず、口元も動かさず、茶碗を持つ手も髪の毛一筋ほどの動きさえ見せずに、ただ一点を見つめていた。その様子があまりにもおかしくて、山南は我慢できずに笑いを漏らしてしまったのだ。
「…そうでしたか?」
本人は全くそんなつもりがない。それを聞いて、山南はますます前かがみになった。
「そんなにお笑いになると傷に障りますよね。失礼します」
は膳を重ねると立ち上がった。
「ああ、ごめんごめん。からかうつもりじゃなかったんだよ。君が忙しくなければもう少しいて話していってくれないか?」
山南は顔の前で手を合わせ、の背中に頼んだ。
「昼間に原田さんたちが来て、お話されていったのではないんですか?」
は今日の巡察の当番を思い出すと、昼に山南を訪ねて来たであろう人物を思い浮かべた。原田の十番隊は夜の巡察なので、非番の藤堂あたりと一緒に押しかけてやかましくしていったに違いない。原田はいい意味でも悪い意味でも、底抜けに明るいのだ。その原田にしゃべり倒されて疲れたりはしていないのだろうかと、は山南を慮った。
「だからだよ。左之助は話がとにかく一方的でね、それに妓の話とか食べ物の話ばかりだ。君とのように勉学や剣術の話をしたくても、すぐに話を曲げられてしまうんだよ」
山南は苦笑した。
はその光景を頭に浮かべてみた。ひたすらに原田が捲くし立て、山南がその合間に何かを言おうとすると再び原田が自分だけの話題を畳み掛ける。自分の話を引っ込め、山南は聞き役に徹して…。
同情をしたは小さくため息をつくと山南を振り返った。
「お膳、片付けてきてからでもいいですか?」
「ああ、頼むよ」
山南はにこりと笑った。
「…どうぞ、お好きな話題を」
膳を片付けて戻ってきたは山南の前に座った。
山南は遠慮なく様々な話題を振った。はそれに過不足なく受け答えをする。
その様子を見ながら山南は思った。
(一時期落ち着いていたが…また大きな迷いが出ているな…)
表面上はしっかりとしている。よくよく見なければ、の心に何かが芽生えていることに誰も気がつきはしないだろう。
「…ですか? 山南先生?」
は山南との会話で出たことを質問し、山南の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ、ごめん、もう一度言ってくれないかな」
内容を聞き逃し、山南は問い返す。
「はい」
は素直に質問を繰り返した。
草の根を分けるような活動が続けられる中、静かに時は動き出す。
にも、土方にも、新選組にも。そして敵方にも。
20090522