久遠の空 ドリーム小説 元治元年六月五日 7

元治元年六月五日

update:2009.05.01

元治元年六月五日 7 

 はハーバーに抱き上げられたまま、みなと屋に運ばれた。
 「おかえり、えりっく…、あらそれ山口はん? どないしたん? またお熱?」
 みなと屋の女将が出迎えたが、が土まみれになってハーバーに抱えられている様を見て声を上げた。
 「ダイジョブ、でも今夜、ワタシの部屋に泊めマス」
 ハーバーはにこやかに笑い、心配顔の女将に挨拶をして二階の自室へと上がっていった。

 部屋に入るとハーバーは出入り口の襖をきちんと閉め、布団を敷いてを横たわらせた。
 は蹴られてずきずきと疼く腹を抱え、布団の中で背を丸めた。
 ハーバーはいったん部屋を出て、水を張った桶と手拭いを持ってきた。そして上着を脱いで衣桁に掛けると手拭いを水に浸して絞り、 の顔を拭いた。
 冷たい布の感触が顔をまんべんなく伝い、喉元にも回ってくる。
 その冷たさは本来心地よいものであるはずだが、今のにはまったくそう感じることが出来なかった。

 ハーバーに、女だとばれてしまった。
 今はそのことだけがの胸の辺りに黒く広がっていた。


 手拭いを濯いだハーバーはの横に腰を下ろした。
 二人の間に、気まずく重たい沈黙が漂う。


 「…お腹、ダイジョブデスカ?」
 ハーバーが遠慮がちにを見つめて口を開いた。
 「はい…すみません…」
 も小さな声で答えた。

 「何故…オトコの振りしてるデスカ?」
 これ以上黙っていても仕方がないと思ったのか、ハーバーが核心を突く質問をしてきた。
 もう隠してはおけない。
 はごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと、慎重に、話さなくてはならない最小限のことだけを語った。
 山口は斉藤の従弟であり、それは真実であること、本物のは自分と入れ替わって別の場所にいること、 どうしても自分は土方の元にいなくてはならないこと、この事実を知っているのは土方と斉藤であること。
 「私が話せるのはこれだけです」
 時を越えてやって来たことだけは絶対に知られてはならない。はそれ以外についてを簡潔に話した。

 ハーバーはしばらく口を噤んでいた。
 「…そんなことでワタシが納得すると思いマスカ? 本物のと入れ替わればイイことぐらい、ワタシにもわかりマス」
 「はい」
 ハーバーの台詞は充分に予想できた。どこに“”がいるのかわかっているのならば、こんなことは止めて早く互いに入れ替われば 問題は解決するのだ。それをしないのは明らかに不自然である。
 「申し訳ありませんが、すべてをお話しすることは出来ません」
 「納得できまセンネ。それでワタシに全てを黙っていろと言うのデスカ?」
 「お願いします」
 は痛む腹を押さえてハーバーを見上げた。

 二人はまたしばし沈黙し、強い視線を交わし続けた。

 「…モシ、ワタシが黙っていなかったラ?」
 ハーバーがの顔の両脇に手をついて、真っ直ぐに見下ろした。
 「黙ってていただく様、お願いするしかありません」
 はハーバーの目を真っ直ぐに見上げる。

 「ワタシがアナタに代償を要求しても、デスカ?」
 ハーバーの左手がの頬に伸び、ほつれた髪をそっと除けた。
 「はい」
 この秘密を、何が何でも守り通さねばならない。その一心では強く頷いた。

 「デハ、言うこと聞いてもらいまショウ」
 ハーバーはの返事を聞くと、に覆い被さって耳元に唇を寄せた。

 は自分の着物の袖を強く握り締めた。

 そして心の中で、土方さん、と小さく呟いた。




 朝になり、土方の部屋にも眩しい朝日が差し込んできた。
 ゆうべが桂を目撃した情報を持って帰った土方は、すぐに監察を呼び寄せて桂の捜索を命じた。 監察の山崎と島田はがいた場所を中心に四方へと人を散らせ、細大漏らさず情報を拾ってくるように指示を出すと自らも街へと姿を消した。
 土方は近藤にも事態を報告して相談した。そして会津藩に報告の書状をしたため、近藤はそれを持って急ぎ黒谷へと馬を走らせた。

 土方は夜を徹して各所からの報告を待ったが、誰も戻ってこなかった。
 会津藩すらも動向を掴めていない桂を捕縛できれば、新選組への信頼を一気に手繰り寄せることが出来る。
 これは好機だ。確実にものにしておきたいと土方は唇を引き結んだ。

 そして、もまた戻ってきていなかった。
 ハーバーに連れ去られて、居場所はわかっているが、今自分が動くわけにはいかない。斉藤を迎えに向かわせようかとも思ったが、 斉藤も隠密の仕事があるのか、部屋にいなかった。
 沖田が朝餉を運んできてくれたが食べる気にもなれず、時間だけがのろのろと過ぎる。

 一晩中戻ってこないで、一体何をしているのか。自分のことは自分ですると、つまり自分でカタをつけるからと言ったを信じてはいるものの、 女だとバレて、内緒にしていてやるからと最悪な事態に持ち込まれたら抵抗するような女ではないこともわかっている。
 土方はただひたすらに、情報との帰宅を待ち続けた。


 朝の巡察の当番が出かけていってしばらくした頃、やっとが前川邸に戻ってきた。
 「…ただいま、戻りました…」
 障子の開く音に振り向いた土方は、遅いとに文句を言おうと口を開きかけたが、彼女の姿を見て思いとどまった。
 目の下にはくまを作り、すっかり憔悴しきっていた。元結からは短い髪がこぼれている。
 「遅くなって、すみません」
 はよろよろとした足取りで土方の隣に座り、小さく頭を下げた。
 そして、そのままぱたりと前に倒れた。

 土方はその身をさっと抱きとめた。
 しっかりしろ、と声を掛けようと息を吸い込んだ瞬間。

 彼女の体から、いつものものではない香りが立ち上った。

 早春の梅のような、仄かで爽やかな香りではなく、もっと別な何かの匂いが色濃く彼女に纏わりついている。
 あの黒船野郎の匂いか、と土方は歯噛みした。

 「何があった?」
 苛立つ心を押し留めて土方は聞いた。
 「何も…何もありませんでした」
 は自力で座り直そうとして、土方の腕を掴んだ。
 「じゃあ何だこの匂いは。あいつの匂いじゃねえのか」
 「え…」
 かあっとは顔を赤らめた。

 その様子に、土方は眉をぴくりと引き上げた。
 「何があったのか、洗いざらい吐け」
 そしてぐっとの顎を持ち上げた。
 「っ、ほんとに…ただ喋ってただけで…」
 真上を向かされ、は苦しげに答えた。
 土方はの首の周りに素早く目を光らせ、その肌に傷や吸い跡がないことを確認した。

 「何を話していた?」
 顎から手を離し、土方はの肩を掴んで座り直させた。
 「ケホ、ハーバー、さんが、なぜ私が男の振りをしているのかを聞いてきて…」
 は喉を押さえて息を整えながら話し始めた。




 ハーバーがに覆い被さり、耳元に唇を寄せて言ったのは。
 「アナタが武芸、まったく上達しない理由、わかりマシタ。本当ならココで、ワタシを脅してでも懲らしめてでも、シークレット、守らなければなりまセン」
 「…?」
 もっと別の、例えば“女性に対する実力行使”に出られることもあり得ると思っていたは、ハーバーの肩口で目を瞬かせた。
 「でもアナタ、ソレ出来ない。優しすぎル」
 ひそりと小声でハーバーは言葉を継いだ。

 「アナタの武器は、イングリッシュ。それをこれからも大いに磨きなサイ。誰にも追いつかれないぐらい、磨きなサイ」
 小さいけれどもしっかりとした口調で、ハーバーはに告げた。
 「ワタシも出来る限り手伝いマス。そしていつか、オトコだろうとオナゴだろうと関係ないぐらいになりなサイ」
 「…ハーバーさん…」
 「今はナイショでオトコの振りしなくてはならナイ。デモ、オナゴだとわかっても、イングリッシュきちんと出来ることで、きっと助かル」
 だから頑張って英吉利語を身につけろとハーバーは言い、をそっと抱き締めた。
 「…こんなに、細い体デ…アナタ、今まで…」
 オトコの振りをしてきたのかと、ハーバーは声を震わせた。

 は天井を見上げながらぼんやりと考えていた。
 男の振りをしなければならないのは、すでに自分の運命として受け入れている。そこに英吉利語を学ぶことを付加したことも。
 何も同情される謂れが無いし、して欲しくも無い。
 だが、ハーバーの気持ちは素直に嬉しいと思うし、自分が女子であることを黙っていてくれることにはほっとしたし、感謝した。


 「そろそろどいてもらってもいいですか? お腹の様子、見たいんですけど」
 気が抜けたら急にまた腹が痛くなってきたので、はハーバーにどいてくれるように頼んだ。
 「Oh, sorry.」
 ハーバーはすぐに体を起こしての上からどいた。
 「そもそも、二人きりなのにどうしてこんな風にこっそりお話しなければならなかったんです?」
 も布団に手を置いて身を起こして座った。
 ハーバーは人差し指を唇に当てて、静かに入り口の襖にいざり寄った。

 すっと襖を開くと、女将がいた。
 「オカミサン、何かご用?」
 ハーバーはにっこりと笑って言った。
 「あ、え、えりっく、これお茶。山口はんの様子が気になって…堪忍え」
 女将は茶が二つ載った盆を差し出すと謝った。
 「すみません、もう大丈夫ですのでどうぞお構いなく」
 女将にまで要らぬ心配をかけてしまったと思い、はハーバーの向こうから女将に詫びた。
 「何かあったら言うてな」
 そう言い残して、女将は階段を降りて店に戻った。
 「オカミサン、とてもイイ人。ワタシのこと、いつも心配してくれる。アナタのことも、きっとそう。タダ、ちょっと心配しすぎネ」
 ハーバーは首をすくめて苦笑いを浮かべた。
 それで襖の向こうで立ち聞きしていたのかとは納得した。
 そしてハーバーが外に聞こえないように、話を耳打ちしてくれたことも理解した。

 ハーバーが部屋の外に出ると、は蹴られた腹を確認してみた。幸いなことに、少し青くなっているだけで血も出ていなかった。 手足も見てみたが小さな擦り傷だけで済んでいた。
 あの時は夢中だったが、今となっては刀を持った者相手によく立ち向かっていったと思うと背筋が凍りつく。 下手をしたら斬られて死んでいたかもしれない。今後はよくよく注意せねばと思いながら、は着物を整えた。

 は確認を終えるとハーバーを部屋へと入れた。
 ぴたりと襖を閉めると、二人は向かい合わせで座った。
 がふと顔を上げてハーバーを見ると、いつものにこやかな微笑は真剣な表情に変わっていた。
 「いいデスカ、これからワタシが言うことを聞いてくだサイ」
 「はい」
 も背筋を伸ばし、ハーバーの言葉に耳を傾けた。

 ハーバーは、今までもそうだったが、これからもより一層英吉利語の勉学に力を注ぐこと、そのための努力は絶対に惜しまないことをに約束させた。
 読み書きだけでなく話すこと、つまり通詞としての力をつけることも要求してきた。そのために、この前はがためらった、たくさんの人と 日本語で会話し、人前で話すことに慣れておくこと、話題を豊富にしておくことも課した。
 「アナタ、この前のイングリッシュでの自己紹介、アレは何だったのデスカ。内容がオソマツにも程がありマス」
 とハーバーはため息をついた。

 そこからハーバーは段々と脱線してきて、とうとうに説教をかまし始めた。男の振りをしていることや、黒谷の師範や公用方の野村からも呆れられるほど 剣術がうまくならないこと、馬にも一人でなかなか乗れるようにならないことなど、正座をしたまま延々と言葉を降らせ続けた。
 で、痺れていく足を気にしながら、
 (酔っ払いでもないのにこの様子…もしお酒が入ったらハーバーさん、どうなっちゃうんだろう…)
 と余計なことを考えていた。

 「…、聞いてマスカ?」
 ハーバーが鋭い目でを見た。
 「は、はい、すみません」
 ははっとして居住まいを正した。
 「それと、必ず銃、持っててくださいネ」
 ハーバーは自分の腹の辺りをぱんぱんと叩きながら言った。
 「えっ」
 「人を刀で斬れないなら、銃で脅す、これで身を守るしかナイ。今後、クロダニさんでの剣術の稽古、出なくてイイ。 その時間は、ワタシと銃の訓練シマス」
 「え…」
 「打ち方、弾の込め方、ちゃんと教えマス」
 気合を入れて話すハーバーの前で、はためらいの表情を浮かべた。
 身は守らなければならないが、物騒な物は扱いたくない。もし誰かに弾がうっかり当たってしまったらと思うと怖かった。

 「嫌そうデスネ…」
 ハーバーは白い目でを見た。
 はしまったと思い、下を向いた。
 「だいたい、そんなことでよくもココまで無事でいたものデス。アナタはオナゴの身でありながら危険なところにいるという自覚が足りナイ」
 そこからまた長い説教が始まり、朝までそれは続いた。
 まだまだ話を続けそうなハーバーを何とか止め、はやっと屯所に戻ってきたのであった。



 「…ということなんですけど」
 の話が終わり、土方は腕を組んでじろりと彼女を見た。
 「本当だろうな」
 「本当です、土方さんには嘘とか通用しないことぐらい、もうわかってます」
 今までも、土方に話さなくてよさそうなことは話さなかったことも、話の中でぼかしたつもりだったことも、すべて彼に見抜かれている。 その度に怒られ、白状させられるのを繰り返しているのだから、最初から何もかも話さねばならないとはわかっていた。

 確かにには、嘘をついたり何かを隠しているような雰囲気は見受けられない。
 土方は本当は、女子だとバレていて一晩中二人きりでいたのに何も無いなど怪しい、黙っているのと引き換えにヤられたんじゃないかと重ねて質したかったが、 その必要はなさそうだった。

 土方は頭の中で今の話を反芻した。気になる点がひとつあった。
 「話に出てきた“銃”ってなあ何だ」
 「あ」
 は土方の質問を受けて納戸の戸を開け、自分の行李から銃を取り出した。
 「これです」
 包んだ紙を広げ、は銃を土方の前に差し出した。
 土方は驚きの目で銃とを交互に見た。
 「こんなものを隠してたのか」
 「すみません、すっかり忘れてました」
 土方に話そうとは思っていた。が、話す機会を失い、元々そんなものを持っていたくなかったは、銃のことはそのまま記憶の彼方に置き忘れていたのだ。
 「馬鹿野郎、こんな危ねえモン、忘れる奴があるか!」
 あり得ねえだろ、と土方は雷を落とした。
 「す、すみませんっ、本当に…」
 は首をすくめて、身を小さくした。

 (ったく…どこまでもしょうがねえ奴だな…)
 重たく長いため息を吐き終わると、土方は怒りを解いた。
 剣術がからっきしな以上、銃で身を守るのはいい考えかもしれない、その点ではハーバーに同意できるとも思った。
 土方が空気を和らげたのを感じ、もまた肩の力を抜いた。すると途端に睡魔が襲ってきた。
 「土方さん…すみません、ちょっと寝ててもいいですか?」
 「ああ。あちこちから報告が来るかもしれねえから煩えかもしれんが」
 土方は立ち上がっての布団を用意した。
 「あ、いいですよ、自分でします」
 は慌てて立ち上がり、土方が持つ布団に手を置いた。
 「いいから」
 彼女を押しのけて土方は布団を敷いた。
 「寝る前に、ゆうべお前が落とした荷物と小刀、俺が持ってきたから何とかしておけ」
 土方は自分の文机の脇に置いた風呂敷包みを差し出した。
 「あ、ありがとうございます…」
 は荷物を片付けると、部屋の隅に敷かれた布団に横たわった。

 「悪いが、監察の誰かが来たら一度起きてもらうぞ。桂の顔を見ただろ? 似顔絵を作りたい」
 土方はに背を向けた。
 「はい、お手数ですが起こしてください」
 お願いしますと呟くと、はすぐに眠りに落ちた。


 深く眠ったを横目で見ながら、土方は再び知らせを待った。
 近藤がまず戻ってきて、会津藩も捜索の手を広げるが、新選組もさらに巡察を強化するように仰せつかってきたと報告した。
 二人はしばし話し合い、旅籠の改めや聞き込みを今まで以上に綿密にさせるように組長に通達した。

 午後になってから島田が帰ってきた。
 捜索状況はあまり思わしくなく、が桂と遭遇した近辺であの時間に同じ人物を見たとの情報しか取れなかった。
 土方は告げておいた通りにを起こして、桂の容貌を伝えさせ、似顔絵を作成した。
 筆を執ったのは、同じく監察の中島登であった。中島は絵がうまく、が言った桂の印象をそのまま紙に写し取った。 似顔絵は中島の手によって複製され、全隊士に配られた。


 会津藩、新選組、似顔絵。
 土方は桂を追い詰める手ごたえを感じていた。
 桂に関する情報が会津藩から続々と届き、土方はその全てに目を通した。
 (…逃げの、小五郎…?)
 土方は妙な別名がついているものだと思った。この前の前からきれいに姿を消したことを思えば当たっていなくも無い。


 しかし、この名が伊達でないことを、新選組全員が間もなく思い知ることになる。





 20090430