久遠の空 ドリーム小説 元治元年六月五日 6

元治元年六月五日

update:2009.04.24

元治元年六月五日 6 

 翌日、は土方がゆうべしたためた書状を持って黒谷へ行った。
 そして英吉利語の授業の前にその書状を公用方筆頭の野村に手渡した。
 「桂小五郎が京に…相わかった。会津でも奴を追うが、新選組でも探索の手を緩めぬよう伝えておけ」
 「承知いたしました」
 「長州めが…まだ懲りぬか」
 書状から視線を上げ、野村は苦い表情になった。
 「八月の政変で追い落とされ、京への無用な出入りを禁じているにも係らずこの有様とは…」
 野村はそう呟くとやれやれと肩の力を抜き、に退出を許可した。
 は一礼すると建物を出て、英吉利語の宿坊へと向かった。
 何気なく辺りを見回すと、遠くに見える桜の枝が霞んで見えた。いつの間にか枝に蕾がつき、ひとつふたつと花がほころび始めていた。
 (早いなあ…もうそんな時期なんだ…)
 薄闇の中に微かな光を放つそれを眺めながら、は小さく息を吐いた。ついこの前正月が終わったばかりだと思っていたのに、もう春の訪れを告げる 花が咲き始めていた。


 京都守護職を拝命していた松平容保は、幕府が長州征伐を行うための頭として軍事総裁職に任命された。
 そして新しい京都守護職には松平越前守春嶽が就任した。
 正式なそれを聞いた近藤は、新選組を引き続き松平容保の足下で働けるよう上申した。
 提案はあっさりと受け入れられ、近藤は深く安堵した。
 それは容保が新選組を高く評価していた部分があるのは言うまでも無い。が、同時に、この頃はまだ芹沢がいた際の“壬生浪”の印象が世間に広く 蔓延していた。なので、それまで容保が抑えていた新選組は、やはり容保の下にあったほうがおとなしくしているだろうとの見方も含まれていたようだ。



 何日か経った夕刻、英吉利語の授業が終わり、は宿坊の前でハーバーを待っていた。
 今日はハーバーにもにも居残りの用事がないので、帰り道を共にすることにした。

 雲ひとつ無い空が青から橙に色相を変えていく。
 その様子を見上げながらは考えを巡らせていた。

 こちらに来てから一年と少しが経過し、生活や仕事にも慣れてきた。池が光るのは五年後、もうすでに一年が過ぎたので四年後の可能性が高いと知り、 眺めていてもまったく変化の無い日々が続くにつれ、時折池の観察をおろそかにしてしまうことがある。
 はそれではいけない、元の時代に帰らなければならないのだからと、自分に何度も言い聞かせていた。 ハーバーを待っている今も自分に、いざ池が光ったとなれば飛び込まなければならないのだと語りかける。

 その度に思い浮かべるのは、土方の顔。
 命の恩人とも言える彼に何も返すものが無く、ずるずるとここまできてしまった。
 このまま土方に、そして同じく世話を焼いてくれている斉藤にも、恩に報いることなく帰るのだろうか。
 何か役に立てることはないかと、はいつも考えている。

 「、オマタセ」
 戸締りを終えたハーバーが提灯をぶら下げて門から出てきた。
 「デハ、帰りまショウ」
 「はい」
 ハーバーから提灯を受け取ると、はハーバーと並んで歩き出した。


 桜の花が、黒谷の三門の前でたわわに咲き誇る。
 「いつ見ても桜は美しいデス…」
 ハーバーは足を止めると枝に手を伸ばし、愛しそうに花を眺めた。
 もハーバーの隣で少し背伸びをして、春を象徴する花を観察した。薄い花びらが房のようにまとまり、幾つも身を寄せ合っている。 そのまとまりが枝になり、木になって、薄紅色の春を作り上げるのだ。
 「おっと、あまり遅くなると、オカミサン、心配スル。そろそろ行きまショウ」
 ハーバーは自分が寄宿している書葎(本屋)の女将の顔を思い出し、枝から手を離した。
 も花から視線を外し、三門を背にして歩を進めた。


 もう春とは言え、まだ日が落ちるのは早い。夕日が傾きかけたと思うとすぐに辺りは闇に染まる。 とハーバーが書葎みなと屋に近づいてきた時も、夕焼けの名残が僅かに西の空にある程度だった。

 みなと屋への道は四条通から入ればわかりやすいのだが、人通りが多すぎるところを歩くと外国人であるハーバーは驚かれてしまう。 会津藩の提灯を下げている武士が同行しているのだから、会津藩のお雇いであることは明白だ。しかし王城の地に夷荻がいるのを快く 思わない者がほとんどである。
 ハーバーの姿を見て、夷荻だと眉を顰めたりじろじろと見たりして避けてくれるのならばまだいい。 もしも夷荻は排除せねばならぬと襲い掛かられたらと思うと、は内心気が気でない。
 幸い今までそのようなことはなかったが、はハーバーを送り届ける時に人とすれ違う時はいつも緊張していた。


 「
 とハーバーに声を掛けられて、はふと意識を戻した。
 前から複数の男の声が近づいてきていた。そのうちの一人が明らかに酔った様子で大声を上げていた。
 はハーバーの金髪が見えにくいように提灯を足元まで下げた。
 提灯には、会津藩の紋である会津三つ葉葵が中の光を受けて黒く浮かび上がる。

 前からやって来る男たちのうち、酔った一人がふらふらと道の端から端まで挙動を乱している。
 とハーバーは道の端で足を止め、男たちが通り過ぎるのを待った。

 「おい、しっかりしないか」
 ひどく酔っ払った男を、別の男が脇から支えようと手を伸ばした。
 「俺はあ、酔ってなんかあ、おらん!」
 その手を払いのけて、酔った男がすっくと立った。しかし体はゆらゆらと揺らぎ、すぐ地面に尻餅をついた。
 「ほら掴まれよ、仕方が無いなあ」
 別の男がもう一度手を差し伸べ、酔った男を引っ張り上げて立たせた。
 「お前、よくそんなに冷静でいられるな。今の京の状況を見ろ! 俺たちの肩身の狭いことったらねえ」
 酒の匂いを撒き散らしながら、酔った男はくだを撒きはじめた。
 「よさないか、こんな往来で大声を出して」
 さらに別の男が低い声で酔った男を諭す。
 暗いし相手を観察しているわけではないので確認できないが、声からすると男たちは三人組のようだとは思った。

 「我々だって日本国のために必死になっているというのに、どうして天子様はおわかりくださらないのか!」
 酔った男は一際大きな声でわめき散らした。
 「今はただその時でないだけだ。いずれ我々の時代が来る。それまで辛抱するんだ」
 低い声の男が酔った男の肩に手を置いて言う。
 酔った男はううっと嗚咽を漏らすと、何度も頷きながらよろよろと歩を進めた。

 両側から酔った男を支え、三人組がとハーバーの横を通り過ぎた。
 は無事に男たちが向こうへ行ったことにほっとした。



 が。



 「しかし桂先生!」
 「おい! その名は…」
 「い、いや、すみません、林先生」



 その一言に、は体の動きを止めた。



 島田が土方に報告した桂という苗字。

 その桂が林竹次郎と名を偽って使って京に潜伏している。

 新選組も会津藩も彼の動向を執拗に追っている。



 心臓が脳にまでその鼓動を伝える。
 どくりどくりと煩い頭を、はゆっくりと後ろへ向けた。



 相手もこちらを振り向いていた。
 互いの提灯と、建物から微かに漏れる明かりの中で、三対の目と一対の目が合った。


 「貴様、何故こちらを見ている」
 酔った男が目を眇めて言った。
 その目には背筋が凍りつくような殺気が宿っている。

 しまった、とは身を震わせた。
 何事も無いようにそそくさとその場を離れればいいのに足が動かず、声も出せない。
 そしてそれがなによりの証明となってしまった。


 彼女が三人のうちの一人の正体に、気づいてしまったことに。


 「…会津藩か?!」
 の持つ提灯を見て、酔った男が刀に手を掛けた。
 「先生、お逃げ下さい。ここは私が!」
 ちん、と小さな音がして鯉口が切られ、冷たい光を放つ刀身が男の腰から引き抜かれた。
 それを見たはびくりと肩を揺らして後じさった。

 「待て、無用な殺生をするもんじゃない。聞かれていないかもしれないのに」
 低い声の男―――桂小五郎は、酔った男の肩を掴んだ。
 「いいえ、あの様子は聞かれているに違いありません。それにもう刀は抜いてしまいました。後戻りは出来ません」
 すっと刀を構えると、酔っていたはずの男はぴたりとに狙いを定めた。
 「先生、こうなったら彼を止めることは出来ません。さあ、こちらへ」
 別の男が桂を促した。
 桂は酔った男の背中に視線を注いだが、くるりと後ろを向いて走り出した。

 桂が逃げてしまう。は思わず足を一歩踏み出した。
 が、酔った男に行く手を阻まれた。
 「後ろにいるのは…夷荻か? ちょうどいい、共に成敗してくれる!」
 の後ろに立つハーバーに気づくと、男は刀の柄を強く握り直した。


 気持ちの悪い汗が背を伝う。
 は後ろにハーバーをかばいながら、どうするか思案した。
 と言っても逃げるしかない。自分には戦う術がないからだ。
 あと幾つか先の角を曲がればみなと屋に着く。何とかならないものだろうか。

 「
 後ろからハーバーが小声で話しかけてきた。
 「ちょうどイイデス。出しなサイ」
 「え?」
 は何のことかわからずに問い返した。
 「この前あげた銃、持っているように言いましたネ。出して撃ちなサイ」
 ハーバーは相手を見据えながらに言った。

 「…出来ません」
 もまた、相手の男から視線を外さずに答えた。
 ハーバーから貰った銃は己の行李にしまったままで、持ち歩くなどしていなかった。
 「What?」
 ハーバーが眉を寄せた。
 「何を言っているのデスカ? 早く出すのデス!」
 相手はいつ襲ってくるかわからない。その前に発砲して威嚇し、その隙に逃げようというのがハーバーの考えだった。
 ハーバーはが銃を持っていないのを知らない。
 銃を取ろうと、ハーバーはの懐へと手を入れた。

 「ハーバーさんっ」
 急に体に触れられ、は手に持っていた風呂敷を取り落とした。中身がばらりと地面に散らばった。

 「…! 、アナタ」
 ハーバーの手に、男にはないはずの柔らかい感触が伝わった。
 (まずい、何で今このタイミングでこんな…!)
 は素早くハーバーの手を懐から抜き取り、着物の合わせ目を押さえた。


 ざっと地面を蹴る音がして、男が踏み込んできた。
 勘だけで振り返ると、の目の前に銀色の刃が襲い掛かってきていた。

 は小刀を腰から引き抜き、反射的に両手で目の前にかざした。
 相手の刃ががつりとぶつかり、振動がの腕に伝わった。
 しびれるような感覚に力が抜けそうになったが、は必死に腕に力を込め、凶刃を防いだ。

 相手はひどく酔っていたので思うように力が入らないらしく、なかなかの刀を打ち払うことが出来ない。
 「ええい!」
 忌々しそうに叫び、相手はの腹を力一杯蹴飛ばした。

 「ぐっ!」
 は後ろに倒れた。
 手から小刀が落ち、地面に転がった。

 男はにやりと笑いながらに歩み寄り、刀の切っ先を向けた。
 は腹を押さえてうずくまる。
 痛みで呼吸がうまくできない。

 に男が切りかかろうと刀を振り上げた瞬間、ハーバーが動いた。地面の砂を掴んで、男に投げつけた。
 男は目を押さえて呻き、よろよろと足元を乱した。

 「!」
 ハーバーはの着物を掴み、自分の傍へと引き寄せた。そして動けずにいるの膝裏と背中に手を回して抱き上げた。
 男はやっと目を開け、視界にハーバーの金髪を認めた。
 もう構えも型もあるものかとばかりに、男は刀を振り回しながらハーバーに迫った。
 ハーバーはを強く抱き締め、駆け出そうとした。



 その時、路地から黒い影が飛び出してきた。
 黒い影は腰間から大刀を引き抜き、男の背に向けて斜めに振り下ろす。
 男は小さな悲鳴を上げ、地面にどさりと倒れ伏した。


 「ヒジカタ、サン」
 ハーバーは足を止めて、黒い影を見遣った。
 懐紙を取り出して刀についた血を拭っているのは土方だった。
 「何だかうるせえと思って来てみたら…」
 ぎらりと目を光らせて、土方はハーバーを睨みつけた。
 「それは俺のものだと言ったはずだ。何でこんなことになったのか、説明してもらおうじゃねえか」
 ハーバーの腕の中に納まっているをちらりと見て、土方はハーバーに言った。その体からは、触れたら切られてしまいそうな気が発せられていた。

 「土方さ、ん…」
 土方がいるのに気がつき、は薄っすらと目を開けた。
 「テメェも説明しろ。何故こんなことになってんだ」
 ハーバーに向けて発した気をそのままに、土方はを見下ろした。

 「か…つらが…」
 「あ?」
 「桂、小五郎が…林竹次郎が…今、そこ、に…」
 咳き込みながらは土方に報告した。
 「何だと? 本当か?」
 土方の顔色が変わる。
 「早く…追っ手を…」
 は苦しげに息を継いだ。
 「ああ」
 土方は頷いた。

 二人の会話が終わったのを見ると、ハーバーはを抱え直して歩き始めた。
 「待て、まだお前との話が終わっちゃいねえ。俺のものを危険にさらした顛末を聞かせろ」
 土方はハーバーの腕をむずと掴んだ。
 ハーバーは土方のほうを振り向いた。
 「、怪我してマス。手当てが必要デス。みなと屋、すぐそこ、ワタシが連れて行きマス」
 すらりと背の高い土方よりもさらに上からハーバーが答えた。
 「ふざけるな、そいつは俺が連れて行く。こっちへ寄越しやがれ」
 土方はハーバーの腕を掴む力をさらに強めた。

 「ワタシはこの“オナゴ”に話がありマス」
 ハーバーが、温度の無い声で呟いた。
 「な…!」
 土方は目を見張った。

 バレた。
 この黒船野郎に。


 土方が茫然としていると、後ろから足音が聞こえてきた。
 「トシさん、どうしたんでい。急に駆け出してよ」
 伊庭八郎が姿を現した。
 「っと、物騒なことになってんなあ」
 足元に転がる死体に気がつくと、伊庭はくるりと後ろを向いた。
 「土方はん、伊庭はん、どないしたん?」
 軽い足音を立て、綺麗に着飾った妓たちが近づいてきた。
 「おっと、アンタたちはこっち来ちゃあ駄目だぜ」
 伊庭は死体が妓たちの目に触れぬように、彼女らをあちらへ向かせた。

 「トシさん、二人は俺が引き受けとくよ。アンタはそっちの用があんだろ」
 つつっと伊庭は土方に寄り、耳元でこそりと言った。
 「あ、ああ」
 土方は無意識に握った拳を緩め、伊庭に短く返事をした。
 伊庭は土方の胸元をとんと軽く叩くと、妓たちを連れて消えていった。


 「そいつをこっちへ寄越せ」
 伊庭がいなくなると、土方はハーバーに向かって両手を出した。
 「No.」
 ハーバーは頭を振って拒絶した。
 「テメェ…」
 土方は再び怒りを空気に乗せた。

 「アナタ、知っていて、をオトコに仕立てていたのデスカ」
 女だと知っていて。
 ハーバーの目が深く青く光る。
 その通りで何も言い返せずに、土方は唇を噛んだ。
 「から話、聞きマス。今夜は預かりマス」
 「待て」
 みなと屋へ向かおうとするハーバーを、土方は引き止めた。

 ハーバーに近寄った土方の羽織の前を、がついと引いた。
 「土方さん…私のことは…いいから…桂を」
 は途切れ途切れに息をつき、土方に話しかけた。
 「もちろんそうする。が、お前を連れて帰る」
 「私のことは…自分でします。早く、しないと…桂が…」
 ごほ、とはむせて目を閉じた。

 ハーバーは何も言わずに踵を返すと、みなと屋へと歩いていった。
 土方もそれ以上ハーバーを制止せずに、去り行く背を見送った。
 いや、見送っていたのはハーバーではなくだ。
 どのような経緯でハーバーにばれたのかは知らないが、自分でハーバーに話をするという彼女を信じることにした。


 土方は路上に散らばったの荷物と小刀を拾うと風呂敷に包んだ。
 そして前川邸へと足早に向かって行った。







 20090424