元治元年六月五日 5
は近藤に掴まれた肩の痛みを我慢しながら問い返した。
「肥後守様が、京都守護職をお辞めになると、いうことですか? それをどこで…」
「今、斉藤君が屯所に戻ってきて教えてくれたんだ。君はまだ聞いていないのか?」
近藤は、口調こそしっかりしているが目の色を変えている。
はこくりと頷いた。
「そうか、じゃあ君も一緒に来なさい。話を伺おう」
そう言うと近藤はの腕を掴み、足早に石の階段を上っていった。はなす術もなくずるずると近藤に引き摺られていった。
二人は大方丈に隣接する清和殿に案内され、たっぷり待たされた。
すでに日は落ちて外は暗く、室内も静かな闇に包まれている。
寺の小者に頼んで点けてもらった燭台の灯りだけが頼りなく揺らめく中、
近藤ももじっと座っていた。
じりじりと、蝋燭の芯が燃える。
「待たせてすまんな」
半刻ほど経った頃、公用方筆頭の野村が部屋に入ってきた。
「野村様、お忙しいところ恐縮です」
近藤とは平伏した。
「容保様が守護職を退かれるというのは本当なのですか?」
早速近藤が野村に質問した。
「本当だ」
野村は短く息を吐くと首の辺りに手をやった。
「どういう経緯なのか、伺ってもよろしいですか?」
近藤は平伏したまま野村に請うた。
「…参予が、決裂したのだ」
「……な…何と…」
大藩の藩主らが任命され、朝廷との会議にて政局を動かすはずの参予が。
思わず頭を上げた近藤は、続く言葉を失った。
「そなたにはこの前、どこまで話したかな…ああ、そうだ…」
野村は米神に手を当てて前回までの話を思い出すと、その続きを語り始めた。
前回、野村が近藤に語ったのは、朝廷が攘夷を促すために将軍を上洛させたのにも拘らず攘夷の色を薄めてきて、将軍上洛までは
横浜開港に賛同していた一橋慶喜が、上洛した途端に鎖港に論を転じ、その一貫性のなさを老中たちに非難されたところまでであった。
その後、二月十四日には、将軍後見・一橋慶喜、薩摩藩主・島津久光、越前藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩隠居・山内容堂、
そして会津藩主・松平容保ら参予が、二条城にて老中との会議を行った。
会議は攘夷を巡って紛糾した。
朝廷側は、攘夷の強要を沿岸防備と外夷排斥の尽力へとすり替える。
一橋慶喜は、開港から鎖港へ転じて動かない。
幕府は、開港と鎖港に意見が分かれ、老中が将軍後見を非難する。
これではまとまるものもまとまるわけがない。
さらにこの会議上では、公卿たちからも問題が提起された。
“現在の日本国の軍備で攘夷を行えば、その貧弱さにかえって諸外国から軽蔑されるだろう。大坂湾の防備を固め、諸藩は港を守り、
軍艦を整え、外夷を廃せよ”と書かれた天皇から将軍への勅書の返答についてである。
将軍が朝廷へ差し出した返答にはこう書かれていた。
“横浜鎖港については、年末に外国奉行を頭とした使節団を西欧へ派遣したのだから、成功すると思われます”
これを読んだ公卿たちは、横浜鎖港を使節団に丸投げしたのと同じではないかとざわめいた。
朝廷、公卿、幕府、参予。
それぞれがそれぞれの立場や思いを抱え、朝議は何ひとつ進展を見せずに終わった。
翌日二月十五日には、参予の他に、八月十八日の政変で奔走した中川宮改め朝彦親王、山階宮晃親王、関白二条斉敬、右大臣徳大事公純、近衛忠房を
加えた朝議が行われた。
その席でも意見は細分化した。
朝廷は、幕府の攘夷や鎖港に対する態度の曖昧さを指摘し、それに対して一橋慶喜は重ねて鎖港断行を叫んだ。
が、薩英戦争で外敵の強さを知っている薩摩の島津や、洋式化を進めている宇和島の伊達は、鎖港後の外国との衝突を懸念した。
長く続いた鎖港論争はここで一気に爆発し、互いが意見を譲らずに大激論となった。
そしてとうとう野村が言ったことが、その翌日の二月十六日に起こった。
二条城で、参予が集まって一席設けた。おそらく事態の沈静化が目的であったと思われる。
が、島津久光の口からとんでもない事実が、酒の混じる息とともに吐き出されたのだ。
苛烈な攘夷の色を薄めた勅書の草案者と言われる薩摩の高橋猪太郎が今朝方、朝彦親王に呼ばれ、
「昨日の朝議はなかったことにしよう」
と言われたのだ、と。
朝彦親王が言われるには、朝廷側としては横浜の鎖港を断行するつもりはないので、将軍が横浜鎖港を使節団に投げたような文章に対する
文句はなかったことにしよう、と。
それを聞いた一橋慶喜が怒らないわけがない。
元々横浜鎖港は朝廷側が言い出したことである。
自分は横浜鎖港に反対だった。
そこを(どういう経緯かは外野からはわからないが)押し曲げて、朝廷のため、将軍のために鎖港を推し進めてきたというのに。
慶喜は杯を打ち捨てると、島津久光、松平春嶽、伊達宗城を伴って中川宮の元へと押しかけた。
朝彦親王も紛糾した朝議を鎮めたいと思って言った事なのであろうが、慶喜は親王をしつこく問い詰めた。
開港して莫大な利益を手中にしようとする薩摩らの奸計に騙されてはならない、幕府は何が何でも横浜鎖港を断行すると慶喜は親王を一喝した。
そして連れてきた島津ら三人を示すと、天下の愚物であると罵倒し、何故このような奴らを信用なさるのかと声を張り上げ、立ち去ってしまった。
徳川政権成立以来の外様大名としてある種蔑みの目で見ていた薩摩らと肩を並べて政局を論ずるなど、という思いも元から慶喜にはあった。
気に入らない者たちと決別するいい機会だとも思ったかもしれない。
こうして参予は崩壊した。
説明を終えた野村は、大きく息を吐いた。
「まったく…あの御方にも困ったものよ…。土佐の山内様も呆れて帰国の準備を進めているとの噂も聞くし…」
「それと容保公が守護職を降りられるのと、どうお話が…」
「近藤、一橋公は将軍後見を辞退されたのだ」
「…!」
近藤はぐっと拳を握り締めた。天下の大樹公を支えるべき後見がその立場を自ら放棄するとは、にわかには信じがたい。
その後ろでは聞いた話をひとつずつ頭の中で整理しようと、思考を巡らせていた。
「参予が決裂した今、次にやるべきことは長州征伐だ」
野村は眼光を鋭くして言った。
朝廷は八月十八日の政変以降、長州の京入りを禁じて、落ちていった七卿の出頭を命じていた。
しかし七卿を匿っている長州側からは何の返答もなく、朝廷の命を無視した形になっている。
命を無視する長州は、紛れもなく朝敵なのだ。
「幕府は一橋公を禁裏御守衛総督と摂海防御用係に任命し、わが殿を軍事総裁職に据えられたのだ」
「禁裏御守衛総督…」
事の重みを理解している近藤が押し黙る中、は小さな声で呟いた。
「京都御所をお守りすることだ、山口よ。摂海防御用係は大坂湾の警備だ」
野村がに目を向けた。
「そして軍事総裁職は全ての軍を束ねる頂点に立つ。この意味がわかるか? つまり、わが殿は長州征伐の先頭に立たねばならぬということなのだ」
「長州…征伐」
野村に問われ、は背筋が震えた。
またあの八月のような戦が起こるのだろうかと。
「まだ本決まりではないが、次の守護職には越前守様が就任されるそうだ」
「越前守様…松平春嶽様でございますか?」
野村が近藤の言葉に頷くと、近藤は、頭を垂れた。
「従って、京都の守りを固めるそなたら新選組は以後、越前守様の配下になるやもしれぬ」
「それは…!」
松平春嶽は徳川家康の次男結城信康から続く家柄で、政治総裁職を務めていた。始めは鎖国を強調していたが、開明派の大名たちとの交わりの中、
開国に思想を転じた。尊皇で佐幕攘夷まっしぐらの近藤には、その思想は受け入れられない。
それに、江戸から将軍警護のために上ってきて、その首謀者に裏切られたところを拾ってもらい、組織を形成するまでしてもらった松平容保への
恩義は計り知れない。松平容保の下でなければ働きたくない。
「どうか、どうか容保公の下で働けるよう、野村様からもお口添えをお願いします!」
近藤は畳に頭を擦り付けんばかりの勢いで再び平伏した。
その近藤に野村は歩み寄り、肩に手を掛けた。
「それはわしも同じ気持ちよ。だがな近藤、早まってはならぬぞ。先ほども申したが、まだ越前守様のお話は決定事項ではない。くれぐれも内密にな」
「…はっ」
近藤の肩は小さく震えていた。
「それほどまでにそちに思われるとは、わが殿もお喜びになるであろう」
野村は目元を和らげると、今度はへと顔を向けた。
「そなたも心配は無用だ。殿が軍事総裁職をお受けしても、この黒谷に会津が居を置くことには変わらぬ。心安らかにして英吉利語の習得に
励むがよい」
「はっ」
は近藤の後ろで同じく頭を下げた。
「ではわしはこれにて」
「「はっ」」
野村は立ち上がり、足早に部屋を出て行った。
近藤とは黒谷を辞し、屯所への道を辿っていった。
松平容保が京都守護職を退き、軍事総裁職に転じる。そして長州征伐へと赴く。京都守護職が変わるのは間違いない。
それでも、自分たちを拾ってくれた、恩義ある容保の下で働きたい。
近藤は手綱を強く握り締め、馬上で黙ったままだった。
は馬を引いて歩きながら、時々近藤を見上げた。強く引き結ばれた口元や、がっしりと構えた肩から強い意志がにじみ出ている。
容保に対する近藤の忠誠がいかに強いのかを、はひしひしと身で感じた。
屯所に戻り、は近藤と別れて土方の部屋へと入った。
またしても土方は留守だった。
日野蓮光寺の富沢か伊庭と出かけているのだろうと思いながら、は荷物をしまい、遅い夕餉を取りに台所へと向かった。
土方は、草木も眠ると言われる丑三つ時頃になって部屋へと戻ってきた。
障子の開く気配には目を覚ました。
「…お帰りなさい」
は障子を静かに閉める土方に、小声で話しかけた。
「悪い、起こしたか?」
土方も小さな声で返事をした。
「いえ…」
は挨拶だけしてまた目を閉じ、布団を口元まで引き上げようとした。
自分の傍を通り過ぎた土方から、ふわりといい香りが漂った。
その香りには目を開ける。
普段の土方からするものではない、焚いた香の匂い。
どこかで妓と一緒だったのだろうと思われる香りだった。
とくり。
の心が、小さく音を立てる。
(嫌だな、何だろう、またこの感じ…)
心の中をまた何かが浸食していくのを感じ、はぐっと布団を頭の上まで被った。
「どうした?」
土方がの動作に気づいて声を掛けた。
「何でもないです、おやすみなさい」
は布団の中から答えて固く目を閉じた。
どう見ても何もないようには見えない。
土方は羽織を衣桁に掛けると、の掛け布団に手を伸ばした。
「何かあったのか?」
は土方が布団に手を置いているのを感じ、身を縮めた。
土方はが黙りこくる様子がますます気になる。土方は布団を掴んで剥ぎ取った。
夜の空気が、すうっとの体を覆う。
「っ、土方さん」
「その様子で何もねえはねえだろ」
土方はの肩に手をかけた。
は仕方なく上を向く。
「すみません、何もないというのは違いますけど、些細なことです」
「本当か?」
「はい」
障子越しに入ってくる満月の光が、ぼんやりと二人を照らす。
は土方の目を真っ直ぐに見つめた。
土方はの視線を受け、見つめ返した。
彼女の瞳の奥には微かな揺らぎが見えるものの、嘘をついている影は見えない。
その揺らぎの意味が何なのか、本当は確かめたい。
が、互いに大人だ、多少の見えない部分もあって然りだと土方は思う。
土方はの額に手を伸ばし、前髪をそっとよけた。
香の匂いがの周りにも漂う。
の心臓が、また小さな音を立てた。
かさり。
障子の向こうから音が聞こえた。
二人は同時にそちらを向いた。
「副長」
「島田か」
土方は身を起こすと障子の傍へ膝をついた。
「失礼します」
障子が開くと、島田が中に素早く滑り込んできた。
「副長、桂の潜伏先が判明いたしました」
正座をした島田が重々しい声で呟いた。
「何だと?」
土方の声が途端に低くなる。
「林竹次郎という偽名を使い、対馬藩の藩邸に潜伏していました」
「対馬藩邸だと? 長州藩邸のすぐ傍じゃねえか」
ちっと土方は舌打ちをした。長州藩邸は見張っていたが、まさかその近隣にある対馬藩邸にいたとは思いも寄らなかった。
「今更仕方ねえ。で、いま奴はどこに」
土方はふうと息を吐き出すと襟を正した。
「長州藩邸にも対馬藩邸にも見張りをつけておりますが、人の出入りはまったくありません。おそらく桂は別のところにいるかと」
「わかった。引き続き見張りを続けろ。奴が出入りしそうな場所もくまなく探せ」
「承知いたしました」
島田は深々と頭を下げると、入ってきたときと同じように、音もなくさっと出て行った。
土方は立ち上がると行灯に明かりを入れ、文机の脇に持っていった。そして道具箱を空け、書状をしたため始めた。ふと筆を止め、頬杖をついたり
頭に手をやったりしながら、随分と長く思案しながら書いていた。
はその背中を見つめながら、胸に手を当てた。
全く何なのだろう、言いようのないこの気持ちは。
いくら考えても答えが出ないので、は諦めることにした。
以前山南に言われたように、いつかこの気持ちが何なのかわかる日が来るまで放っておこう。今はそうすることしか出来ないのだから。
は思考を切り、眠りに入った。
土方は書状を書き終えると布団に潜り込んだ。
目の前で横たわるを見遣ると、こちらを向いたまま眠っていた。
いつもは意識を途切れさせるまで池が光らないか、障子の方を見ながら眠っているのに。
珍しいこともあるものだと思いながら、土方も目を閉じた。
20090416