元治元年六月五日 4
隊士が案内してきたのは、昨日が門のところで言葉を交わした男だった。
(天狗だ…)
は茶を出すと土方の隣に座り、目の前の男を見つめた。
昨日と同じように縞の袴を穿き、黒の紋付を羽織っている。髪も一糸の乱れなくきりりと高く結い上げ、口元は引き締まっていた。
男は背筋をぴんと伸ばすと重々しい口調で挨拶を述べた。
「お久しぶりにてござ候、石田の歳三殿。いや、今は新選組副長でござったな」
土方は腕を組んで黙って彼の口上を聞く。
「江戸ではお世話になり申したが、こうして遠く離れた京にて再び相目見えることが出来るとは恐悦至極」
そう言うと、男は手をつき深々と頭を下げた。
「…なんてな」
男はくくっと肩を震わせた。
土方もぷっと吹き出した。
「ははっトシさん、久しぶりだな! アンタも偉くなったもんだぜ! 副長さんだって?」
堪えきれないといった風で男が足を崩し、後ろに手をついた。
「お前はちっとも変わってねえな、八郎」
土方もくつくつと笑いながら目の前の男を見た。
「、こいつは伊庭八郎つって、江戸に道場を構える心形刀流の跡取り息子だ。小天狗だの麒麟児だの言われてるが、実際はこんなもんだ」
きょとんとして二人を見つめるに、土方は男を紹介した。
「こんなもんたぁひでえやトシさん。天狗改め、伊庭八郎と申す。以後お見知りおきを」
伊庭は土方にぼやいてからに軽く頭を下げた。
「俺の小姓で、山口だ」
「先日はご挨拶もせずに失礼いたしました」
土方の紹介に、も頭を下げた。
「へえ、小姓ねえ…トシさん、そんなの使うなんてアンタ本当に偉くなったんだな」
伊庭はをじろじろと眺めた。
は姿勢を正して座り直し、伊庭からさりげなく視線を逸らした。
「江戸はどうだ?」
土方が聞いた。
「ああ、アンタたちが行っちまってからさほど変わってねえよ。周斎先生はまだ伏せっちゃいるけどな」
伊庭は胡坐をかいて座ると茶を啜りながら話し始めた。
江戸の様子は土方たちが出発した頃とほぼ変わらず、皆がそれぞれの仕事をして普通に生活している。が、近藤の義父である周斎が病に倒れてしまった。
秋口に京の近藤の元へと書状が届き、京の様子はどうだろうか、もしよければ戻ってきて再び道場主になってほしいと家族が訴えてきた。
しかし、八月十八日の政変の直後で京の情勢は慌しく、京都の守護を預かる会津藩にとってはたとえ少人数でも戦力である新選組に抜けられるのは痛手であった。
なので、近藤の返事は公用方の秋月からの丁寧な断り状を添えて故郷に送られたのである。
「仕方がねえつって周斎先生、起きられる日は頑張って木刀振ってるらしいぜ」
「そうか」
土方は、白髪交じりの周斎が黒光りする木刀を懸命に振って弟子の指導に当たる姿を想像した。道場主であった近藤はもちろん、長く道場に仕えてきた井上や
若くして塾頭となっていた沖田までこちらに連れてきてしまい、すでに隠居していた周斎に迷惑をかけていることは自覚していた。しかし京に上って将軍や天皇の
手足となって戦い、攘夷を実行する、そして近藤を立派な武士にするとあらば、暗黙の協力が必要だった。
「まあ隠居して病気になってボケてくだけよりゃよっぽどマシかもしれねえけどな」
「お前もなかなか言うな」
「アンタを見習ってんだよ」
二人の間で交わされる軽妙な会話に、は目を丸くするばかりだった。
「周斎先生のお話なら近藤さんにも聞かせてやってくれよ。隣の部屋にいるぜ」
「お、そうかい。偉くなったから勇先生にはもう会えねえのかと思ってトシさんとこに来たんだが」
「馬鹿言ってんじゃねえ、近藤さんはそんなお人じゃねえさ」
「それもそうだな」
じゃあ、と言って土方と伊庭は立ち上がった。
「では土方さん、私はそろそろ」
も同時に立ち上がって、土方に外出を告げた。
「ああ」
「なんだアンタ、お出かけかい?」
伊庭はてっきりが自分たちと近藤の元へ行くのだと思っていたので、振り返って眉を寄せた。
「はい、黒谷に出仕せねばなりませんので」
茶も淹れたし挨拶もした。そろそろ黒谷に行かねばならない。
「ふうん…何してんだ?」
「英吉利語の習得を」
「へえ、俺も元は学問の身でね、蘭学もちょっぴり齧ってんだ。英吉利語ってことは英学かい。今度俺にも教えてくれよ」
「…はい」
「では伊庭様、ごゆっくり」
「おう、ありがとよ。またな」
は風呂敷包みを抱えると土方と伊庭に一礼し、廊下を式台に向かって歩いていった。
「…わけありかい? トシさんよ」
その後姿が廊下の角に消えると、伊庭は小声で土方に問うた。
「何故そう思う」
土方もが消えた角を見つめたまま言った。
「天狗の神通力で」
「…八郎」
「へいへい、じゃあちゃんとお答えしますよ。あんな弱そうな物腰で万が一のときにアンタを守れる腕っぷしだとは思えねえ。小姓なら常にアンタと行動を共にしてるはずなのに、
黒谷行きで英学たぁお安くねえ。つまり、アンタが身の回りに置いておく必要が感じられねえってこった」
伊庭は視線を土方に移した。
「そんな怖え顔するない。俺ァただ、気をつけろって言いたいだけさ」
「…」
「ちらっと俺が見ただけでもそう思うんだから、もっと聡い奴から見れば、わけありのワケがバレちまうかもしれねえぜ?」
伊庭は土方の肩に手を置き、耳元でそう囁いた。
「俺はまだ何も言ってねえぞ」
土方は何も無い風を装う。
「ああ、わかってらあ。別に俺ァいいんだぜ、そのワケとやらが何でもな。アイツの淹れた茶がうめえから傍に置いてるってだけでも」
「あ?」
伊庭は土方の表情を見て頷くと、肩から手を離した。
「あの茶、いい味してたぜ。アンタが好きな、故郷の沢庵に合いそうな感じの、いい味だ」
ニッと伊庭は口の端をあげて笑った。
「…無駄口たたいてねえで、近藤さんのとこ行くぞ」
土方は伊庭の背をぽんと叩くと廊下に出た。
伊庭は何事も無かったかのように軒先の向こうの空を見上げ、土方の後ろについて行った。
が英吉利語の授業を終えて屯所に戻ると、土方はまた留守だった。
「あ、さん。土方さんがお出かけするって伝えておいてくれって言ってましたよ」
台所に夕餉を取りに行くと、沖田がに声を掛けてきた。
「今朝来たお客様の伊庭さんと、ご飯食べてくるそうです」
「あ、はい、わかりました」
「鰻を食べに行くんですって。いいなあ、私もこれから巡察の当番でなければご一緒して、食べて力をつけるところなんですが」
沖田は残念そうに胸に手をあてた。
「そうですか…お疲れ様です」
きっとこの時代でも鰻はスタミナ源とされているのだろうと思いながら、は膳を抱えた。
「そうか、今日はさんが山南さんのお食事当番なんですね」
が膳を二つ重ねて持っているのを見て沖田が言った。
「山南さんにはたくさん食べて早く良くなってもらわなくちゃ。さん、しっかり頼みますよ」
「かしこまりました。沖田さんも巡察お気をつけて」
は頭を下げると台所を辞し、土方の部屋に寄って自分の膳を置いてから山南の部屋へと向かった。
山南の部屋に入ると、山南はを待ち構えていた。
「やあくん、待っていたよ。君や神谷君が来ないと暇でね」
山南は笑顔でを迎えた。他の仲間は土方の命令で、無闇に山南の部屋に出入りすることを禁じられている。下手に騒いで山南の傷に障るといけないからだ。
なので、彼の部屋を訪ねて来るのは世話をしている神谷かしかいない。もっとも、試衛館の仲間はほんの僅かな時間だけ、こそりと訪れているようだが。
「今日はお加減いかがですか? お昼は少し召し上がられましたか?」
は枕元に膳を置くと、山南の体を支えながら体を起こしてやった。
「ああ、ちゃんと神谷君が見ている前で食べきったよ」
「そうですか」
よかったとは思った。山南は少しずつ食事の量が増えている。通常の食事よりはだいぶ消化がよく、栄養価が高く、量は少なく出してもらっているが、
それでも最初は重湯程度でしかなかったのを考えたらいいほうだ。
傷の具合がどうなっているのか、は知らない。時間が空いている時に神谷が包帯を取り替えており、その際に傷の手当もしているからだ。だが、
山南の雰囲気からして確実に良くなってきている印象を受ける。
この分なら、土方は間もなく皆が山南の部屋を訪れることを許可するだろうとは考えた。
「今日は何かあったかい?」
山南が五分程度に炊いた粥を口に運びながら聞いてきた。
「土方さんのところに、伊庭八郎さんと言う方がお見えになってました」
「伊庭君が? へえ、彼も上洛してきたのか」
山南は食事の手を止めて目を細めた。
「山南さんもご存知の方ですか?」
「ああ、伊庭君は江戸四大道場のうちの伊庭道場、心形刀流のお家柄だよ。心形刀流は講武所の教授方を九代目とその周りが務めるほどの強い剣流だ。
伊庭君は八代目の息子さんなんだが、まだ伊庭君が小さい頃に失脚してね、養子を迎えて九代目を継がせたんだ」
「…失脚?」
「うん、八代目は老中の水野忠邦様のお気に入りで留守居与力にまでなったんだけど、水野様が改革に失敗して八代目も命運をともにしたんだ」
は水野忠邦という名に聞き覚えがあった。
(確か幕末の天保の改革を推し進めた人物だったな…)
天保の改革がどのようなものであったのかは忘れてしまったが、寛政の改革と並んで江戸時代の代表的な改革になっていたと学校で習ったような気がする。
「伊庭君自身も講武所に通って、かなりの腕前を持っているよ。将軍上洛の警護で来たんだろうけれども、彼なら適任だね」
「へえ…」
「試衛館へもしょっちゅう遊びに来ていたよ。特に土方君とは馬が合ったみたいだ。ああ、そうだ。昔、土方君が吉原の妓を巡って男に襲われた時に、
近藤さんと伊庭君が駆けつけてあっという間に追い払ったらしい」
山南の話を聞きながら、はその光景を頭に思い浮かべた。
土方の後ろを数人の男がつけ、人気がなくなったところで声を掛けて振り向かせる。
土方が後ろを向くと、彼を狙う男たちが得物を持って土方を睨みつけている。土方は武士で無いから丸腰だ。
そこへ近藤と伊庭が駆けつける。近藤は下級とはいえ武士として帯刀を許されているし、伊庭も大きな剣術道場の家柄で腰に刀を差している。
土方、近藤、伊庭は互いに目配せをすると並んで立ち、相手を睨みつける。
やっちまえと声がすると同時に男たちが一斉に襲い掛かってくるが、土方たちは難なく彼らを地に這わせ―――
「君?」
「あ、いいえ、何でもないです」
山南に声を掛けられて、はふと想像の淵から戻ってきた。
きっと三人は悪漢たちを難なく倒して、意気揚々と引き上げたのだろう。
土方の妓を巡って。
今だってあちこちの遊郭に馴染みがいる。昔からそうだったとしてもおかしくはない。
…おかしくは、ない。
の胸の中で、何かが小さく音をたてた。
(…?)
ことりと音を立てたそれは何かを心の中に零して、苦いものを薄く広げていく。
(何、これ…)
どうしてこんなに苦い感情が胸を侵食していくのだろう、それがわからずには首を傾げた。
「君、疲れているんじゃないのかい? もう食べ終わるから、部屋に戻って休むといいよ」
山南が心配そうに眉を寄せて言い、食事をする手を少し早めに動かし始めた。
「あ、山南副長、すみません。私は大丈夫ですからゆっくり召し上がってください」
は再び自分だけの思考から意識を戻し、山南の食事を見届けることに専念した。
(何を考えているのだろう、目の前のことだけに集中しなくちゃいけない)
は自分の胸を侵食していく何かについて考えるのをひとまず止め、山南の横で正座をして彼が食べ終わるのを待った。
は台所へ行って山南の食事の後片付けを済ませ、土方の部屋に戻った。
行灯に明かりを入れると、一人で食事をした。
あまり食欲がなく、ほんの少し箸をつけたところでため息が出た。
(…さっきの気持ちは何だったのだろう)
じわりと心に広がった、あの苦い思いは。今まであんな気持ちを感じたことなど無かった。
(何の話題になった時だったっけ…)
は箸を中に浮かせたまま思い出してみる。あれは確か土方の―――
その時、さっと障子が開いた。
「…土方さん」
「何だお前、今ごろ飯か?」
土方が帰ってきた。障子の外の景色はいつの間にか日が落ちて暗くなっていた。
「はい、ちょっともたもたしてしまって。お帰りなさい。伊庭様とお出かけだったと沖田さんから伺いましたが」
は手をついて土方を迎え、立ち上がって羽織を受け取った。
「ああ、ちっと飯を食いに行ったんだが、まずいところで参ったぜ。やっぱり金串の鰻はダメだな」
ちっと土方は舌打ちをした。
「そうでしたか、残念でしたね」
は衣桁に土方の羽織を掛けながら言った。
「…まだ飯は残ってんのか?」
土方は座布団の上にどっかりと腰を下ろした。
「口直しに握り飯を食う。作って持ってきてくれ」
「かしこまりました」
は羽織についていた埃を取ると部屋を出て、台所へと向かった。
は握り飯を作って盆の上に載せ、部屋に戻って来た。
二人はいつものように向かい合わせで座り、食事をした。
が作った握り飯はまだほんのりと温かく、添えられていた茶もちょうどいい温度だった。
「あ、お漬物食べます?」
は自分の膳に載っていた小皿を土方に差し出した。
「ああ、もらおうか」
土方は小皿を受け取ると盆に載せ、握り飯の合間につまんだ。
「…何だ?」
土方はの視線に気がついて顔を彼女の方に向けた。
「自分でもよくわからないんですけど、見てちゃいけませんか?」
それはの偽らざる今の心境だった。
握り飯を持ってきて食事を始めてからずっと土方を見つめていた。先ほどのあの苦い気持ちが嘘のように消えていった。
土方のことを見ていてそうなったのは間違いない。それがどうしてなのか知りたくて、はじっと土方を見つめ続けていた。
「タダで見つめられるほど安かねえよ」
ふんと土方が鼻で笑う。
「そのおにぎり二個で手を打ってくれませんか?」
は土方の持っている握り飯に目を遣った。
「俺は握り飯二個の価値しかねえのかよ」
「いえ、私の視線がおにぎり二個分の価値ということで」
「馬鹿なこと言ってねえでさっさと食え」
「はい」
肩を軽く揺すって笑うと、は自分の膳に箸を伸ばした。
(全然わからないけど、まあいいか)
は口に入れたものを咀嚼しながら思った。苦い思いは消えたのだから、今はもう考えるのをよそうと。
しかし、一見解決したように見えてもその根が何なのかを突き詰めておかねば、いつか再び同じ思いをするのは自明の理である。
本当はわからなかったのではなく、わかってはいけないことだったのだ。
この時この思いの真相に気がついて、己自身に釘を刺しておけばよかったのに。
この時ならばまだ引き返せたはずなのにと、後々に彼女は後悔することになる。
それからしばらく、土方は隊務の後に外出することが多くなった。
日野蓮光寺から来ている富沢の元を、巡察の当番でない試衛館出身の組長を代わる代わる伴って訪れたり、伊庭と食事に行ったり。
特に伊庭は食い道楽で、うまそうな店を見つけては常に誰かを誘いに壬生を訪れていた。そしてたいていは土方とつるんでいた。
はで黒谷での英吉利語の辞書の書き写しが終了し、ハーバーが取り寄せたテキストを使って本格的に会話の練習に入った。
短い文章を頭の中だけで作って発声していくのを淡々と繰り返す。意外とこれが難しく、皆がハーバーから細かく直され丁寧に教えを受けていた。
そんな日が続いたある日のこと。
が英吉利語の授業を終えて黒谷の堂々たる三門をくぐろうとした時、向こうから近藤がやって来た。
「近藤局長、いまから出仕でいらっしゃいますか?」
は頭を下げた。
「君!」
どすどすと近藤は荒々しい歩調でに歩み寄ると、その細い肩を掴んだ。
「っ、局長?」
些か乱暴なその手つきには顔を顰めた。
「君、本当なのか!?」
「は、はい?」
近藤が目を血走らせてに迫った。は近藤の険しい表情に身を硬くする。
「容保公が京都守護職を退かれるとは、誠の話なのか!?」
20090409