元治元年六月五日 3
翌日、と黒谷で英吉利語を学ぶ面々は、いつものように宿坊へと集まった。
講師のハーバーが皆の前に座し、昨日届いた教材を手にして話し始めた。
「皆サン、辞書の書き写し、そろそろ終わル。終わったラ、ここにあるテキスト使って、新しい勉強ネ」
ハーバー宛てに届いた荷物の中身はほとんどが本だった。皆で改めたところ、英吉利語の文法書、絵入りの単語集、会話集などであった。
「兄に頼んでいろいろ送ってもらいマシタ。これでもっと、詳しく勉強できマス」
積まれた本の上をぽんぽんと叩き、ハーバーは笑顔で言う。
「これから、イングリッシュをジャパニーズに、ジャパニーズをイングリッシュに変えていくこと、いっぱいしマス。シュゴウ? デスカ?」
「先生、それは“修行”です」
生徒の石井が合いの手を入れた。
「それデス、シュギョウ、シュギョウ」
ハーバーは頭をかくと居住まいを正した。
「デハ、今日のレッスン、はじめマス」
「「「「よろしくお願いします」」」」
生徒たち四人は、開始の言葉に頭を下げた。
午前中は辞書の書き写しを行い、午後からはハーバーの指示で発話の練習となった。
本格的な勉強は辞書の書き写しが終了してからになるが、今から少しずつやっていこうとハーバーは言った。
「この前、野村サンと話しタ。あなたタチにどのようになって欲しいカ。野村サン、あなたタチに、リッパな通詞になってもらいたい」
何のために会津藩が座すこの黒谷に英吉利語を学ぶ場を設けたのか。藩士の教育に非常に熱心な会津藩を見込んだ、ある人物に頼まれたからである。
異国の船が頻繁に日本の海岸へと姿を現す昨今、異国の言葉を解するものがいなければ折衝は進まない。その人材の育成のために、この宿坊は存在している。
開講して半年と少しが過ぎ、手探りながらも講師と生徒はともに勉学に励んできた。そろそろ実践で使えるような教育をして欲しいと、公用方筆頭の野村はハーバーに希望を伝えた。
「通詞にナル、何でも話せなくてはいけまセン。出来るだけイッパイの人と話して、話すチカラ、つけてくだサイ。まずは日本語でイイデス」
ハーバーは自分の経験を踏まえて、話題を豊富にするように生徒たちに告げた。
固い話題の席だけで仕事をするのであれば、その時の話題に関する単語のみを頭に入れておけばいいと思われがちだが、実際は違う。
簡単な挨拶から日常生活の話、互いを知るための自己紹介など、本題に入る前の段階における細かい話題もこなす必要がある。
それに、通詞となれば会議を挟む前後の全てに異国の人間と接することもあるだろう。飲み物が欲しいとか厠はどこだとか、
もしかしたら会議期間中の自由時間に、どこかへ案内しろと言われるかもしれない。活躍の場はどこに転がっているかわからないので、
ありとあらゆる会話に慣れておかねばならない。
今日は、英吉利語で自己紹介をすることになった。
「自分のこと、たくさん話してくだサイ。考える時間、少し上げマス」
そう言うとハーバーは、懐から金の鎖がついた時計を取り出して時間を見た。日本と英吉利では時間の概念が異なるため、現在の時刻を知る形で使うことは
出来ないが、何時間何分という形では使うことが出来る。
数分後、くじ引きで発表の順番が決められた。
は一番を引き当てしまった。袴をさばいて座り直し、ひと呼吸おいてから、おもむろに自己紹介を始めた。
山口誠の名と、誠の家族の名前、壬生の新選組屯所に住んでおり、黒谷で会津藩士として英吉利語を学んでいることを英吉利語で話した。
「…それだけデスか?」
短い発表の後で、ハーバーが眉を寄せて聞いた。
「もっと何か、昔のコトとか、何でもイイデス、please?」
「えっと…あの…すみません、考えてなかったので…」
ハーバーが促したが、はそれ以上のことは言わなかった。
いや、言えなかった。
「仕方ないデスネ、next」
「はっ」
ハーバーがため息と共に次の者へと視線を移した。
次は石井藤太郎の番だった。石井も同じく自分の名と家族の名、会津藩士であることを告げたが、さらに自分の子ども時代の話も少し足して、
その次の海老原郡司と内藤次郎衛門のよき手本となった。
黒谷での授業が終わり、は帰路に着いた。
もう少し自分のことを話せるように考えてこいとハーバーに言われたが、出来やしない。
本当は、自分は山口ではなく、山口なのだから。
自分の中にはとしての過去しかなく、としての過去はない。
斉藤に頼んで出来る限りの情報を集めることは出来る。が、それを勝手に他人に話していいものなのだろうか。気が引ける。
それにハーバーが、人とたくさん話して会話力をつけるようにと言っていたが、こちらもには困った話だった。
自分をなるべく人目に晒さないようにしているのに。昨日も土方の知り合いが来ている八木邸へ顔も出さなかった。本来ならば顔を出して、
挨拶がてら酒でも注ぐのが常識であろうに。
他人から自分を極力隠さねばならない。が、仕事である英吉利語習得のためには、人と話さねばならない。
どうしたものかとは肩を落としたまま前川邸に戻ってきた。
前川邸の門を守る隊士に会釈して、は中へ入った。すると足を踏み入れた瞬間に、後ろから声が聞こえてきた。
「ちとお尋ね申す。こちらは新選組の屯所で?」
が振り返ると、そこには背の高い男が立っていた。
男は黒の紋付に縞袴を身につけ、黒々とした髪をきっちりと髷に仕立てている。腰に差した二本の刀が、すらりとした体躯によく合っていた。
「そうだが、何用か」
門番の隊士が警戒をあらわにしながら男に問うた。
「土方殿にお会いしたい。今こちらにおいでか?」
男は軽く頭を下げた。
「土方さんに?」
沖田や藤堂たちと同じくらいの年齢かと思われるこの男は、土方に面会を請うてきた。
土方をここまで訪ねてくる者も珍しいが、その人物が若い男だというのも珍しいとは思い、男をまじまじと見つめた。
「何でい?」
と男はの顔を覗き込んだ。
は急に顔を近づけられたのと男の口調が砕けたのに驚いて、後ろに一歩下がった。
「山口さん!」
門番の一人が刀に手をかける。
「あいや、すまぬ。悪気はない。土方殿にお会いしたいだけだ」
男は門番の動きに気がつき、笑ってから顔を離した。
「土方さんは?」
はこそりと門番に聞いた。
「それが先ほど、近藤局長とお出かけになって…」
門番も小声で返す。
「申し訳ありませんが、土方副長はただいま留守です。またお越し願えませんでしょうか」
は男に向き直って告げた。
「左様で。ではいずれ改めて参る」
男は苦笑いをして背を向けた。
「あ、あの、お名前を。土方副長にお伝えしておきます」
は男の背に声を掛けた。
「人に名を聞くときは、まず自分から名乗るもんだぜ」
肩越しに男は振り向いて、再び砕けた口調になった。
「土方副長の小姓を務めております、山口と申します」
男の言うことも最もだと思い、は名乗って男をまっすぐに見つめた。
「天狗」
を見据えて笑みを漏らすと、男はぼそりと口元を動かした。
「はい?」
「天狗が来た、と土方殿にお伝え願おう」
天狗とはあの赤い面に大うちわを持つあれだろうかとが思案している間に、男はすたすたと歩いて行ってしまった。
「天狗だと? ふざけるな!」
門番の一人が刀の柄に手をやった。
はそれを押し留め、自分が土方に伝えるからと門番に言うと、邸内へと入っていった。
土方の部屋に戻って荷物を置くと、すぐに夕餉の時間になった。
今日は山南の部屋には神谷が行っているので、が夕餉を持っていく必要が無い。
斉藤の部屋に行っての昔の話を聞こうと思ったが、同室の沖田だけがいて、斉藤は留守だとに言った。
は沖田が大部屋で一緒に食事をしようとの誘いを断り、土方の部屋で一人静かに夕餉をとった。
ハーバーに言われたことに反抗する気持ちは微塵も無いが、自分には他人との接触を最小限にせねばならない事情がある。
己の身を守るために、人と出来る限り関わらないで過ごすか。それとも英吉利語の上達を優先して、積極的に人と交わっていくか。
自分で答えを見出せないまま、はぼんやりと障子の外を眺めた。
膳の上の味噌汁がゆっくりと冷めていく。
庭の池は風が吹くごとに細波を立てながら、闇の中で沈黙を守っていた。
土方はが起きている間には戻らず、が土方の顔を見たのは翌日の朝になってからだった。
「…もう朝か?」
が寝具を片付けていると、布団の中から土方が掠れた声で呟いた。
「はい、おはようございます」
は土方の布団の横に正座をし、挨拶をした。
土方はあまり寝ていないようで、目を薄く瞬かせながら、鈍い動きで寝返りを打った。
「土方さん、昨日、土方さんを訪ねて来た方がいらしたのですが」
「客? 俺に?」
「はい」
土方はそれを聞くと、肘を付いて上半身を起こした。
「誰だ?」
「…それが、天狗だとおっしゃって」
「あ? 天狗?」
赤い目をこする手を止め、土方はのほうを向いた。
「本人がそう言ったんです。沖田さんぐらいの歳で、背の高いお侍さんでした」
訝しげに見上げる視線を受け止め、は“自称・天狗”について話した。
「天狗…?」
土方は眉を寄せて思案顔になった。
「…あ、そうか、あいつか!」
ぱっと誰かを思いついたように土方は顔を上げた。しかしすぐにまた俯き、何であいつが京にいるんだと呟いた。
「どなたかわかりました?」
は土方の様子を見て、どうやら天狗は本当に土方の知り合いらしいと悟った。
「ああ。そのうちまた来んだろ。朝飯にするぞ」
土方はむくりと起き上がり、布団を畳み始めた。
は天狗が誰なのか興味はあったが詮索はせずに、賄い方へと膳を取りに行った。
二人は向かい合わせで朝餉を食した。
土方はに、昨日自分が留守にしていた経過を語った。
土方は近藤とともに、上京している多摩連光寺の名主・富沢政恕(まさひろ)の元を訪れた。先日、この屯所を訪れて八木邸で
酒宴をしていったあの人物である。
富沢は土方の家よりも南にある、連光寺という土地の名主を務めていて、近藤よりも十歳ほど年上で天然理心流の兄弟子だとは山南から聞いた。
土方はそれよりももう少し詳しく富沢についてに教えた。
富沢も将軍の上洛に際し、京にやって来た。将軍の親衛隊である御書院番の組下に参加した地元の人間の用心棒として同行したのである。
一月十七日に京に到着した後は公務として二条城に勤務し、二月に入ってようやく暇を得たので、同郷の士を訪ねて来たのだ。
だが昨日は近藤が会津藩に召しだされていて不在であったため、前川邸にいた土方と井上と沖田が応対した。同じ剣流であるし、近藤が多摩へ
出稽古に行く際には富沢家にも立ち寄る間柄であったので、近藤の出稽古に同行した井上や沖田も富沢とは知己の間柄であり、富沢が持参した酒で旧交を温めたのであった。
自分の不在時に富沢が訪問してくれたことを知った近藤は、翌日である昨日、土方とともに富沢が投宿している東中筋通の魚棚・河内屋芳之助方を訪ねた。
近藤はまず昨日の不在を侘び、持参の酒の礼を言った。そして出された酒と魚に舌鼓を打ちつつ、会津藩で聞いてきた現在の京の情勢を富沢と土方に語った。
朝廷による再三の攘夷実行の通達にも関わらず、幕府はなかなか重い腰を上げようとしなかった。昨年の八月上旬に横浜港を閉ざす決議をしてはいたが、
八月十八日の政変に乗じてそれを中止しようと言う動きがあった。朝廷はそれを察すると、日本に来ている諸外国に横浜鎖港を直談判せよとすぐに釘を刺してきた。
いずれの外国公使にもあっさりと交渉申し入れを断られた幕府は、フランス、イギリス、オランダヘ使節団を送り込み、鎖港を直接交渉する方針に切り替えた。
それを受けた外国奉行池田長発(ながのぶ)は、年末の十二月二十八日に横浜を出航して、任務を果たすべくヨーロッパへと旅立った。
同じ頃、京には八月十八日の政変で追い出された攘夷派と入れ替わるように、公武合体派諸侯が集まってきていた。そこへ天皇は将軍を京へ呼び寄せ、
在京の諸侯とともに国の方針を論ずるよう命じ、将軍上洛の運びとなったのである。
荒れる冬の海を渡り、十一日間の船旅を経て幕艦は大坂へと到着し、一月十五日に京へと入った。新選組も警護にはせ参じたあの時である。
その二日後に将軍家茂は、自らの後見である一橋慶喜、紀州藩主徳川茂承ら四十名の大名を従えて参内し、右大臣に任ぜられた。
しかし、ここで朝廷側が妙な動きを見せる。
攘夷攘夷としつこく言っていたはずなのに、二度に渡る将軍への勅書からは、苛烈な攘夷を促す文言が鳴りを潜めていたのである。
現在の日本国の軍備で攘夷を行えば、その貧弱さにかえって諸外国から軽蔑されるだろう。大坂湾の防備を固め、諸藩は港を守り、軍艦を整え、外夷を廃せよ
といった程度の内容にとどまっていた。
一橋慶喜、松平容保、松平春嶽、伊達宗城、島津久光ら幕府の諸大名を、朝廷の評定に参加させる参予に任命してまで行われた異例とも言える朝議は、
この勅書を巡って意見が分かれた。一橋慶喜が、この勅書を発行すれば攘夷派諸侯の反発を招きかねないと発言したのである。
しかし一橋慶喜の思惑は別にあった。横浜を開港し、幕府が一手に握っている外国貿易を諸藩にもたらすのが目的だった。
島津久光、松平春嶽、伊達宗城らも同じ意見であった。特に島津は、自藩の士・高橋猪太郎に先の勅書を草案させたとの噂もあり、かなりの開明派であったようだ。
ところがさらに話は反転を見せる。一橋慶喜はこうして開港を唱えていたはずなのに、将軍が上洛するやいなや、鎖港に論を翻したのである。
去年は長州とともに攘夷に同座し、今回は薩摩と開港を謳う。そしてまた鎖港へと動く。あまりの身の軽さに、老中たちは一橋慶喜を激しく糾弾した。
近藤が黒谷で野村から聞いたのはここまでであった。
朝廷と幕府、さらに幕府の中でも大名の意見が分かれる中、二条城にて参予と老中の会議が開かれたのが昨日。
その結果は近藤がいた時分にはまだ黒谷に届いていなかった。
「何だって一橋殿は論を転じたのであろうな」
酒を呷りながら富沢は首を傾げた。
「さて、私にもわかりかねます」
近藤も頷いた。
「お守りせねばならない大樹公の後見がそれじゃあ、富沢さんも京まで来た甲斐がありませんな」
くっと土方は口の端を上げて笑った。
「これ、歳三。滅多なことを言うでないわ」
富沢が土方に厳しい一瞥をくれた。
「我々は大樹公をお守りすることが仕事で上京したのだ。それがすべてだ」
「そりゃあよろしいことで」
「トシ、よさないか」
「ははは、正直と言えば正直だな。近藤さん、こんなのが副長で、新選組は大丈夫なのかい?」
「富沢さん、そりゃどういうことだ」
「言葉通りの意味だよ、歳三」
「富沢さんのご心配ももっともですが、新選組は今安泰ですよ」
「かっちゃんもひでえな」
「まあ難しい話はこれぐらいにして、今夜は近藤さんとの再会を祝して飲もうではないか」
「そうですな、富沢さん」
「一部納得いかない気もするがな」
土方と近藤は富沢の部屋で語りながら飲み続け、深夜になってようやく前川邸に戻ってきた。
そしてそれぞれの部屋に戻り、土方はが敷いておいた布団に倒れこんだ。
「楽しくお過ごしになったようですね」
ふふっと笑っては土方を見た。
「うるせえ」
土方は渋い顔をして茶を啜った。
富沢との再会は、確かに懐かしく、喜ばしいことだった。
問題は京のこれからである。
雲の上の世界で何が起こっているのかはわかったが、自分たちは雲の下で、地面に影をなしている存在だ。
雲の上の安定を図るため、その手駒として存分に働く覚悟はいつだってある。そのために今は山崎たち監察に動いてもらい、小さな綻びを捕らえようとしている。
そう考える土方の目がから離れ、部屋の外へと向いた。
は土方の背が何かで揺らぐのを感じ、ぞくりと身を震わせた。
「土方副長、失礼します」
廊下に隊士が現れ、土方を呼んだ。
「何だ」
土方はすっと背を伸ばし、副長の口調になった。
「お客様なのですが…その…」
隊士は急に口ごもった。
「どうした」
土方はその隊士の態度に眉を寄せた。
「その、天狗だと名乗ってきかないのです」
20090327