元治元年六月五日 2
新選組の諸士監察取調方は、山崎を中心として京坂の情報収集にあたっていた。
山崎は先の経験を踏まえ、どんなに小さな事も逐一土方に報告した。土方の部屋には毎日のように、山崎からの書状が届いた。
やはり長州には動きがある。播磨や大坂での金の動きを警戒した山崎は下の者を使い、京は河原町にある長州の藩邸を見張らせた。
物陰から密かに見張っていると、闇にまぎれて中に投げ文をする者がいた。見張りの隊士はその影を追ったが、狭い路地に入ったところで見失ってしまった。
長州藩は現在、京都留守居役とその用人の数名以外は在京禁止となっている。そこへ投げ文とは何かがあるに違いない。
それが何なのかはこれから調べるところだが、引き続き調査を続行すると山崎は報告してきた。
土方は文机の前で報告を読み終わると、書状を畳んで引き出しにしまった。
長州の行動については山崎に任せておき、こちらは巡察を強化する。山崎の裏からの調べと、隊の堂々たる巡察との両面で、
浮かび上がるものがあるかもしれない。
(こそこそしやがってるが、必ずどっかに綻びってのはあるもんだ)
見つけてみせる、そして実績を積み上げ、近藤を頂点としたこの新選組を高みまで押し上げてみせる。
土方の目が、晴天の早朝に似つかわしくない光を宿した。
「土方さん、一番隊、巡察に出ます」
「…ああ」
沖田が部屋に入ってきて、土方は我に返った。
「あー、また眉間に山と谷が…。取れなくなっちゃいますよ、ほぐしてあげましょうか?」
沖田は土方の傍に膝を進めると、手を伸ばしてきた。
「余計な世話だ、さっさと巡察に行け」
土方はその手を跳ね除けた。
「はいはい、わかりました。そうしますよ」
にこにこと笑いながら沖田は立ち上がった。
「…土方さん」
障子を開く直前で、沖田が振り返った。
「随分とお手紙が届いているようですけど、手が必要なときは言ってくださいね」
ふっと緩めた沖田の口元が、笑み以外のものを湛える。
「いらねえ心配すんな。お前なんか倒れるほどコキ使ってやる」
土方の口元も同じように吊り上がる。
では、と沖田が言い、部屋を出て行った。
土方はまた机に向かい、頬杖をついて思案を巡らせ始めた。
は今日も黒谷に出仕していた。
三門の手前でハーバーと出くわし、そのまま二人で宿坊に向かった。
英吉利語を学ぶ宿坊に入ると、式台の前に公用方でハーバーの身の回りのことを取り仕切っている外島がいた。
「外島サン、オハヨウゴザイマス」
ハーバーは外島に向かって挨拶をした。
「ハーバー殿、貴殿宛に荷物が届いているが」
と、外島は式台に置かれている木箱を指差した。箱の側面には英吉利語で何か書いてある。
「Oh, 届いタ! 外島サン、アリガト」
「では、御免」
外島は受け渡しを済ませると宿坊を出て行った。
ハーバーは上着を脱いで大きな木箱を抱え、つまずかないように式台を慎重に上った。
はハーバーの上着を持つと、外島の後姿にぺこりと頭を下げ、自分も中へと入った。
が勉強部屋に入ると、他の皆はまだ誰も来ていなかった。
ハーバーは部屋の真ん中に木箱を置くと蓋を開け、中身を取り出し始めた。も荷物を置き、開梱を手伝う。
ハーバーが箱の外に出した物は、紙で幾重にも厳重にくるまれていた。はそのひとつを手に取り、一枚ずつ丁寧に紙をはがした。
紙の衣の奥から現れたのは、本だった。
茶色い表紙には、大きな文字でアルファベットが印刷されている。
「エッセンシャル…グラマー…?」
は指で文字を辿りながら読んだ。
「ドウゾ、中身見て」
ハーバーに促され、は本を開いてみる。
中は全て英語で書かれており、短い文章がびっしりと並べられていた。
「コレ、グラマー、文法の本ネ」
ハーバーがの横に座り、開いたページの文字を指さした。
「ココでは、ifとwhenの使い方の違い、解説してル」
はハーバーの指先を目で追った。英吉利語で書かれた文章を頭の中で日本語に直してみる。
ifとwhenの後にgo outを使い、ifの方は出かける可能性があるかもしれないが未定、whenの方は出かけることが確定しており、出かけるその時を
表している、と書かれているのが読み取れた。さらにその後に例文が続いて、ifとwhenの違いをより鮮明にしていた。
他のページを見てみると、様々な単語とその語法が同じように解説されている。
「あなたタチ、よく頑張ってイル。ワタシ、もっともっとあなたタチにうまくなって欲シイ。ダカラ、兄に頼んでイギリスからテキスト、取り寄せタ」
ハーバーはそう言って、青い瞳を煌かせた。
は本とハーバーを交互に見た。いつの間にこのようなものを英吉利まで頼んだのだろう。本国に手紙を書き、向こうで送る本を
選んで梱包してもらい、船で日本に届くまで、どのぐらいの時間がかかったのだろうか。相当な日数に違いない。
「ありがとう…ございます…」
ハーバーの心遣いに、は胸が熱くなった。
「会津藩、荷物届ける先にしておいてヨカッタ。無事に届いたネ」
深い笑みを浮かべると、ハーバーはシャツの袖を捲くって次々に包みを取り出した。
は梱包を解くたびに中の本をめくり、どんなものなのかを確認した。
荷物の中には、本の他にハーバーの服の替えらしき物が何点か入っていた。ハーバーがそれを取り出すと、その下に手紙が入っていた。
ハーバーはそれを広げ、じっと文面を目で追った。
最後の一行を読んだハーバーの視線がそこでぴたりと止まった。
そしてそれまでの笑みを引っ込めると、再び木箱の中に手を入れた。
「」
「…あ、はい」
本を見るのに夢中になっていたは、呼ばれてふと顔を上げた。
その鼻先に、黒く細長い筒状のものが突きつけられていた。
「っ!」
それが何であるのかを理解するまで、さほど時間はかからなかった。
は思わず本を取り落とし、後ろに身を引いた。
「ハ、ハーバーさん…」
ごくりと喉が無意識に鳴り、背中を冷たいものが伝い落ちる。
に今突きつけられているのは拳銃だった。
「ダイジョブ、弾、入ってナイ」
ハーバーはに向けた銃口を下へ向けると、リボルバーを回して中に何もないことをに示した。
「でも…吃驚しました…」
は深いため息を吐いたが、体の力がなかなか抜けていかない。
「どうしたんですか、これ」
がぎこちない様子で座り直して聞いた。
「この荷物の中に入ってタ。多分、荷物作ってくれたワタシの兄が入れてくれたに違いナイ」
ハーバーは箱を指差した。中に入っていた荷物は全て出し終わっていた。この拳銃は、荷物の一番奥底に大事に包まれて入っていた。
恐ろしい物を、とは心の中で呟いた。
剣での斬り合いも人の首が斬り飛ばされるのもこの目で見たが、目の前に拳銃があるのも負けず劣らず恐怖を感じる。
黒光りする銃身は、その存在だけで人を緊張の高みにまで持っていく。
「…」
ハーバーはリボルバーを元に戻すと、の手を引いた。そして、まめだらけの手の平に冷たい鉄の塊を乗せた。
はぎくりとして拳銃から手を離そうとしたが、ハーバーが両手での手をその場にとどめた。
「ハーバーさん?」
ハーバーは何を考えているのか。は彼の目を覗き込んだ。
「コレは、アナタが持っていなサイ」
ハーバーは両手に力を込めた。
「えっ…だ、駄目です」
刀は身分の証明代わりに半ば仕方なくぶら下げているが、拳銃を持つなどもってのほかだ。人を傷つけ、殺める為の道具でしかない。
の手は無意識のうちに小刻みに震えだした。
「この前、野村サンから聞きましタ。アナタ、剣の腕前、ちっともあがってナイ」
ハーバーは金色に透ける前髪の奥で、青い目を細くした。
会津藩では上京している藩士たちのために、午前中を剣の稽古の時間に当てている。英吉利語習得の面々も、都合に合わせて自主的に参加している。
も時々修練に赴くが、やはりやる気がないのがいけないらしく、竹刀を振るう形が出来た辺りから上達していない。それを稽古を覗きに来た
公用方筆頭の野村に見られ、ハーバーにぼやいたようだ。
「ソンナコトで、アナタ、身を守れると思ってマスか?」
「え?」
「この前の戦争みたいニ、戦わなくてはいけないトキ、自分を守れマスカ?」
戸惑いと拒否を浮かべるの目を、深く青い目が見据えた。
それは出来ないだろう、とは即座に思った。
たとえどんな状況になろうとも、人を刀や拳銃で傷つけるなんて出来やしない。したくない。
手足の先が冷たくなり、心臓が痛いほどに重く拍動する。
「アナタ、優秀ね。ワタシ、アナタを失いたくナイ」
ハーバーの両手が銃とを温かく包み込んだ。
「もしそうだとしたら、それはハーバーさんのご指導の結果でしかありません。私自身はたいしたことはありません」
は思うところを正直に述べた。ハーバーの熱心さがあってこそ、会津藩の英吉利語習得の面々はやっていけている。
「さっき、コレ見たトキ、どう思いましたカ?」
ハーバーが銃に目を向けてに質問してきた。
「恐ろしかったです…」
はただ怖いだけで何も思うことができなかった。それどころか、こんな危ない時に剣を抜いて身を守ろうとしないで、
恐怖から後じさっただけだ。何たる失態だろう。
「ソレでイイ」
ふっとハーバーは目元を和らげた。
「?」
は青い目のきらめきに首を傾げた。
「ワタシ、コレで人を傷つける、言ってナイ。相手をビックリさせて、その隙に逃げるトカね」
「あ…」
ハーバーの言葉に、は先ほどの自分の行動を振り返った。拳銃に驚いて動けなくなった、その間に多少は時間を稼ぎ、逃げの第一歩を
踏み出したり、相手と距離を置くことは可能だろうと思う。
「アナタがコレで人傷つけること、出来ないと思ウ。デモ、ソレでイイ。使い方、いろいろネ。OK?」
ハーバーが微笑んでの目を見つめる。には頷くことしか出来なかった。
ハーバーはリボルバーに弾が装填されていない状態で、に弾の込め方と打ち方を教えた。はそれを帳面に書きとめた。
は銃を受け取ると、紙で梱包し直してから自分の風呂敷に入れた。
ちょうどそこで他の英吉利語習得の面々がやって来た。
皆、ハーバーが手を尽くして持ち込んでくれた英吉利語の書物に目を輝かせていた。
も肩を並べて本に目を通した。表面上は落ち着きを装っていたが、その心の内は苦く、重たいものだった。
夕方になり、は黒谷を辞した。
暗くなりかけた空の下をうつむいて歩く。
風呂敷の中の銃が気になって仕方がない。刀も持っているし、元の時代なら銃刀法違反で捕まっている。
身を守るために持っていろとハーバーは言った。
彼の言いたいことは理解できる。が、こんな物騒なものを本当は持っていたくない。
万が一相手に当たって傷つけでもしたら、もし殺してしまうことになったら。
想像するだけで背筋が凍りつく。
誰のことも殺してはならない。自分はこの時代には存在してはならないものなのだ。この時代のものを傷つけてはならない。
はいつもよりずしりと重い荷物を抱え直した。
そして歩いているうちに、ふと思い浮かんだ事があった。
殺してもいけないが、殺されてもいけないのではないか。
この命が惜しいわけではない。
殺されて屍を晒すことは、この時代に生きていた証拠を残すことになるからだ。
元の時代に帰らなくてはならない。池が光れば帰れるのが当たり前だと思っていたが、再び池が光るまでにもし
なんらかの戦に巻き込まれたら、命を落としてもおかしくない。
殺すことも、死ぬことも。
は己にまたひとつ、新たな枷を増やした。
は前川邸に戻ってきた。
「土方さん、ただいま戻りました」
土方の部屋の前で声を掛けてから中に入ったが、土方の姿が見えない。それにどことなく前川邸内の人気が少ないような感じがした。
銃の所持について、土方に相談したかった。土方ならきっとどうしたらいいのか教えてくれるはずだと思ったからだ。
はしばらく待ってみたが土方はなかなか帰ってこなかった。
土方は夕餉の時刻になっても戻らなかった。
は台所に赴くと山南の食膳を持ち、山南の部屋を訪れた。
「山南副長、夕餉です」
「ああ、ありがとう」
山南の顔色は相変わらず良くない。傷の治りも遅い。食欲もさほどなく、水分の多いものを少しずつしか口に出来なかった。
それを知った神谷が山南用の献立を作り、賄い方に頼んだものが毎回の食膳に上がっている。
山南はそれを時間をかけて口に収め、何とか食べきっていた。
「土方君なら、お客様と一緒に八木邸にいるよ」
ふんわりと柔らかい玉子焼きを食べながら、山南は言った。
「あ、はい、お客様だったんですか」
片手しか使えない山南のために箸で料理を小さく切る手を止めて、は顔を上げた。
「うん、君が帰ってくる少し前に来たみたいだ。近藤さんの兄弟子で、多摩の蓮光寺村の名主の富沢さんという方だよ。
私はこの通りだから顔を合わせるのも恥ずかしくてね、会っていないけれども」
「れんこうじ…」
「おっと、ごめん、君は多摩に行ったことはなかったんだっけ。土方君の家より少し南の方の村なんだ」
頭の上にわかりませんという文字を浮かべたを見て、山南が言葉を付け足した。
「私のことはいいから、八木邸に行ってごらん。挨拶してくるといいよ」
「でも、山南副長のお食事が終わるのを見届けないと、神谷さんに怒られます」
は神谷と交代で山南の面倒を見ている。神谷は午前の巡察を終え、屯所に戻ってきてから山南の布団の交換や部屋の掃除などをした。
そして煩くすると山南の傷に障るからと言って、富沢の持ってきた酒をいただいての酒宴を八木邸へと追い出し、今は緒方拙斎の知り合いの医者の元へ、山南の薬をもらいに出かけていた。
見張っていないと、山南は食欲がないからと食事を残してしまう。それでは治るものも治らないと、神谷はとくとくと山南に説教した。
にも、が見ている時には必ず山南に残さず食事をとらせるようにと言いつけた。
「では早く食べ終わらないと」
「ゆっくりで構いませんよ」
は笑みを見せて再び山南の料理を小さく切り分けた。小さく切っておくようにと神谷は賄い方に指示を出してあるが、
賄い方も男なので行き届かず、大きいままのことが多い。
山南の食事が終わり、は土方の部屋に戻ってひとりで夕餉をとった。
殺すだ死ぬだと考えていたら、今日はもうあまり人に会いたくない気持ちになったので、八木邸には行かずに本を読んで過ごすことにした。
拳銃は弾丸とともに包みを解かぬまま、行李の一番奥に押し込めた。
ちらちらと行灯の灯りが揺れる中で紙をめくっていると、廊下を踏みしめる音が聞こえてきた。
すぱんと障子が開き、土方が入ってきた。
「お帰りなさい」
は手をついて土方を迎えた。
「八木邸にいるって、山南さんから聞いてなかったのか?」
土方は羽織を脱ぎながら言った。
「いえ、うかがってましたが…」
「だったら来ればよかっただろ、何故来なかった?」
「あの…私…あまり知り合いを増やさないほうが…」
自分がここにいた証拠は出来るだけ残さずにいたい。そう思っては答えた。
土方は肩越しにを見て、小さくため息をついた。
その後土方はすぐに文机に向かい、書をしたため始めた。
はその背中に遠慮して、結局その日は土方に拳銃のことを相談しそびれてしまった。
20090320