元治元年六月五日 1
梅雨明けの蒸し暑い夜。
月のない夜空には天の川が横たわり、薄い雲の切れ間から無数の星が静かに瞬いていた。
物言わぬ暗い空に突然響いたのは、怒号と悲鳴。
それは祇園祭を心待ちにする京の熱気を、一瞬で凍りつかせた。
京都三条木屋町、旅館・池田屋。
京の街に火を放ち、混乱に乗じて天皇を略奪する計画を立てていた浪士の会合に新選組が踏み込み、暗闇に白刃が翻る大乱闘となった。
体内の閉鎖回路を破られた血は障子を染め、天井にまで飛沫が上がり、建物を真紅に染め抜いた。
浪士側の死者十人以上、新選組の死者三人、双方の重軽傷者多数。
徳川二百六十年の歴史の中でもひと際凄惨であったと語り継がれている『池田屋事件』。
闇夜に血の花が咲く夜までの軌跡は、いかなるものであったのだろうか。
文久四年一月、新選組は徳川第十四代将軍家茂の上洛を警護するために大坂へと下った。
心配されていた反幕派の抵抗もなく、家茂は大坂へと上陸し、無事に京の二条城へと入った。
何事もなく将軍の二条城入城が終了し、誰もが安堵していた。
しかし、大坂に先行して情報を集めていたはずの山崎が大坂を離れてまで手に入れてきた情報を聞いた近藤と土方は、
再び緊張の糸を強く張り詰めることとなった。
先年の八月十八日の政変以来、長州藩は京における信用回復のため躍起になっていた。藩家老の根来上総が大坂まで出向いて嘆願書を
朝廷に提出しようとするも、朝廷からの返事は、
「留守居役、添え役のほか御用なし」
とにべもないものであった。長州藩は中央政界から完全に閉め出されてしまったのである。
因州や美作など六つの藩が連署し長州のために働きかけたが、それでも朝廷の長州への態度は変わらなかった。
そこで長州は、藩主かその跡継ぎが上京して弁明をし、その後は京へ関わることは最低限として自国の力を蓄えようという「防長割拠論」を
推し進めたいと考えた。今の長州は世論にも立ち向かえないし、力もなければ金も無い。自国を耕すことが先決だと考えたのである。
が、藩の中にはそのような保守的な考えを持つものたちばかりではなく、久坂玄瑞や真木和泉、来嶋又兵衛らのように、
とにかく京を武力で制圧することばかりを考えている血気盛んな者たちもいた。
長州は、内部は分裂、朝廷からは弁明の機会すら与えられないという荒波の中、活路を見出そうと必死になってもがいていたのである。
「金が動いている?」
山崎の報告を聞いた土方は、怪訝そうに眉を顰めた。
「私もはじめは大坂におりまして、八軒家の近くでこそこそしとる男がおったもんやさかい、“ちょっと”締め上げてみまして」
一見人がよさそうな、しかし暗い何かを感じさせる笑みを浮かべながら、山崎は続けた。
するとこそこそしていた男の背負う荷から、小判を分厚く束ねた切り餅が幾つも出てきた。山崎がさらに追求すると、男は長州からこれを持って来たところで、
大坂の仲間に渡しに行く途中だと白状した。
「そいつが言うには、播州のほうで金を蓄えていると」
京には入ることを許されず、大坂は便利だが何かと忙しない。大坂の西隣の藩・播磨で金を集めておき、機会を待って大坂なり京なりにと
自由に金を運ぶ手はずらしかった。そこで山崎は、その男の話の真偽を確かめるために播州へ赴いて、大坂を離れていた。
「で、その話は本当だったのか?」
近藤が緊張の面持ちで聞いた。
「いえ、それが、男に吐かせた場所からはもう金がのうなっておりまして」
山崎は男から聞きだした場所に潜り込んで調べてみたが、すでに家屋はもぬけの殻で、金どころか人っ子一人いなかった。
「勝手に大坂を離れた上、すぐに解決すると思い込んで連絡せんと、すまんことでした」
山崎は畳に手をつくと、深々と頭を下げた。
「いや、よくやってくれた山崎君。今後も市中見回りを強化して、怪しい者を捕らえるよう、会津公に進言するよ」
近藤はふうと息を吐いて重たい空気を解いた。
「聞き出した場所が嘘じゃねえんなら、金は本当に集まっていたんだろう。そうじゃなきゃ、金も人も消える道理がねえ」
土方は腕を組んで思案顔のまま呟いた。
「引き続き、大坂と播州の動きを調べておけ」
「かしこまりました、今後は逐一報告を入れます」
土方の命令に、山崎は再び頭を下げるとすぐに近藤の部屋を辞した。
「お前は今の話を山南さんに伝えに行け」
土方はにちらりと視線を遣ると、近藤に向き直った。
「はい」
は静かに立ち上がると、そっと部屋を出て行った。
足袋を履いていても隙間から忍び寄ってくる冷気に身を縮ませながら、は廊下を歩いた。
そして山南の部屋の前に着くと、膝をついて中に声を掛けた。
「山南副長、山口です。今よろしいでしょうか」
「君かい? どうぞ」
中から山南が返事をした。
「失礼します」
は障子を開くと一礼し、山南の部屋に入った。
山南は部屋の真ん中に布団を敷いて横たわっていた。
大坂で受けた傷は絶対安静を強いられるもので、傷口はやっと塞がっている程度である。山南の顔色は、斬り合いから数日を経た今も
なお青白かった。
は山南の枕元にいざり寄った。
「お加減はいかがですか? 何かお持ちしましょうか?」
「ありがとう、今のところ大丈夫だよ」
山南は笑みを浮かべてに向かって答えた。が、その表情は痛みを堪えているのがありありとわかるものだった。
血塗れで運ばれてきたところを見たには、山南が微笑んでいることすら驚愕である。もし自分が同じように怪我をしたら、
痛みで寝ても起きてもいられないのではないだろうか、とは拳を握り締めた。
「…土方副長からお話を預かってきました。もしお話がお体に触るなら別の日にいたしますが」
「いや、今聞くよ。横になっているだけなんで暇でしょうがないんだ」
土方からの話だと聞いて、山南の顔には微かに血の気が上った。
「…そうか、長州が動いているのか」
が山崎からの報告を伝えると、山南は天井に向かって白い息を吐き出した。
「土方副長は山崎さんに、播磨と大坂両方の動きを追う任務を出しました」
「では山崎君からの報告を待たねばならないね。しかし今、長州が京の出入りを禁止されていると言っても油断は出来ない」
山南の目が黒々とした光を湛える。
「留守居役や余程の用事があるものは届けを出せば京にいられるが、身元を隠せばいつでも誰でもどこにでも潜むことは出来る。
土方君にはわかっていると思うが、その辺にも気をつけるように伝えてくれないかい?」
「かしこまりました」
は首肯した。
大怪我をした身であるにも関わらず、仕事の話となれば瞬時に気合をいれ、冷静な判断力で物事を分析しようとする。
そこにふと見える影は、近藤や土方と同じ色だ。やはりこの人は新選組副長なのだと、は改めて思い返した。
「土方君からの話は終わりかい?」
「は、はい」
山南に声を掛けられ、ははっとした。
「安静にしていなければならないのに長居をしてすみませんでした。失礼します」
体を休めて少しでも早く傷がよくなるようにしなければならないのに、横でしゃべっていたら気を使ってそれどころではないだろう。
は頭を下げ、立ち上がろうとした。
「待ってくれ君。さっきも言ったけど、寝てばかりで退屈なんだ。もし君がよければ、もう少しここにいて話をしていってくれないか?」
山南は布団から右手を出し、の袴をそっと掴んだ。
「でも、緒方先生からは安静を申し付けられているじゃないですか。私がいては…」
大坂で蘭医の緒方拙斎に怪我を診てもらった際に、もし無理をすれば再び剣を振ることは叶わなくなるかもしれないと言われた。
それに加え、貧血の可能性も指摘されている。多量の血を流した上に貧血と聞いていれば、が早く山南の元を退出しようとするのは道理だ。
「病人のわがままだと思って聞いてくれないかな。このままでは怪我よりも暇で死にそうだよ」
山南はじっとを見上げた。
はその視線に胸を軋ませた。顔を上げて山南の部屋を見渡すと、部屋の隅にはたくさんの本が積まれており、机の上には何か書かれている
半紙が何枚も重ねられていた。
さっき、もし自分が怪我をしたらと想像した。痛みを堪えなくてはいけない、その先を考えてみる。室内には読むものもたくさんあるし、
書く道具もあるのに寝ていることだけを強要されたら、どんなにつまらない、退屈きわまる時間を過ごすのだろう。
「…わかりました。では、少しだけ」
は再び腰を下ろした。
山南は嬉しそうに笑うとの袴から手を離した。
山南はが黒谷で英吉利語を学んでいることについていろいろと質問した。以前は辞書を作る話だったが、今度は日本語と英吉利語の違いについて
詳しく聞いてきた。は出来るだけ簡単に、言葉を選んで山南の質問に答えた。まだこの時代には英吉利語は広く伝えられていない。そのことを思えば
あまり事細かに話してはいけないかもしれないと、は警戒した。
二人でしばらく話していると、部屋の外から声がした。
「山南さん、総司です」
「総司か」
山南は目でに沖田を部屋に入れていいか聞いてきた。はこくりと頷いた。
「入ってきなさい」
「失礼します」
沖田が笑顔で山南の部屋に入ってきた。その後ろには神谷の姿もあった。
「あ、さんが先客でしたか」
「沖田さん、神谷さん、こんばんわ」
「へーえ、さんが山南先生のお部屋にいるなんて珍しいですね」
沖田の後ろからひょこりと出てきた神谷が言う。
「土方さんに頼まれまして、山南副長にお話を」
はありのままを話した。
「そんなの、鬼副長が自分でしたらいいじゃないですか。さんもお人よしなんだから」
神谷はが土方に使われたと思い、口を尖らせた。
「いえ、多分土方さんは、山南さんが怪我して横になってるところを見たくないんですよ。同郷の士が剣で倒れているなんて、
かわいそうで見ていられないと思ってるんじゃないですか? まったくかわいいったらありゃしない」
口元に手を当て、沖田はくつくつと笑った。
「えー、まさかあの鬼副長が? うっそー」
神谷が沖田を見上げた。
「きっとそうに決まってます」
沖田はなおも笑いながら神谷に言った。
も、沖田の言うとおりだと思った。土方は口ではどう言おうと山南のことを心配しているだろうし、山南が気落ちして痛々しい姿で臥せっているのを
見るのは嫌なのだろう。
「これ、さっき巡察帰りに買ってきたお蜜柑です。食べてくださいね」
沖田が紙に包まれた蜜柑を取り出し、山南の布団の横に紙を敷いて蜜柑を置いた。
「ありがとう、食べさせてもらうよ」
山南は首だけを動かして、自らと同じように紙の上に鎮座する蜜柑を眺めた。
「…今食べようかな。君、剥いてくれないか」
「はい」
は蜜柑に手を伸ばし、皮を剥いて房に分けた。山南の口にひと房入れてやると、山南はゆっくりと口を動かして、その甘酸っぱさを味わった。
「おいしい。総司、ありがとう」
山南の口元に笑みが浮かぶ。それの笑顔は幾分か和らいでいた。
「まだありますからね、どんどん食べてくださいよ」
神谷が次の蜜柑に手を伸ばし、皮を剥いていく。
四人は蜜柑を食べながら、しばしの間、和やかに話をした。
部屋は爽やかな蜜柑の香りに満ちていた。
20090312