久遠の空 ドリーム小説 嵐の序曲 7

嵐の序曲

update:2009.02.20

嵐の序曲 7 

 「すみません、緒方先生、緒方先生はいらっしゃいませんか!」
 は適塾の戸をどんどんと叩いた。
 それを聞きつけて奥から足音がし、がらりと戸が開いた。
 「へえ。あ、この前のお侍はん?」
 出てきたのは下男だった。
 「はい、先日は、お世話になりました。あの、緒方先生、は…」
 息を切らせながらは問う。
 「ああ、今診療所の方に出てはって」
 「いらっしゃらないんですか…」
 下男の返答には項垂れた。
 拙斎の義父である緒方洪庵は、大坂に適塾と診療所を開設した。拙斎は適塾で教えることもしているが、診療所で診察もしている。
 は山南の血塗れの姿を脳裏に浮かべた。一刻も早く拙斎に診てもらいたい。診療所の場所を教えてもらい、呼びに行こうかと思案する。

 下男は外へ出るときょろきょろと道を見渡した。
 「いつもこのくらいの時間にはお帰りに…あ、来はった」
 そこへ噂をすれば影とばかりに、拙斎が弟子らしき男と道を歩いてきた。
 は拙斎に駆け寄った。
 「緒方先生、怪我人がいるんです、診て、いただけませんか?」
 「おや、山口殿…怪我人ですか?」
 拙斎は怪我人と聞いて、穏やかな目元をすっと引き上げた。
 「はい、お願い、します」
 は整わぬ息のまま頭を低く下げた。

 「私からもお願いします」
 の後ろから土方もやって来た。
 「会津藩御預、新選組副長、土方歳三と申します。実は先ほど岩城升屋と鴻池にて浪士と斬り合いになったのですが、 一人が腕を斬られて出血が激しいのです。先日お世話になったこの山口が、それならばと先生を頼りにして」
 土方はと同じように走ってきたはずなのに、まったく呼吸を乱さずに拙斎に話しかけた。
 「わかりました。ちょうど道具も持っていることですし、今すぐ伺いましょう。道案内を頼みます」
 拙斎は後ろに立っている弟子に目で合図をすると、土方とに従って京屋へと小走りに向かった。


 「先生、こちらです」
 たちは京屋に戻り、拙斎をすぐに山南の元へと通した。
 「お医者様をお連れしました」
 「じゃあすぐここへ!」
 そこには神谷がおり、応急手当を済ませていた。
 「とりあえず止血は済ませて、斬られた周りだけはきれいに拭きました」
 「では、ここからは私が」
 神谷がどいた後に拙斎が座り、弟子に持たせていた風呂敷を解いて、弟子と共に診察を始めた。

 「…」
 「先生、いかがか」
 近藤が青い顔で拙斎に話しかけた。
 「少し深いところまで斬られたようですね。縫合しておきます」
 消毒用に焼酎と湯を持ってくるように指示を出し、風呂敷の中から道具を選ぶと、拙斎は山南の腕の斬られた部分を縫った。
 麻酔も無いのに山南はうめき声一つ上げなかった。


 拙斎は山南の様子をしばらく見てから京屋を出た。
 「先生、ありがとうございました」
 近藤とは深々と頭を下げた。
 「しばらくは清潔と安静を保ってください。それと、傷口が開くようなことはさせないように」
 拙斎が近藤に寄って小声で言った。
 「腕の筋にかなり近いところまで斬られていました。お武家さんには辛いかもしれませんが、傷口が完全につくまでは無理をさせないようにしたほうが よろしいでしょう」
 「そうですか…」
 「竹刀を振るのも駄目ですか」
 肩を落とす近藤の横で、土方が聞く。
 「しばらくは控えた方がいいかと。もし悪化したら、最悪の場合、二度と腕が使えなくなりますよ」
 拙斎はすっと目を細くした。その隙間から漏れる光が土方を射抜く。拙斎の言葉は脅しではないことを感じ取り、は表情を固くし、 土方はぐっと拳を握り締めた。
 「それに、元々あまり調子がよくなかったのではありませんか? 出血したからという以外に、顔が青白いように見受けられました」
 「そんなことまでおわかりなのですか?」
 近藤が拙斎の言葉に息を呑んだ。
 拙斎は首肯し、山南が元来、軽くはない貧血であるかもしれないので、栄養を摂らせるようにとも言った。
 「こちらにはいつまでおられますか?」
 「上様が伏見に参られるまで」
 「左様ですか。ではそれまで何度か様子を見に伺います」
 「助かります」

 「あの小さいお侍さんが傷口をきれいにしてくれたお陰で、手早く診察できました。お礼を言っておいて下さい。では、また」
 拙斎は頭を軽く下げ、弟子と共に帰っていった。
 近藤たちはその後姿を見送って、京屋の中へと戻っていった。

 山南が横たわる部屋の前の廊下には、心配した隊士たちが群がっていた。
 「見世物じゃねえ、散れ!」
 土方が怒鳴りつけると、隊士たちは蜘蛛の子を散らすように自分たちの部屋に戻っていった。
 部屋の中には山南と、見守る神谷の姿があった。
 「どうだ、山南さん」
 近藤が枕元に膝をついた。
 「…みっともない、情けないよ」
 おそらく話すたびに傷口が痛むのだろう、山南は時折顔をしかめながら小さな声で呟く。
 「そんなことはない。山南さんは立派に戦ったじゃないか。ゆっくり養生してくれ」
 近藤は山南の左腕の袖から覗く白い包帯に目を落とした。
 「ゆっくりなんかしてもらっちゃ困る。さっさと治してくれ」
 立ったまま土方は山南を一瞥した。
 「それひどくないですか」
 眉間に皺を寄せて神谷が口を尖らせた。
 「山南さんの世話は神谷に任せる。、お前も暇なら手伝ってやれ」
 「…はーい」
 「かしこまりました」
 「近藤さん、下っ端どもが浮き足立っているかもしれねえ。あんたは一階の部屋を回って事情を説明してくれ。上様の御上洛まで予定通り 巡察を行ない、騒ぎを起こさないようにもな。俺は二階を回る」
 そう言うと土方はすぐに部屋を出て行き、近藤も山南に動かないようにと声を掛けて去っていった。

 「まったく、あの鬼副長はあんな言い方してっ。あれじゃあ山南先生がゆっくり養生できないじゃないですか!」
 障子が閉まると同時に神谷は口を開いた。
 「はは…君、君はどう見る…?」
 神谷の言葉を否定も肯定もせず、青い顔をしながら山南はを見遣った。
 「…私には、土方さんが山南副長のお気持ちを代弁したように思えます」
 は障子に目をやった。
 近藤にゆっくり休めと言われても反論できる状態でない。将軍警護という任務の中、凶刃に倒れてしまったのが悔しくて仕方ない。 そんな山南の心のうちを見透かし、巧妙に隠して言葉にしたのに違いない。はそう思った。
 「どちらも正解」
 山南は神谷との両方を交互に見た。
 「…痛い」
 「あぁ山南先生、駄目ですよ動いちゃ。しばらくは天井とにらめっこしててください」
 神谷が山南の布団を掛け直し、上からぽんぽんと叩いた。
 「せめて本でも読めればいいんだがね」
 山南が苦笑する。
 「駄目ですってば。どうしてこう、新選組には困った人が多いんですかね!」
 神谷は腕組みをして山南をにらみつけた。
 その様子が何だか可愛らしく見えて、山南とはぷっと吹き出した。


 緒方拙斎は次の日もその次の日も京屋にやって来て、山南の様子を伺った。
 「御上洛が十四日と決まったのですが、山南さんをその時一緒に京へと帰らせることはできそうですか?」
 診察を終えた拙斎に、近藤が聞いた。
 「出血も止まったし、患部を動かさないようにすれば大丈夫でしょう。京に私の知り合いの医者がいます。紹介の文を書きますから、 京へ戻ったらそこへ世話になるといいでしょう」
 拙斎は筆と紙を所望し、傍に控えていたが用意したものを使って文を書いた。
 「何から何までかたじけない。恩に着ます」
 近藤は文を受け取ると、大事そうに懐へとしまった。
 「今一度申し上げますが、絶対に無理はさせないように。山南さんにはまだまだ働いていただきたいでしょう?」
 「はい、もちろんです」
 拙斎は首を曲げて神谷へと視線を移した。
 「しかし、まさか神谷さんが順天堂ゆかりの方とは思いませんでしたよ。“東の順天堂”の、ね」
 にこりと拙斎は笑みを浮かべた。拙斎と神谷は診察の合間に話し、それぞれが蘭医の家系だとわかったのだ。
 「私の方こそ、順天堂と肩を並べるところの方だなんて」
 蘭学の双璧である、西の適塾と東の順天堂の縁者がこのような形で出会うとは。その場にいる誰もが、偶然の織り成す綾に驚いていた。
 「神谷さんがいてくだされば、山南さんが京に行っても安心してお任せできます」
 「そ、そんな、拙斎先生」
 神谷は赤くなって下を向いた。



 三日後、十四日。
 新選組の面々は、まだ暗い中、白い息を吐きながら船に乗り込んだ。先供として京に戻り、後から来る将軍がまず入る伏見奉行所の警護を するためである。
 先頭の船に近藤と土方、それに一番隊と二番隊が乗り、最後の船に山南と八番隊が収まった。八番隊副長助勤で、山南と同じ剣流の藤堂が、山南の同行を買って出た。
 空は雲が晴れず、星が全く見えない。
 は、土方たちが乗る先発の船が、きらきらと光る水面の奥へと消えていくのをぼんやりと眺めていた。
 「大丈夫かい?」
 その言葉にが視線を落とすと、横になったまま船に乗せられた山南がを見上げていた。
 「はい、大丈夫です」
 慣れない土地に長くいて疲れが出始めたのだろう、しかしそんなことではいけないとは背筋を正した。
 「悪いね、本当なら土方君と同じ船に乗っていくはずなのに」
 の視線の先に土方の船があるのを知っている山南は、軽い口調で謝った。
 「別に、どの船に乗っても京へ着くなら同じですよ」
 それを至極まともに受けたは真面目に答えた。
 「そうかな? 今の視線は意味ありげに見えたけど」
 「山南副長…」
 確かに土方の船を視界に捕らえていたけれども、それはただ単に眺めていただけだ。そう、それだけ。は小さくため息をついた。


 拙斎から預かった山南の包帯や清拭の道具を抱え、神谷が船に乗り込んできた。
 八番隊の全員、山南、神谷、そしてが乗ったのを藤堂が確認すると、船は薄明るくなってきた空に背を向けて漕ぎ出した。

 (そう言えば…)
 は流れに棹を差して川を上ってゆく船に揺られながら、ふと思った。
 (こちらに来るときは川の流れに沿って下ってきたけど、帰りは川を逆に行くのにどうするのだろう…)
 元の時代ならば川を遡るのに機械の力を使えば何と言うことは無いが、この時代では何の装置もついていないただの船で、 どのように川を逆行していくのだろうかとは疑問に思った。
 山南の容態も安定しているし、船の上では特にすることもない。は船頭たちの動きに注目することにした。

 天神橋の南側の足元を出発した船は、一度川を横断して、天神橋より一本東にある天満橋北側についた。 すると船頭を残して、五人の水主(かこ)が全員船から降りた。水主は船から伸びている綱を一本ずつ手に持つと、掛け声を合わせてぐっと引っ張った。
 水主たちが、川べりに設けられた堤の上を、綱を引きながら歩く。そのまま船は大川を遡上し、小一時間ほどで中川の分岐点に到着した。
 ここで水主たちが船に飛び乗り、船は対岸へと棹を操って移動していく。そしてまた水主たちは船を下り、綱で船を曳いた。

 毛馬、赤川、三番、江口、一ッ屋と、対岸に渡っては堤の上を曳くのを繰り返すと、船はこの行程でもっとも長く船が曳かれる約二里の道程に入った。
 縦縞の単に木綿縫いの襦袢、紺色の亀甲腹掛け、濃い紺の帯を身につけている水主たちは、同じく紺色の足袋を土埃で茶色く汚しながら 力強く船を曳いていく。
 枚方に着くと、船の周りを小舟が取り囲んで、餅や酒などを買わせようとした。この辺りの名物で、「くらわんか船」というらしい。 も目の前に握り飯やら酒やらをつきつけられ、断るのに必死になった。

 船の旅は順調だった。対岸に渡っては水主たちが堤の上を曳き歩いたり、水深が浅いところは棹をさして乗り切ったりを繰り返し、船は大坂街道の宿駅 である橋本へと着いた。八軒家のように、川岸に建物が立ち並ぶ。朝日はすでに上っており、雲の切れ間からたまに差し込む光が建物の屋根を薄く照らした。
 さらに船は進み、橋本の町外れの樋之上まで曳航された。ここからは棹の出番がもっとも多い。淀の小橋までの約三十キロは、道中の棹さし区間の中で もっとも長い。
 小橋からはまた船を曳き、川の流れが速いところでは綱引き人足を加勢させて、船はどんどん川を上る。
 三栖入り口からは伏見はもうすぐだ。約十キロを棹さしで上りきり、船は京橋の南詰へとその影をつけた。

 曳き船は合計で九回、八里(約三十二キロ)余り、棹さしでの曳航は十回を超えた。そのたびに水主たちは船から飛び降りたり飛び乗ったりして、 綱を引いたり棹を操ったり。伏見に着いたときには厳寒のうす曇の下で汗だくになっていた。


 八番隊は先行した土方たちと合流するべく、伏見奉行所に向かった。
 山南は駕籠に乗せられて、前川邸までゆっくりと移動することになった。と神谷もそれに付き従い、二刻近く歩いていった。


 新選組は伏見奉行所の裏手を警備し、後から船で遡航してきた将軍が奉行所へと無事に入るのを見届けた。
 そこで一晩過ごし、翌朝、将軍徳川家茂は二条城へと入城した。新選組も最後列からそれに付き従った。
 こうして十三日間に渡る将軍の警護は幕を下ろし、新選組一同は屯所へと帰還した。



 「お疲れ様でした」
 は山南が眠っている間に、帰営した土方たちに茶を出した。
 「山南さんの具合はどうだい?」
 近藤が飲みやすい温度に淹れられた茶を啜りながら聞いてきた。
 「だいぶ落ち着いてきたようで、ここ二日ほどは夜もよくお休みになっていらっしゃいます」
 とは答えた。
 はじめのうちは傷口が熱を持って痛んだようで、山南は眠っては痛みで起きるのを繰り返していた。が、屯所に戻ってきた辺りからやっと小康状態に なったようで、眠りについている時間が長くなってきていた。

 「トシ?」
 近藤が、難しい顔をして胡坐をかいている土方に声を掛けた。
 「…さっき源さんと顔を合わせたんで聞いてみたが、まだ山崎から連絡がねえ」
 僅かに苛立ちを含んだ声で土方が答えた。
 もしかしたら大坂でなく屯所に連絡が行っているかもしれないと土方は思ったが、留守を預かっていた井上に聞いてみてもその気配は無かった。
 「山崎君から?」
 近藤が訝しげに眉を寄せる。
 将軍が大坂に到着した日の夜、土方が山崎からの連絡が無いのを気にしていたのを近藤もも思い出した。


 かさり。
 その時、障子の外で小さな物音がした。
 「誰だ」
 土方が懐手を解いて立ち上がり、障子の傍へと身を移した。
 「副長はん、山崎です」
 その声を確認すると土方は障子を開いた。そこにはたった今噂をしていた山崎が座っていた。
 「山崎、まったく連絡を寄越さねえとはどういうこった」
 ため息と共に土方が文句を吐き出した。
 「えらいすんまへん。少々大坂を離れておりましたさかいに」
 山崎は苦笑いをしながら部屋の中へ入ると、近藤の前へと静かに膝を進めた。

 「大坂を離れていたって…何があった?」
 土方が近藤の横に座り、山崎の顔を覗き込んだ。
 幾分やつれたその顔には疲労が浮かんでいたが、山崎は目に剣呑な光を湛えて言った。

 「まだうすぼんやりとしかわからんのですが、長州勢に不穏な動きが見られますのんや」

 「何?」
 近藤は思わず膝を乗り出し、土方も目の色を変えた。


 「もしかしたら…今回の警護どころでない事態に発展するかもしれまへん」


 「何だと…?」
 近藤は細い目をさらに細めた。
 土方は自分の勘が当たっていたことで複雑な心境になったが、それを表には出さずにいた。
 にはまだよくわからなったが、これから山崎が話すこと、そしてその後に起こることに充分注意せねばならないことだけは直感した。



 山崎の行動も、土方の勘も、の直感も正しかった。
 まだこの時は小さな種だったが、後にこの種は大きく育ち、祇園祭の宵山を血飛沫で染め上げることになる。

 池田屋事件。
 新選組史でもっとも有名な、後世に語り継がれる物語の幕開けであった。




 20080220








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 本章の参考文献:
『知れば知るほど面白い 土方歳三』 藤堂利寿 学研 2004年
『大江戸復元図鑑<武士編>』 笹間良彦 遊子館 2004年
『歴史読本クロニクル 土方歳三の35年』 新人物往来社 1998年
『評伝 大鳥圭介 威ありて、猛からず』 高崎哲郎 鹿島出版会 2008年
『福沢諭吉と福翁自伝』 鹿野政直 朝日新聞社 1998年
『会津藩と新選組』 歴史春秋社 2003年
『図解 江戸の四季と暮らし』 河合敦監修 学習研究社 2009年
『城と城下町 大坂 大阪』 渡辺武監修 学習研究社 2008年
『ものと人間の分文化史76-U 和船U』 石丸謙治 法政大学出版局 1995年