嵐の序曲 6
それは将軍が大坂へ着いた翌日のことだった。
近藤たちは会津藩の宿舎を訪れた。今度は十四日に大坂から京へと先んじて乗り込み、伏見にて待機するように
申し付けられた。
「大坂での行動を、肥後守様は高く評価しておられるぞ」
と公用方で今回の会津藩の陣頭指揮をとっている神保内蔵之助がしわがれた声で告げた。
新選組の預かり元である会津藩主松平容保は大坂における新選組の行動を全て把握しており、警護時の進軍は勿論のこと、
周囲へのまめな見回りにも感心していた。
「今は大坂城に詰めていらっしゃるが、上様が京にお入りになり、周囲が落ち着いたらまたそなたらに会いたいとおっしゃっている。
ご期待に背くことの無いよう、しっかり働くようにな」
「ははっ」
「わしも期待しておる」
平伏する近藤たち三人に、神保は白髪だらけの頭を向け、鋭い視線を投げた。
近藤たちはずしりと重たい空気を肌で感じ、将軍警護と言う自分たちの任務の重さを改めて肝に銘じた。
「肥後守様が…」
帰り道に近藤がぽつりと呟いた。こちらに来てから一度も目通りをしていない自分たちを、松平容保はしっかり見ていてくれていたのだと思うと
感動を抑え切れなかった。
山南も近藤の気持ちを汲んで頷いた。
土方は見張られてるだけじゃねえのかと穿った見方をしたが、それを口には出さなかった。
きっと斉藤が逐一報告しているのだろう。
しかし、逆にこれはいい機会だ。ここで卒なくこの任務をこなせば、御預としてより多くの信頼を勝ち取ることが出来る。
ご親藩である会津藩に認められることは、会津藩に下りた命令を早く受け取れることにも繋がる。土方はそこを利用しようと思っていた。
「我々も少し見回りをしてから帰らないか?」
と山南が言い出した。
「それはいいが山南さん、具合が悪いんじゃないのか?」
近藤が山南の顔を覗き込んで言った。
「ずっと静かにしていたから、少し体を動かしておきたいんだよ」
大丈夫、と山南は笑みを見せて袴の裾を捌いた。
「まあいいんじゃねえか。俺らも見回りに出りゃあ下っ端どもだって文句は言わねえだろうし。ただ、無理はされちゃ困るがな」
土方はちらりと山南を見遣るとさっと背を向けて歩き出した。
三人は会津藩の宿舎を出ると本町通へと入った。本町通は北を大川、東を東横堀川、南を長堀川、西を西横堀川に囲まれたいわゆる“船場”と呼ばれる区域の
中央を横に貫く通りである。ここから北を“北船場”と呼び、蔵元や両替商、薬種問屋など、商都大坂を象徴する店構えが立ち並んでいる。さらに
岩城・三井と言った呉服商や、先日が訪れた適塾、商人たちが金を出し合い町人だけでなく武士にも聴講の道を開いた塾の懐徳堂などもある。
本町通をまっすぐ歩き、右側に大坂西本願寺が見えてきたところで近藤たちは道を北上した。そして適当なところで東に曲がり、橋を渡った。
「そういえばこの辺りには平野さんがいたな」
ふと近藤が思い出して周囲を見渡した。平野とは両替商の平野屋五兵衛のことで、芹沢がかつて大坂に出向いて無理やり金策に及んだ経緯がある。
近藤は人に道を尋ねながら平野屋へ赴き、芹沢の非礼を詫びて行った。
(こういう律儀なところがかっちゃんなんだよな)
平野屋の主人に向かってひたすら頭を下げる近藤の後ろで、土方は小さく笑った。
「寄ってくれてありがとう。すっきりしたよ」
近藤は平野屋から出てくると晴れやかな顔で土方と山南に礼を述べた。
「よかったな」
「ああ。…山南さん、少し疲れたか? そろそろ帰ろう」
近藤が山南の顔を見ると、疲労の色がうっすらと見えてきていた。
「大丈夫だよ。心配かけて悪いね」
そう言うと山南は背筋を伸ばした。傍目にはきちんとしているように見えるが、近藤と土方には万全ではない様子がありありと伝わってきた。
辺りの様子に気を配りつつ、三人は今橋を渡った。天神橋がすぐそこに弧を描いており、八軒家の京屋が見えてきた。
怪しい気配もなく、無事に京屋まで戻って来られたことに土方は内心ほっとした。
と、その時、後ろから乱れた足音が近づいてきた。
「お、お侍さん、助けておくんなはれっ」
男が一人、近藤の後ろを歩く山南にしがみついてきた。
「どうしたのですか」
山南が振り向き、その男の顔を見る。
「浪士どもが店に金策に来たんやけど、断ったらいきなり…」
ガタガタと震えながら話すその男の袖は、鋭利な刃物で切られた跡があった。
「わかった、場所はどこだ」
山南は男の腕を掴んで立たせると、きっと視線を鋭くした。
「こっちへ」
男は身を翻し、来た道を戻って行った。山南も腰の二本に目を落としてからそれに続く。
近藤と土方も目を合わせて軽く頷き、山南の後を追っていった。
男に案内されてたどり着いたのは、東横堀川の北から二本目にかかる高麗橋を越えてすぐの呉服商、岩城升屋だった。
入り口を人垣が遠巻きにし、空気が張り詰めていた。
どさり、と何かが地面に転がる音がすると、人垣がわっと後ろへ引き、女子の悲鳴があちこちから上がった。
「だ、旦那はん!」
山南たちを連れてきた男が人を割ってその中に入った。
地面に転がっていたのはその店の主人、岩城九右衛門だった。
「天下のために働いとる我らに金を出せへんとはどういうことや、ああ? 岩城?」
倒れている岩城に向かって、店の暖簾を掻き分けながらドスの聞いた声が話しかける。
抜き身を日に光らせて、金策に来た浪士と思しき男たちが店から出てきた。
岩城は突き飛ばされた痛みを堪えて浪士たちを見上げた。
「何やその目は」
浪士のうちの一人が岩城の顔の前に剣の切っ先を突きつけた。
「こんだけの大店や、我らに少し融通するぐらい、何ともあらへんやろ!」
金を出せと鋭く叫び、その浪士はひゅんと刀を横に薙いだ。周りは恐怖の声を上げ、岩城は目を瞑ったが、ただの脅しだった。
「待て!」
人垣を割って、山南が岩城の前に飛び出した。低い姿勢で岩城たちを背にかばう。
「何やお主は」
抜いた刀を肩に担ぎ、浪士は山南を見下ろした。
「会津藩御預、新選組副長、山南敬介」
山南は相手の動きに注意を払いながら名乗りを上げた。
「新選組? 知らんな、そんなもんは」
ぺっと地面につばを吐き、浪士は刀を体の前に持ってきて構えた。
「そいつをこっちへ渡してもらおうか。邪魔立てするならこちらにも考えがあるが」
ちゃき、と小さな音を立て、浪士は身構えた。周囲の人々から再び恐怖の悲鳴が上がる。
「そちらこそ、このままここから去るなら見逃してやってもいい。去れ」
ゆっくりと、山南は立ち上がった。
「阿呆が、殺されたいか!」
言うが早いか、浪士は山南に向かって銀色の刃を振り下ろした。
きぃん、と打ち合う音がした。
浪士は、山南がいつの間に刀を抜き、自分の放った刃を退けたのかまったくわからなかった。気がついたら、手に打ち合いの振動が伝わり、相手が刀を
抜いてこちらに向かって構えていた。
じり、じり、と、草鞋が砂を食む。
のろのろと時が動くに従い、山南の神経は研ぎ澄まされていった。
「く、はあっ!」
その緊張感に我慢できなくなった相手が山南の間合いに飛び込んできた。
山南の剣が相手の動線と重なり、血しぶきが空を染めた。
「うわあああ!」
と、後ろからもう一人の浪士が山南に振りかぶってきた。
山南はその声に振り向き、手にしている刀で斬りつけた。
しかし、山南の剣が届く前に浪士はばたりと地面に倒れ伏した。
「危ないじゃないか、山南さん」
血を滴らせた近藤がにっと笑った。
「ありがとう、局長」
ふっと山南も笑みを漏らした。そして周囲を見渡した。
岩城升屋から少し離れたところに土方がおり、その足元にはすでに事切れた男が転がっていた。
「大坂も物騒だな」
近藤が呟く。
「ああ、俺たちもちょっと前まではそういう目で見られてたわけだがな」
土方が懐紙で刀の血を拭き取りながら近藤たちに歩み寄ってきた。芹沢たちがいた頃は大坂でも無理な金策をされていたので、壬生浪士組の評判は最悪だった。
芹沢を粛清し、近藤が出るときには出たため、今はだいぶ新選組の印象は回復してきている。
「…っ」
ふらりと山南が足元を乱した。
「大丈夫か、山南さん」
近藤が脇から支える。
「ちょっと血の臭いにあてられたようだ…」
う、と口に手をやり、山南は下を向いた。
「岩城さん、すみませんが水を一杯所望したい」
へたりこんでいる岩城に向かい、近藤が頼んだ。
「へ、へえ、今すぐ」
岩城はやっと気を取り直して、店の者に水を持ってくるように言いつけた。
「ふう…ありがとうございます、ご主人」
座って水を飲んだ山南は、湯飲み茶碗を返しながら岩城に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそおおきに。おかげさんで助かりましたわ」
岩城も人心地がついたところで山南たちに礼を述べた。
「会津藩御預の新選組…とは、京の壬生の?」
「ご存知でしたか?」
近藤がぱっと喜びを顔中に広げた。
「へえ」
岩城が頷く。
「た、大変や! 鴻池に浪士が!」
乱れた足音を立てて、前掛けをした男が道に現れた。
「まさか…別のところにも同時に金策に?」
近藤が表情を引き締めてその男を見た。
「え、もしかして岩城はんのところもでっか? お侍さん、後生どす、うちも助けとくんなはれ!」
前掛けの男は手をこすり合わせて近藤の前に這いつくばった。
「わかった、すぐに行こう。岩城さん、この者たちを奉行所に届けておいてくれないか。後で新選組局長、近藤勇が行くとも伝えておいて欲しい」
そう近藤は言い残し、前掛けの男と共に素早く道を走っていった。
「山南さん、立てるか」
土方は山南に向かって手を差し出した。
「ああ」
まだ顔色は良くないが、山南はしっかりと土方の手を握って立ち上がった。
そして二人とも、近藤たちが走っていった後を追いかけた。
岩城升屋よりも北に通を走り、西に少し行ったすぐ角に、両替商の鴻池善右衛門があった。
そこにも遠巻きに人だかりが出来ていた。
「あちらどす」
息を切らせながら前掛けの男が言った。近藤が大きく頷いて人だかりを掻き分ける。
人が途切れたところに、金策に来た浪士がいた。すでに片手には金を包んだらしき袋があり、もう片方の手には刀がぶら下がっていた。
浪士は刀を収め、意気揚々と鴻池を後にするところだった。
「待たれよ!」
近藤が声を掛けた。浪士たちは、腹の底に響くような大声に顔を向けた。
「何や」
先頭を歩く浪士が懐に金を押し込みながら答えた。
「その金、鴻池さんに戻してもらいたい」
近藤が仁王立ちで浪士に言った。
「断る。何の関係もない者が口を出すな。この金はお国のため、我らのために使うものである」
相手は鍔元に手をやり、これ以上言うなら斬ると言わんばかりにぐいっと刀を見せつけた。後ろに三人ほど続いていたが、その者たちも同様に刀に手をかけた。
「もう一度言う。その金を、鴻池さんに戻してくれ」
近藤はゆっくりと、一言ずつ相手に要求を告げた。
「問答は無用のようやな…」
浪士たちの鯉口が斬られ、銀色の刀身がその身を現した。
近藤も、追いついた土方と山南も同じく刀を抜いた。
「岩城升屋を襲ったのもお前たちの仲間なのか?」
柄を握り締め、柄糸の感触を確かめながら近藤が問うた。
「何? …もしやお主ら、岩城の方に行ったのか?」
懐に金を押し込んだ浪士が驚いて構えを緩めた。
「ああ、寸でのところで斬り伏せたがな」
「何だと?! この…っ!」
「やっちまえ!」
近藤の言葉に浪士たちは我を忘れ、一斉に斬りかかってきた。どうやら近藤の読みは当たり、岩城と鴻池を襲った浪士たちは同じ集団のもののようだった。
近藤が先頭の男の刀を受け、数合打ち合った後に相手の喉元を斬った。
その後に出てきた男に土方は斬りかかり、これもすぐに倒した。
「うわあっ!」
三人目の男を山南が袈裟斬りにした。
返り血を浴びて山南は膝をつく。目の前がくらくらと揺れだしたのだ。
そこへ四人目の男が踊りかかった。
「山南さん!」
近藤が叫んだが遅かった。
目頭を押さえて顔を上げた山南は、四人目の浪士に左から斬りかかられ、防いだ刀ごと後ろに倒された。
浪士は人を斬る恐怖に支配され、滅茶苦茶に刀を振り回した。
ざくり、とその切っ先が山南の左腕を襲い、黒い羽織に切れ目が入った。
その浪士の動きが突然ぴたりと止まり、どっと地面にその身を投げた。
土方が真後ろから刀を振り下ろしたのだった。
「山南さん!」
近藤と土方は刀を拭う間も惜しんで鞘にそれをしまうと山南に駆け寄った。
「すまない…」
山南はうめきながら左腕を押さえている。
「今すぐ運んで、医者に診せてやるからな! しっかりするんだ!」
近藤は手拭いを取り出し、血の溢れ出る山南の左腕に巻きつけた。白い手拭いはどんどん真紅に染まってゆく。
そこへ鴻池の主人、善右衛門がやって来た。
「お助けいただき、ありが」
「礼などいらん。それより戸板と奉公人を数名貸していただきたい。怪我人を運ぶ」
土方は顔にかかった血を袖で拭いながら鴻池に言った。
鴻池は山南を見ると慌てて店の中に飛び込み、戸板と奉公人をすぐに用意した。
そして山南を乗せると、京屋へと駆け足で運んでいった。
「誰かいないか!」
京屋に駆け込むなり、近藤は大声を出した。
「へえ」
と店の者が営業用の笑顔で出てきた。が、近藤の後ろから入れられてきた山南を見るなり、腰を抜かしてしまった。
「局長?」
声が聞こえたようで、とんとんと二階からが降りてきた。
「山口君、一階の部屋をどこか一部屋空けて布団を敷いてくれ! 急いで!」
「は、はいっ」
は近藤の声に気圧されて、すぐ言うとおりにした。
入り口に一番近い部屋には藤堂の八番隊が寝泊りしていたが、そこをすぐに空けてもらい、布団を一組用意した。
戸板の上で目を固く瞑った山南を見て、は絶句した。
着ているものは血でびしょ濡れになっており、このままでは布団がすぐに役に立たなくなってしまう。
は二階に駆け上がり、山南の荷物を持ってきた。そして手伝いながら戸板の上で着替えさせ、それから布団に移した。
「医者だ。京屋さんに言って、近くの医者を呼んできてもらってくれ」
「はい」
は血にまみれた手を懐紙でさっと拭くと、部屋を出た。
(お医者…?)
騒ぎを聞きつけて出てきた京屋に医者を頼もうとして、はふと言葉を止めた。
(緒方先生)
頭の中に、先日訪問した適塾の緒方拙斎が思い浮かんだ。
(あの方も確か蘭医…お医者だ)
はぐっと拳を握ると外へと飛び出した。
今橋を渡り、川沿いの道を駆ける。
歩いていっても適塾まではそうはかからなかったから、走ればなおのことだ。
走りにくい袴の両脇を持って、はひたすら走った。
「お前、意外と足早いな」
その時、後ろから声がした。
「土方さん!」
「ぽんと飛び出していくからどこに行くのかと思ってよ」
同じ速度でついて行きながら、土方はふっと笑った。邪魔にならないように部屋を出たところでの姿を見て、彼女が医者を頼んだ様子もなく
京屋を出て行ったので、何事かと思って後を追ってきたのだ。
「適塾の、緒方先生を、お呼びします。医者だと、おっしゃって、いたので」
道を間違えないようによく見ながらは言った。
「そうか」
土方が短く答えた。
「こちらです」
は栴檀木橋が見えてきたところで角を曲がった。土方もそれに続いた。
適塾はもうすぐそこだ。
20080212