嵐の序曲 2
は永倉たちと共に三十石船に乗り、大坂へと向かった。
朝の小雪が嘘のような晴天、ゆったりとした波の動き。乗り込むときはおそるおそるだったも、舟が川岸を離れて安定した動きを見せるに従い
気を緩めていった。急に大坂へ赴き適塾訪問の代役を務めることになったが、とりあえず無事に舟に乗れてよかったと小さく息を吐く。
は舟の中ほどより少し前に座らされた。前を見ると、二人の水主(かこ)が川に棹を差して舟の進行方向を調整していた。
「荷物には気をつけろよ、落とさねえようにな。降りるときは特にだぞ」
の隣に座る永倉が彼女の荷物をぽんぽんと叩いて言った。は風呂敷包みをしっかり抱えると、返事をして頷いた。
はじめはざわついていた舟の上も、航程が進み日が中天から大きく傾いてきた頃になると静かになってきた。皆そろそろ同じ姿勢で疲れてきたらしい。
も姿勢を崩さずに座っていて足腰が痛くなったので、永倉にぶつからないように気をつけながら体のあちこちを伸ばした。
さらに舟が進むと、は眠くなってきた。朝から黒谷を往復し、馬に乗せてもらったとはいえ伏見まで移動し、長時間舟に乗っている。
さすがに疲労は隠せなかった。荷物はしっかり胸元に抱えたまま、は目を瞑った。
「、ほら荷物寄越せ」
は肩を揺さぶられて目を開けた。永倉が自分の目の前に手を出している。
「持っててやるよ。まだかかるから少し寝てろ」
永倉はから荷物を受け取った。
「すみません、お願いします…」
少しでも眠って舟から降りる時にはしゃきっとしていたほうがいいと判断したは、永倉の言葉に甘えて仮眠をとることにした。
「体力ねえなあ」
永倉は笑ってに背を向けた。
は再び目を瞑ると、うとうととし始めた。
時折冬の冷たい川風が吹き付けてきたが、船上は定員ぎりぎりに乗ってぎっしり詰まっているため、は人の壁に守られていた。
「着いたぞ、起きろ」
肩を揺すられては目を覚ました。黒い羽織の壁がぞろぞろと舟を降りている。
も慌てて立ち上がり、揺れる足元に気をつけて舟から降りた。
は船着場の石段を上がり、周りの様子を伺った。
すでに日は落ち、辺りは暗闇に包まれている。川岸に沿って立つ建物の明かりが遠くまで連なり、まだこの先にも川が続いていることを知らせていた。
ふと横を向くと闇の中に一層黒い影が聳え立っており、川をまたいでこちらの岸と向こうの岸を繋いでいる。
「天神橋だ。、お前大坂は初めて来たのか?」
永倉が同じく黒い影を眺めながら聞いた。
「はい。すごい…大きいですね…」
夜なのでよく見えないが、木でできた脚の高い橋が緩い弧を描きながら広い川の向こうまで続いている。
「まあよく見るのは明日にしろ。今夜はもう遅いから宿に入ろうぜ」
永倉がああ寒いと言いながら身を縮めて白い息を吐く。
も襟巻きを口元まで引き上げて、冷たい外気が入ってこないようにした。
新選組の一行が舟を着けたのは、京都伏見と大坂を結ぶ水運の発着場大坂の八軒家である。
そしてここには新選組が大坂に出入りするための大事な宿があった。
「よう京屋さん、もう局長たちはお着きかい?」
宿の入り口を開け、永倉はずかずかと中に入っていった。
「永倉はん、長旅お疲れ様どしたな。近藤はんはもうお二階でっせ」
その永倉を丁寧な物腰で出迎えたのがこの宿の主人、京屋忠兵衛。新選組が壬生浪士組であり芹沢が存命の時からここは大坂到着の際の新選組の拠点である。
「あー寒い寒い〜〜〜!!」
永倉との後ろから、原田や藤堂を先頭にして隊士たちがどやどやと入り込んできた。
「今年もよろしくな。新年早々にぎやかで悪いが、世話になるぜ」
「とんでもない。こちらも商売でっさかい、よろしゅう頼みます」
愛想笑いを浮かべながら京屋は隊士たちを部屋へ案内した。大坂に警護に来るのは新選組だけでなく、在京の多くの武士たちもそうであるがために、
大阪城近辺の宿や寺社は人でいっぱいだった。新選組は懇意にしている京屋に頼み、貸切にしてもらった。
が、京屋一軒になんとか入るように、ひと部屋に多くの隊士が詰め込まれるようになっていた。
「お前は馬鹿か?!」
土方はが目の前に現れると開口一番に怒鳴りつけた。
「あんなところであんなデケえ声で俺を呼ぶ必要がどこにあった? おかげでこっちはこっ恥ずかしいったらありゃしねえ」
「まあまあ土方君、そう怒らなくても…」
同室の山南が土方をなだめる。
は伏見の川岸で実際に大声を出したのは島田だが、その大元の原因は自分にある。は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません。もし一緒に連れて行っていただけたらと思っていたので」
「連れて行って? それに何だってお前が大坂に来ている?」
土方は腕を組み、厳しい目つきでを見据えた。留守番であったはずのが何故ここにいるのか。当然の質問だ。
「実は…」
は黒谷に着いた途端に大坂行きを命じられたことを話した。
「へえ、適塾に行くのかい? それはすごいね」
山南は感心して身を乗り出した。
「代役です。勤まるといいのですが」
は言葉少なに答えた。
「大丈夫だよ。君だって今まで真面目にやってきたじゃないか」
「…恐れ入ります」
山南の励ましは有り難かったが、には自信がなかった。くじで自分の大坂行きを引き当てた
海老原のやる気に不足なく適塾訪問を終えられるようにしなければならない。どのようにしたら
無事に、立派にやり遂げることが出来るだろう。疲れと眠気の覚めた今、の頭を占めているのはそのことだ。
「そんなのはこいつが明日どうするかだ。今夜はもう寝ろ。この部屋にもうひとつぐれえ布団敷けるだろ」
土方は京屋に布団をもう一組所望するつもりで立ち上がった。
「土方さん、私は代役で来たので、海老原さんが泊まる予定だったところへ行こうと思います」
「あ?」
海老原の代わりなのだから、海老原が泊まるべきところへ行くのが筋だろうとは考えた。
だが土方にしてみれば、もしが女だと露見してしまったらと気が気ではない。もし今山南が同じ部屋におらず二人きりだったら
即刻説教でもかますところだ。
「えっと…確かここにいただいた書き付けが…」
は外島からもらった書き付けを探した。
「…?」
胸元に押し込んだ帳面の間に挟みこんだと思ったが、帳面の中には何も挟まっていなかった。矢立も出して、着込んだ袷の着物の間や
帯の間、袂まで丁寧に探ってみたが、どこにもない。風呂敷も解いて、畳の上に中身を広げてみた。
「まさかお前」
その様子を見て土方は目を眇めた。
「落としたみたい…です」
ははあとため息をついた。
「ってなわけで近藤さん、この間抜けを今夜はここに泊める。狭いが勘弁してくれ」
「はは、わかった。ゆっくりは出来ないかもしれないが、少しは休んでくれ」
近藤が風呂から上がり部屋に戻ってきた。の姿を見て最初は驚いていたが、土方から簡単に事情の説明をうけると納得したようだ。
「そうか、急遽代役で…君も大変だな」
「いえ、それよりも申し訳ありません。ただでさえ皆さんでお部屋をお使いなのに、私まで」
適塾訪問のことだけでも気が重かったのに、適塾までの案内図と宿泊先の書き付けをなくしてしまい、は重ねて気が重くなった。
「適塾までの道順は明日京屋さんに聞けばいい。それに宿泊先のことも、会津藩の公用方がすでに大坂に来ているから、誰かに聞けば
わかるだろう。私が明日、公用方との話し合いの折に聞いてこよう」
近藤は明日の午前中に、会津藩の公用方と警護についての最終確認の話し合いをすることになっていた。その時にの宿泊先を聞いてきて
くれると言う。
「どうせこいつの腕前じゃ警護の頭数にもなりゃしねえ。だから今回も本当なら辞書の書き写しという名の留守番だったんだろ。今更こっちで
警護の列に加わっても無駄なんじゃねえのか」
「それはそうなんですけど…」
土方にずばりと言い当てられて、は苦笑いをしながら土方を見た。辞書の書き写しの作業が自分だけ遅れているのは本当だが、日頃黒谷での武道の稽古で
なかなか上達しない自分が警護で万が一のことがあっても役には立てないことも自覚している。黒谷の師範にもいつになったら少しは上達するのかと
いつも怒られている。
だが土方の本心はそこにはなかった。去年、黒谷で最初の辞書の書き写しをしていた時は、泊まりでもせまい人間関係の中であるし、
気をつけようと思えば何とか女子であることを隠し通すことが出来る範囲だった。しかし今回は団体行動であり、いつどこに誰の目があるか
わからない。風呂に入る時にでもその身を見られればたちまち女子であることが露見してしまう。そうなれば彼女自身が受けた適塾訪問の任務も、
黒谷での英吉利語を学ぶ仕事も、全てが水泡に帰してしまう。そしてそのことは自分と斉藤だけ責任があるものの、新選組を統括する者が会津公をたばかって
いたということで、組織全体に問題が波及してしまう恐れもあった。
だとしたら例え狭かろうと彼女をここに置いておくのが得策だ。自分の監視下においておけば、会津藩の中に放り込むより危険度はぐっと下がる。
女子だということがばれないようにするためは為すべきことをし、小さな偶然をも利用しろ。
土方は目でにそう語りかけた。
「近藤局長、あの、無理にでなくて結構ですので…」
土方の真意を受け取ったは近藤に向き直った。
「そうだな。話の流れもあるし、聞けたらということにしておこう」
明日の話し合いの主題は将軍警護についてであり、午後には松平容保も京から大坂にやって来る。先に来ている公用方も忙しいだろう。
そこへ末席の藩士一人の宿泊先の話題など出せるような雰囲気ではないかもしれない。近藤もそこは抑えるつもりだ。
「はい、お手数おかけして申し訳ありません」
とは言って手をついて近藤に頭を下げた。
「じゃあ俺は布団をもらってくる。、ついて来い」
「はい」
土方はを促すと障子を開いて廊下に出た。
薄暗い廊下には各部屋から隊士たちのざわめく声が漏れ出てきていた。
「迷子だけじゃ飽き足らずに今度は落し物か? たいしたタマだな」
土方はフンと鼻先で笑った。
「すみません、どこにやっちゃったのか…」
は土方より少しだけ後ろを歩きながら胸元と袂を探った。
「まあお陰で少しはましな方向に話が転がりそうだがな」
より露見しやすい環境の中に飛び込まずに済むかもしれないと言外に含めて、土方はを振り返った。
「お陰なのは土方さんです」
いつもこの人は私をさりげなく守ってくれる。言葉は一見悪いように見えるが、その奥にあるものを守るためにそうしていることを知っている。
そう思い、は小走りで土方に並ぶと、
「あの、ありがとうございます」
と小さな声で土方に告げた。
「…」
だが土方はちらりとを見遣っただけで返事をせず、どんどん廊下を歩いていく。
は返事がなくても満足だった。土方が本当は聞こえていても返事をしないことがあるのを知っているからだ。
二人は京屋に申し出て、の分の布団を借りると部屋へ戻っていった。
そして全員分の床を述べたが、刀や荷物を置くとどうしてもあと一組が敷けない。
そこでは押入れに寝ることにした。襖を外し、下の段に座布団を並べてその上に布団を敷いた。座布団を敷いたのは、
“板の上に布団そのままじゃ寒すぎるだろう”と山南が意見したからである。上の段に床を作らなかったのは、眠っている最中に上から落ちて
下で寝ている人に当たったら大変だとが思ったからである。
(そんなに寝相は悪くねえがな)
と土方は思った。は普段寝相が悪いどころか、池のあるほう、つまり障子に向かって体を傾けたら朝までほぼその格好なのを
知っているからだ。
布団に向かって左端から、山南、近藤、土方の順で布団に入った。土方の右には、押入れの下段に収まったがいる。
山南と近藤はすぐに眠りに落ちたようだが、土方はまだ目を開けていた。こちらに背を向けたが寝ていない様子だからだ。
おそらく明日の適塾訪問についていろいろと考えているのだろう。
土方は小さくため息をつくと、の掛け布団に手を伸ばした。それをぐっと上へ持ち上げてやり、少しだけ見えていた首の後ろを
布団で覆ってやった。がそれに反応してびくりと体を揺らす。
土方は布団から手を離すとの頭を何度か緩く撫でた。そして手を離し、寝返りを打ってに背を向けた。
は土方の手が自分の頭を撫でて離れたのを感じ、布団がごそりと動く音を背で聞いた。
励ましのつもりなのだろう、いつも土方はそういうことはほとんど口に出さない。
しかしは土方の気持ちを受け取り、心の奥底にしまうと自分も目を瞑った。
明日の適塾訪問、どうなろうとも精一杯やろうと思いながら。
20080116