久遠の空 ドリーム小説 嵐の序曲 1

嵐の序曲

update:2009.01.09

嵐の序曲 1 

 年が明け、新選組は二日から早々に仕事を開始した。
 十三代将軍・徳川家茂が上京するに当たり、大坂から京都までその警護の任を受けた。将軍上洛の噂を聞きつけた新選組が会津藩に交渉し、 列の末でもいいからと警護を願い出て、それが許されたのである。

 「留守は頼んだ」
 が黒谷へ出仕する直前に、土方は彼女に声を掛けた。今回、は大坂に同道しないことになっていた。馬から落ちて手首を傷めている間に 止まっていた辞書の書き写しを進めることになっており、会津藩の列にも新選組の中にも彼女の名前――山口誠の名――はなかった。
 「はい。かしこまりました。土方さんもお気をつけて」
 黒谷へ持参する荷物を傍らに置き、は土方に挨拶をした。隊務の重要な書類は同じく留守番の井上源三郎に管理してもらうので、 自分のすることは何もない。は昼間、黒谷へ行っているので井上に任せたほうが安全だからだ。だから何も頼まれることはないのだが、 夜だけでも彼の部屋の留守を預かるのには変わりない。
 これから数日は別行動。土方も斉藤もいなくなり、人の少ない屯所で留守をするは心細いが、井上をはじめ数人は残っている。はただ自分の仕事を まっとうしようとそれだけを心に秘め、立ち上がった。



 凍えるような寒さの中を、は黒谷へと歩いていった。屯所を出た時にちらついていた小雪は黒谷に近づくに連れてだんだんと止んできた。 黒い羽織についた白い結晶も、英吉利語の宿坊の前で軽くはたくとすぐに落ちた。
 「山口! 待っておったぞ」
 傘を閉じて宿坊へ入ると、公用方の外島機兵衛が授業の行われる部屋で待っていた。
 「外島様、ハーバーさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 は畳に手をつき、深々と挨拶をした。そして頭を上げて部屋を見渡した。今日は自分しか来ていない。 他の生徒の面々は将軍上洛の警護に加わっている。
 前を見ると、外島は黒い羽織に仙台平の縞袴という出で立ちであった。隣に座っているハーバーも、今日は外島と同じ格好の和服だった。緩く湾曲する金髪が 黒の羽織と美しい対比を見せ、伸ばした背筋と膝の上に軽く握った拳を置いての正座は、まるで本当に日本人であるかのように自然である。
 「ああ、よろしく頼む。ところで山口、この度皆が大坂に赴く際に、海老原が適塾を訪問する手はずになっておったことは知っておるな」
 「はい、存じております」
 は居住まいを正して外島に答えた。
 将軍警護のための大坂行きではあるが、外島は大坂と聞いてふとあることを思い出した。大坂の北浜には高名な蘭方医であり蘭学者の緒方洪庵が開いた“適塾”が あると聞いたことがあった。外にも自分たちと同じように外つ国の学問を学んでいる者たちがいると知れば、今は自分たちだけで勉学に励んでいる英吉利語習得の面々にとって 励みになるであろうし、互いに情報交換などをしていい刺激にもなるだろうと外島は踏んだのである。
 そこで適塾と連絡を取り、面会の約束を取り付けて、大坂に供奉する英吉利語習得メンバーの中から海老原を選んで適塾を訪問する手はずになっていた。
 年末に誰が大坂に向かうかは、くじ引きで決めた。は辞退したが、他の三人は誰もが自分が行きたいと主張したのである。そして海老原が印のついた 紙を引き当てたのだった。
 「その海老原が昨日から風邪を引いて寝込んでしまってな。かなりの高熱で動けないのだ」
 「え…」

 昨日は元日で、黒谷では朝早くから大方丈で重臣たちによる松平容保への拝謁があった。
 そこへ海老原が同じ宿坊で寝起きしている藩士に抱えられながらやって来て、風邪を引いて熱が出たと言い、下坂出来そうもないことを伝えた。相手と会う約束を している以上、海老原とて穴を開けたくはなかったが仕方がない。少しでも早く己の病状を訴え出て、代役を探す必要があった。
 しかし英吉利語の生徒四人のうち、石井藤太郎と内藤次郎衛門はすでに主君よりもひと足先に大坂へ向かい、海老原が倒れたとなれば…。
 「後はもうおぬししかおらぬ。代わりに行ってくれるな?」
 外島はじっとを見て言い放った。
 「私がですか?」
 「左様である。訪問日は明日だ。即刻準備して大坂へ向かえ。…何だその目は、文句でもあるのか」
 「い、いえ」
 はばっと平伏した。
 「確か新選組も警護に加わることになっておったな。もしまだ出かけていないようであれば合流して大坂へ行け」
 の心の内を知らない外島は、適塾までの案内図と路銀をの前に差し出した。
 「大坂の八軒家で船を下りたらこれを見て適塾まで赴くがよい。その後は同じ紙に書いてある宿舎まで行って海老原の代わりに泊まり、警護に加われ」
 「かしこまりました」
 「頼んだぞ」
 の肩をぽんと叩くと、外島は宿坊を出て行った。

 「…」
 は呆然として適塾への地図を見つめた。
 ただ壬生や買い物に行く場所と黒谷を往復するだけの毎日なのに、大坂とは。そして全く知らない土地を歩き、知らない者たちと会わねばならないとは。
 「ならダイジョブね」
 ハーバーが笑顔でに近づいた。
 「きっとテキジュクのミナサンも、のこと気に入ル。イッテラッシャイ」
 「は、はい」
 その声にはっとしては立ち上がった。こうしているうちに新選組の面々は支度を終えて出かけてしまうかもしれない。
 「行って参ります。失礼します」
 は荷物を持ち、足早に宿坊を後にした。



 一人で馬に乗れないことをこれほど悔やんだことはない。は走っては休み、走っては休みして屯所へと戻った。
 「い、井上さん」
 息せき切って局長室の障子を開くと、そこには井上がいた。留守を預かる井上は近藤が戻ってくるまで局長室で寝泊りすることになっていた。
 「どうした? 黒谷に行ったんじゃなかったのか?」
 繕い物をしていた井上は、急に障子が開いてが現れたことに驚いた。
 「すみません、あの、急遽大坂に向かわねばならなくなりました。皆さんは?」
 手短に井上に事情を話すと、はきょろきょろと辺りを見回した。人のいる様子がない。
 「お前が出て行ってから少ししてからかのう、出発していったぞ」
 少し考えた後に井上は言った。
 「そうですか…」
 は落胆した。これで一人で大坂まで行かねばならなくなった。
 は局長室から土方の部屋に繋がる襖を開いて移動し、自分の荷物をまとめた。あれこれと多くは持たず、矢立と帳面、辞書編纂の時に使った下書きの一部と着替えのみ。
 矢立と帳面は懐にしまい残りは風呂敷に包んで固く結ぶと、は再び局長室の井上に声を掛けた。
 「井上さん、大坂まではどうやって行ったらいいですか?」
 「伏見から船じゃが…伏見まで一人で行けるか?」
 「…行き方を教えていただければ」
 井上の問いにはかなり自信なく答えた。本当は全く行ける自信がない。だが適塾訪問が明日に迫っている今、ぐずぐずしている場合でもない。

 「誰かおるか」
 井上が障子の外に声を掛けた。
 「はい」
 低くうっそりとした口調で返事があった。
 「島田か」
 「は」
 外にいたのは島田で、返事と同時に障子が開かれた。
 「今の話、聞いておったな。を伏見まで送ってきてくれ」
 「わかりました」
 「でも島田さん、お仕事は?」
 送って行ってくれるのは心強いが、島田にも監察の仕事があるだろう。土方の部屋にも深夜によく報告に訪れているのをは知っている。
 「土方副長には副長不在の折、山口さんの面倒を見るように申し付けられております」
 「えっ」
 土方がそんなことを。
 きっと自分がいない間に島田を呼びつけて、腕組みでもして申し渡したのだろう。渋い顔つきで仕方なさそうに島田に向かって頼む土方の顔が頭に思い浮かび、 はぷっと吹き出してしまった。
 「どうか?」
 島田が訝しげな顔でを見た。
 「いえ、ありがとうございます。島田さん、お願いできますか?」
 笑いを引っ込めては島田に頭を下げた。
 「もちろんです」
 いかつい顔を緩め、島田は答えた。

 「では島田、頼んだぞ」
 「はい」
 「井上さん、ご配慮ありがとうございます。行って参ります」
 「気をつけてな」
 は井上の見送りを受け、島田が操る馬の後ろに乗って伏見へと出発した。



 伏見へ行くにはいくつかの道筋があるが、島田は馬首を伏見街道へ向けた。
 まず前川邸を出たら南の五条通へ。五条通を東に走り、鴨川を渡ったら三本目の道を右に曲がるとそこが伏見街道だった。 道をずっと真っ直ぐに走っていると、途中で大きな赤い社を構えた伏見稲荷大社がの目に飛び込んできた。 馬は島田の操作に素直に従い、二人を乗せて颯爽と道を駆け抜けていった。

 四半刻も走っただろうか。たちの目の前に川が広がった。宇治川である。
 「山口さん、着きました」
 足を止めた馬がブルルといななくのを手で撫でながら島田が言った。
 「は、はい…」
 後ろに乗っているとは言え、風呂敷も自分も落ちない様に島田にしがみついているのもなかなか大変だった。は馬を下りると腕をさすった。
 「もう土方さんたち、行っちゃいましたかね」
 は宇治川から奥へ奥へと引いた水路を目で辿る。そこには船が忙しなく行き来していた。今日が今年初荷の船が荷物をぎっしりと載せて水面を滑り、 大坂へ向かう人、京に来た人がひしめきあう三十石船もがやがやと賑やかに動いている。船着場には出航時を考えて後ろ向きに船が泊められ、人も荷物もひっきり なしに揚げられ下ろされている。
 この中から土方たちを見つけられるのだろうか。

 は馬を船宿に預けてきた島田と一緒に土方たちを探した。だがこの人ごみの中で特定の人物を見つけるのは至難の業だった。
 「あ、山口さん! あれ!」
 しばらく探し回った後に島田が遠くを指差した。島田の示す先には水路を行く船があり、その上に黒い羽織の集団が乗っていた。
 「土方さん!」
 は水路の縁まで走り、一際背の高い影に向かって叫んだ。だが船が起こす波が水路の壁に当たり、水の音で声がかき消される。土方はの声に気づかない。
 島田も土方の姿に視線を固定したままの隣に駆け寄ると、息をすーっと肺の奥まで吸い込んだ。

 「土方さーーーーーんーーーーー!!!!!」

 野太い声で島田が土方の名を呼んだ。 はその声の大きさにびくりとし、周りの人間も作業の手を止め、一斉に島田とのほうを向いた。
 さすがにこれは土方の乗る船にも届いたらしく、船上の羽織姿がこちらを見た。
 「あ、気がついたみたいです」
 船首に近い場所に近藤と共に立つ土方が、驚いた顔でたちのいる川岸を見つめている。
 は風呂敷をしっかりと抱えると土方に向かって手を振った。腕を組んだままの土方を近藤が肘でつつき、何か言った。すると土方は不機嫌な顔になり、 くるりとたちに背を向けた。

 「間に合わなかった…」
 と島田が呟いた。たちは船がゆっくりと川へ出て行くのを見送った。
 「もう船に乗ってるんだから、あそこで呼んでも意味なかったんですよね」
 呼んで気づいてもらったところで船を戻してもらえるわけでもないだろうに。は思わず叫んでしまったことに顔を赤くした。
 「すみません、俺がもっと馬を飛ばしていたら間に合ったかもしれないのに」
 島田が大きな背中を丸めてに謝ってきた。
 「そんな、島田さんのせいじゃないです。ここまで送っていただいただけでも感謝してますよ」
 は思ったままを口にした。もし島田が送ってくれなければ、自分ひとりで伏見まで来るのにどれほどかかったことだろう。

 「とりあえず次の八軒家行きの船に乗れるかを調べましょう」
 「はい」
 と島田は気を取り直して次の行動に移ることにした。とにかく大坂に着くことが先決である。二人は人ごみの中を進もうとした。
 「あれ? じゃねえか?」
 とその時、前から声を掛けられた。
 「…永倉さん!」
 前には永倉と藤堂が立っていた。その後ろには新選組の面々がぞろぞろと並んでいる。
 「どうしてここに? 船に乗らなかったんですか?」
 原田たちも大坂行きの人員に加わっている。それが何故ここにいるのかとは不思議に思った。
 「なんだかすげえ混んでて、やっと今近藤さんたちが出たとこだ。それに全員が一度に船に乗れるわけねえだろ。俺たちは後組よ」
 永倉が顎の無精髭を撫でながら言った。
 「あ、そうなんですか」
 京都伏見と大坂八軒家を結ぶ三十石船は、種類により多少の大きさの違いはあれど三十人前後が定員で、 今回は留守番を差し引いても六十人程度の新選組全員を一気に乗せることは出来ない。その位の大きさの船なのである。
 「永倉さん、山口さんも急用で大坂に行くことになったのですが、一緒にお連れくださいませんか」
 島田がの背中を押して永倉の前に押しやった。
 「お、そうなのか? じゃあちょうどいいや、一緒に来いよ」
 永倉は二つ返事で引き受け、の腕を取った。
 「あ、ありがとうございます、お願いします」
 これで大坂までは無事に行けると思い、はほっとした。

 「島田さん、本当にありがとうございました。お帰りには気をつけて」
 は島田が馬を引いて道まで出るのを見送った。
 「お役に立ててよかったです。山口さんも道中お気をつけて」
 島田は軽く頭を下げると、大きな体とは思えぬ軽い身のこなしで馬に跨り、土埃を上げて走り去っていった。



 (よかった…)
 永倉たちと船の順番を待ちながら、は再び安堵を胸に広げた。大坂までの無事な道程は保証されたし、向こうに着いて新選組の宿舎を知っておけば 何かあっても安心だ。
 「ん? か? なんでお前がここにいるんだよ」
 原田が団子を持って近づいてきた。
 「原田さん。すみません、英吉利語の授業の関係で急遽私が大坂に赴くことになりまして島田さんに送っていただいたんです。向こうまでよろしくお願いします」
 はぺこりと頭を下げた。
 「…なーんだ、ご用か。俺はてっきり土方さんと涙の別れでも交わしに追っかけてきたのかと思ったぜ」
 にっと笑って原田が言った。
 「いえ、そういうわけでは」
 ないんです、と最後まで否定の言葉を繋げようとしては黙った。あまり彼との関係を否定するのも、折角土方が嫌いな衆道という事にしてくれているのに まずいだろうか、と最近思い直しているからだ。
 「お前って面白いなあ、これぐらい受け流せねえでどうするんだよ」
 大きな口を開けて原田は笑い、の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
 「っ、原田さん」
 前髪をめちゃくちゃにされ、は手ぐしでそれを直しながら原田に抗議した。
 「ははっ、悪い悪い。お前も食うか?」
 原田は悪びれもせずに、手にした団子の串の束から一本を取り出しての前に突き出した。
 「八軒家に着くまで半日はかかる。少し食っとけよ。途中で物売り船が来て買えるけどな」
 なかなか受け取ろうとしないの口元に、原田は団子を押し付けた。
 「わかりました。頂戴します」
 は原田の言葉を聞いて、半日もかかるなら少し食べておいてもいいかもしれないと思い団子を受け取った。




 それから間もなくたちは船に乗った。船は昼に近い日の光を受け、穏やかな波に揺られながら順調に大坂への航路を辿っていった。




 20080108