久遠の空 ドリーム小説 俳優(わざおぎ) 4

俳優(わざおぎ)

update:2008.12.05

俳優(わざおぎ) 4 

 お豊はと神谷を案内した。
 幕の中には横長の舞台が設えてあり、通常の舞台のように地面からは少し高くなっていた。 そして舞台に向かって左側、つまり下手の方には花道まで用意されており、二人は花道が横長の舞台に接している下に連れて行かれた。
 そこにはいかにも金持ちそうな、仕立てのいい着物でめかしこんだ老夫婦が座っていた。
 「お客様、ありがとうございます。この方たちをご一緒させていただきまして」
 お豊が老夫婦に丁寧に頭を下げた。たちも続けて頭を下げる。
 「結構ですぞ、息子夫婦が来られなくなって空いていたところだ」
 どうぞと老夫婦に迎えられ、二人は遠慮しながらも筵の上に腰を下ろした。
 「七三の下なんていい席だったのに、息子さんたち残念でしたね」
 神谷が老夫婦に話しかけた。
 「ああ、そうですな」
 「神谷さん、“しちさん”って何ですか?」
 は神谷にこそりと耳打ちした。
 「この、舞台から三分、揚幕から七分の位置のことですよ。」
 「揚幕…?」
 「さん、お芝居初めてですか? ほら、花道の突き当たりに幕がかかっているでしょう、あれですよ」
 ひとつずつ答えてくれる神谷が指差す先に、は目を向けた。客席を切るように伸びている花道の終わりには垂れ幕がかかり、その向こうから役者が 出入りする。その揚幕から舞台までの距離を十等分にし、揚幕からと舞台からのそれぞれの距離を取って七三と言うのだと神谷は説明した。


 チョン、と柝(き。拍子木)が打ち鳴らされ、舞台の開幕を告げる。それまでざわついていた客席は水を打ったように静まり返り、全員の目が舞台に向けられた。


 本日の演目も『曽根崎心中』を基にしたものだった。
 主人公の醤油屋の手代・徳兵衛を鷹之助が演じ、その恋人である遊女のお初を藤雄が演じる。
 登場人物の名前は同じであるけれども、細かいところは元々の曽根崎心中と僅かに変化させての上演である。

 「…違う」
 初めての芝居を目の前にしてじっと舞台を見つめていたの横で、神谷がぼそりと呟いた。
 「内容は同じだけど、藤雄さんの演技がぜんっぜん違う」
 神谷は険しい目つきで舞台の上を睨み付ける。はちらりと神谷に視線を向けてから舞台に視線を戻した。
 肝が座った気迫を見せる鷹之助の演技。それに対する藤雄は女性の役で、柔らかな演技だ。儚く切ない雰囲気を醸し出している。 しかし時々手の先がふらりと振れたり、かくりと膝が落ちたりしていた。
 おそらく藤雄も先ほど鷹之助とお豊の祝言の話を聞いたのだろう。それが演技に影響を与えているに違いない。
 客席もだんだんとざわついて来た。藤雄の演技にきれがないのに気が付き始めたのだ。

 七三に鷹之助と藤雄が並び立って台詞を掛け合う。
 二人はくるりと体を回し、ぴたりと動きを止めた。鷹之助が見得を切り、客席が沸く。
 その隣で藤雄がふと足を滑らせた。が、かろうじて踏みとどまった。

 「ああっ」
 神谷が思わず声を上げた。藤雄はしまったと言わんばかりの表情をし、そっと袖で顔を隠した。
 そこへ鷹之助が演技を続けながら寄ってきた。

 「何をしている。舞台の上だぞ、しっかりやれ」
 鷹之助が藤雄に鋭く囁いた。
 藤雄はかあっと顔に血を上らせた。自分は今演じているのに、何たる失態であろうと。


 「…何ですって?」
 もう一人、血を上らせた人物がいた。
 低いその声にが横を向いた。
 「この気持ちのまま、しっかりなんてできるわけ…ないでしょうが!」
 神谷が毛を逆立てんばかりに怒り、ふらりと立ち上がる。
 「神谷、さん?」
 はぎょっとして神谷の羽織の端を掴んだ。

 神谷は勢いよく地面を蹴り、花道の縁に手を掛けてひらりと上に飛び乗った。が掴んだ羽織の端はするりと手から抜けていた。
 聞こえてしまったからには許せない、神谷はそう思った。
 客席はどよめき、ところどころから悲鳴まで上がった。

 「鷹之助さん、あなたが折れてくれれば、座長さんももっと話し合ってくれれば! 藤雄さんの芝居だけ非難するなんてひどいじゃありませんか!」
 花道に仁王立ちになり、神谷が叫んだ。
 「何だと?」
 鷹之助が演技を止めてすっと立った。
 「神谷さん、下りてください。芝居の最中です」
 藤雄が神谷の肩に手を掛けて下りるように促した。
 神谷はその手を払いのけると、鷹之助をきりりと睨み付けた。
 「互いに好いてる二人を無理やり引き裂くなんて、それでも仲間ですか! それに藤雄さんも、何だって黙って言いなりになってるんですか?」
 「その話はもう終わっている。とっとと舞台から下りてくれ」
 鷹之助は冷静な口調で神谷を諭した。

 「神谷さん、下りて来てください、神谷さんってば」
 は花道の下から声を掛けた。しかし当の神谷には全く聞こえておらず、舞台の上で鷹之助と押し問答を続けている。

 (仕方ない…)
 はふーっと息を吐いた。

 客席はざわざわとどよめいている。役者の一人の演技が曇りがちかと思ったら、客の一人が突然舞台に踊り出てきて役者と喧嘩を始めたのだ。当然である。
 しかしさらに大きなどよめきが客席から上がった。


 「神谷さん」


 すっかり頭に血が上った神谷が険しい目つきで振り返ると、そこにが立っていた。観客がおおっと声を上げる。喧嘩を売る客が一人増えたのだ。
 「…舞台から下りてください。今は芝居の途中です。それに、本人たちがいいと言っていることをいつまでこだわっているんですか」
 落ち着いた声色でが神谷に語りかける。
 「でも!」
 「でも、じゃありません」
 はすっと足を前に進ませると、興奮している神谷の両肩を掴んだ。

 「下りてください、お願いします」
 そしてその手にぐっと力を込めた。
 「いたっ」
 神谷は痛みに顔を顰める。
 はそれ以上何も言わずに、ただ神谷の肩に力を入れた。


 「…神谷さんの、言うとおりです」
 それまで口を閉ざしていた藤雄が、鷹之助の後ろから出てきた。
 「私がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだ」
 藤雄は美しい女子の姿で、鷹之助の前に立ちはだかった。
 「鷹之助、幼い頃から私とお前は、一緒に座長の下で芸を磨き、競ってきた。苦楽を共にし、ここまでやってきた。 座長への恩を返すため、この座を盛り立てようと必死にがんばって来た、かけがえのない仲間だ」
 しゃらり、と藤雄の頭の簪が揺れる。
 「だが、こればかりは引けぬ! お前にお豊さんは渡さない! 私はお豊さんを愛している!」
 衣装や化粧は女子のままだが張りのある男らしい声で、背筋を伸ばして藤雄は啖呵を切った。
 その声が場内に響き渡り、静寂が隅々まで行き渡る。



 「そこまでじゃ!」
 舞台の上手から声がして、座長が姿を現した。
 「座長…」
 藤雄が瞬時に気を静めて座長を見た。舞台の上の者たちだけでなく客席の全てまでもが座長に注目した。
 「皆様、芝居でなくとんだ茶番をお見せして申し訳ありません」
 七三までやって来ると、座長は客席に向かって深々と頭を下げた。
 「鷹之助、今のでもうよいな」
 「は」
 座長に返事をすると、鷹之助は静かに舞台に膝をついた。
 「え? 何?」
 急に態度を改めた鷹之助を見て、神谷はまごついた。

 「ご説明申し上げます。実は我が娘の豊が、こちらにいる藤雄と恋仲でございまして」
 座長は客席に向かって説明を始めた。
 「ちょっと、お父様まで!」
 その時、座長が出てきたのと同じ上手からお豊が飛び出してきた。
 「お前も聞くがよい。…しかしながらこの藤雄、芸には秀ででおりましても、少々覇気の足りないところがありまして」
 座長はそう言うとちらりと藤雄を見た。藤雄は赤くなって俯いた。
 「そこでこちらの鷹之助と謀りまして、藤雄を試したのでございます。娘の婿になるということは、将来この一座を背負って立つということ、 芸の腕前はもちろんのこと、胆力がなければこの先様々な難関を乗り越えてゆくことはできませんゆえ」

 「そ…そうだったのですか…」
 がくりと藤雄は膝をついた。己が人間的に未熟なせいで、座長に心を砕かせ、仲間に気も使わせていたのかと。
 「座長、申し訳ありませんでした! 私は…私は…」
 藤雄は肩を震わせた。
 「お父様…」
 お豊は藤雄の傍らに座り、並んで座長を見上げた。
 「しかし、私も今の藤雄の言葉を聞いて安心いたしました。これでお豊を、思う相手と娶わせることが出来ます」
 座長は藤雄の肩に手を置くと、二人を見つめた。その目は見守る父の目であった。

 「芝居を楽しみに来て下さった皆様、大変失礼いたしました。少々仕切り直しのお時間をいただいた上で、もう一度最初から上演いたします。 しばしお待ちください」
 座長は舞台の上に座り、手をつくと床板に頭をつけんばかりにお辞儀をした。座の者も座長に倣って深く頭を垂れた。
 神谷とはぽかんとしたまま、観客の拍手喝采を同じ舞台の上で受けた。



 「なーんだ、私たちが何もしなくても、結果は同じだったかもしれないのかあ」
 神谷がつまらなそうに嘯いた。
 「神谷さん…ちょっとその物言いは…」
 は苦笑いだ。
 結局あの後、一度幕が閉じられて演目が最初から上演された。たちは舞台を下りて老夫婦の席に戻った。すると、周りの観客からよくやっただの なんだのと囃し立てられた。そして舞台が終了した後に座長に呼び出され、今こうして宮川町の茶屋で待たされているのである。

 「お待たせいたしましたな。やっと舞台の片づけが終わりまして」
 座長が先頭になって、たちが待つ部屋に入ってきた。その後に藤雄、鷹之助、お豊が続いた。
 「大変失礼をいたしました。本日の上演をめちゃくちゃにした上、余計な口出しまでいたしました」
 神谷とは揃って頭を下げる。
 「いえいえ、とんでもない。藤雄がなかなか強く出てくれぬものですから鷹之助と祝言の話まで出したのですが、あっさり諦められて どうしようかと思案していたところです」
 座長はしわがれた声で笑い、藤雄は申し訳なさそうに頭を掻いた。
 「終いはどうであれ、こうして無事に話がまとまったのも神谷様と山口様のおかげです。ありがとうございます」
 とお豊は言った。
 「いえ、むしろ大げさなことになってしまったような」
 は平坦な口調で返した。
 「さん、それ言っちゃあお終いですよ」
 神谷がふふっと笑う。
 「笑い事じゃありません」
 は神谷の前向きさにげんなりしてしまった。いい方に転がったからよかったものの、もし舞台の上で藤雄と鷹之助がお豊をめぐって 殴り合いでも始めたらどうするつもりだったのだろうとは思った。
 「まあまあ、丸く収まったわけですから。お礼と言っては何ですが、今夜は私のおごりです。存分に召し上がられよ」
 座長が言って手を叩くと、襖が開いて料理が運ばれてきた。漆塗りの膳に季節のものをふんだんに使った小鉢がたくさん乗せられ、その後から 温かい湯葉の鍋や酒もやって来た。神谷は大いに飲んだが、は今までの経験を踏まえてやんわりと断った。
 食事をする二人の前で、藤雄と鷹之助は扇子を広げて舞を披露した。舞台の上で映えるような大きな身振りのものではなかったが、逆にそれが 藤雄たちの器量を感じさせた。どんな大きさの舞台、座敷であろうとも、空間に見合った芸を自在に見せる腕前。たちは美しく力強い動作を 心ゆくまで楽しんだ。


 「ありがとうございました。すっかり御馳走になりました」
 神谷とは茶屋を出ると礼を述べた。
 「こちらこそ、ありがとうございました」
 お豊と藤雄も礼を返した。
 「まだ明後日まで期日がございますし、演目も変わりますので、ぜひいらしてくださいね」
 お豊は柔らかく微笑んだ。
 「はい、都合がつきましたら」
 も微かに笑みを浮かべた。
 「もーっ、幸せになってくださいよ、お二人とも」
 神谷が藤雄たちの肩をばんばんと叩いた。少々酒が過ぎたようである。

 は辺りを見回した。座長と鷹之助が少し後ろにいた。
 藤雄たちに少々絡み気味になっている神谷をよそに、は二人に歩み寄った。
 「本当にご迷惑をおかけしました」
 結果がどうであろうと、座長たちが画策していたことに口も手も出し、挙句の果てに舞台にまで上がってしまったことには変わりがない。 は神谷を止められなかったことを反省していた。
 「いえ…最後にはこうなるとわかっておりましたので」
 鷹之助がふっと苦く笑った。

 「ひとつ、私の胸のうちを聞いていただいてもよろしいですか?」
 鷹之助は長身を折っての耳元に口を寄せた。
 「はい」
 は頷いた。

 「惚れた女子の幸せのためならば、喜んでこの身を引きましょうぞ」
 「…え?」
 鷹之助の言葉を聞き、は目を瞬かせた。
 「本当はこの鷹之助も、心底お豊に惚れておりまして」
 横から座長が言った。
 「でも、お豊さんが藤雄しか目に入っていないのは昔から知っていましたので。何とかあの二人が…お豊さんが幸せになってくれるように 芝居をしたわけですよ。これが私の…一世一代の大芝居だと思います」
 鷹之助はそう言うと、内緒ですよと深く笑った。その笑みは、突き抜けた青空のように清清しかった。
 はその笑顔が心に染み込んだように感じて、胸の前でそっと手を合わせた。


 と神谷は藤雄たちと別れ、屯所への道を辿って行った。気がついたらすでに夕方だったので、もう黒谷に向かっても仕方がない。 事情は明日説明することにして、は帰ることにした。
 「よかったですねー、お豊さんたち」
 酔って少し覚束ない足取りになった神谷が、後ろを歩くを振り返って言った。
 「…はい?」
 はふと顔を上げた。
 「お豊さんと藤雄さんですよお。うまくくっついてよかったって言ってるんですー」
 「あ、ああ、そうですね」
 「素敵な相手と、恋に落ちて、結ばれる。これほどいいことがどこにあるって言うんですかあ」
 ふらりと神谷は足元を乱し、に寄りかかってきた。
 (神谷さん、ちょっとお酒飲み過ぎじゃないかな…)
 は神谷の腕を取って立たせ、そのまま並んで歩く。

 神谷に話し掛けられるまで、は考え事をしていた。
 素敵な人がいれば、恋して当たり前。
 惚れた女子の幸せのためならば、喜んで身を引く。
 それは普通の人ならば許されている、ごく当たり前のことなのだろう。だが今の自分にはそれが許されていない。この時代に生きている間は 誰とも心を通わせるどころか、誰かに心を奪われるようなこともあってはならないのだ。
 最近、時々だが心の奥から何かが沸き上がろうとしているのを感じることがある。そしてそれを押し留めている自分がいる。決してこの感情が何なのか 探ったり、名前をつけたりしてはならないと、門番のように立ちはだかる己がいる。
 何なのだろう、この気持ちは。
 自分で自分がわからずに戸惑ってしまう。

 「どーかしたんですかあ?」
 とろんとした目で神谷はの顔を覗き込んだ。
 「…いいえ、何でもありません」
 は薄く笑みを浮かべた。
 「いーや、絶対に何かありますね! さんおかしいもん」
 神谷は眉間に皺を寄せ、口を尖らせた。
 「何がそんなに心配なんですかあ? 仕事もあって健康でえ、素敵なコイビトもいるのにー」
 「えっ」
 神谷の言葉には固まった。
 素敵な? 恋人?
 「別に私はあんな鬼副長のことはどーでもいいんですけどねー、さんにとってはそうなんでしょー?」
 「えっと…あの…」
 はどう言ったらいいのか迷う。土方との関係はあくまでも保身のための嘘だ。そこに何かしらの感情があるわけではない。
 あるわけが、ない。
 あっては、ならない。

 「いいなー、皆幸せで」
 神谷がに背を向けた。
 はその小さな背に視線を向けた。どことなく寂しげに見えるのは、気のせいだろうか。そう言えば神谷は父親と兄を殺され、母親も早くに病で亡くしていたのだった。それに加えて、前に自分が推察したとおりに誰かに片恋しているのならば、そう見えてもおかしくはない。
 は掛ける言葉が見つからずに口を噤んだ。

 「早く帰りましょう。きっと副長が待ってますよ」
 えへへとからかうような笑みを浮かべて、神谷がまたを振り返った。
 「…はい」
 もその目を見て軽く頷いた。
 二人は芝居の感想などを話し合いながら、前川邸へと帰っていった。その間、神谷は僅かに見せた寂しさを再び見せることはなかった。 も同じように、心の奥に悩みを抱える様子は出さないように気をつけて歩いた。




 20081202