俳優(わざおぎ) 3
「何をぼんやりしている」
斉藤に声を掛けられて、ははっとした。
は馬上で自分の後ろに座って手綱を握ってくれている斉藤を振り返った。
「す、すみません」
今は壬生寺の境内で朝の乗馬の練習中であることを思い出し、慌てて自分も手綱を握り直す。
昨日屯所に戻ってきた時に神谷が言っていた言葉が頭から離れず、ゆうべはよく眠れなかった。
別に誰のことも好きになんかなっていない。
そんな暇などなくここまでやってきたはずだ。
自分が女だとばれないように、それを第一にしていかねばならないのに。
「気を抜いていると落ちるぞ」
斉藤は小さくため息をついて静かに馬から下りた。
「今朝はこれまでだ。飯を食って来い」
「はい、ありがとうございました…」
は斉藤に手を貸してもらって、同じように地面に足をつけた。
前川邸に戻って馬屋に馬を繋ぎ、は斉藤に頭を下げると邸内に入った。
その背を斉藤はただ黙って見つめていた。
は山南に言われたとおり、出来る限り神谷の行動を監視した。朝晩の食事や、黒谷より帰ってから寝るまでの時間を
出来るだけ神谷と共にした。のいない昼間はたいてい沖田と一緒だから、何かあったら彼が止めてくれるだろうと思っていた。
しかし、起きるべくして事件は起きてしまったのであった。
台所に続く隊士部屋に入ると、少し早めに到着したようで、まだ配膳がされていなかった。食事の当番の者に声を掛けてそれを手伝う。
「さん」
沖田がの元にやって来た。
「沖田さん、おはようございます」
「おはようございまーす」
「あ、神谷さん、おはようございます」
沖田の後ろから神谷も挨拶をした。
「あー早く食べたい。もう食べちゃってもいいですか?」
神谷はすとんと座り、待ちきれない様子で膳を眺めた。
「いいと思いますよ。私は土方さんにお膳を運んできますね」
は膳をひとつ持ち、土方の部屋へ行った。
「土方さん、朝餉です」
「ああ、そこ置いといてくれ」
すでに土方は文机の前に座り、何かの書面に目を通していた。朝飯前、という言葉がの脳裏を掠める。仕事熱心だなと思い、はそのまま土方の横顔をじっと見つめた。
「…どうした?」
視線を感じて土方がの方を向いた。
「しばらく神谷たちと飯食うんだろ? もう行っていいぞ」
「は、はい」
は我に返って立ち上がり、食事部屋へと戻った。
「お待たせしました。…あれ? 神谷さんは?」
「ああ、神谷さんったらすごい勢いで食べ終えて部屋に戻りましたよ。今日、一番隊は非番なんです。後で神谷さんと甘いもの食べに行こうっと」
沖田はにこにこと笑みを浮かべて味噌汁を啜った。
もその隣に腰を下ろして箸を取り、朝飯を口にした。非番だけれども沖田が神谷と一緒にいてくれるなら安心だと思い、は胸を撫で下ろした。
食事が済み、は黒谷へ向かう支度を整えて式台を下りた。草履に足を通していると、沖田と再び顔を合わせた。
「あ、さん、神谷さん知りませんか?」
「え?」
は僅かに眉を顰めた。
「朝餉の後すぐに神谷さんを迎えに行ったんですけど、姿が見えなくて」
「…少し探してきます」
何か嫌な予感がする。はすぐに前川邸内をくまなく探し回った。
「どこにもいませんね…」
隊士部屋、台所、蔵、厠、畑、道場である文武館、八木邸までもくまなく探したが、神谷の姿はなかった。そして誰に聞いても神谷がどこへ行ったか
知っている者はいなかった。
「さんはこれから黒谷でしょう? 後は私一人で探しますから」
沖田は一緒に探してくれてありがとうございましたと言って、くるりとその身を翻した。
はどこに行ったのだろうという思いを風呂敷包みと共に抱え直すと、黒谷への道を歩いていった。
どうも気になる。
しばらくてくてくと歩いた後に、は思った。
朝餉の時の神谷のあの様子、何故あのように彼は急いでいたのだろう。
しかも、誰にも何も言わずに姿を消している。
はいつの間にか四条大橋の袂まで来ていた。数日前、この上流にある二条の橋で藤雄たちに会ったのをふと思い出した。
(まさか…)
は川の向こうに目をやった。河原に大きな幕が四角く張られた一角がある。あれがきっと、神谷に聞いておいた一座の芝居が行われている場所に違いない。
…もしかしたら、神谷はあそこにいるのではないか。
(通りすがりに確かめるだけだ。授業には少し遅れるけど、気にしたまま行きたくない)
はそう思うと橋を渡り、南側芝居の前を通過して河原へと向かった。
が河原に下りると、藤雄たちの所属する座の舞台は間もなく始まるようで、周りは熱気に包まれていた。入り口には役者の顔が描かれた看板が
吊るされていて、皆がそれを見ながら中に入る列に並んでいた。その看板の下にはたくさんの酒樽や菓子の箱が積み上がっていた。
これは積物(つみもの)と言い、後援者から座元や役者に贈られる品々である。
また、業者がいい宣伝になるからと贈ってくることもある。芝居見物は人々の娯楽として大変な人気があり、人がたくさん集まってくるからだ。
客が次々と幕の中へと入っていく。その中に神谷がいないかどうか、は目を凝らしていた。
が、あまりの人の多さに見つけられるかどうか。はしばらく人ごみを眺めた後に、座長の元を訪れることにした。
神谷が自分の推測どおりここに来るとしたら、座長に直談判するかもしれない。
は芝居の舞台を囲む幕の外側を伝い、一座の者たちが控えている場所を探した。
は舞台の真後ろと思われる所に来た。舞台を囲む幕とは別の色の幕が通路のように張られ、板で作られた簡素な小屋がそれに続いていた。
小屋の扉からはひっきりなしに誰かが出入りし、準備に追われているようだった。
(藤雄さんかお豊さんが出てきてくれれば一番いいんだけど…)
顔を知らない者に声をかけても、この忙しい中では素っ気無くされるだけだ。藤雄はこれから舞台に上がるから無理だとしても、お豊が出てきてくれないだろうかと
は思い、じっとその場で待った。
「いい加減にしてくれ!」
とその時、ばたんと大きな音がして扉が開き、中から人が放り出された。は驚いて後じさった。
「いたた! 何するんですか、乱暴な!」
放り出されたその人は。
「か、神谷さん!?」
「あ、さん!いいところに来てくれました!」
なんと神谷だった。予想は当たったが、状況としてはいただけない気がする。
「何してるんですか、こんなところで」
は神谷を見下ろした。
「だって、やっぱり放っておけないじゃないですか。だから座長さんとよくよく話し合えばわかってもらえると思って」
見上げてくる神谷の目は真剣だった。
「山南副長にも言われたし、沖田さんにだって注意されたんでしょう? もうよしたらいかがですか?」
は小さくため息をついた。どうやら神谷は世話焼きらしい。それも多分に。
「あんた、そのお侍さんの知り合いかい?」
小屋の扉から男が続けて出てきた。
「はい」
神谷を助け起こしながらはその男を見た。
「鷹之助さん、何度も言うようですけど」
神谷が立ち上がって男に詰め寄った。
この男が、藤雄の言っていた鷹之助なのかとは思った。芝居の始まる直前で、ぴしりと衣装を着こなしている。
そして、整った顔立ちに役柄で二枚目の男を表す白い塗りの化粧を施していた。発している気配も尋常のものではない。役者としての覇気が伝わってくる。
は芝居のことはわからないながらも、これなら座長がお豊と娶わせたいと思っていても不思議はないと感じた。
「こちらも何度も言うようだが、あんたにはこの話について口出しされる謂れは何もない。お引き取り願おう」
鷹之助は扉の内側に入り、閉めようとした。
が、それに神谷が食らいついた。
「お願いですから、もう一度座長さんとお話させてくださいっ」
「しつこいぞ。もう芝居が始まる。おいそこのあんた、こいつを連れてってくれないか」
二人のやり取りにどう口を挟むか伺っていたは、鷹之助の言葉に反応して神谷の腕を取った。
(うわ、神谷さん、腕細い…)
が掴んだ手首は、男とは思えないほど頼りなかった。
「そこまでにしてくれんか」
鷹之助の後ろから座長がうっそりと顔を出した。
「座長さん!」
神谷がの腕を振り払った。
「我々には我々の考えがある。あんたが心配するのは迷惑だ。帰ってくれ」
「でもっ!」
「たかが一度会ったくらいで! あんたに何が分かると言うのだ!」
扉に手を掛けた神谷を、座長が大声で怒鳴りつけた。さすがは芝居に生きるものである、腹の底に響くような重い声に、神谷もも身を竦めた。
「よろしいか? 座長であるわが娘の婿が誰になるかは、一座の存続問題でもある。この意味が分からずともよい、とにかく帰ってくれ」
神谷が目を眇めた。
「それは藤雄さんではこの一座を率いるに不足だと言いたいのですか?」
「そうだ」
座長はこの前と同じように神谷を睨みつけた。そしてすぐに扉を閉めた。
「…神谷さん」
ぺたりと座り込んだ神谷に、は言葉をかけた。
「もういいでしょう? 沖田さんが神谷さんのこと探してましたよ。非番だから一緒に甘い物でも食べに行きたいって」
「あんな野暮天黒ヒラメのことなんか、今はどうでもいいです」
目を三角にして神谷はをぐっと睨んだ。
(やぼてん…?)
は知らない単語が出てきたことに首を傾げた。
「神谷様、山口様…」
小屋の扉が再び開き、お豊が出てきた。
「お豊さんっ」
神谷はお豊に駆け寄った。
「お口添えありがとうございました。でも…もう…」
よく見ると、お豊の目には光るものが浮かんでいた。
「どうしたんですか」
神谷がお豊の顔を覗き込んで言った。
「この…四条河原での芝居がはねたら…鷹之助さんと私の祝言を行うと…今、父から聞かされました」
「ええっ!」
お豊から聞かされた事実に、神谷もも目を丸くした。
「お気持ちはとても嬉しかったです。でも、父が立ち上げてここまで育ててきた座を守りたい、そういう気持ちもあるのです。だから…」
ふっとお豊は笑って顔を上げた。細めた目の端から、透明な滴がぽろりと落ちた。
その表情に、神谷とは言葉を失った。
「あ、よかったらお芝居見ていってください。いいお席が空いてるかどうか聞いてきますから」
呆然とする二人を残してお豊は踵を返し、小屋の中に戻って行った。
「…神谷さん、行きましょう。もう用はないはずです」
は神谷の袖をぐっと引いた。神谷を屯所に向かわせたら、自分も黒谷に行かねばならない。もうかなり遅刻してしまったとは肩を落とした。
「…お芝居、見ていきます」
ぽつりと神谷は呟いた。
「え?」
は袖をひっぱったまま問うた。
「見てから帰ります」
から袖を取り返すと、神谷は憮然とした顔で腕を組んだ。
「神谷さん…」
気持ちはわかる。が、これ以上はもうどうしようもない。は再びため息をついた。
「お二方、相席ですけどちょうどいい席が空いてましたよ。こちらからどうぞ」
お豊が戻ってきた。そして二人の前に立って、入り口へと向かっていった。神谷はお豊の後にすたすたとついて行った。
神谷をひとり残していくのもどうかと思い、は黒谷に行けないかもしれないと思いながらも神谷の後を追った。
20081127