久遠の空 ドリーム小説 俳優(わざおぎ) 2

俳優(わざおぎ)

update:2008.11.21

俳優(わざおぎ) 2 

 二日後、お豊は言ったとおりに屯所を訪れた。
 「局長の近藤様か副長の山南様、山口様のどなたかはいらっしゃいませんでしょうか」
 お豊は門番に話しかけた。
 「…用件は」
 男所帯の屯所に女が尋ねてくるなど滅多にないことだ。門番は腰間の二本に意識を向けた。
 「先日お助けいただいたお豊と申します。お礼に参ったのですが…」
 お豊は手に持った風呂敷包みを一瞥すると、門番の隊士に微笑みかけた。
 「少々待たれよ」
 門番の隊士の一人が場を離れ、局長室へと向かった。

 「局長、失礼します。お豊と申す女子が局長と山南副長と山口に面会を求めております。いかがいたしましょう」
 局長室の外から門番の隊士は室内に伺いを立てた。
 「お豊さん?」
 近藤は二日前に橋で出会った男女の顔を思い出し、礼に来ると言ったのも思い出した。
 「…ああ、わかった。入ってもらってくれ」
 近藤は立ち上がり、客間へと向かった。

 山南と山口――はそれぞれ他出しているため、近藤一人が面会した。
 お豊は客間に通されると、まず畳に手をついて頭を下げた。
 「先日はありがとうございました。あの後、藤雄さんと、生きててよかったと話しておりました」
 「それはよかった。もう二度とあのような真似をしてはなりませんぞ」
 近藤はほっとして笑みを浮かべた。
 お豊は手にした風呂敷包みを解いて、近藤にお詫びとお礼です言って菓子折りを差し出した。近藤はもちろん断ったが、 お豊がなおも平身低頭して差し出すのをそれ以上断ることもできずに箱を受け取った。

 「失礼します」
 と障子の向こうから声が掛かり、神谷が茶を持って入ってきた。その後ろには巡察がなく暇な隊士たちが中を伺おうと鈴なりになっていた。 どんな女子が尋ねてきたのか、男ばかりの所帯にいれば気になるのは当然である。
 「ほら、失礼じゃないですか皆さん! ちらっと見たらあっち行ってください!」
 神谷が片手で盆を持ち、もう片方の手でしっしっと隊士たちを追い払う仕草をした。隊士たちはしぶしぶと散って行った。 お豊は自分が見世物になっていることに少しだけ驚いたようだが、皆がいなくなるとくすっと笑った。

 「…私と藤雄さんは、小さい頃からずっと一緒でした」
 お豊が語り始めた。
 「父は藤雄さんのことを、飲み込みが早く声もしっかりしているので役者に向いていると言って厳しく指導して育てて、今では一座の看板役者にまで仕立て上げました。 父は藤雄さんだけでなく、他にも何人もの子どもを拾って役者や裏方として育ててきました。皆拾われた恩義からか 父の期待に応えて芸を磨き、一座を支えてくれています」
 「ほう、それは素晴らしい」
 近藤は身を乗り出して頷いた。
 「その中には、父が私と娶わせたいと思っている鷹之助さんも入っています。鷹之助さんもいい役者なのはわかっているのですが」
 お豊はそこまで言うと、今までの日なたのような笑顔をふと曇らせた。
 「でも…この前お話したように、私は藤雄さんと夫婦になりたいのです。藤雄さんも鷹之助さんと同じようにいい役者だと父は申しておりましたのに、 どうしても鷹之助さんでなければ駄目だと言って…」
 「どうしてなのか、お父上に確かめてみましたか?」
 茶を運んで出て行きそびれ、そのまま話を聞いていた神谷が切り出した。
 「神谷君」
 近藤が慌てて神谷を止める。
 「いいえ、父は話を聞いてくれなくて…でも話そうとは思っています」
 お豊は神谷に向かって答えた。

 「あら、私ったら。座の皆には話せないと思ってつい。こんなことを話しに来たのではございませんわ」
 いけないと苦笑いをしてお豊は近藤に向き直った。
 「私たち、明後日から四条の河原で興行を打つんです。藤雄さんが是非近藤様たちに来ていただきたいと申しておりまして」
 「明後日か…特に用事はないのでお伺いできると思います」
 近藤は頭の中で明後日の予定をさらったが、何も入っていないので行ってみることにした。
 「わあ、いいなあ」
 「もちろん他の皆様も、よかったら見に来てくださいませ」
 お豊は横でうらやましがる神谷を見て言った。
 「え、本当ですか? ありがとうございます」
 ぱあっと神谷は嬉しそうに笑った。
 「では明後日の昼四つ頃から始めますので、お待ちしておりますね」
 お豊は失礼しますと挨拶をして屯所を出て行った。


 夕方になり、は黒谷から屯所に帰ってきた。そして黒谷からの書状を手渡しに近藤の部屋を訪れた。
 「ただいま戻りました。こちら、公用方の広沢様より書状でございます」
 「ああ、ありがとう」
 近藤はから書状を受け取った。
 「実は今日、先日会ったお豊さんが屯所に来たんだ」
 と近藤はにお豊の話を切り出した。は身投げをしようとした女子の顔を頭に浮かべた。
 「明後日、四条での芝居に招待したいということなんだが、予定はどうだい?」
 「明後日ですか…すみません、その日は授業があるので」
 残念ですが、とは断った。
 「いや、いいんだ。仕事が最優先だからな。私と山南さんと、神谷君と総司で行くことにするよ」
 近藤は軽く頷きながら言った。
 「神谷さんたちもですか?」
 「ああ、神谷君が茶を持ってきてくれてそのまま話に加わってね。お豊さんが誘ってくれたので一緒に行くことになったんだよ」
 そしてお豊が帰った後に沖田がやって来て、もらった菓子折りを目ざとく見つけた。近藤の許可を得て食べている間に、 沖田も同行する運びになったのである。
 「お豊さんたちによろしくお伝え下さい」
 「わかった」
 は近藤の部屋を辞した。


 「土方さん、ただいま戻りました」
 は土方の部屋へと入った。
 「ああ。今日屯所に来た女、この前の奴らしいが」
 土方もお豊が来たときには外出していたため、直接は会っていない。が、後から近藤に話を聞いていた。
 「お前も明後日、芝居を見に行くのか」
 「いいえ、私は黒谷で授業がありますのでお断りしました」
 「そうか」
 「土方さんも行かれたらいかがですか? 神谷さんたちも行くそうですよ」
 「いや、俺はいい」
 ふいと土方は顔を逸らした。たいして興味もないから、彼女が行かないなら自分も行かないと決めていた。



 翌々日、が黒谷へ向かった後に近藤たちは四条へと芝居見物に出向いていった。
 が定刻どおりに屯所へ戻ってくると、神谷が目の前に現れた。
 「お帰りなさいさん! お芝居、とーってもよかったですよ!」
 「あ、ああ、行ってこられたんですね。お疲れ様です」
 式台の前に飛び出してきた神谷に、は驚いた。
 「あれを題材にしたお芝居で…えっと…『曽根崎心中』?」
 「『曽根崎心中』…」
 聞いたことのある題名に、は足を止めた。

 曽根崎心中は確か、大阪で実際に起こった心中事件を脚色した近松門左衛門の傑作だったとは思い出した。元の時代の学校の授業で、 その程度は知っている。
 さらに解説を加えれば、この作品は大阪の醤油屋の手代・徳兵衛と馴染みの遊女・お初が愛の果てに心中する話である。
 徳兵衛は叔父が経営する醤油屋で真面目に働いており、新地で見世に出ているお初と深く言い交わしていた。が、徳兵衛の叔父は自分の姪と徳兵衛を縁付けようとした。 徳兵衛が自分にはお初がいるからと断ると、叔父は徳兵衛の継母に先渡しした結婚のための持参金を返せと迫った。徳兵衛は継母から金を取り返すが、 その帰り道に徳兵衛は親友の九平次と出くわし、困っている友にすぐ返すからとせがまれて取り返した金を貸してしまう。 ところが九平次は金を返さず、それどころか徳兵衛に乱暴を働いて去っていく。徳兵衛はお初の元を訪れるが、金がないので座敷に上がることが出来ない。 そこへ九平次が客としてやって来る。お初は徳兵衛を縁の下に入れ、自分の着物の裾で隠す。九平次が徳兵衛の悪口を大声で言いふらしたため、徳兵衛は 大阪にいられなくなり、お初には客からの身請け話が持ち上がっていることも相まって、遂には曽根崎の森で二人は命を絶つのだ。
 『曽根崎心中』は大変な人気を博したが、心中物に憧れて相対死するものが続出したため、上演は早々に禁止になってしまった。しかし人気は高いので、 こうして流しの一座が時々中身を僅かに変えて上演している。

 「主演のお二人、かっこよかった〜! 徳兵衛役の鷹之助さんもよかったけど、お初役の藤雄さんが本当に女子なんじゃないかと見紛うくらい素敵でした」
 神谷がうっとりとした目をして、胸の前で両手を合わせた。
 「藤雄さんが? 女役だったってことですか?」
 は目を丸くした。
 「ええ、芝居が終わった後で局長たちとご挨拶に行ったんですけど、その時に紹介されて」
 神谷は化粧といい立ち居振る舞いといい、藤雄は本物の女子と言っていいほどだったと続けた。
 (そうか…だから山南副長がなよやかだとおっしゃったのか…)
 は先日山南が藤雄を助け起こした時にそう言っていたのを思い出した。
 「まだ四日ほど芝居をやるから、さんにも是非来てくださいってお豊さんが言ってましたよ」
 「はい」
 はもし時間が出来たら行ってみようかと思い、神谷に詳しい場所を聞いた。

 「いたいた、神谷君」
 廊下の向こうから山南がやって来た。
 「あ、山南先生」
 「ただいま戻りました」
 神谷とはそれぞれ山南に頭を下げた。
 「神谷君、駄目じゃないか。あんなことを座長に進言しては」
 山南が珍しく険しい表情になった。
 「すみません」
 神谷がしょんぼりと下を向く。
 「…何かあったんですか?」
 は要領を得ずに質問した。
 「君、今日私たちが芝居見物に行ったのは知ってるだろう? その時に神谷君が―――」
 山南が説明を始めた。


 芝居が終わった後に近藤たちは、招いてくれたお礼を言いにお豊の元を訪れた。その場には藤雄もいた。
 近藤がいいものを見せてもらったと礼を述べ、藤雄も先日助けてもらったことに対して礼を言った。山南は芝居の見事さを伝え、神谷も感想を 述べたが、さらに二人の仲がうまくいくようにとも添えた。
 そこへ座長と鷹之助が現れた。近藤が挨拶をしていると、横から神谷が、
 「座長さん、お豊さんと藤雄さんの仲を認めてやってはくれませんか」
 と言い出したのだ。
 お豊と藤雄は固まり、座長は苦い顔になった。神谷は気にせず、今の藤雄の演技と鷹之助の演技を見てもどちらが甲乙ということはない、だから お豊と藤雄を夫婦にしてやってもいいではないかとまくし立てた。
 「神谷君、余計なことを言うんじゃない」
 近藤が神谷の腕を引いた。
 「だって局長、局長もそう思いませんでしたか? 私は芝居に関しては素人ですけど、どちらも素晴らしい心打つ演技だったと思いました。だったら」
 神谷が訴える。
 「…若いお侍さん、余計なことだ」
 座長がしわがれた声でゆっくりと神谷に告げた。
 「あんたにそんなことを言われる筋合いはない。わしも藤雄の芸は認めておる。が、許すわけにはいかん」
 「認めてるなら、どうして」
 神谷が食い下がった。
 「あんたには関係ない」
 皺の寄った瞼の奥から神谷をひと睨みすると、座長はお豊の方を向いた。
 「お豊、お前、くだらないことを他人様にぺらぺらと話すでない」
 「も、申し訳ありません」
 お豊は赤くなって俯いた。
 「座長さんっ」
 「明日の芝居の支度があるので失礼する。鷹之助、行くぞ」
 「は」
 神谷がなおも話を続けようとするのを無視して、座長は鷹之助とともに立ち去ってしまった。
 「もう、まだ言ってやりたかったのに」
 「神谷さん、私たちには関わりのないことですし、近藤先生のおっしゃるとおり、余計なお世話ですよ」
 それまで黙って見ていた沖田が神谷に注意した。
 「…」
 沖田にまでそう言われ、神谷はむくれながら下を向いた。

 「それよりも、お豊さん」
 沖田はお豊に話しかけた。
 「この前いただいたお菓子、どこで売ってたんですか? この近くなら買って帰りたいのですが」
 きらりと沖田の目が光った。
 「まさか沖田先生、そのためについてきたんですか?」
 神谷が沖田を振り仰ぐ。
 「ええ、なかなか見られないお芝居もよかったですけど、いただいたあの干菓子、すっごくおいしかったですからね。 どこで売ってるのか絶対聞こうと思ってたんですよ」
 沖田はまばゆいほどの笑顔を浮かべた。神谷は逆に、眉間に皺を寄せてがっくりとうな垂れた。
 「それでしたら鴨川を渡ってすぐの、南座の近くに…」
 「そうですか、ありがとうございます。神谷さん、行きましょう!」
 場所を聞くなり沖田は神谷の腕を取り、そそくさと人ごみの中へと消えていった。


 「…ということなんだよ。私は近藤さんと帰ったので神谷君たちとは別だったから、今こうして」
 「でも、山南先生だってお思いでしょう? どうして藤雄さんじゃいけないんですか?」
 神谷は拳を作って憤慨する。
 「心中未遂を起こすほど思い合ってるならば、認めてあげてもいいじゃないですか!」
 「それは私たちには関係のないことで、当事者同士の問題だよ。私たちがどうこうできるものでもない。諦めなさい」
 山南は口調は厳しいが、優しく神谷の肩に手を置いた。神谷はまだ納得がいかないような顔つきである。

 「さんだってそう思うでしょう?」
 「え?」
 二人の成り行きを見守っているだけだったは、話を振られてはっとした。
 「互いが好きなら、結ばれていいじゃないですか! 何か別に問題があるわけでなし」
 神谷はフンと鼻息を荒くした。
 「素敵な人がいれば恋して当たり前だし、結ばれることが出来るなら…いいじゃないですか…」
 だがだんだんと語気が弱まり、最後には泣きそうな顔になって唇を噛みしめた。

 「…何か別に問題があるのかもしれませんよ?」
 はしばし思案した後に口を開いた。
 「私は今日お芝居を見に行っていないから、藤雄さんたちの演技がどうのということはわかりません。でも、もし神谷さんの言うように 藤雄さんたちの演技力にさほど違いがないとしたら、原因は他にあるんだと思います」
 「君」
 山南がの袖をくっと引いた。
 「そうか…そうですよね、そうかもしれない」
 の意見を聞くと、神谷も思案顔になった。

 「恋かあ、いいなあ」
 ふーっとため息をついて、神谷が上を仰いだ。
 「あの二人、とってもお似合いですよねー。お豊さんは座長の娘だけあって美人で気立てもいいし、藤雄さんは顔もいいけど声もいい。 応援したくなります!」
 「はあ…」
 よくそこまで入れ込めるものだと、は内心思った。

 「ところで、さんは最近副長とはどうなんですか?」
 にやりと笑って神谷が詰め寄ってきた。
 「え?」
 「んもー、この前副長の部屋で」
 「ああ、あれですか」
 神谷(と他数名)には、辞書編纂が終わって帰営した後に土方の部屋で押し倒されているのを見られている。そのことだろうとは思った。
 「ご」
 は、誤解ですと言おうとして言葉を止めた。
 もしここで土方との関係を否定したら、衆道の仲だということで守られているものを失ってしまう。それで土方にまた迷惑をかけることになるかもしれない。 が、肯定するのも事実ではないから憚られる。どうもまだ、土方との関係をどのように口にしていいのか把握し切れていない。所詮は嘘だとしても、 まず嘘をついていること自体が心苦しいし、土方には許嫁だっている。
 「ご…ごめんなさい、変なところをお見せして」
 はぎこちないながらも誤魔化した。これなら否定もせず、肯定もせずにやり過ごせる。
 「ねー、だからその気持ちで考えればお豊さんたちのことだって」
 目を輝かせて神谷はに言いかけた。
 「神谷君」
 横から山南が少しだけ目を険しくして口を挟んだ。
 「とにかく、これ以上の口出しは無用だ。君の優しいところは私も充分に知っている。でもこの件に関してはもう触れるんじゃないよ」
 「…はーい」
 しぶしぶと返事をすると、神谷は一番隊の部屋へと戻って行った。

 「君も困るよ、彼にあんなたきつけるようなことを言ってくれたら」
 「え?」
 山南に困った顔で見つめられ、は首を傾げた。
 「他に原因があるかもだなんて、もし神谷君がもっと首を突っ込んでかきまわしたらどうするつもりなんだい」
 「あ…」
 自分では思うところを述べただけのつもりだったが、それで神谷がどう思い、その後どう行動する可能性があるのかなど予測していなかった。
 「失礼しました。そこまで考えが及びませんでした」
 は頭を下げた。
 「もう言ってしまったことは仕方がないが、神谷君はどうも走りすぎるところがある。私も少し彼には気をつけておくが、君もそうしておいてくれないか」
 「…承知いたしました」
 では、と言って山南も自室へと廊下を歩いていった。

 も土方の部屋へ戻った。土方は留守だった。どこに行くとは聞いていない。
 風呂敷包みを片付けながら、は先ほどまでの神谷たちとの会話を反芻した。自分は一度しか会っていないから何とも言えないが、もしも 神谷の言うように、好きなもの同士が結ばれるならこれほどいいことはないだろう。

 そして、土方との関係を今後どのように外へ伝えていったらいいのかは、悩ましいところだ。本当のことを言ってしまえれば楽だ。しかし自分は そうすることが許されない立場にある。土方や斉藤の気遣いで男としてやっていくことだけを許されている。それを守ってゆくには必要な嘘も 口にしなければならない。
 だが、それがまだ出来ない。開き直って、土方と衆道の仲だと言ってしまえばいいだけなのに。土方は全てを承知で認めてくれているのだから、 早くそう言っても平気なように慣れなくてはならないのに。

 (素敵な人がいれば恋して当たり前だし―――)
 神谷が言ったその言葉が、急にの脳裏に浮かび上がってきた。
 (結ばれることが出来るなら…いいじゃないですか…)
 もしかしたら、神谷は誰かに恋しているのだろうか。しかも、結ばれることのない恋を。
 もしそうならば、藤雄たちにあれだけ肩入れするのも頷ける。


 素敵な人がいれば。恋して当たり前。
 ふとは障子を見遣った。薄く開いた隙間から庭が見える。
 どんなに素敵だと思える人がいても、自分はこの時代で恋など出来ない。してはならない。
 誰かが自分にそのような思いを抱いたとしても、受け入れてはならない。
 それがこの時代で生きていくための戒め。

 頭の中に、ぼうっと誰かの影が浮かび上がってきた。
 総髪に結い上げ、髷は作らずにそのまま垂らしているあの姿は―――


 はふるふると頭を振った。
 誰でもない、顔も確認できなかった、大丈夫と自分に言い聞かせる。
 誰かかもしれないと思っても、はっきりする前にその影を打ち消すことが出来た。


 この気持ちは、恋じゃない。
 今の影が誰であっても、恋じゃない。


 そう、恋じゃ、ない。




 20081120