俳優(わざおぎ) 1
先日は木枯らしが吹き、木々も色づいてきた。遠くに見える比叡山はとうに赤く連なり、秋が深まったのを感じる。
その秋の風景を背に、は今日も黒谷の石段を降りていた。
紫雲山金戒光明寺、通称“黒谷”の境内は銀杏が黄金色の葉を揺らし、その周りには紅葉や桜が真っ赤に色づいている。
もう秋も深まってきて、夕方は寒いくらいだ。やっとこの時代にも慣れてきて、周りの景色にも目を配る余裕が出てきたとは感じていた。
今ここに桜の木があり枝に紅葉をはべらせているが、来て間もなかった春にその花の美しさを心から堪能した記憶がない。紅色に、黄色に、そして枯れた茶色にも変色している
葉を眺めながらは、もし次の春が来たならば――それまでこの時代にいるのを許されているのならば――ここで桜を見上げたいと思った。
最新の辞書が手に入り、たち英吉利語習得メンバーにはそれを書き写すという新たな仕事が入った。
たちは定刻通りの出勤時間、定刻通りの退出時間で仕事をこなしていた。もう冬も間近のこの時期、
朝日が出る時間は遅くなり、一刻の長さがだんだんと短くなってきた。つまり、仕事の時間は短くなってきている。
だが今回の辞書は黒谷専用にと山本覚馬の手下からの添え書きに書かれていたため返却の必要がなく、慌てずに作業を進めることが出来ていた。
「君」
落葉で真紅に染まった石段で佇んでいるに、後ろから声がかけられた。
「局長、副長」
が振り返ってみると、近藤と山南が早足でこちらにやって来た。
「君も今帰りかい?ご苦労さん」
近藤が階段を降りながら話しかけてきた。
「はい。局長たちも謁見からのお帰りですか?お疲れ様です」
は頭を下げた。
「では君も一緒に帰らないか?」
山南がの横に並んで言った。
「はい」
はお願いしますと続けて会釈した。
「乗馬の練習はどうだい?」
「はい…それがなかなかうまく乗れなくて…」
近藤の質問には頭を掻いた。先だっての辞書編纂で褒美として馬に乗る許可を藩主から得た。勤めで黒谷にいる間には黒谷の馬を借り、
新選組の屯所にいる時には屯所の馬を借りて乗る練習をしているのだが、ちっとも上達しない。まず馬の背に一人で乗ることが出来ない。
鐙に足をかけることは出来ても、その後誰かの手を借りなければ鞍の上に座れないのだ。だから必ず誰かに頼んでついてもらっている。
「今日は石井様がこつを教えてくださったので、もう少しで乗れるようになると思うのですが…」
英吉利語の生徒たちの中で最も年長の石井は、万事そつがない。国許の会津にある藩校、日新館で優秀な成績を収めて江戸に留学しただけあって
文武に優れている。辞書書き写しの休憩中に英吉利語メンバーの皆が交代で乗馬を教えてくれるのだが、石井に教わるのが一番分かりやすかった。
「そうか、乗れるようになればそう難しいことでもないのだけどもね」
山南が苦笑いをした。
「はい…」
「まあそのうち乗れるようになるさ。屯所でも練習しているんだろう?」
近藤がと歩幅を合わせて横に並んだ。
「はい、馬をお借りして土方さんか斉藤さんが教えてくださってます」
屯所ではその二人がの馬術の教師だ。それぞれが忙しいため朝の僅かな時間だけの練習であったが、やるからには真剣だ。
二人とも厳しく、それでいて辛抱強く、飲み込みの悪い自分に付き合ってくれていると思うと、は早く馬に乗れるようになりたいと心から思うのであった。
と近藤と山南の三人が、二条にかかる鴨川の橋を渡ろうとした時だった。
橋の向こうから荷車がごろごろと重い音を立ててやって来た。たちはその荷車が橋を渡りきるまで待っていた。
しかし彼らの後ろから、ものすごい早さでひとつの影が飛び出してきた。
「あっ!」
その影が荷車にぶつかり、よろめいて山南にもたれかかった。山南は持っていた提灯を咄嗟に放し、その影を支えた。
「大丈夫ですか?」
荷車が去っていくのを横目で見ながら山南は腕の中の影に声を掛けた。
「申し訳ありません。ご無礼をいたしました」
その影が山南を見上げた。
細いその影を、山南はてっきり女だと思った。日が落ちかけて薄暗い中に見える顔も、どことなく男らしくない。だが声は男そのもので、
張りのあるしっかりとした響きを持つものだった。
「…急いでおりますので失礼いたします」
男は山南から体を離してすっと立ち上がると、下駄を鳴らして橋を渡っていった。
「山南さん、びっくりしただろう」
近藤が落とした提灯を拾い上げた。
「いえ、大丈夫ですよあれぐらい。それにしても…なよやかな男だったなあ」
山南は提灯を受け取るとそう呟いた。あの影の人物に、とても武道の道にはないような儚げな印象を抱いたようだ。
提灯の中にある蝋燭の火が消えてしまったので、山南は近くを歩いている者から提灯の火を分けてもらった。幸いなことに蝋燭は折れておらず
屯所に戻るまでは十二分に持ちそうな感じであった。
は何気なく先ほどの男の影を目で追っていた。
確かに武で鍛えた体ではなさそうな、細い体だった。その背中を眺めていると、彼は橋の中ほどまで来て足を止めた。
どうやら誰かと待ち合わせだったらしい。欄干の傍に立つ影が軽く手を挙げて提灯が揺れた。彼はその人影に近づいていった。提灯の明かりに照らし出された
輪郭からすると、相手は女子のようだ。
二人はぼそぼそと言葉を交わし合い、ふと手を握り合った。恋人同士だろうか。
顔を上げ、視線を合わせるとじっと見つめ合った。そして、男の方がきょろきょろと辺りを見回した。
もつられて周りに視線を配った。人通りがふと途切れている。
が視線を二人に戻すと、もそもそと体を動かしていた。二人とも片足ずつ交互に上げている。
「…?」
あんな橋の真ん中で何をしているのだろう。は目が離せなくなった。
「君、行こう」
山南が橋のたもとでを振り返った。
その時だった。
が見つめていた二人が橋の欄干に手を掛け、身を乗り出そうとした。
「危ない!」
思わずは叫んで欄干に向かって駆け出した。
その声に反応して近藤と山南は後ろを向いた。
が二人の元へ着くよりも早く、近藤と山南がその二人の体を押さえて欄干から引き剥がした。
「放して、放してください」
女が涙声で自分の腕を掴んでいる近藤に頼んだ。
「何を言っているんだ。まだ秋とは言えもう水は冷たい、飛び込んだら死んでしまう」
近藤が女の両肩を掴んで、目を合わせて諭した。
「…う、うう…」
半ば睨まれるように近藤に見つめられ、女はがっくりと項垂れるとめそめそと泣き出した。
山南に制止された男の方も下を向き、力なく橋の上に膝をついた。
とりあえず二人を落ち着かせようと、近藤の提案で近くの茶屋に入った。
部屋に案内されると茶と食べるものを適当に見繕って頼んだ。すぐに暖かい茶が運ばれてきて、近藤に促されるままに二人はそれを飲んだ。
女の方がほうっとため息をつき、茶から立ち上る湯気が揺れる。落ち着いたのを見て、近藤が口を開いた。
「あんなところで何をするつもりだったのか、まったく」
「すみません、お助けくださってありがとうございました」
男は机の脇に退くと、畳につかんばかりに頭を下げた。女もすぐに男に続いて土下座した。
「物事は全て、命あってのことです。簡単に早まってはいけないと思いますよ」
山南は優しく言った。
「はい…」
男は頭を上げた。その表情は暗く、浮かないものであった。
「何故…身投げなどしようとしたのか、伺ってもよろしいか?」
身投げという言葉を聞いて、は膝の上の手をぴくりと揺らした。
そう、確かにこの二人はあの高い橋の欄干を越えようとしていた。つまり、二人で下を流れる鴨川に身を投げて死ぬつもりだったのだ。
男と女は顔を見合わせて頷いた。そして男の方が説明を始めた。
男の名は藤雄と言い、全国を放浪する旅の一座で役者をしている。女はお豊(とよ)と言い、その一座の座長の娘であった。
藤雄は幼い頃に両親を亡くし、座長に拾われて芸を仕込まれた。厳しい修行に耐え、努力が実って一座でも重要な役を任されるようになった。
そして歳が近いお豊と恋に落ちた。
だがお豊の父である座長には、娶わせたいと思う男が別にいた。同じ一座の役者、鷹之助である。鷹之助もまた主役を務めるほどの演技力を持ち、
座長はぜひこの男に一座を託したいと思っていた。
お豊は父から何度もその話を聞いていた。子は自分しかいないのだから婿を迎えねばならないことも承知していた。しかし藤雄とは相思相愛の間柄である。
当然この話を受けたくなかった。
父の前に藤雄とお豊は二人して座り、自分たちが想い合っていることを明かした。そしてどうか二人が夫婦になることを承知してほしいと頼んだ。
しかし、お豊の父は首を縦には振らなかった。
「何度もお願いしたのですが、よい返事がもらえず…」
藤雄はお豊を見つめた。
「もういっそ二人で世を儚んでしまおうかと思い、あんなことを…」
まだしゃくりあげながらお豊が続けた。
「気持ちはわからないでもないが、相対死(あいたいじに)などしたらどうなるか、知らぬわけでもないでしょう」
山南はため息混じりに言った。
(相対死…? 心中のことだろうか…)
は聞いたことのない言葉だったが、状況から判断してそう考えた。
「はい。相対死は、死んでしまえば埋葬無しのうち捨て。片方でも生き残れば下手人として死刑、両方が生き残れば晒しにあった後に人別帳から抹消され、
非人扱いでございます」
藤雄はよどみなくすらすらと答えた。
「そうだとわかっていてもなお、死のうとしたと」
近藤は眉を寄せた。
「はい…」
藤雄とお豊は顔を見合わせた。
「しかし今こうして未遂に終わったわけだし、もう少し考えてみてはどうかね」
近藤は腕を組んだ。
「そうだな、父御ともっと話し合ってはいかがかな」
山南もその横で円満な解決を勧めた。
「…そうですね、考えてみます」
藤雄はうっすらと笑いを浮かべた。
「失礼します」
ちょうどその時、注文していた料理が運ばれてきた。
「さあ食べよう。食べれば元気が出てくるだろう」
近藤は料理の乗った皿を藤雄たちの前に押し出した。
「遠慮はいらない。君、取ってあげてくれ」
「はい」
手を出そうとしない二人に、は煮物などを少しずつ小皿へ取り分けた。
「どうぞ」
はほわほわと湯気の上がる皿を藤雄たちの前に置いた。
野菜と出汁の香りがふわりと空気に混じり、お豊の腹がくうと鳴った。
「あっ…」
お豊は恥ずかしそうに俯いた。
「いただきましょうか」
その様子を見て藤雄がふっと笑みを浮かべて箸を手にした。
お豊も小さく頷いて箸を取った。
出てきたものを軽くつまみながら、近藤たちは会話を楽しんだ。
藤雄たちは江戸を拠点にして諸国を回っていることや、あちこちの土地で見た珍しい物について話した。近藤たちが江戸の出だと聞くと
江戸府内の様子について話し合い、浅草寺や亀ヶ岡八幡宮などの名所を知っていて話は盛り上がった。
近藤は自分たちが江戸を出て京都の守りにつき、新選組の名を与えられていることを話した。
「それはこのように遠いところで…さぞ大変でございしょう。お察しいたします」
「いえ、あなたたちこそ慣れぬ土地での生活を繰り返して苦労も多いでしょう」
山南も国許の仙台藩から剣術修行で江戸まで出てきた。その間の旅路を思い出すだけで藤雄たちの境遇が千辛万苦であることが想像できた。
皆が程よく腹を満たし、五人は茶屋を出た。そして近藤たちは鴨川沿いに道を南下し、八坂神社の通り過ぎて、宮川町までやって来た。
旅の一座は宮川町の小さな寺に宿泊しており、近藤がそこまで送ると申し出たのだ。
「本当にありがとうございました」
角を曲がれば寺というところで藤雄とお豊は深く頭を下げた。
「もう二度とあのような真似はしてはいけませんぞ」
近藤は笑顔で藤雄の肩を叩いた。
「私たちはまだしばらく京におります。近々屯所まで改めてご挨拶に伺います」
お豊が言った。
「挨拶など結構ですよ。それよりもお二人のこと、うまくいくといいですね」
山南が返事をした。
「では」
藤雄とお豊は再び頭を下げると角を曲がって寺へと向かった。
近藤たちも来た道を戻り、屯所へと帰っていった。
「遅え。どこほっつき歩いてやがった」
壬生の屯所に着くと、が部屋に入るなり土方が怒鳴りつけてきた。
「すみません、局長たちと一緒だったのですが、実は…」
は荷物を置くと土方の傍に座り、帰り道での一部始終を話した。
「馬鹿か。そんなことで死んで何になる」
と土方は言い捨てた。
そう言われては身も蓋もないと、は苦笑いをした。
「まあいい。俺は黒谷での話を近藤さんたちに聞いてくる。お前は早く寝ろ」
そう言って土方は立ち上がり、近藤の部屋へ行った。
は羽織を脱いで衣桁に掛け、布団を敷いて就寝の準備をした。
この件は本来であれば何事もなく終わるはずだった。
出会った藤雄たちとも、挨拶だけでもう顔を合わせることもないはずだった。
新選組一の世話焼き、神谷清三郎とお豊が出会わなければ。
20081112