天稟 6
夕方になった。
土方は先ほどからちらちらと自室の障子へと目を向けていた。今日で十日目。が辞書編纂の仕事を終えて戻ってくる日である。
仕事中は仕事だけに集中し、あちこちに的確な指示を出した。
が屯所にいない間、土方は局中法度を守らない者を処断し、間者を取り除き、天下に楯突く不逞な輩どもを次々に捕らえていった。
土方の指示に従って動いた隊は必ず任務を成功させることが出来た。その徹底した仕事振りはまさしく天の与えた才であると、感心する者もいれば、
恐れおののく者もいた。
思えばがこの期間に屯所にいなかったことは幸いだったのかもしれない、と土方は思った。相手が誰であれ、人が死ぬのを厭わない彼女ではない。
それがこの時代の掟だとわかっているから我慢しているだけであることを、土方は充分に理解していた。
煩雑な十日間が終わり、土方も一息といったところだった。
早く彼女が帰ってきて、障子の向こうから自分の名を呼び、入室の許可を得る声が聞きたい。
が、はなかなか戻って来ない。日は西に傾き、まもなく辺りは暗くなる。
土方は廊下を歩き、式台を下りた。
門まで来て、門番の隊士たちの前に姿を現す。すると隊士たちは背中に竹でも入れたかのように、急にぴしりとした姿勢になった。
その様子を横目で見ながら、土方は門の外へと踏み出した。
角を曲がり、壬生寺の方へと歩いてゆく。
すると、前方に二つの影が見えてきた。馬に乗った影と、その馬を引く影だった。
「…土方さん?」
馬に乗った影はだった。
は土方の姿を認めると隣の人影に馬を止めるように頼み、手を貸してもらってぎこちない動きで馬から下りた。
「ただいま戻りました」
はゆっくりとした足取りで土方に近づいた。
「ああ」
土方は素っ気無く返事をした。内心は会えて嬉しいが、彼女の様子を見て眉を顰めた。
いつもはきちんと髪を整え、火熨斗をかけて伸ばしたものを着ているのに、今の彼女はどうだ。ひとつに結んだ髪は後れ毛が目立ち、袴も羽織も
よれよれである。
そして彼女の顔。明らかに疲労の色が濃く、顎の辺りには墨の飛んだ跡がある。
彼女の今の身なりが、黒谷での十日間を物語っていた。
「ひでえツラだな」
くっと土方は笑った。
「すみません。ちょっと大変だったものですから…後で詳しいことを報告します」
はそれにつられて苦笑いをしながら下を向いた。
「じゃあ俺はここで」
馬を引いてきた男がにこやかに笑い、口を開いた。
「はい、ありがとうございました」
もそれに答える。
「そちらは」
土方はその人物へと視線を向けた。
「申し遅れました。会津公に従い京の勤番を務めております、柴司と申します」
馬を引いてきたのは柴であった。彼は土方へ丁寧に挨拶をした。
「柴?」
土方は聞き覚えのある名だと思い、頭の中で誰だったかと思い出してみた。そしてすぐに、前に斉藤が言っていた黒谷でを口説いた相手であり
、今回も団子を持って彼女を激励した相手だということが彼の脳内に浮かび上がった。
土方の眉間に深く皺が刻まれた。
「新選組副長、土方歳三と申す。こいつを送ってくれたことには礼を申し上げる。もう日も暮れる。早く黒谷へお戻りになられよ」
丁寧な口調の中に冷たいものを潜ませ、土方は柴を睨み付けた。
柴は急に強い視線で見られて一瞬身を竦ませた。
「山口さん、もしかしてこの方も斉藤さんと同じく保護者?」
柴は小さな声で、だけに聞こえるように聞いたつもりだった。が、彼らの周りには他に誰もおらず、しんとした中であったので、土方にまで
聞こえてしまった。
「テメェ、まだ俺のことを保護者だとか抜かしてやがんのか」
土方がの方へ向き直り、ゆらりと気を立ち上らせた。
「いえ、この前怒られてからはそんなことは」
は首を振った。以前土方に言われてからは恩人である土方のことも斉藤のことも保護者などと口にしていない。
「柴殿、こいつは俺の手元に置いてあるゆえ、余計な気遣いはしないでいただきたい」
その裏に自分のものであることを匂わせ、の肩を抱くと、土方は再び柴を見据えた。
「え、いや、別に俺は。では山口さん、失礼するよ」
柴はうろたえながらに挨拶をするとさっと後ろを向き、馬に跨って去って行った。
「疲れていたから、柴さんが送ってくれただけですよ?」
は土方から体を離して言った。
「うるせえ」
柴が見せたあの笑み。あれは間違いなく意味を持ってに向けられたものだと土方は察した。
「送ってもらったのは私だけではありません。ハーバーさんも」
「夷荻とも一緒に帰ってきたのか?」
の説明を途中で切り、土方が鋭い視線を向ける。
「他の三人は黒谷が宿舎だからいいですけど、この状態でここまで歩くのはちょっと…」
とは肩を竦めた。
ずっと詰めて編纂を続けていた上に、ここ二日は碌に寝ていない。黒谷で一晩休ませてもらってから帰ることも考えたが、屯所に戻りたいという
気持ちのほうが強かった。
帰ろうとする二人は、黒谷の三門をくぐる手前で柴に会った。柴はハーバーとの様子を見て公用方の外島に許可を得て馬を出してくれた。
ハーバーの方が疲れが酷く見えたので、ハーバーの仮寓までは彼が馬に乗り、と柴は徒歩で来た。ハーバーはを乗せてくれようとしたが、
自分は後から乗ると言って無理やり彼を騎乗させた。
ハーバーの仮寓であるみなと屋まで来るとハーバーは馬から下りて女将に帰ってきた旨を伝え、と柴に休んでいくように言った。
二人は女将の淹れてくれた茶を一杯だけ飲むと、早々にみなと屋を後にした。
みなと屋からはずっと馬に乗ってきた。一人で馬に乗るのは初めてだったので柴に乗り方を教わり、覚束無い動きでその背に跨った。
視界が高い。そして馬が闊歩する度に左右にゆらゆらと揺れる。
前に山南に乗せてもらった時は山南の後ろに座っていたし、夜であたりも暗く、土方と諍いを起こした後で気も沈んでいたため周りを見る余裕などなかった。
一人で乗ってみると姿勢を保つのが難しく、落ちないように座っているのがやっとである。柴が馬を引いてくれているから前に進んでいるが、
自分一人では馬を走らせるどころかゆっくりと歩かせることすら出来ないかもしれない。
だが、歩かないでいいのは有り難かった。本当に体力的にも精神的にも限界が近かったのだから。
「どこかへお出かけするところだったんですか?」
は土方が外に出てきてこちらへ向かって歩いてきたのを思い出した。
「いや、俺は」
言いかけて土方は口を噤んだ。なかなかが戻ってこないから様子を見に出てきたなどとは言えない。
「…ちっと体を動かしに来ただけだ」
「そうですか」
口から出まかせをそのまま信じるに、土方は僅かな罪悪感を感じた。
土方はもと来た道を戻り、前川邸の門を潜った。もその後に続いた。
式台で草履を脱いだ時に後ろを向くと、土方はがいつもよりも離れているのに気がついた。
「何だってそんな離れてんだ」
「いえ…その、おとといからお風呂に入ってないので」
はそう言いながらさらに一歩下がった。
「誰かいないか」
土方は式台から邸内に向かって声を放った。
「はい」
奥からぱたぱたと軽い足音を立てて神谷が出てきた。
「風呂を沸かせ。今すぐだ」
「はい、夕方だからもうそろそろ沸いてると思いますけど見てきます。あ、さん!帰ってきたんですね!」
神谷は土方の後ろに立つを見つめると破顔した。
「神谷さん、ただいま戻りました」
「久しぶりですねー、黒谷でご用だったんですって?お疲れ様でした!」
さっとに駆け寄ると、神谷はの手を取った。
「うわ、爪の間に墨が…真っ黒じゃないですか。どうしたらこんなになるんですか?」
「ちょっとこぼしまして」
はまじまじと自分の手を見つめる神谷からそっと手を戻した。
「あんまり近づかないほうがいいですよ。二日もお風呂に入ってないから」
「大丈夫ですよ、全然匂ってないです」
そう言って神谷はくんくんとの周りを嗅ぎ回った。
「神谷さん…」
は自分では匂うような気がして、苦笑いを漏らした。
「神谷、風呂を沸かせと言ったはずだ。とっとと行け」
土方は苦々しい顔をして神谷に再度告げた。
「はーい。でもこれで副長の機嫌が悪かったのも収まりますねー」
神谷は土方にからかいの言葉を残して消えていった。
「っ、この童が、さっさとしろ!」
その後姿に土方は声を荒げた。
は土方の部屋に戻って荷物を置くと、まず近藤に報告に行った。
近藤は部屋におり、が辞書編纂の次第を報告するととても嬉しそうに笑って、編纂の作業についていろいろと質問してきた。
はそのひとつひとつに丁寧に答えた。
「そうか、大したものだ。よくやったな君。きっと会津公もお喜びであろう」
「でも結局、私たちが作った物ではなく新しい辞書を写して使うことになりました」
は近藤の前で手をついたまま言った。
「いや、私が感心したのは君たちのその努力だよ。君たちが辞書一冊を作った事実には変わりがないじゃないか」
近藤は身を乗り出してえくぼを作った。
「…ありがとうございます」
は素直に気持ちを述べた。
自分たちが作った辞書を役立てる機会はなくなった。それを少しだけ悔しいとも思う。が、他人から評価されたことは喜ばしいことだ。
「今後も互いに、互いのやり方で会津公のお役に立てるよう頑張ろう。疲れただろう、ゆっくり休むといいよ」
「はい」
は近藤の掛けてくれた言葉に感謝し、深々と頭を下げた。
「そうだ、土方君も…トシも心配していたぞ」
が頭を上げようとした瞬間に近藤が小さな声で言った。
「あいつはあまりそういうことを面に出さない性質なんだ。けれども君の事を気にかけていたよ」
「はい」
は返事をして頭を上げると近藤の部屋を辞した。
は土方の部屋に戻ると今度は土方へと報告を行った。おおまかな事は斉藤に届けてもらった手紙で伝えてあったので、
もう少し細かいことを話した。
届けられた辞書が間違いだらけで編纂し直さなければならなかったこと。皆で分担したが自分のところは間違いがひどかったこと。
ハーバーが自分だけを部屋に連れて行ってくれたのには理由があったこと。そしてとうとう最後には辞書が完成したこと。
が、最後に立派な辞書が届き、今度はそれを写すようになったこと。
「いろいろありましたが、編纂は何とか無事に終了しました」
は近藤の前でしたのと同じように、土方に向かって丁寧に頭を下げた。
「まあご苦労だったな」
が頭を上げると土方が口を開いた。
「だが忘れるな」
急に土方が声を鋭くしたのを受けて、は無意識のうちに背筋を伸ばした。
「夷荻の言葉を解する、ただそれだけで厭う奴らがいるってことをな。会津公のお声掛りとは言え、敵国の言葉は敵国の言葉だ。
行動には充分気をつけろ。少しでも夷荻と通じていると疑われるようなことはすんじゃねえぞ」
ははっとした。
辞書をひとつ作ったことで、心のどこかでほっとすると同時に浮かれている自分がいたことに気がついた。
英吉利語を学んでいることで嫌な思いをしたり、己の身に危険が及んだことはないから実感がなかったが、
土方に言われてこの時代では英吉利語は――英語は、日本国を脅かす敵国の言語であることを思い出した。
「申し訳ありません、充分に気をつけます」
は再び畳に手をつくと反省を込めて頭を下げた。
「別に謝るこたあねえだろ」
頭を上げると土方がこちらをじっと見つめていた。
も土方を見つめ返した。
土方の発するこの空気。一分の隙もなく、己の信ずるものを突き通す強い意志を感じる。
は思った。自分が黒谷で幾度と無く土方の姿を思い浮かべたのは、きっとその意志にあやかり、初めての大役を務め上げたいと願ったからだろうと。
土方もを見遣る。
自分には英吉利語の素養がないから彼女がどれほど出来るのかは判断しかねるが、自分が忍んで行った夜に聞いた彼女の英吉利語の発音。
そして今が十日をかけて辞書を編纂してきた事実。どちらも彼女の努力の賜物である。
この時代にやって来て、最初は着物一つ満足に着ることも出来ない、何も出来ない女だった。だがたったの数ヶ月でこの変わり様だ。
努力。
その言葉が土方の頭に浮かんできた。
に天賦の才があるとしたら、英吉利語に対するものでも何でもなく、己に課せられた物事に向かって静かに進んでいくその力を
指し示すのが正しいと土方は思った。
「…?」
何も言わずに自分を見つめる土方に、は首を傾げた。
「あ」
はふと思い出して声を出した。
「来て下さってありがとうございました。ちょうど気力が落ちていた時だったので、気合を入れ直すことが出来ました」
「あ、ああ」
土方はの思わぬ感謝の言葉に頷いた。後から考えたらあんな夜中に夜這いのような真似をして、彼女が戻ってきたら文句を言われるかも
知れないと思っていたからだ。少しは彼女の役に立てたらしい。土方は心の中で胸を撫で下ろした。
「でも、もうこんなことはなさらないで下さいね」
は首に巻いた包帯を解いた。その首元には、三日前に土方がつけた吸い跡が薄っすらと残っていた。
「だいぶ薄まってきましたけど、皆にどうしたって聞かれて困りました」
は包帯を巻きながら苦笑いをした。
「どう答えたんだ?」
土方はごく軽い気持ちで聞いた。
「…」
の手が止まり、土方からその視線が逸らされた。
土方は何かあると感じ取り、眉をぴくりと上げた。
「何だ」
「…いえ、別に…」
の様子は明らかに何かを隠している。土方はの傍に寄った。
「言ってみろ。何と答えた?」
「え…その…」
「答えろ」
逸らした視界には土方の膝がの膝にこつんと当たるのが映った。にはそこから先を言わずにいる手段が思い浮かばなかった。
「む、虫に食われたと」
実際にそう言ったのはハーバーである。が、自分もそれに同意した。ハーバーのせいには出来ないと思い、は正直に答えた。
「虫だと?」
「すみません…」
がおそるおそる土方を見上げると、思ったよりも近くに土方の顔があった。その唇は弧を描き、吊り上っている。
「まあ夜更けにそんなことをするたあ、随分と悪い虫に違えねえな」
「えっ、どうして“悪い”ってつけたって…私、言いましたか?」
さすがに“悪い”虫とは言えずに黙っていたはずなのに。は何故それがわかってしまったのかと驚いた。
「まさかお前、俺のこと虫扱いだけじゃなくて、悪いってなのもつけたのか」
「…あ」
余計な反応をしたとは身を竦ませた。土方の腕がに伸びた。
「お前、俺に含むところがあるのか?」
「と、とんでもないです。そんなこと思ってません」
土方はの両肩を掴んで畳に押し倒した。
の手から巻かれた包帯が転がり、畳の上に伸びてゆく。
「土方さん?」
「本当にだいぶ薄くなってきたな」
土方の指がの首元に当てられ、吸い跡を辿る。
「そうですよ、三日も経てば…」
「付け直してやる」
ため息をつくに土方は覆い被さった。
「ちょっと、土方さん?」
だが今回はも学習している。咄嗟に腕で土方の顔が近づくのを防いだ。
「先ほど、しないで下さいってお願いしたと思うんですけど…」
「さあ、“悪い虫”だから知らねえな」
その腕を掴んでねじ伏せることなど土方にはたやすい。
「やめて下さい、それにお風呂にも入ってないってさっきから」
「入った後ならいいのか?」
「だからそういうことじゃなくて…っ」
襟を掴まれ、開かれたそこに土方の唇が触れる。
は湿った感触にもう抗っても無駄だと思い、目をぎゅっとつぶった。
しかし、が想像したような、あの夜のような刺激が首筋に与えられることはなかった。
「…っく」
土方がの肩口で笑いを漏らす。
「何を本気にしてんだ」
からかわれただけ、だった。
それに気づいたはふっと安堵の息を吐いた。
「お戯れはやめて下さい。でもよかった、首に包帯があるのって気になるんですよね」
そう言っては着物の合わせ目を握り、横を向いた。
(気にするのはそこか?)
普通ならからかわれて怒るとかはたくとかするのではないかと土方は思った。
「さん、帰ってきたんですって?」
どすどすと何人かの足音が近づいてきて、土方の部屋の障子が左右に大きく開かれた。
「あ」
「え」
土方とは固まった。
そして部屋に入ってきた面々も固まった。
どう見ても押し倒している土方と、胸元を押さえている。
「…えーと、お邪魔でしたか?」
最初に入ってきた沖田が爽やかな笑顔をぴくりと引き攣らせた。
「別にそういうわけじゃないんですけど」
は平然として言い放つ。
「うわ、ごめん土方さん。が帰ってきたって言うから…俺たち退散しようかな」
沖田の後ろで藤堂が踵を返す。
「そのほうがよさそうだね平助。英吉利語の辞書がどんなものなのか聞こうと思ったけど、またの機会にするよ」
藤堂の隣には山南が立っていた。
「原田さんや永倉先生がいなくてよかったですね、すぐに噂の種にされますよ」
一番後ろから神谷がにやにやと笑いながら言った。
「さん、お風呂の用意出来ましたよ。どうぞ」
「ありがとうございます。では」
は神谷の言葉で体を起こし、準備をするとすたすたと風呂に向かっていった。
「…」
がいなくなった部屋で、全員が土方に意味ありげな視線を向けた。
「お前ら…用がないなら散りやがれ!」
土方は背を向けると低い声で皆に言い放った。
は久しぶりにゆっくりと風呂に入った。丁寧に体を洗い、頭も洗ってから湯船に浸かった。黒谷ではいつも以上に烏の行水で、
入った気がしなかった。それでも勿論、入浴できただけ有り難かった。
(うちが一番、みたいな気持ちだな)
温かい湯に顎まで浸かり、はふと笑みを浮かべた。
屯所で食事をするのも十日ぶりだ。神谷の熱心な誘いに負けて、は大部屋で食事をした。試衛館出身の面々が周りに集まり、
賑やかな時間となった。
沖田と神谷は、がいない間に屯所であったことをいろいろと話した。局中法度が制定され、すぐに処断された者がいたことや、
間者を始末したことなどが主な話題だった。食事中に似つかわしくない話題だったが、大事な話である。はきちんと聞いていた。
「副長、ご機嫌斜めでしたよね。さんがいない間」
神谷が漬物を摘まみながら言った。
「まあ土方さんの場合、法度に背く者が出ないかとか怪しい人物がいないかとかに目を光らせていましたからね。ご機嫌も斜めになるでしょうよ」
沖田が茶を啜った。
「そんなことよりはどうだったのさ。黒谷で何してたの?」
「そうだな、少しでいいから聞かせてくれないか、英吉利語の辞書の話を」
藤堂と山南が向かいから声を掛けた。
「あ、はい」
は箸を置いて、黒谷での十日間を掻い摘んで話した。
話は手短だったが、聞き終わると皆に労いの言葉をかけた。
「土方さん」
夜になり、就寝の時刻になった。布団が用意され、行灯の火も消えた。
は横になると、こちらに背を向けている土方に話し掛けた。
「私、明日から三日間お休みなんです。よかったら一緒に袂落としを買いに行っていただけませんか?」
「…ああ、そういやそんな話してたっけな。いいぞ」
土方は以前が持っている携帯とかいう物を入れるための袋を買いに行く約束を思い出した。
「じゃあ土方さんのご都合のいい日で構いませんので、お願いします」
「明日だ」
「はい?」
すぐには無理だろうと思っていたは、土方の即答に目を丸くした。
「明日買いに行くと言ったんだ」
「でも、いいんですか?急ですけど」
「俺がいいっつったらいいんだ。さっさと寝ろ」
土方はつっけんどんに言うと、頭から布団を被った。
「ありがとうございます。あ、あともうひとつ。私、馬に乗っていいって言われたんですけど」
「あ?」
の言葉に土方は布団をめくって彼女の方へと体を向けた。
「肥後守様が、辞書編纂の報酬として金品は出せないけれども馬に乗ることを許可するとおっしゃって」
「…そうか」
「乗り方を教えていただきたいのですが、お願いできますか?」
「わかった」
「いろいろお願いしてすみません。おやすみなさい」
「ああ」
本当は早く袂落としを買って、携帯をより安心して身に付けておきたかった。が、約束してから自身もなかなか休みが取れないままであったし、
十日間の拘束もあった。はやっと買いに行けると安心し、目を閉じた。
土方はとの会話が終わるとまた布団を被り、彼女に背を向けた。
が馬に乗る許可が出た。それは武士として一段階進んだことになる。出世としては順調だ。
(やれやれだな)
それに引き換え自分はどうだ。とは異なる道を歩んではいるが、もっと努力する必要があるのではないかと土方は溜息をつく。
そう思ったら、土方の頭の中に新選組を率いていくための手段が次々と浮かび上がってきた。
しばらく土方は横になりながらそれらを頭の中で整理していた。
ひとしきり考えた後、土方は寝返りを打った。
はこちらに背を向けたまま、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
十日ぶりに彼女が部屋にいる。土方の胸に安堵が広がった。
に背を向けて目を閉じると、すぐに土方にも眠りが訪れた。
翌日、二人は袂落としを買いに行く、はずだった。が、が大幅に寝坊してしまった。土方も彼女を起こさなかった。
疲れているだろうことは明白だったからだ。買い物は明日でいいから一日くらいゆっくり休めと土方は言い、も謝りながらそれに従った。
しかし休みの二日目には土方に用事が入り、三日目は非番の沖田と神谷がを甘味屋に連れ出してしまった。は夕方に急いで屯所に
戻ってきて土方と改めて出直し、やっと袂落としを買うことが出来た。
『諳厄利亜語林大成』の偽本は江戸に送り返され、すでに捕まえられていた偽本の作り手たちとともに証拠の品として奉行所に差し出された。
偽本の作り手たちは、最初だけ真面目に写本を行っていたがすぐに面倒になり、最後まで写すことがいかに大変かを白洲で語ったそうだ。
作った辞書が世に出ることはなかったものの、辞書編纂の作業自体は英吉利語を学ぶ皆に大きな成果をもたらした。それは語彙数の増加であったり、
英吉利語を学ぶことへの意欲であったりと人それぞれであった。新しい辞書を書き写す作業も今回の編纂を経験したことで、
約四倍の量があったにも関わらず各自が苦にせず進めることが出来た。
そして。
たちが編纂した辞書は、ハーバーが保管することになった。と言っても黒谷の英吉利語のための宿坊に置いておくので誰もが
いつでも閲覧できる。しかしそれは決して公にされることなく、宿坊の中で静かに、後に訪れる処分の時を待つことになった。
だがは一生忘れなかった。
赤い紐に閉じられた、この数奇な運命の中の、十日間の出来事を。
20081023
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本章の参考文献:
『日本とイギリス』宮永孝 山川出版社 2000年
『日本洋学少誌』杉本つとむ編 皓星社 2001年
『サムライと英語』明石康 角川書店 2004年