久遠の空 ドリーム小説 天稟 5

天稟

update:2008.10.17

天稟 5 

 「おはようございます」
 「山口、おはよう…どうしたのだ? それは」
 夜明けと共に全員が勉強部屋に集まった。ゆうべも遅く寝たが、作業時間は長く取らねばならない。
 石井は先に挨拶をしてきたを振り返り、その首に包帯が巻かれているのを見つけ、疑問を放った。
 「ゆうべ、チョット悪い虫に食われたみたいネ」
 の後ろからハーバーがやって来て言った。
 「…そう、です。どうぞお気になさらず。始めましょう」
 は悪い虫というところを肯定していいのか迷ったが、あまり深く考えないことにした。
 無駄口をきいている暇などない。は自分の席に座ると襟を正した。


 たちの作業は大詰めを迎えた。
 進み具合の読み通りに、八日目の夕方に石井と海老原の持ち分は終了した。そして内藤との担当している部分の手助けに入った。 内藤には石井がつき、内藤の下書きを石井が横で清書した。には海老原がつき、同じように清書を担当した。

 内藤とがハーバーに下書きを提示し、次々と単語の意味と読みを確認していく。1ページ分の処理が終わったら横にいる 石井と海老原がそれを受け取り、丁寧に書き直す。その作業が繰り返された。誤字脱字が多く、時には意味も読み仮名も書かれていないページを 延々と処理する。全員が根気強く作業を続けた。


 九日目になると、誰もの口が重くなった。いつもなら時々軽い冗談で場を和ませるハーバーですら、発音の確認の時以外は口を噤んでいる。 喋らないことで少しでも体力を消耗しないようにし、集中力を高めるためである。
 そして皆、気がつくと頭をがくりと揺らしていることが多くなってきた。互いに声を掛け合い、作業を進める。期限が目前に迫る中、ほんの瞬きの間程度の 時間すらも無駄にすることは許されない。


 誰もが疲労を堪えて筆を進めている最中のことだった。
 ほんの一瞬の気の緩みだった。
 ハーバーが厠に行こうと思い席を立った。が、連日の疲れが溜まり、目の前がふと暗くなった。その拍子に足がもつれての机に倒れこんでしまった。

 「ハーバーさん!」
 は咄嗟に手を伸ばし、ハーバーの体を支えた。そのおかげでハーバーは、膝から崩れ落ちたものの畳に頭を打ち付けずに済んだ。
 「ハーバー先生!」
 皆がハーバーを取り囲み、心配そうにその顔を覗き込んだ。
 の肩を借り、ハーバーはゆっくりと起き上がった。もともと白い肌はますます青白く、目元に出来ているくまが彫りの深い顔立ちをより落ち窪ませていた。
 「ダイジョブ」
 金の髪を左右に振り、ハーバーは唇を噛んで視点を定めた。
 「少し休まれてはいかがですか、我々だけでも出来るところまでやっておきますゆえ」
 と石井が提案した。ハーバーが倒れても無理はないことを、ここにいる誰もがわかっていた。自分で書く作業は無くとも、辞書にもっとも目を通して いるのはこのハーバーなのである。
 「デモ、それじゃ間に合わナイ。今でもペース、ギリギリね」
 「しかし」
 「いいカラ、アナタたちは書くの進めなサイ」
 ハーバーはよろよろと立ち上がると部屋を出て行った。

 「先生大丈夫でしょうか…」
 内藤が座り直しながら言った。
 「終わるまでもう少しだ。先生も我々もやるしかあるまい」
 石井がきっと目元を定めた。
 「そうですな…あ、山口、お前!」
 返事をしながら海老原がに視線を移した。
 「はい…え?」
 海老原が自分の腹の辺りを見ているのに気がつき、は自分で同じ場所を見た。

 机上の硯がひっくり返り、の着物の上に墨が飛び散っていた。袴に視線を下げると、机の端から垂れ落ちる黒い液体が膝から下を 染め抜いている。
 「着替えて来い。早く洗わないと染みになるぞ」
 海老原が懐紙をに寄越した。
 「はい、ありがとうございます」
 かなり神経が参っているのか、は自分の衣服を濡らすそれにちっとも気がつかなかった。
 だが、硯を元の場所に戻そうと机の上に手を伸ばした時、自分の着物のことなどどうでもよくなるような光景が目に入った。

 下書きが、墨に塗れていた。
 今日ハーバーとやり取りをして細かく書き込んだ紙が、そして清書して本に仕立て上げ、現物を山本に送った後には自分たちの辞書を作るために 必要な、大事な下書きに黒々と墨が広がっていた。
 「…!」
 はもらった懐紙で下書きの墨を急いで吸収した。
 「山口、それはもう後でいい。先に着替えを」
 下書きの状態に気がついた石井が声を掛ける。
 「駄目です、今これを失ったら…!」
 全員でしてきたこれまでの努力が、ほんの一部でも無駄になる。それだけは絶対に避けたいとは思い、素早くかつ丁寧に墨を吸い取った。
 汚れた下書きは僅か数枚で、本当に書き直さねばならないのは二、三枚だった。が、その枚数の下書きにどれほどの時間と手間をかけたのかを考えると 惜しくて仕方が無い。

 「私が代わる。お前はとにかく着替えて来い」
 石井がの手から懐紙を取り上げた。
 「この下書き、日に透かせばまだ見える部分もあろう。着替えてきて、作業を続けるのだ」
 石井は穏やかながらもしっかりした口調でに言った。
 「…はい」
 は石井の言葉に、自分が冷静さを失っていたことに気がついた。
 墨が衣服から体にまで浸透してきて気持ちが悪い。着替えろと言われた時にすぐ着替えておけばよかったのに、とは溜息を付いた。
 は石井の申し出に従い、この場は彼に任せて自分の荷物のあるハーバーの部屋へと戻った。

 が着替えて勉強部屋に戻ると、ハーバーも厠から戻ってきていた。そしてに、倒れ込んで下書きを台無しにしたことを必死に謝ってきた。 はハーバーに気にしないように言うと机を横へ動かし、墨で汚れていないところへと位置を変えた。
 (よし)
 墨が飛んだ筆をきれいに拭うと、は奥歯を噛みしめた。
 日にちとしても作業の残りとしても、もう終わりは見えている。
 後はただ、ひたすら前に進むだけ。
 は他の四人と共に、過酷な作業を再開した。



 残りの二日間は、誰もがほとんど食事もせず、眠りもせずに編纂を行った。
 ハーバーが倒れて汚してしまった下書きの遅れを取り戻し、清書と下書きの確認が繰り返し行われる。
 心身ともに極限を迎えての単調な反復の仕事はきつかったが、愚痴をこぼす者は当然いなかった。



 そして。
 ことりと小さな音を立てて、海老原の持っていた細筆が置かれた。


 「これにて了、だ…」


 海老原が漏らした一言に、全員が顔を見合わせる。
 「終わった…」
 「終わったのだな…」
 「これで、本当に…」
 「…」


 「完成ネ!」


 ハーバーの喜びの声を皮切りに、男たちはまるで勝どきの声でも上げるかのように大声を出した。
 「やった、やったぞ!」
 「辛かった、辛かったです石井様。私の進みが遅いばかりにご迷惑を…」
 「内藤、泣くな。お前は立派にやり遂げたではないか」
 それそれが思い思いの言葉を口にして、肩を叩き合った。

 はふっと体の力が抜け、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
 終わった。
 自分たちの力で、辞書一冊を作り上げた。
 日にちにしてみればたった十日の作業であったが、何と長い道のりであったことだろう。
 はふーっと大きくため息をついた。その中には、今までの疲れと、事を成し遂げた満足感が入り混じっていた。

 それぞれが自分の担当した部分を製本した。期限が十日しかなく、そのほとんどを編纂に使ってしまったため、本の装丁に使う物を用意することが 出来なかった。
 そこで光明寺に頼み、寺にある物を使わせてもらった。住職は快く承諾してくれて、和紙をたくさん出してくれた。皆で急いで紙を選んで宿坊に 持ち帰り、糊と目打ちを使って表紙をつけた。
 は製本をするのが初めてだったので、石井たちに詳しく教わりながら和紙を断ち、糊をのばして慎重に装丁を行った。清書した半紙を重ねて 目打ちで穴を開ける時は最も緊張した。もしここで変なところへ穴を開けてしまったら大変どころでは済まないからだ。だがうまく穴をあけることが 出来、細い紐での仮止めもきっちりとやることができた。
 次は糊を使って和紙を本に貼り付けていった。皆で選んだ色は紺青だった。講師であるハーバーの瞳の色のように深いそれは、この辞書にとても 合っていると全員が思った。ハーバーはそれを聞かされると、恥ずかしそうに頭を掻いた。
 貼り付けが終わると糸を穴に通し、綴じていく。糸はそれぞれが好きな色を選んだ。石井は黒、海老原は白、内藤は茶、は赤を選んだ。 住職が和紙と一緒に糸も出してくれて、赤い糸がふとの目を引いた。
 (そう言えば、土方さんの下緒って赤だったっけ)
 この十日間、心に浮かべた彼の顔でどれほど助けられたことだろう。
 (…赤にしよう)
 はこっそりと土方への感謝の気持ちを混ぜることにした。
 ひとつの穴を通すごとに糸をピンと引っ張り、四つ目に綴じていく。糸は四つの穴を行き来して、一枚の薄い半紙が折り重なる束を本へと変貌させた。
 「この本の外題はいかがいたしましょうか」
 内藤が、題を書く紙を切りながら聞いてきた。
 「山本様に付けていただくのはどうだ?元はと言えば山本様がお貸しくださったものなのだからな」
 石井がそう言うと、全員がその案に頷いた。


 「ではこれをすぐ飛脚に」
 全ての本が装丁され、紙で何重にも包まれた。借りた辞書も同じように梱包し、それぞれを風呂敷に包むと、石井が馬を借りて飛脚屋へと向かうため宿坊を出ようとした。
 式台まで行って皆で石井を見送ろうとした時、公用方の外島機兵衛が姿を現した。
 「おう、お主たちちょうどよかった。公がお呼びであるぞ」
 どうやら外島は英吉利語習得の面々を、松平容保公のお召しによって迎えに来たらしい。
 「お目通りですか?」
 石井が風呂敷を抱えたまま聞いた。
 「そうだ、至急大方丈に来るようにな」
 外島はそう告げると、先に大方丈へと向かっていった。
 「…なんでしょうな」
 海老原が全員の心のうちを代弁する。
 「とにかく行ってみよう。飛脚は、もしお召しで遅くなったら金を積んで早飛脚を仕立てる」
 石井はそう言うと草履を足にさっと通し、外島の後を追っていった。
 たちも大方丈へ駆け足で向かった。



 控えの間でかろうじて身なりを整えたたちは、大方丈へと通された。
 容保公のお成りで、先に来ていた公用方筆頭の野村左兵衛と外島、そして英吉利語習メンバー全員が一斉に平伏した。
 「英吉利語の習得、誠にご苦労である。本日お主らを呼び立てたのは、江戸から荷物が届いたからだ」
 野村が、何重もの紙に包まれた四角いものを皆の前に差し出した。

 「開けてみよ」
 野村が笑みを浮かべて、開封を促した。
 がさがさと乾いた音を立てて、ハーバーがその包みを開けた。

 中から現れたのは、本だった。
 いや。
 「…ジショ?」
 手にとって中身を改めたハーバーが呟いた。
 「え?」
 「先生?」
 生徒の面々は、自分たちもそれを確認しようとハーバーの元へいざり寄った。

 ハーバーの節くれだった指が掴むそれは、英語の辞書だった。
 和紙ではない別の、もっと分厚いもので装った表紙はしっとりと手に馴染み、深い光沢を放っている。固い表紙をめくると薄い見返しが現れ、そこにはこう書かれていた。

 『英和対訳袖珍辞書』と。

 「ハーバー先生」
 と石井に促され、ハーバーは次のページをめくった。
 アルファベット順に、単語がぎっしりと掲載されていた。中は縦書きと横書きを使っており、上の段に英単語を横書きし、下の段に日本語を縦書きしていた。 ハーバーは全体をぱらぱらと簡単にめくってみた。その単語数の多さに、ハーバーの横から後ろからため息がもれる。自分たちが編纂した数よりも遥かに多かったのは 一目瞭然だった。
 その場の面々が驚いたのは単語数だけではない。その本の作りにも驚嘆した。中の紙は厚めできめの細かい雁皮紙を使用しており、 半紙とはまったく異なる滑らかな手触り。糸が外側に全く見えていない、洋綴じなる製本法。
 そして、英単語も漢字も、そして仮名すらも、見たことのない滑らかな曲線を描く文字の版で印刷されていた。
 「…まさかこれが噂に聞いた真鍮の活字か?」
 石井が目を見開いた。この時代には木版が主で、金属の版はほとんど使われていなかったのだ。
 覗き込む誰もが、主君の目の前であることを忘れて辞書に見入っていた。

 「添え書きにはこうあった」
 こほんと咳払いをして野村が言った。英吉利語習得の面々ははっとして素早く平伏した。
 「以前お主たちに送った辞書が実はまがい物であると判明した。英吉利語の需要が急激に増えたところを狙った偽本を掴まされたのだそうだ」
 さらに野村は続けた。
 山本はこの京で英吉利語の教室が開かれた時には国許にいたが、京の英吉利語の教室を案じて会津の蘭学所から指示を出し、人を使って江戸で教本を探させた。 そこへ藩邸に流しの商人が現れて、会津公のご用ならばと諳厄利亜語林大成の写本を格安で販売すると言ってきた。なかなか良書にめぐまれなかった山本の手下は うっかり飛びついてしまい、二部買ったうちの一部をすぐにこちらへ送った。
 が、中が偽物であることはすぐに江戸の学徒たちの指摘によって判明した。山本の手下は謝るだけではすまないと思い、急いで別の辞書を探して送ってよこしたのだった。
 「写している作業の最中であったとは思うが、間違いのあるものを写しても仕方あるまい。これを基にして改めて写本を作るように」
 と野村は言って、ハーバー以下の面々を見渡した。

 全員、俯いている。

 「どうしたのだ?」
 それに気がついた外島が不思議そうに聞いた。
 「恐れながら申し上げます。実はお貸しいただいた本に間違いがあることに我々は気づいており、皆で辞書の編纂を行っていたのです」
 石井が平伏したまま、自分の持っていた風呂敷包みを前に差し出した。
 「先ほどそれが完成いたしまして、お借りしたものは江戸へお返しし、作った物は山本様へ送るつもりでした」
 石井が言葉を止めると、皆が一斉に深々と頭を下げた。

 外島はその包みを受け取り、中を見た。そして藩主へと差し出した。
 容保公はそれを手に取り、しげしげと見つめた。

 「…ここまでよくやった」
 全ての巻に目を通すと、容保公は徐に口を開いた。
 「たった十日でこの量をこなしたそなたたちの力、この松平容保、しかと目に焼き付けた」
 そう言って藩主は深い笑みを見せた。
 面を上げるよう声をかけられていなかったために、それを見た英吉利語習得のメンバーはいない。
 しかし、容保公の労いの言葉は皆の胸に温かく沁み込んだ。中には主からの思わぬ言葉に涙ぐむ者もいた。



 皆は英吉利語の宿坊へと戻った。
 「…私たちのこの十日間は何だったんだろうな」
 非難めいた口調ではなく、純粋な疑問として石井が皆に問うた。
 「あれだけの物を送ってくださったのです。私は感謝しています。またあれを写す作業が始まりますな」
 海老原は自分たちの作ったものが、新しい辞書に遠く及ばないことを悟っていた。思わず苦笑いが漏れる。
 「でも…私はこの十日間が無駄だったとは思えません」
 いつもは内向的な内藤から、思わぬ台詞が飛び出した。
 「正直に申し上げて、私は自分に英吉利語の習得などと言う大役が務まるか自身がありませんでした。しかし最後まで辞書を作り上げることが出来て、 やっと本腰を入れる決心がつきました」
 前を見据えて内藤が言った。その目には今までは見られなかった強い光が宿っていた。

 「そうデスカ」
 ハーバーはとても嬉しそうに内藤へ笑みを向けた。
 「はどう思いますカ?」
 そしてへと答えを振った。
 「え。えっと…」
 黙って皆の話を聞いているだけのつもりだったは、急に自分の発言を求められて焦った。
 「…いい機会だったと思います。今までの勉強の成果がなければ成し得なかったことだと思いますし、それを踏み台にしてもっと力をつけることが 出来たのではないでしょうか」
 それがの偽らざる感想だった。背景が何もなければ突然辞書を編纂することなど、たとえハーバーという頼りになる人物がいても出来るわけが ないし、たくさんの単語に触れることによって、各自の英単語の語彙は確実に増えたはずだ。半強制的にでもこのような機会が訪れたことは幸いだったのではないだろうか。


 ハーバーは各自に三日間の休みを与えて、解散を申し付けた。
 「あなたタチ、よく頑張りまシタ。ゆっくり休んで、また三日後カラ新しいジショ写す作業ネ」
 ひとりひとりの背を叩き、ハーバーは心から全員の努力を称えた。
 「今度はタイムリミットなしだカラ、急がなくてダイジョブね」
 「先生、それは言わないでいただきたい」
 十日と言う期限を乗り切ったばかりの彼らにまた期限の話を持ち込むのは、ハーバーのいつもの軽口だ。石井の冗談交じりの反発に、皆が笑った。


 宿坊を綺麗に掃除し、石井と海老原と内藤は黒谷にある自分たちの宿泊所に戻った。
 ハーバーとは外にある自分たちの住まいに戻る。

 (…帰ろう)
 そう思ったの脳裏に、ふと土方の顔が現れた。



 日がやや傾いてきた穏やかな午後。
 はハーバーと共に、三門へ向かう石段を下りていった。




 20081016