久遠の空 ドリーム小説 天稟 4

天稟

update:2008.10.10

天稟 4 

 辞書編纂は佳境に近づいてきた。
 石井と海老原の持ち分は予定通りに進んでおり、問題ない。が、内藤は手が遅く、の部分は修正だらけだ。 終わった者たちに手伝ってもらっても、残りの日数で終わるか終わらないかの瀬戸際である。ハーバーは内藤との席の間に 座り、右に左に頭を動かして集中的に指導した。


 そんな中でも腹が減っては戦は出来ぬ。
 石井が夕餉の炊き出しを取りに行って宿坊に戻ってきた。
 「皆、飯だぞ」
 石井はひとりひとりに箱膳を配り、最後にへと手渡した。
 ずっと宿坊に詰めきりで、ほっとするのは食事の時間だけ。は受け取って礼を言うと静かに息を漏らし、箱膳の蓋を見つめた。
 「そう言えばこれをもらいに行った時に炊き出しの担当に聞いたんだが、今日お前のところの人間が来てたらしいぞ」
 「え?」
 は箱膳から視線を外して石井を見た。
 炊き出しの担当は、昼前に大方丈の前で近藤たちを見かけたらしい。
 「話からすると局長と…色白で背の高い、顔のいい男だと言ってたが、誰だろう」
 「たぶん土方副長です」
 思い当たる風貌を持つ者は、あの集団の中に一人しかいない。しかも黒谷まで拝謁に来る人物ならなおさらだ。
 「そうか」
 「はい。あ、お茶を淹れてきます」
 は台所へと向かった。

 鉄瓶に水を入れ、竈の上にかける。
 は湯が沸くのを待ちながら、上がり口に腰掛けた。

 (そうか、今日土方さん来てたんだ)
 もう何日も会っていない、確か今日で七日目だったとは指を折って数えた。

 (来てたなら、会いたかったな…)
 辞書編纂が山場を迎えている今、女であることを隠しながら作業をするのはきつい。は立つにも座るにも、他の男たちを見て少しでも 男らしくなるように気を使っていた。黒谷へ通いで英吉利語の授業を受けに来ているだけの時は楽な方だった。屯所に戻って土方の部屋にいる間は僅かでも 気を緩めておけるからである。しかしこうして泊まりで外にいるからにはそうはいかない。

 こんな今の自分を見たら、土方はきっと笑うだろう。そしてこう言うに違いない。
 「男だろ、しっかりしろ」
 と。
 時が進めば進むほどに、素性を隠してこの時代で生きていくことがどれほど難しいのかを思い知らされる。覚悟が出来たと思う度に何かが起こり、 自分の覚悟などちっぽけなものだと認識させられるのだ。

 そんな時、土方の言葉がいつも支えてくれた。時には厳しく、時には意外な程優しく、自分を前に突き動かしてくれた。
 肉体的にも精神的にも疲れが極限まで達している今、土方に会いたかった。
 彼に会ったらきっともうひと頑張りできる。

 (誰にも寄りかからずにって、自分で思ったはずだけど)
 の口元に苦笑いが浮かぶ。最近、何故だか土方には少しだけ心を預けてしまう時がある。
 自分の身元が露見しないように差し伸べてくれる彼の手を握り返すように。

 (頑張らなきゃいけない)
 この辞書が完成したら、黒谷での英吉利語の授業の成果を会津公にも見せることが出来る。今までは、ハーバーの指導の下で簡単な単語帳の作成と 文法を学ぶ程度だったが、もっと大きな、かつ目に見えるものを作り上げることで、英吉利語習得メンバーの存在意義を知らしめることが出来る。
 そして、自分をしぶしぶながらに英吉利語の授業へと送り出してくれた土方にも顔向けが出来る。ここまでやるようになったのだと証明できる。 おそらく土方は素っ気無くするだろうが、成果を認めてくれるだろう。

 は沸いた湯を急須に注ぎ、少し蒸らしてから五つの茶碗に茶を注いだ。
 一瞬だけ土方の顔を思い浮かべて、気合を入れる。
 あと三日。
 もう少しだけ頑張ろう。
 は盆に茶を載せて、勉強部屋へと戻って行った。




 たちは食事を摂った後、再び辞書編纂に没頭した。
 あと三日しか期限はない。しかも今はもう夜中だから、実質あと二日とも言える。
 石井と海老原の分は終わりが見えており、明日の午後遅くには終わりそうである。内藤との分もだいぶ作業が進み、石井と海老原が終わり次第 手伝えば何とかなりそうなところまで来た。


 夜も更け、障子の外では虫の鳴く音が響いていた。
 「そろそろ今日は終わりにシマショウ」
 ハーバーが顔を上げた。行灯の明かりに照らし出されたその顔は疲労の色がだいぶ濃い。内容の全てに一人で目を通しているのだから、ハーバーの 負担もかなり大きかった。

 石井たちが先に風呂へ入った。そして残っていた作業を終えたハーバーがその後に入りに行った。
 はハーバーの部屋で布団を敷き、着替えを用意して自分の順番を待っていた。
 布団の上に座ってじっとしていると睡魔が肩を揺らしてくる。
 (…もう少しでお風呂に入れるから、それまで我慢しなきゃ)
 汗をかく季節ではないが、やはり風呂に入らないと落ち着かない。だが眠い。はハーバーが戻ってくるまでと思い、布団に身を投げ出した。


 横になってすぐに外の虫の音が一瞬途切れ、は障子が静かに開く気配を背中で感じた。
 (お風呂の番だ、起きないと)
 ハーバーが戻って来たにしては早すぎるとぼんやりとした頭で思ったが、あまり深く考えずに身を起こそうとした。


 が、部屋に入ってきた気配に突然自分の体を押さえられ、掛け布団の内側に引き摺り込まれた。


 「…っ!」
 相手は声を上げようとするの口を手で押さえた。は体を強張らせた。一体これは誰なのだろう。 まさかハーバーが、とは瞬時に意識をはっきりとさせ、自分と相手の間に腕を入れた。


 「、俺だ」


 耳元で囁かれるその声は。
 「…土方さん?」
 「ああ」
 返答の声に、は体から力が抜けていくのを感じた。
 「吃驚しました…」
 大きく息を吐いては土方を見遣る。
 「お前は隙だらけなんだよ、少しは気をつけろ」
 土方はの口元から手を外し、掛け布団を頭から除けた。

 「どうしてここに…?」
 こんな夜更けに、しかも黒谷の英吉利語専用の宿坊に土方は用事などないはずだ。誰でも自由に出入りは出来るが、このハーバーの部屋に来るまでには 式台を上がり、石井たちが休んでいる部屋の前を通って来なければならない。誰かが気付けば誰何されているはずだ。

 「斉藤からお前の様子を聞いて、どんだけしぼんでんのか見てやろうと思ってな」
 土方は意地悪く笑った。
 「だったら昼間の拝謁のついでに寄って下さればよかったのに。何もこんな時分でなくてもお会いできますよ」
 はそう言って土方を見上げた。

 それはそうだ。昼間に近藤と一緒に黒谷へ来た時に寄っていけば済んだ話だ。
 だが会いに来たと思われるのが癪で、わざと寄って行かなかったのだ。
 しかし、夕方に斉藤が持ってきた彼女の手紙を読み、話を聞いたら居ても立ってもいられなくなり、こうして忍んで来てしまったのである。

 土方はを見下ろした。薄暗い闇の中では返事を待っているかのように土方を見つめていた。
 「変なことされてねえだろうな」
 土方は彼女の頬に掛かる髪を耳へと掻き揚げた。
 「何も。大丈夫です」
 その感触がくすぐったくては肩を竦めて目を閉じた。

 土方の心臓がどくりと音を立てる。
 同じ布団の中で彼女が自分の下になって目をつぶる。その行為がどれだけ自分の心をざわつかせるのか、きっとコイツは知らないのだと。

 「変なことって」
 ふふっとが笑った。
 「今土方さんがしてることの方がよっぽど変です。夜中に来なくてもいいのに」
 至極真っ当な意見だ。が、心配して来てやったのにと思うと、土方は素直に頷けない。

 「ご心配ありがとうございます。でも私のことは平気です。ハーバーさんが気を使って下さっているので」
 土方の負担にならないようにと思い、はそう告げた。
 それが土方の機嫌を損ねるとは思いもせずに。
 「バラしたのか?あの金髪野郎に」
 土方の声が低くなる。
 「いえ、何かある程度には思われているみたいですけど、バレてはいません」
 は軽く首を振った。
 「わからねえぞ、存外お前に気があって狙ってんのかもしれねえ」
 土方は視線を合わせたまま、と顔を近づけた。
 「そんな雰囲気じゃありませんよ」
 確かに他のメンバーよりは気にしてくれているが、それは決して恋愛の範疇でない。は視線を外さずに答えた。


 「何をシテいるのデスカ?」
 すらりと障子が開いた。
 ハーバーが風呂から戻ってきたのだ。

 土方は体を起こしてそちらを向いた。
 月の光を背に、手燭の明かりを前にするハーバーの、濡れた金髪から光がこぼれている。
 土方より背の高い、すらりとした体に夜着の単を纏う体の線は明らかに日本人とは異なっていた。
 こんな奴に彼女を預けなければならないとは。
 土方は小さく舌打ちした。

 「アナタ、土方サン、でしたカ?オタノシミのところ悪いデスが」
 ハーバーは部屋に入り障子を閉めて、手燭で土方の顔を確認した。
 「彼はジショ作り終わるまでお仕事ネ。もうちょっとで終わるカラ待ってて欲しいデス」
 そう言って障子に寄りかかり、苦笑いを土方とに向けた。

 「あ、す、すみません」
 は自分と土方が同じ布団に横たわって顔を近づけている今の状況を思い出し、土方の下から退こうとした。
 が、土方にしっかりと体を押さえられていて身動きがとれない。

 「こいつに惚れてんのか」
 土方は動かずハーバーに問うた。
 「ホれてル?」
 ハーバーは意味が分からずに首を傾げた。
 「ラ…ラブかどうか、です」
 土方の下からが通訳した。

 「In English, please.」
 ハーバーが英語で言うように要求した。
 「えっと…He asked you whether you loved me.」


 土方は彼女の口から発せられる言葉を聞いて、目を丸くした。
 初めて聞く、彼女の英吉利語。どれだけそれが巧いのかは判断できないが、少なくとも日本語の発音ではない。 瞬時に反応して英吉利語を口にした彼女に、土方はこれまでの彼女の努力を垣間見た気がした。
 そしてハーバーと二人だけで内容を解している様子に、土方の胸の内は音を立てて軋んだ。


 「…」
 ハーバーはすぐに返答しようとしたが、ふといたずらな笑みを浮かべた。

 「だったとしたラ?」

 土方はその言葉を聞いた瞬間、の着物の襟を広げた。
 そして首筋に顔を埋めた。

 「やっ、ひ、土方さ…?!」
 突然首筋に生暖かい感触が与えられ、の体は一瞬固まった。
 そして土方の唇に首元を強く吸い上げられた。
 「ちょ…っ…」
 生々しい感覚に、は力が弱まる手で土方の肩を押した。

 首元から唇を離すと、土方はの上から退いて布団を出た。
 立ち上がり、すたすたとハーバーに向かって歩いていく。
 「土方さん…」
 土方が何故こんなことをしたのか、そしてハーバーに何をするつもりなのかわからず、は布団の上に身を起こすと二人を見上げた。

 「あれは俺のものだ。手出しは無用に願いてえ」
 通りすがる瞬間に足を止め、土方は抜き身の刃を思わせる声色でハーバーに脅しをかけた。
 「コワイコワイ。デモ言われなくてもダイジョブね。ワタシ、のこと、スキだけどラブじゃナイ」
 臆せずに笑顔でハーバーは答えた。

 「あいつに手を出したら、殺す」
 ぎらりと目を光らせると土方は障子を開けて出て行った。



 土方が消えたのを確認すると、ハーバーは障子を閉めた。
 ハーバーが振り返ると、は布団の上にぺたりと座って俯いていた。
 「すみません…」
 は小さな声で謝った。
 「のせいじゃナイ。気にしないでイイ」
 ハーバーはの横に腰を下ろした。
 「悪い人じゃないんですけど…」
 「わかってマス」
 ハーバーはわかっていて土方をからかったのだ。初めて会った時もそうだった。に執着を見せる土方をからかって、に抱きついて見せたのだ。

 「お風呂入ってきなサイ」
 「はい」
 はハーバーに促され、掛け布団の上に散らかった着替えをかき集めて立ち上がろうとした。
 「?」
 そのをハーバーが呼び止めた。
 「はい」
 「ちょっと待っテ」
 ハーバーはの首元に手をやって、手燭の明かりでそこを見た。

 「…プ」
 急にハーバーが吹き出した。
 「どうかしましたか?」
 は首を傾げた。
 「ハハ、、自分で見るとワカル」
 ハーバーは先ほどまで羽織っていたベストの懐から丸い物を取り出して蓋を開き、に渡した。
 それは鏡だった。
 はハーバーが指差す自分の首筋を、手燭と鏡で見てみた。

 ほの暗い中でも見える、自分の肌の上にくっきりと残るそれは、先ほど土方がつけた吸い跡だった。
 「…っ、土方さん…」
 さすがのも赤くなった。いくら自分が形式上は土方の“お手つき”ということになっているとしても、ここまではやりすぎだと思った。
 「余程土方サン、アナタのコト」
 「風呂に入ってきますっ」
 は素早く立ち上がり、そそくさとハーバーの部屋を後にした。


 風呂の戸につっかえ棒をしたのを確認しては服を脱ぎ、湯船に浸かった。
 (土方さん…何を考えて…)
 湯を肩にかけた手をそのまま、吸い跡のついた首元へと持っていく。
 自分の身を守ってくれるのが目的なら、土方の気迫を持ってすれば相手を圧倒することなどたやすい。ハーバーに対してもただそうすればよかっただけのはず。こんなことをする必要などない。
 は溜息で湯気を揺らし、目を閉じた。



 土方の行動については理解できないが、彼が会いに来てくれたことは素直に嬉しいと思う。
 心の中だけで彼の叱咤を思い浮かべて辞書編纂に励んできたが、実際に土方に会ったことで、もっと深いところから元気が沸いてきた。
 (もう少しだ)
 は目を開いた。
 視界は湯気で煙っていたが、その目は間もなく現れるはずの最終地点を映し出していた。





 20081009