天稟 3
たちは辞書編纂に取り掛かった。
まずそれぞれが元の辞書、『諳厄利亜語林大成』の英単語を1ページずつ写し、ハーバーに見せる。綴りを確認してもらい、発音してもらう。
そして間違って記されている意味を正しいものに書き直すのだが、これがやっかいだった。ハーバーが日本語に出来るものはいいのだが、
彼が日本語でどういった意味か知らないものは、ハーバーが平易な英語でこちらに伝え、それを日本語に訳していかねばならないのである。
これを下書きとし、清書する。清書したものは本に仕立て上げ、山本に提出する。その後に全員の分の辞書を作る手順にした。
が間違っていると指摘したのには、多少の誤解があった。
この時代はまだ日英辞書は確立されておらず、言葉の意味もまた不確かなものだったのだ。
元の時代の辞書でしか意味を確認したことのないには違和感があっても当然だった。
そして発音もそうであった。
阿蘭陀語の方が先に普及していたし、英吉利語を阿蘭陀人から学ぶこともあったため、阿蘭陀語の発音に近い表記がなされていても仕方のないことだった。
それとハーバーと石井で発見したのだが、『諳厄利亜語林大成』の英単語の隣に書かれている単語は阿蘭陀語だった。阿蘭陀通詞が圧倒的多数を占めて
いたため、阿蘭陀語が併記されている方が便利だったのだろう。
今回の辞書編纂に当たっては、阿蘭陀語を解するものがいないため、阿蘭陀語の記載は省くことにした。
アルファベット順に赤字で英単語を書き、その上に同じく赤で発音を書きいれ、単語の後ろに日本語での意味を記す。
全員で仕様を決め、各自が黙々と作業を行うことになった。
しばらく進めていくうちに、わかったことがあった。
最初の方を担当している石井と海老原の辺りには、英単語の誤記入が少ない。逆に、後半を受け持っている内藤の部分はだんだんと怪しくなり、
の場所に至っては、誤字脱字の嵐なのである。従って、ハーバーは石井と海老原の所は、ほぼ意味の確認と修正のみで済むが、
内藤との所は単語の書き間違いもよく見なければならない。
全十五巻と聞くと大変な数字のように思えるが、実はこの辞書に記載されている英単語は七千語しかない。のいた時代を基準にしてみると、
国が履修するように定めた中学校と高等学校の英単語数を全て足して倍にしたより四百語少ない程度である。辞書としては乏しい数だ。
が、全てを見直し、下書きして清書までを十日でやってのけるためには全員が総力を挙げて取り掛からねばならない。
ハーバーはそれぞれが下書きを自分の所へ持ってくるのを待っているだけでなく、進んで皆の机を周り、少しでも作業の流れがよくなるように
まめに手本の辞書やそれぞれの下書きを確認した。
夕餉は会津藩からの炊き出しをもらい、夜もかなり更けてからたちは本日の作業を終了した。一冊の半分が一日の目標である。
が、今日は勝手がわからずにその半分も進まなかった。各自三冊ないしは四冊を担当しているから、目標どおりにやれば残り九日で充分に終わる計算だ。
この後ペースアップしていけばいいとハーバーはにこやかに言った。
皆真剣に作業していたため、くたくたになった。明日も作業するのだからと机は壁際に寄せ、空いているところに布団を敷いた。が、どうやっても
三組しか伸べることが出来なかった。
「では一人、ワタシの部屋で寝るとイイ。、アナタ来なサイ」
ハーバーはそう行ってを促し、廊下に出た。はその後ろについて行った。
この宿坊はもともと会津藩が入ってすぐ荷物置き場にされていた。大きな宿坊から順に会津の兵たちが入り、この小さな建物は余ってしまった為である。
だが狭いながらも風呂と厠と簡単な台所、そして小さな和室が二つ備えられていた。外国語の授業を行うだけでも嫌がる藩士たちのため、さらに
夷荻が同じ敷地内にいてその姿を見るのもぞっとすると言う者たちのために、ハーバーの世話役である公用方の外島機兵衛が設備の整った宿坊を選んだのである。
これだけの物が備えられていれば、ハーバーも多少外に出なくても事は足りるだろうとの判断だった。
二つの和室のうち一つは英吉利語の教室にしており、もう一つはハーバーが使っていた。
「ドウゾ」
ハーバーは自分の部屋の前に着くと障子を開け、を中へと促した。
教室で他の藩士たちと三人で雑魚寝するのが正しいのか、講師であるハーバーと二人きりで夜を過ごすのが正しいのか。
選択する時間を与えられずにハーバーの部屋へ来てしまったが、どちらに寝泊りするにしても慎重に行動する必要があるとは身構えた。
敷居の前からハーバーの部屋を見渡す。
出入り口はこの障子一つ。中は整然としており、隅にある文机には授業で使うテキストが積まれていた。床の間には木の枝で翼を休める鷹の絵の
掛け軸が下げられている。
「荷物、どこでもイイ、置きなサイ。布団はこの中ネ」
ハーバーは部屋に入ると襖を開け、自分の分との分の布団を取り出した。
「あ、自分で敷きます」
もハーバーの後ろに続いて敷居をまたぎ、障子の際に風呂敷を置くと布団を受け取った。
は丁寧に布団を伸べた。ハーバーの布団から出来るだけ離し、障子の傍に陣取った。何かあったらすぐに外へ出られるようにと。
ハーバーは障子を閉めると、に話しかけてきた。
「、アナタ不思議な人ネ」
の手が、止まった。
「アナタ、初めて会った時、ワタシから逃げなかっタ。日本人で怖がらないでくれた人、アナタが初めてネ」
まだ枕が曲がっていたが、はゆっくりと障子のほうへと首を回した。
ハーバーはきちんと正座をして、穏やかな目でこちらを見つめていた。
「ミナトヤのオカミサンも、最初はちょっとビックリしてタ。でも、普通だっタ」
初めて街中で会った時の事を思い出し、ハーバーが笑みを見せた。
「ココでイングリッシュ教えることになった時、アナタ、ワタシのこと心配してくれた。前にも言ったケド、とても嬉しかった」
あの時は驚きの余り動けなかっただけだったが、それを目の前の男は好意的に受け取ったらしい。
は黙ったままハーバーの言葉をよくよく聞いていた。自分に不利になるようなことを言われたら、どうするべきかと思いながら。
「、いつも何か隠してル。緊張しすぎてル。アナタ、英吉利語ケッコウ喋れるのに、それも隠してル」
ハーバーの続ける台詞が、の背中に冷たい汗を滴らせる。
ぼろが出て女であることを感づかれたのか、それとも別の時代から来たせいで英吉利語を多少理解することを詮索する気なのか。
は質問されたらどうかわすべきなのかで頭が一杯になった。額にも汗が滲んできた。
「でも、ワタシ、それが何だか探さない」
ハーバーはにこりと笑った。
「がどうしてそうなのか、知らなくてイイ。デモ、夜この部屋にいる時だけでもリラックスしてほしい」
「えっ…」
はその言葉を聞いてふと体から力が抜けていくのを感じた。
ハーバーが自分を指定してこの部屋に連れてきたのにはそのような思惑があっただなんて考えもしなかった。
「でも…」
自分にはそんなことをしてもらう謂れがまるでない。は先ほどまでとは別の意味でどうするべきかと悩んだ。
「何も言わなくてイイ。ワタシただ、心配してくれたオンガエシしたいだけネ」
静かにハーバーはの傍に寄った。
「ジショ作るの終わるまで、ここに泊まりなサイ。イイですネ?」
青く深く煌く瞳で、は見つめられた。
「…はい」
その煌きの中には微塵の嘘も見えず、自分の中には申し出を断る理由も見当たらない。は頷いた。
それを見たハーバーは心底嬉しそうに笑い、風呂の支度をしてくると言って部屋を出て行った。
しばらくして風呂が仕立てられ、は一番後に入った。それが身分としての順番であったことは勿論だが、次に入る者がいないので
途中で入ってこられたりする危険を減らすことが出来、は密かにほっとした。それでも屯所に居るときと同じように、
さっと済ませることは忘れていない。
英吉利語習得のメンバーは二手に別れて床についた。
もハーバーの部屋で横になったが、しばらくは起きていてじっとハーバーの様子を伺っていた。ハーバーは布団に入るとこちらに背を向けたまま、
すぐに眠りに入ってしまった。
ハーバーが深く眠ったようなので、も目を閉じた。
すぐに眠気が襲ってきた。
こうして一日目はやっと終わった。
翌日、二日目。
朝早くに斉藤が宿坊を訪れた。の着替えを持ってきたのである。
「ありがとうございます」
は宿坊の式台でそれを受け取った。
「どうだ、進んでいるか?」
斉藤はの様子を何気なく観察しながら聞いた。
「えっと…昨日は初日でしたので様子見で」
は苦笑いをしながら答えた。
「そうか」
今のところ変わった様子はない。土方に報告することは何もなさそうだ。
「では俺は仕事があるので」
斉藤はそう言ってから視線を外した。
「はい、お仕事頑張ってください。お手数おかけしました」
は深々と頭を下げた。
斉藤は踵を返そうとしたが、その姿を見て動きを止めた。そしての肩を掴んで耳打ちした。
「何かあったら公用方の秋月様か広沢様に言うがいい。俺はいつもお二人から仕事を請け負っている」
「…承知しました」
が頷くと、斉藤は手を放して外へと出て行った。
その後姿が御影堂の方へと行って見えなくなると、は中へと戻って行った。
やり方は皆理解したものの、それぞれの進めていく速度には明らかな違いがあった。
石井は飲み込みも早く担当の部分自体に間違いが少なかったので、予定通りに“一日一冊の半分”をこなしていった。
海老原は二日目までは四苦八苦していたが、三日目からは石井と同じように作業を進めていくことが出来た。
内藤はなかなか要領が得られなかった上に筆の進みが遅く、四日目でやっと一冊を終えることが出来た。内藤が遅れている分を皆で何とかせねば
ならなかった。
そしてはと言うと。
わざと石井と海老原よりも少し遅めに作業をしていた。出る杭は打たれる。そう思ったからである。
最初に間違いを発見して以来、は誤字脱字をところどころで知らないふりをした。ほとんど口を利かずに目立たないようにもしていた。
が、ハーバーと発音の確認をする際のみ、きちんと発声した。
ハーバーはの発音に注目していた。彼女の発音がとてもきれいだったからである。
今までの授業で、全員に発音の仕方も授けた。には元の時代での基礎があったが、それを抜きにしても彼女の口から放たれる英語は
ハーバーとそっくりの、美しいものであった。きっとよくよく注意して聞いているに違いない。文法面ではまだまだ覚束無いものの、
発音はこのまま伸ばしていきたいとハーバーは考えていた。
そうこうしているうちに日付は瞬く間に過ぎ、七日目になった。
この日の午前、黒谷の三門をくぐった二つの影があった。
近藤と土方である。
新選組の中では法度に触れる行為をする者は田上の一件以来現れなかったが、監察の島田からはまだ長州の間者がいるらしいことが報告されていた。
よりにもよって、副長である山南の側近・橘重吾がそうであった。橘を処罰し、やっと間者を全て始末することができた。その報告に来たのである。
前回は山南が黒谷に行ったので、今回は土方の番だった。
「トシ、ちょっと寄って行かないか?」
拝謁が終わって御影堂の前に出た近藤が土方に言った。
「どこへだ」
この時間からでは飲みに行くわけでもなさそうだと土方は眉を顰めた。
「君のところだよ。黒谷に詰めきりで、ちっとも屯所に戻ってこないだろう」
近藤は土方の顔を覗き込んだ。
「知るか。仕事なんだから仕方ねえだろ」
ふいと土方は横を向く。
「会いたいんじゃないのか?このところずっと機嫌もよくないじゃないか」
そう、が黒谷に泊り込んで以来、土方の虫の居所はよくなかった。副長としての仕事をこなすだけの気力は保っているが、時々妙に沖田に
突っかかったりしていた。
「大事な発句帳も落とすぐらいだもんなあ」
「う、うるせえ。そのことにアイツは関係ねえ」
土方はしどろもどろになった。
この男、実は句作が趣味で、発句帳を作って書き付けているほどである。先日それをうっかり落とし、散々探した挙句に山南に拾われて隠していた
趣味がバレるという失態を犯していた。そういうところまでは気が回らないほどのことを気にしているのを、近藤は感づいていた。
「いいじゃないか、ちょっと姿を見ていくだけだ。行ってみないか?」
近藤は笑顔で土方を誘った。
「行かねえよ。帰るぞ」
土方はそう言ってずんずんと三門の方へと歩き出した。
心配だから会いに来たなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。
どの道、辞書作成が終わったら、期限で言えばあと三日すれば屯所へ戻ってくるのだから、今しばらくの辛抱だと土方は思った。
「全く、子どもみたいに…」
意地っ張りなんだからと近藤は心の中で続け、土方の背中を追って行った。
その夜のことだった。
斉藤が遅くに戻ってきて土方の部屋を訪れると、の様子を報告した。
「だいぶ疲れているようですな」
夕方に隠密の仕事が終わり、帰りがけにのいる宿坊に斉藤は立ち寄った。二日目に訪れてからは斉藤も体が空かず、五日ぶりの対面だった。
出てきたは身なりこそ整っていたが、目は充血し、あからさまにぐったりとしていた。
「予定通りに…進んでいますので…」
は斉藤に向かい作り笑いを浮かべた。予定通りにという言葉と彼女の様子から推察するに、進めることは出来ているが相当無理をしている
ようだった。
「大丈夫か」
斉藤がぼそりと呟いた。
「はい」
それでもは健気に笑みを返した。
「山口さん」
斉藤の後ろから声がした。
同じ会津藩士の、柴司がそこに立っていた。手には何かの包みを持っていた。
「あ、斉藤さんでしたか。こんばんわ」
柴は折り目正しく礼をした。
「山口さん、これよかったら」
斉藤の横を通り抜け、柴はに包みを渡した。
「さっき外で団子を買ってきたんだ。皆で食べてくれ」
「あ、ありがとうございます」
が薄く微笑むと柴は満足そうにして宿坊を後にした。
斉藤も柴と同じく宿坊を出た。
「柴さん、あいつには関わらないように頼んだはずだが」
斉藤は宿坊から少し離れたところで柴に話しかけた。
「え?…ああ、嫌だな斉藤さん。別に俺はそんなつもりじゃありませんよ」
前に柴はに言い寄ったことがあり、斉藤にそれを阻止されている。その際に斉藤は柴に、これ以上に関わるなと釘を刺していた。
「山口さんのこと、そりゃあ完全に諦めがついたわけじゃありませんけどね、でも野暮な真似をするつもりはありませんよ。
昨日たまたま顔を合わせた時に元気がなさそうだったから、うまいものでも届けたいと思っただけです」
柴は失礼と言うとすたすたと歩き去っていった。
彼も会津藩士の端くれである。嘘ではなさそうだし、に余計な事をするつもりはないだろうと斉藤は判断した。
「何だそりゃ。下心みえみえじゃねえか」
土方は憮然として腕組みをした。
「まあ今少しの辛抱ですな」
斉藤は平坦な口調で土方に言った。
「ああ、それから預かり物です」
斉藤は思い出したように懐に手をやった。土方の前に書状が一通突き出された。
土方は胡乱な目でそれを見下ろした。
「からアンタに」
斉藤がそう告げた瞬間、土方は書状に手を伸ばした。急いで紙を広げる様子を見て斉藤は嘆息した。まったく素直じゃないんだな、この人はと。
土方の目が紙の上の文字を追う。
からの書状はたどたどしい筆跡で書かれていた。元気でやっていること、突然黒谷に詰めることになり直接挨拶できずに申し訳ないという
謝罪の言葉、辞書の編纂は何とか進んでいることなどが短い文章で綴られていた。
ぴたりと土方の目がある場所で止まった。
そこにはハーバーの部屋で夜は休ませてもらっているので、心配しないで欲しいと書かれていた。
(あの夷荻と二人きりだと…?)
途端に土方の目つきが険しくなった。
「どうかしましたか?」
そこまで知らない斉藤が尋ねた。
「何でもねえ。報告ご苦労だった。下がれ」
土方は紙を巻くと文机の上に放り投げた。
斉藤は挨拶をして土方の部屋を辞した。
心配ばかりさせやがって、と土方は心の中で舌打ちした。
昼間に彼女の仕事が終わるまで会わないと宣言したが、こんな書状をもらったらもうそれを破ろうとしている。
男どもに混じって泊まりで仕事をしていることはまだ我慢できる。そうしなければ彼女が怪しまれる原因になりかねないからだ。
が、自分の思い人が金髪の異荻と二人きりで毎夜を過ごし、以前彼女に告白した男が手土産を持って訪れてくる。
それを知った土方の心の中には、黒い感情がふつふつと沸き上がってきた。
(…ったく)
土方は立ち上がり、廊下に出た。
20081002