久遠の空 ドリーム小説 天稟 2

天稟

update:2008.09.26

天稟 2 

 「辞書を新しく作るだと?しかも、勉強の浅い我々の手で?」
 「一から作るわけではありません。これを基にして、間違っているところを修正するだけでいいと思います」
 石井が詰め寄るのをは静かに受け流す。
 「間違いだらけというのも本当なのか?証拠は?」
 さらに石井が質問を浴びせる。
 「たとえば、ここです」
 は自分の受け持ちの本の最初のページを開いた。そして先ほど見つけた箇所を一つずつ皆に示し、単語の意味を述べた。

 「しかしよく気がついたな。こんな単語、習っておったか?記憶にないが」
 石井が感心したようにを見下ろした。
 「そうですか?」
 表には出さなかったが、は内心焦った。余りの酷さに思わず間違いだらけだなどと口にしてしまったが、まだこの単語は教えてもらっていない。
 しらを切り通すしかないと思った瞬間、ハーバーが口を開いた。
 「ワタシと、時々一緒に帰ってル。その途中で教えたカモしれない」
 はそれを聞くと、素早くハーバーへと頭を向けた。帰り道で教えてもらったなんてことは一度もない。もしかすると助けてくれたのだろうかとはハーバーを見つめた。
 「そうでしたか」
 石井は得心して笑顔を見せた。
 「アナタたちも、いつでも聞くとイイ。だけ特別じゃナイ。エンリョはご無用デース」
 ハーバーがおどけたように言うと、皆は笑った。は口の端に笑みを浮かべたが、ハーバーがなぜ助け舟を出してくれたのか疑問に思った。


 は自分の受け持ちの見本をめくってさらに内容を確認した。
 後ろに行くに従って文字の乱れがひどくなっていく。そして最後のページをめくると、は驚きに目を見開いた。 Zの部には何も書かれていないのである。Zで始まる単語は確かに多くはない。が、全くないとは考えられない。
 これはもう写し間違いというレベルではなかった。こんなものがどうしてまかり通っているのだろうかとの手は震えた。

 「ではどうする?十日後には江戸へ送り返さねばならないのだぞ」
 石井が問うた。
 「とりあえず内容は書き写して、この本自体はお返ししましょう。それからハーバーさんに見てもらいながら修正するというのはいかがでしょうか」
 はそう提案すると、ハーバーの顔を見た。
 「spellingは直せるケド、meaningはアナタたちと相談ネ」
 ハーバーは顎を手で撫でながらを見て笑みを浮かべている。その青い瞳はきらきらと輝いており、すでに辞書編纂を承知する色を宿していた。
 「ワタシも思ってタ。ワタシの作るテキストだけで勉強するの、限界アル。ジショ作るの、とてもいいコト。やるとイイ」
 そのための手助けは厭わないとハーバーは続けた。

 「しかし、間違っていましたの書状ひとつで山本様が納得すると思うか?それが真実であっても、送ってくださったことに対しては失礼ではないか?」
 海老原が本を撫でながら言った。
 「そうだな、お心遣いに対しては失礼だな」
 石井も本に目を落とし、眉を顰めた。
 「…では、石井殿」
 海老原が苦笑いを浮かべて石井を見る。
 「やるしかあるまい」
 石井も海老原と目を合わせてふっと笑った。


 「十日後までに一切を書き写し、修正を加えて写本と共に送り返す、というのはどうだ」


 石井の提案に、一瞬空気すらも動きを止めた。
 書き写すだけならともかく、編纂までを終わらせるとは。たかが十五巻、一冊の厚みがたいしたことはないとは言え、無謀ではないかとは思った。

 「ということは、しばらくここに詰めねばならぬな」
 海老原はふうっと息を吐いた。
 「出来るでしょうか…」
 内藤もおそるおそる顔を上げ、心配そうな目つきで皆を見渡した。
 「出来るかどうかではない。やるかどうかだ」
 勿論やらねばならぬがな、と石井は鋭い目つきになった。その目に射抜かれ、内藤は慌ててこくこくと頷いた。


 かくして、会津藩金戒光明寺における英吉利語習得メンバーは辞書編纂に関わることとなった。
 は自分が口にしてしまった一言でとんでもないことになったと思ったが、石井の言葉どおりやるしかないと腹を括った。




 舞台を壬生へ戻す。
 同じ頃、書状を黒谷へ届ける手筈であった神谷と田上は屯所へと戻っていた。街中で後ろから“天誅”を掲げる浪士風の男二人に襲われ、 田上が右の肩甲骨付近を斬られたのである。

 田上は神谷に支えられ、隊服を血まみれにして帰ってきた。すぐに医者が呼ばれ、田上は手当てを受けた。
 神谷から報告を受けると、土方は冷ややかな目で田上を見下ろした。
 「―――後ろ傷だな」
 その言葉を聴いた瞬間、田上は怪我で青くなった顔を蒼白にし、神谷は驚愕して土方を見上げた。

 「切腹だ」

 土方はそう言うと体を翻し、田上には謹慎を、同席していた沖田には田上に張り番をつけるように申し付けて部屋を出て行こうとした。
 神谷が鬼だとなじる声が背中に投げかけられる。土方は足を止めて神谷を振り返ると、
 「お前は今頃それに気がついたのか」
 と言い捨てた。

 廊下を自室に向かって歩いていく。後ろからは神谷が何かを言い、沖田がそれを押し留めるような会話が聞こえてきた。
 新選組を組織として維持するために今朝方申し渡した隊規がこんなに早く実施されることになろうとは、と土方は苦笑した。
 鬼。
 そう呼ばれるのは本望である。鬼でなければ新選組を叩き、研磨していけないとあらば、喜んで呼ばれよう。
 新選組は武士の集団であることを知らしめるために、田上に腹を切らせる。
 田上の腕が上がるようになるまで三日待ってやることにした。せめて武士として死なせてやろうという情けだ。 それだけでもありがたいと思ってもらいたいくらいだと土方は嘆息した。

 しかし土方の僅かな情けは無駄に終わった。
 夜になり、やや膨らんだ半月が冷たく地面を照らしてしばらくした頃、田上が脱走を試みたのだ。普段は使い慣れていない左腕で張り番を切り殺し、 月明かりだけを頼りに前川邸から転がり出た。
 闇の中を走る田上を物陰から呼び止めたのは、一番隊組長沖田総司であった。沖田はもしかすると、と思い、外で田上を張っていたのであった。 土方の無言の情けを酌み、せめて武士として死なせてやろうと相対したが、そこへ神谷が遣って来て田上を誅殺した。


 「土方さん」
 田上の死体の始末をつけてから、沖田は副長室を訪れた。
 「総司か、どうした」
 土方が障子の向こうから返事をする。沖田は部屋に入り正座をして畳に手をついた。
 「田上さんの始末がつきましたのでご報告します」
 「そうか」
 土方も幾つかの展開を予想していた。田上がおとなしく切腹に応じるか否か。否の場合、どのような行動をとるだろうか。逃亡することも そのうちの一つに入っていた。その場合沖田が最終的に動くことも考えていたので、特別な驚きはなかった。
 「ご苦労だったな」
 「いえ、実際に斬ったのは神谷さんです」
 「…あの童がか?」
 そこは土方の予想には入っていなかった。
 「土方さんに刃向かったことを悔いてましたよ」
 ふと沖田が笑った。
 「知るか」
 ついと土方はそっぽを向いた。
 「近藤さんにも報告しろ」
 「承知しました」
 土方が命ずると沖田は隣の近藤の部屋へと向かった。

 あの童が田上を。
 土方は天井の片隅を見上げた。おそらく他人に刃物を向けたことすらないだろうあの神谷が、自分を鬼だと怒鳴りつけたあの童が人を斬った。 鬼の作った隊規で、また一人鬼が生まれたわけだ。やはり自分の考えは間違っていないと土方は確信した。

 「トシ、田上君を処断したんだってな」
 沖田の報告を受けた近藤が、すぐに土方の部屋へやって来た。
 「ああ」
 土方は事も無げに返事をした。
 「まさかこんなに早くとはな…」
 賛成したとは言え気分のいいものでないと近藤が溜息を付く。
 「仕方ねえだろ。こういうことは最初が肝心だ。隊規を破ったらどうなるのか早速の手本になったじゃねえか」
 土方は自嘲した。

 「近藤先生、土方さん、これどうぞ」
 土方の部屋に、沖田が盆を持って入ってきた。盆の上には清めの酒が載っていた。
 「ありがとう総司」
 「では私は失礼します」
 近藤の前に盆を置くと、沖田は部屋を辞した。

 土方と近藤は酒で清めを行った。
 先に飲み干した近藤が土方に語りかける。お前の役どころは悪すぎる、そこまでしないでもよかろうにと。
 が、土方はそれを一笑に付した。誰かがこの役割をやらねば新選組は機能していかないからだ。それは発案した自分がするのが一番いい。
 芹沢を沖田に殺させたのは自分である。人斬り鬼を誕生させたのは自分であり、その自分が鬼になることは最初から覚悟していたことだ。
 土方は酒を飲み干すと杯を転がした。


 「今夜は君、遅いんだな」
 近藤が話題を変えた。
 「そうだな」
 取り込んでいたので忘れていたが、言われればがもう帰ってきてもおかしくない時分だった。

 「局長、副長、ただいま戻りました」
 そこへ斉藤がやって来た。
 「副長、から伝言です。十日ほど前川邸には帰れないと」
 斉藤は廊下にたたずむ近藤の足元に座るとそう告げた。
 「何?」
 土方は眉を顰める。
 「英吉利語の授業で、江戸から辞書が届いたそうです。が、それが使い物にならないらしく、自分たちで作り直すとか」
 斉藤は今日も黒谷へ出仕し、隠密の仕事をこなして報告に上がった帰りにに呼び止められ、辞書に関する一部始終の説明と土方への伝言を預かった。
 「しばらく戻れないが、心配しないで欲しいとのことでした」
 斉藤はそこまで言うと両手をついた。
 「そうか、君もそんな大事な仕事に手をつけるようになったか」
 近藤が感心したように言った。
 「は」
 斉藤も同意して頭を下げる。


 近藤は自室に戻った。廊下には土方と斉藤が残された。
 「…ご心配でしょうが、俺が時々様子を見てきますので」
 斉藤は徐に口を開いた。
 「心配なんかしてねえよ」
 土方はくっと笑った。
 全く心配していないと言えば嘘になる。が、だんだんとも成長してきた。最低限、自分の身元がバレないようにするぐらいはできるだろう。
 土方はを信じることにした。彼女も信じて欲しいと思って言伝を斉藤に託したに違いない。


 風が緩く吹いている。空の月を邪魔する雲はない。
 土方は、彼女のいる黒谷でも見えているはずの月をそっと見上げた。




 20080923