天稟 1
「今より新選組の隊規を申し述べる。一同、心して聞くように」
雨が上がった翌朝。
土方は隊の全員を前川邸の庭に集めた。
局長の近藤と副長の山南を前に立たせ、自分も同じく並ぶ。
隊規とは何だろうと、その場にいる面々から疑問のさざめきが起きた。
「一つ、士道に背くまじき事」
土方はゆっくりと、列の一番後ろの隊士たちまで聞こえるように大きな声で頭の中の字面を追った。
「一つ、局を脱するを許さず」
一瞬静まり返った後、ざわりと平隊士たちがどよめき始めた。
「一つ、勝手に金策致すべからず。一つ、勝手に訴訟取り扱うべからず」
どよめきがだんだんと大きくなってくる。
「一つ、私の闘争を許さず」
土方は、その喧騒が自分の言葉が皆に伝わっているからこそのものだと判断した。
「これらに背きし者は切腹を申し付ける」
土方のその一言に、隊士たちの声が一際大きく上がった。
「切腹?」
「切腹だって?」
「まさか…!」
動揺が彼らの間を駆け抜けていく。
敵から後ろ傷を受けた場合その相手を討ち取らねばそれも切腹の対象であり、切腹を恐れての回避行動もまた然りと、土方は続けた。
ざわざわと、嫌な空気が立ち上る。
それも当然であった。元々幹部が武士の家の出でないこの新選組、後から加入してくるものも正式な武士身分でないものが殆どである。
食い詰め浪人や元は農民、漁師、家を継ぐことの出来ない長男以外のあぶれ者などばかりである。毎月の俸禄が目当てだったり、
ただ単に会津藩の御預という看板だけを見て入隊してきたりだ。本当に武士になりたくてここにいる者が何人いるだろう。
そこへ武士らしくない行動を取れば、つまりこの隊規を踏み外せば武士として腹を切れと言われて心を乱さない者などいない。
話が終わると土方は全員に解散を申しつけ、その場を後にした。
後ろからは驚愕交じりの視線が送られてくるが全く気にならない。
(まあわかってたことだがな)
土方はそれまでの厳しい顔に苦笑いを浮かべた。
皆の反応は予想済みだった。武士としての矜持を最初から彼らに期待してなどいない。
大事なのは、この隊規に怯え、上からの命令をそのまま聞くだけの存在。
近藤を頂点に隊をまとめ、京で最強の組織となるための兵隊。
だが、その先を見てないわけではない。
この隊規を守り、乗り越えてきた者には本物の武士の魂が宿ると、土方は信じていた。
士道を守り、隊の秘密を守り、金や訴訟などの諸問題を起こさず、内輪もめをしない。
そして何より、この厳しい掟を守りきる精神力。
それを持つものこそが、本物の武士。
土方はその存在が現れるのを、この隊規に託していた。
一部の隊は巡察に出掛け、残りの隊士たちは竹刀を持って庭で稽古となった。
土方は竹刀の打ち合う音を聞きながら近藤の部屋へと向かった。
近藤の部屋には近藤と山南がいた。
「やはりな、ってえ反応だったな」
土方が腰を下ろしながら言った。
「ああ」
近藤は厳しい顔つきで返事をした。
「…」
山南はやや顔を下に向け、眉を寄せている。
「不満か?山南さん」
土方がちらりと視線を投げて寄越した。
「今からでも遅くない、土方君、もう少し緩やかなものに変えたらどうだろうか」
山南は顔を上げて土方と視線を合わせた。
「近藤さん、あんたはどう思う?」
土方はそれを受け流し、近藤に聞いた。
「俺は…一度決めたことだ、翻す理由も特にない」
近藤は土方に向かってそう言ってから山南を見た。
「だ、そうだ。山南さん、あんたは局長に従うと言ったよな」
「…ああ」
山南は土方の言葉の意味を理解すると頷いた。つまり、隊規に変更はないことを。
「巡察は今まで通り行う。隊の順番には変更はねえが、経路は時々変えるつもりだ」
土方は隊規についての話を打ち切ると、これからについての自分の構想を話し出した。
「いつも同じ場所だけを通っていたら…と言う事かい?」
山南も気を取り直して発言する。
「そうだ。敵の中にも馬鹿じゃねえ奴のひとりぐらいいるだろ。経路にしていないところに溜まり場を作る程度は考えるだろうな」
満遍なく巡察の地域を回り、経路を変則的にすることで不逞浪士どもの集合を阻止する。それが狙いだ。
「黒谷へもその向きを伝える書状を書いてあるから」
先ほどにそれを持たせた、と言おうとして土方ははたと口を止めた。昨日、一昨日とあんなことが起きたので、持たせるのをすっかり忘れていた。
「…後で誰か届けにやらせる」
「わかった。頼んだぞ土方君」
局長らしい口調で近藤は言った。
山南もそれに合わせて軽く頭を下げる。
局長室での話し合いが終わり、土方は自室へ戻った。
文机の上を見ると、に持たせるはずだった書状があった。それを開き、今一度中身を改める。もう少し追加したいことも出てきたので、
書き直すことにした。
書き直した書状を手にして、土方は部屋を出た。急ぎではないが、黒谷への連絡はまめに迅速に行うのがいい。それに巡察の任務についてない者は
暇を持て余している。土方はその辺をうろついている誰かを使おうと廊下を歩いた。
「誰かいないか!?」
「はいっ!!」
声を掛けると返事が返ってきた。そちらへ顔を向けると、稽古が終わり井戸端で汗を拭いていた田上と神谷がいた。
「ああ田上・神谷、お前たちでいい。黒谷まで使いに行ってくれ」
そう言うと土方は書状を渡し、二人を黒谷へと送り出した。
一方、金戒光明寺に到着していたは英吉利語を学ぶ宿坊に入った。
「おはようございます。昨日は失礼いたしました」
自分にとってはほんの数分だが、こちらの時代では一日が経過している。“”も屯所にいたので、昨日は黒谷へ出仕していない。
は英吉利語を学ぶ皆が部屋に揃うと、丁寧に頭を下げて詫びた。
「山口、斉藤殿から伺ったぞ。見かけによらず病弱だな。本当にもう大丈夫か?」
英吉利語を学ぶ四人の中では最も年長の石井藤太郎がまず話しかけてきた。
石井は会津の藩校・日新館にて学んだ。十六歳で素読所(小学)の本試に合格し講釈所(大学)へ進んだ。そこでも下等から上等までとんとん
拍子に昇級し、江戸への遊学の権利を獲得。筆記試験も見事に突破し、江戸の昌平坂学問所へと堂々の入学を果たした。
昌平坂学問所は、徳川家康公に召し抱えられた儒学者・林羅山の私塾に端を発し、三代将軍家光公や五代将軍綱吉公、八代将軍吉宗公らの学問奨励の恩恵を受けた。
そして十一代将軍家斉公の時代に老中・松平定信の寛政の改革によって公的な教育機関としての形を定められた。ここに通うことは学問の徒にとって
憧れであり、名誉でもあった。中に入ってからの勉強は大変厳しいものであったが、出世にも影響があった。
昌平坂に入学してからも熱心に研鑽を重ねていた石井は、今回の京における英吉利語習得の話を聞くと、ぜひ自分も学んでみたいと立候補した。
学問所での学友に阿蘭陀語をかじっている者がおり、異国語にも興味があったのである。
「大丈夫と言われても言葉半分にしか聞けんがな」
その隣で海老原郡司が笑う。早くに隠居した父の後を継ぎ、勤番として京都の守護に上ってきた。英吉利語の教授の話が出た際、
殆どの者は異国語だからと拒否したが、海老原は「藩主の呼びかけに従わないとは何たることか。自分はやる」と立ち上がった。
二人のやや後方でこくこくと頷くのは内藤二郎衛門。元藩家老の二男で、長男である兄と共に京へとやって来た。内気で武芸の腕前もたいしたことは
なく、真面目だけが取り柄である。「もう一人ぐらい学ぶ者が欲しい」と公用方筆頭の野村が黒谷の御影堂の階段で座って呟いた際、三門をくぐって
やって来たのが内藤だった。そこから先は推して知るべしである。
「この前のイクサの前から、少し心配ネ。慌てなくてイイから、元気になって欲しいデス」
そして四人の前で青い目を細めて笑うのが講師のイギリス人、エリック・ハーバーである。
「はい、度々欠席して本当に心苦しく思っておりますが、ご容赦下さい」
は再び頭を下げた。
どうやら自分はこの英吉利語習得メンバーには体が弱いと思われているようだ。が、その方が都合はいい。もし元の時代に帰ったとしても、
突然の体調不良で倒れてそのまま死んだことに出来るし、今回のように何らかの理由で黒谷に来られない時も具合が悪いと言うことも出来る。
嘘をつくのはいつだって嫌だ。しかし、自分が女だと言うことや別の時代から来たことがばれないようにするためには奇麗事を言ってもいられない。
全てが潤滑に動くための手段と割り切って、は表情を変えずに頭を上げた。
「では続きを急ぐことにするか」
石井が風呂敷包みからどさりと本を取り出した。
(続き…?)
はその本を見て思案する。前回黒谷に来た時、あのようなものがあっただろうかと。
「ああ、山口は昨日休んでいたから知らかったな」
石井はの前にその綴りを突き出した。
表紙に書かれた文字を見たが、にはそれが読めない。
「石井様、これは何とお読みするのですか?」
が聞くと、石井は文字を指差して読んだ。
「『諳厄利亜(アンゲリア)語林大成』だ」
「アンゲリア…」
「そうだ、山本様がお貸しくだされたのだ」
石井は目を輝かせて言った。
「山本様?」
は山本という名字を頭の中でさらってみたが、この時代で出会った人の中に該当する人物がいなかった。
「山口はまだ山本様にお会いしたことがないのではないか?」
横から海老原が口を出した。
「山本様…山本覚馬様だ。石井様と同じく日新館出の秀才であらせられ、砲術と蘭学の達人でいらっしゃる。その山本様が
この度我らが英吉利語を学ぶのに賛成してくださり、手を尽くしてこの語林大成の写本をここに届けてくださったのだ」
海老原の後を受けて石井が説明する。
山本覚馬は兵学に通じ、江戸で洋式砲術を学んで蘭学を得て会津に戻り、日新館に蘭学所を設立した。現在は軍事取調兼大砲頭取として洋式調練に
忙しい日々を送っていると石井は言った。
そう言えば、とは思い出す。
初めて英吉利語習得のメンバーが顔を合わせた日に、山本ともうひとつ聞きなれない名字が出たことを。あの時の山本がそうなのだろう。
「無理を言って写本を借りてくださったようで、十日後にはお返ししなければならん。山本様の添え書きには、我々もこれを写し、今後の手本とせよ
と書かれていた」
石井が続けた。
は語林大成を手に取った。一冊の厚さはさほどではないが、数えてみたら十五冊ほどある。中をぱらぱらとめくって簡単に改めてみると、
Aの部からZの部までアルファベット順に記載されており、英単語とよくわからない綴りの単語、そして日本語が横一列に並んでいた。
(きっとこの英単語がこの日本語なんだろうな…)
はちらりと一瞥してそう思った。これはいわゆる辞書だ。
ふとは顔を上げ、もう一度本の冊数を確認した。
十五冊。これを四人で十日間で写し取る。ひとりあたま四冊弱。四冊としても、一人が一日一冊の半分を写し取れば余裕で終わる計算だ。
写し取る量はそれなりにありそうだが、出来なくはなさそうである。
「これがお前の分だ」
石井が後ろの方の四冊を取り、に渡した。
「お前は手が早いからな、俺と海老原と同じく四冊担当してもらうことにした」
どうやら昨日のうちに割り当ては決まっていたらしい。はわかりましたと頷いて、自分の席に座った。
他の三人に分けられた本を見てみると、石井が最初の部分の四冊で最も分厚いところを担当し、次いで海老原と自分、内藤が一番少ない三冊を
机の上に積んでいた。
今までの授業を観察していても、実力的にはそれがふさわしい量だとは思った。石井は秀才だけあって覚えが早かったし、海老原も頭の
回転は早いようだ。が、内藤は半ば強制的に学ばされている部分もあり、習得は他の三人よりも僅かに遅い感じである。
は自分も他の者たちと同じように、机の上に書き物を用意した。石井から朱墨と専用の細筆が手渡された。見本と同じように英単語を朱で
書き込むためだった。
「…?」
いざ筆を手に取り、見本と同じ大きさに折った半紙に書き写そうと思ったその時。はあることに気がついた。
見本に書かれている英単語と、それに相当すると思われる日本語の訳が明らかに違うのである。
(まさか…)
は墨のついた穂先で紙を汚さないように気をつけて筆を置くと、見本のページを次々とめくっていった。
違う。明らかに訳が異なっている。
さらに単語の上のカタカナで書かれた発音にも目を向けてみると、それもまったく違った読みが当てられている。
「…石井様、ひとつお伺いしたいのですが、これは原本から直接書き写した写本ではありませんよね」
一番後ろの席からが静かに声を放った。
「ああ、山本様の添え書きには、これは幾度も写されてきたものであり、その度に手が加えられたり新しい言葉が追加されてきたとあった」
「やっぱり…」
石井の返答にはひとり頷いた。
いくら古い時代とは言え、原本がここまで不確かな出来だとは到底思えないほど、訳の乱れも発音の相違も酷かった。だとすれば、このような
一般的ではない本は主に手で書き写され、伝えられていく途中に書き間違いがあったと思うのが自然だろう。
だがこの先、この写本を信じて勉強を進めてしまえば今度は自分たちの知識が危ない。こんな間違いだらけの知識を得たところで、誤訳を招いて
どんな危険が待ち受けていることか容易に想像がつく。
「どうしまシタ、?」
真剣な表情で考え込むにハーバーが話しかける。
はぐっと手を握り締め、本を机の上に置いた。
「…皆さん、聞いてください。この本は間違いだらけです」
「何?」
「何だと?!」
「まさか…」
「…」
石井、海老原、内藤、それにハーバーはそれぞれ驚きをむき出しにした。
「このままこれを写して学んでも、私たちの糧にはなり得ません」
は机上の見本を一瞥した。
「それは本当なのか?だとしたらどうすると言うのだ。せっかく山本様が届けてくださったのだぞ」
石井は信じられない思いで本とに視線を往復させた。
「作るんです」
厳かには言った。
「この語林大成を元にして、我々で新たな辞書を」
は全員の顔を見渡した。
誰もが、まさかそんなことをと言わんばかりの、困惑の表情を浮かべていた。
20080918