帰還 3
とが入れ替わった昨日のように、それぞれ着替えを済ませると土方の部屋へと集合した。
「・・・で、が外へ飛び出して雨に当たっているうちに入れ替わったと」
斉藤は土方からこちらで起きたことの一部始終を、からはあちらの時代での一瞬とも言える時間のことを聞いた。
「ではやはり自然の水が原因かもしれませんな」
「かもな」
ゆうべ話し合った予測がほぼ正しいであろうことを、男二人は確認し合った。
「あの、どういうことですか?」
落ち着きを取り戻してきたが聞く。
「お前たちが入れ替わったことに関して、俺と副長で可能性を話し合っていたのだ」
斉藤は昨夜の自分と土方の会話をに説明した。はそのひとつひとつを噛みしめるように聞いた。
「自然の水に何かが・・・と言うことですね」
も自分との状況を思い描き、斉藤が説明してくれた可能性について考えた。科学的にどうかはさておいて、事実だけを拾って考えれば
筋道は立っている。
「・・・喉が渇いた。茶を淹れて来い」
土方が咳払いをひとつしてに言った。
はいと返事をすると、は部屋を出て行った。
「土方副長」
の足音が遠のくと、斉藤は口を開いた。
「やはりあれに」
「そうだ」
斉藤の続く言葉を遮り、土方は肯定した。
「俺は忠告したはずです。いずれ消えるあれに心を寄せても、最後に傷つくのはアンタだと」
「わかってら」
土方は微塵も否定せずに、斉藤を見据えた。その目は彼女に対する感情をしっかりと自覚している色を宿していた。
「・・・俺の役目は、あれがであるようにすることと、女子であることが露見せぬようにすることだけです。他の事をとやかく言うつもりはありません」
斉藤は土方の視線を受け止める。
「アンタもどうせねばならぬのかは承知していると思いますが」
「ああ」
斉藤に言われずともわかっている。
いつかは別れなければならないと分かりきっている相手に心を奪われる意味を。
また、そうしていられるほど自分を、そして彼女を取り巻く状況は暢気なものではないことも。
土方は重々しく頷いた。
ややあって、が茶を淹れて戻ってきた。
湯気の立つそれを口に含むと、温かさが体の中に広がってくる。話をするのが先になり、体が冷たかったことを三人とも忘れていた。
がこちらで何か騒動を起こしたわけでもなかったので、翌日からの生活に支障はない。
今日黒谷を休んだのは具合が悪かったということにしてあることだけを申し合わせ、斉藤は自分の部屋へと戻って行った。
夕餉の時間になり、が部屋に膳を運んできた。
向かい合わせて座り、雨音を聞きながら食事をする。
は箸を手に持ってはいるものの、まったく食が進んでいなかった。
視線は膳のある方に落としているが、おそらく視界に膳があることも認識していないだろう。
心ここにあらず。いや、魂すらもしかするとまだあちらの世界にあるかのように、は焦点の合わない目をしていた。
「・・・せめて汁物だけでも口にしたらどうだ」
土方は箸を下ろし、溜息をつきながら言った。
「あ、・・・はい」
は言われて、膳の上で湯気を失っている汁椀に触れた。
が、つかんだ瞬間に手を滑らせてしまった。
膳の上に広がる汁と具を前に、はうな垂れた。
を先に風呂に入れ、土方が後から入った。
珍しくは長風呂だった。いつもなら、誰が来てもおかしくないため烏の行水のように早く上がるのに。
心配した土方が三回ほど部屋と風呂場の前を往復したところでちょうどが出てきた。
すみません、お待たせしました、とは言って、湯の香りを漂わせながら土方の部屋へと戻って行った。
土方は風呂を出た。
すぐそこにある自分の部屋と風呂場を繋ぐ廊下を歩いていると、前にがいた。
土方の部屋の前の廊下に出て座り、夜空を眺めていた。
雨はもう上がっていて、暗い空には鼠色の群雲がちぎれて飛んでいる。
雲の向こうには月があるようで、薄い雲の向こうに時折仄かな明かりが見え隠れしている。
「落ち着いたか?」
土方は肩にかけた手拭いで首筋の水気を拭きながらに近づいた。
「・・・土方さん」
は土方に気がつくと会釈をしたが、またすぐに空へと目を戻した。
土方はの隣に腰を下ろした。
「・・・帰ってこなけりゃよかったか?」
徐に土方は口を開いた。
質問の内容に、がぴくりと体を揺らした。
は斜め後ろにある近藤の部屋をちらりと見遣った後、土方を見上げた。
「近藤さんはさっき会議で出て行った。夜の巡察の隊士たちも出て行った。もう余程のことがねえ限り、誰もここには近づかねえ」
もし誰かにこの会話を聞かれていたら。彼女がそう心配するのを読み取って土方は言った。
「・・・」
は口を噤んだまま下を向いた。
雨で冷やされた空気がひんやりとした風になり、二人の前髪を揺らす。
いつもなら。
いつもなら、自分の問いにすぐ答えるのに。それが否定であろうと肯定であろうと。
だが今の彼女にそれは無理だと言うこともわかっている。
土方は辛抱強く答えを待った。
「・・・わかりません」
どのくらい時が経ったのかわからないほどの静寂の果てに、やっとは呟いた。
「あちらに戻れるのは・・・あと何年も先のことだと思っていました」
は小さな声で言葉を続ける。
「だから・・・自分の気持ちも決めたつもりでいました・・・」
この時代で、与えられた環境の中、土方や斉藤たちと共に生きていくと。
「なのに、あんなことになって・・・」
薄く苦笑いを浮かべると、はまた黙ってしまった。
空の雲が何度も形を変えて流れていく。
「・・・で?」
土方は続きを促した。
「・・・」
は視線を泳がせる。
「何だ」
「・・・言わなきゃ、駄目ですか?」
「俺しか聞いてねえ」
「その辺に島田さんとかいないですかね」
「いねえよ」
は、ふうと息を吐き出した。
「・・・わからないんです、自分が」
きちんと正座した膝の上で組んだ指が、もそもそと動く。
「戻らなきゃいけないのはわかってるんですけど・・・」
は常にないほど歯切れが悪い。らしくねえ、と土方は思った。
「こちらで皆さんにご指導いただいて、お陰様で普通に生活できるようになりました。黒谷では仕事も与えられて、
何も心配なく過ごさせてもらっています・・・」
「ああ」
「だから・・・その・・・」
はなおも言い淀んでいた。
土方はそんな彼女を横から見下ろした。
そして、己の手を伸ばし、そっと膝の上の細い手を握った。
はゆるゆると土方を見上げた。
土方は視線を空に向け、を見ていない。
「・・・迷ってるんです」
顔を地面に向け、絞り出すようには言葉を放った。
「向こうに帰らなければならないのは最重要事項です。それに変わりはありません」
自分はこの世界の人間ではないのだから。代わりにあちらに行っている彼と入れ替わらなければならない。それが自然の理だ。
「でも・・・こちらでここまでやっていけるように骨を折ってくださった皆さんや仕事を、突然放り出していなくなることは出来ません」
はそう言い切ると土方を再び見上げた。
土方もその気配を感じてと視線を合わせる。
自分の気持ちを押し通そうとしながらも、彼女の目には困惑が浮かんでいた。
「別にいいだろ。元の時代に戻れりゃあ、こっちのことは放っておいたって。それより戻ることのほうが先決だろうが」
至極真っ当な意見を土方はぶつけた。
「わかってます。でも」
「いざとなったらくだらねえ感情は捨てろ。それがお前の義務だ」
ぐっと強く手を握り、土方は言った。
「・・・っ」
はひるんだ。
土方の言っていることは正論だ。理解しているし、そうでなければいけないと思う。
が、何も持たない自分に与えられた全てを突然放り出して消えたら、その後始末は誰がどのようにつけるのか。
「全てにカタをつけて戻れるなど、お綺麗なことを考えるんじゃねえぞ」
土方が続けた。まるで彼女の心のうちを全て見透かしているように、そしてそれを貫くように。
「・・・はい」
それも本当はわかっている。そんな風に、何もかもに始末をつけてなどいたら、あちらに戻る機会を失ってしまうかもしれない。
土方の手の甲に、水が一滴ぽたりと落ちてきた。
「何泣いてんだ」
それが彼女の洗い髪から垂れ落ちてくるものではないことを、土方は知っていた。
「っ、すみ、ま、せ・・・」
「理由を言え」
睫毛を伏せた彼女の目から、ぽたぽたと透明な雫がこぼれる。
「すみま、せん・・・」
なおもは謝罪の言葉を口にした。
「土方さんの・・・おっしゃるとおりです・・・わかってるんですけど、改めて言われなきゃいけない自分が情けなくて・・・」
手の甲を幾筋もの涙が伝っていくが、土方はその手を離そうとしない。
「別に言われなきゃいけねえわけじゃねえだろ。俺の言葉でお前は自分を確認した、それだけだ」
溜息混じりに言うと、土方は重ねていないほうの手をの肩に伸ばした。
引き寄せられて、は不安定な姿勢になる。土方の胸元に重心が預けられた。
「離して、ください」
は廊下の板に片手をついて土方の手から逃れようとした。
だが土方の力には敵わなかった。それに、しゃくりあげている状態では大して体に力も入らなかった。
「今、優しくしないで欲しいんですけど・・・」
そう言っては土方を見上げようとしたが、今度は肩に回された手が後頭部を押さえた。の額が土方の鎖骨にこつりと当たった。
「土方さん・・・?」
何故相手がこんなことをするのかわからず、はくぐもった声で問うた。
だが土方は黙ったまま、重ねていた手を彼女の背中に回し、軽く抱きしめた。
風呂に入って温まったはずなのに、いや、考え事をしていてのぼせる寸前まで入っていたと言うのに。
どうしてこの人の体温はそれ以上に、こんなにも体の、心の奥まで沁み込んでくるのだろう。
「・・・すみません・・・今だけ・・・」
小さく呟くと、はまた静かに涙を落とし始めた。
相手が誰でも絶対に寄りかかってはならないと思っていたのに。
自らそれを破ってまた土方に迷惑を掛けてしまったと、は己の中で後悔した。
何故事あるごとにこうなってしまうのか自分でもわからない。
だが、もう今後は何があっても泣かない、寄りかからない。今を最後にすると、は心の中で誓った。
夕方の雨の中、同じように自分の胸で泣いていたのはの方だったことを土方は思い出した。今は外も中身もだ。
心の奥でその事実に安堵すると同時に、再度確認したことがある。
やはりは元の時代へ帰る存在なのだと。
そしてそれを覚悟せねばならないと言うことも。
いつ彼女が消えてしまっても、決して落胆してはならない。そこに感情を紛れ込ませてはならない。
彼女を諭した言葉は、自分に向けた言葉でもあるのだ。
今回のことで、幸か不幸か心の準備が出来た。
もう彼女の去就で、この心を揺さぶられることもない。
空を見上げた土方の目に、月の光が降り注いできた。
雲が途切れ、澄んだ空気を切り裂くように煌々としたその姿を現していた。
「・・・ありがとうございました」
が身じろぎをして、目の周りを袂で拭った。
落ち着いた様子の彼女を見て、土方は少しだけ腕の力を緩めた。
「あの・・・」
は土方の腕の中から遠慮がちに質問した。
「さっき、外で、私に濡れるの禁止って言いませんでしたか?」
「ああ」
雨の中で、羽織を頭に被せてそう言った。
「それじゃ私、帰れなくなっちゃうんですけど」
はふふっと笑った。
「時と場合によるだろ。手当たり次第に水被んじゃねえってこった」
憮然として土方が答えた。
「そうですね」
「そんなことも判断つかねえのか、いつまでボケてんだこの野郎」
「・・・すみません」
本当は、自分の手元に置いておければと土方は思う。が、それは決して口にしてはならない。彼女が戻ってきた瞬間だったため思わず口にして
しまったが、何とか誤魔化すことに成功した。
「トシか?」
廊下の向こうから足音がしてきて、紙燭の灯りが近づいてきた。
「近藤さん」
「局長」
二人は同時にその姿を認め、どちらからともなくすっと体を離した。
「お帰りなさいませ」
「どうしたんだ、二人して廊下なんかで」
近藤はすぐ後ろにある土方の部屋を見遣った。
「何でもねえ」
土方は手拭いでさりげなく、の涙で濡れた襟を隠した。暗いのでどうせ見える心配はなかったが。
「布団敷いてきます、失礼します」
は近藤に泣いた跡の残る顔を見られたかもしれないと思いつつも、落ち着いた態度で部屋に入った。
「君の容態はどうなんだ?ちょっと心配してたんだが」
近藤は、が具合が悪いと言うことで黒谷への出仕を見合わせたと聞いていたが、夕方になって突然大きな声を上げて部屋を出て行ったのを
知っている。
「もう大丈夫だ」
土方は口の端だけで笑って、近藤の肩にぽんと手を置いた。
そう、もう大丈夫だ。
帰ってきた直後のような混乱も見られないし、自分の軽口にも応じた。
もう心配はいらない。
また明日から、いつもどおりの一日が始まる。
互いの存在が今この時代にある、いつの間にか当たり前になった一日が。
向こうに戻って行った相手には悪いが、完全に入れ替わるにはまだまだ時が必要なようだ。
そして、朝日は再び前川邸の屋根を照らし始めた。
20080901