帰還 2
夜が明けた。
あまり眠れなかった土方がいつもの時間に起きてもまだは布団の中にいた。
いつもなら自分よりも早く起きて身支度を整えているのに。
土方は布団から出るとの顔を覗き込んだ。
目を閉じた顔はいつもと変わらない。入れ替わってしまったことが、いっそ夢だと思えるほど。
「・・・いっつもそうやって見てんの?」
ぱちりとが目を開けた。
「起きてたのか」
「今起きたの」
僅かに驚きを見せる土方を笑い、は体を起こした。
「そんなに好き?」
は土方の目を見つめた。
土方の目に映る相手は、彼女であって彼女でない。
「余計なこと言ってんじゃねえ」
土方ははぐらかし、顔を洗いにいくために廊下へ出ようと立ち上がって障子を開いた。
外は、昨日からの雨が引き続き降っていた。
斉藤がやって来た。
三人で朝餉を摂る。斉藤は今日も黒谷へ出仕することになっていた。が、いや、がこのような状態なので、具合が悪いことにして
今日の英吉利語の授業は休むことを講師のハーバーに伝えてもらうことにした。
「はじめ兄ぃ、いってらっしゃーい」
土方とは斉藤を式台まで送ると、再び土方の部屋へと戻ってきた。
「さてと」
は部屋に入るとぐっと伸びをした後に、土方に問いかけた。
「土方さん、俺は何をすればいいの?」
「あ?」
「こいつがしてきたことを俺がやるよ。何すればいい?」
やる気を見せて、は土方を見上げた。
「・・・何もしねえでいい」
土方は羽織の紐を結び直しながら言った。
「え?」
「お前が今までの“”じゃねえことは、ここで生活してる奴らにはすぐにバレる。正反対だからな。向こうに帰るまで誰とも口をきくな。
とりあえずこの部屋でおとなしくしてろ」
そう言うと土方は部屋を出て行こうとした。
「待ってよ、どこ行くの?」
が後ろからついてこようとする。
「隣の部屋だ。俺は近藤さんと話がある」
土方はが障子の敷居をまたぐ直前でその肩を押し、彼を中に戻した。
「土方さん・・・」
不安そうな顔でが土方を見つめた。
「暇ならあいつの荷物の中に本だの英吉利語の勉強の書付だのがあるはずだから、それでも見てろ」
土方はの後ろの納戸を指差すと、障子を閉めた。
「・・・」
は障子の桟を指でつつくと、納戸を開けての行李の蓋を取った。中には読みかけと思われる、しおり代わりの紙が挟まった本が数冊と、
昨日自分が入れ替わった時に地面に落とした風呂敷の中身、着替えなどが収まっていた。
は一冊の本を手に取るとぱらぱらとめくった。難しい内容ではない。が、各行の横には黒い墨でたくさんの書き込みがしてある。
ひらがなで、カタカナで。あるいは漢字で。まるで子どもが背伸びをして大人の本を解釈しているかのように。
「英吉利語」と小さな文字で書かれた表紙の綴りも見てみた。こちらはきれいに清書されていて、無駄な書き込みがない。が、行李を見ると
綴りの下に折りたたまれた紙の束が置いてあり、そちらが下書きのようで、半紙に細かい字でこれでもかと言うほど英吉利の文字と日本の文字が
交互にびっしりと書かれていた。
は本と綴りを持って障子の傍に座った。雨降りなので晴れている日ほどではないが、障子越しの光でそれらを読むことができる。
は少しだけ障子を開けてみた。昨日自分が帰ってきた時と同じくらいの、しとしととした雨が降り続いていた。
「・・・トシ?」
近藤が掛けた声に、ふと土方は我に返った。
「あ、ああ、すまねえ近藤さん。続けてくれ」
「お前疲れてるんじゃないのか?少し休んだらどうだ?」
手にした書付を正座した膝の上に下ろすと、近藤は心配そうな目を土方に向けた。
「大丈夫だ。何でもねえ」
土方は書付を畳の上でとんとんと叩いて揃えて持ち直した。
「少し休憩しよう。君にお茶でも持ってきてもらおうか」
「いい。俺が淹れてくる」
近藤の申し出に、土方は立ち上がった。
「いるんだろう?彼を入れて少し世間話でもして・・・」
「今日はあまり調子がよくねえから黒谷へ行かねえんだ。放っといてやってくれ」
「そうなのか?」
「ああ」
三人で口裏を合わせて具合が悪いことにしておいてある。土方は近藤にもそう言った。
土方は、朝餉と昼餉の合間で誰もいない、しんとした台所で茶を淹れて近藤の部屋へと戻った。
が、にも茶を渡そうと先に自分の部屋へ行った。
「」
土方は茶を乗せたお盆を廊下に置くと障子を開いた。
障子の際で、彼は眠っていた。
座布団を頭の下に敷いて、前に本や綴りを散らかしたまま。とはまったく逆のだらしなさに、土方は溜息をついた。
衣桁から、乾かしたの羽織を取り、に掛けてやりながら土方は思った。
先ほどは近藤との会話が途切れた一瞬に、消えた彼女のことをつい考えてしまった。
ほんの僅かな間だったが、打ち合わせとはいえ仕事中だ。
これではいけない。
だいたい、そんなことにかまけていられるような暇がどこにある。やっと不穏分子を斬り捨てて、自分たちの理想の組織を組み上げようというこの時期に。
ただ居ないだけなら。
黒谷に行っているとか、斉藤や沖田などと出かけているとか。それだけならここまで心をざわつかせることもない。
まったくあの存在がこの世から消えてしまったことが、土方の胸に重くのしかかっていた。
しかも心だけが入れ替わっている。このままこの二人は、互いに元の世界で生きていくのだろうか。
それを考えたら、さしもの土方も表面上はともかく心の底では落ち着かずにいられない。
今、どうしている?
土方は、眠り続けるの頬を指で撫でた。
は昼餉も摂らずに眠り続け、目を覚ましたのは夕方だった。
土方は昼過ぎから自室に戻っていた。土方は書状をしたためたり、自分宛のものに目を通したりしていた。
「・・・土方さん」
まだ完全に目が覚めていない様子でが起き上がる。
「よかった、戻ってきたの、夢じゃなかったんだ・・・」
満足そうな顔でが相好を崩す。
「よかあねえだろ、そのままの体でいいと思ってんのか」
背を向けたまま、すかさず土方が横槍を入れた。
の顔が険しくなる。
「いいって言ってるじゃない、俺は戻ってこられただけで」
「お前はいいかもしれねえけどな。向こうは嫌だろ、男の体で」
土方は聞き分けのない奴だと思い、背中越しに睨んだ。
「・・・もういいよ!」
は急に怒鳴ると勢いよく立ち上がった。土方にかけてもらった羽織が体から滑り落ちる。は大きな音を立てて障子を開くと廊下へ飛び出していった。
「オイ、!」
キレやがった。
心の中で舌打ちすると土方は慌てて自分も廊下へ出た。
「トシ?どうしたんだ?」
怒鳴り声が隣室にも聞こえたのだろう、隣の部屋の障子から近藤が顔を覗かせた。
「何でもねえ」
土方は短く言い捨てるとの後を追った。
素早く式台を駆け下り門を飛び出したが、の姿は見えない。
雨が土方の羽織を濡らしてゆく。
「どっちへ行った?」
門を守る隊士をぎろりと睨み、土方は怒鳴りつけた。
「あ、あっちです!」
土方の質問には主語がなかったが、聞かれた隊士たちはが走り去った方向を正確に示した。
すぐそこにある角を曲がると、の後姿があった。
「あの野郎・・・」
遠くなっていく小さな背中を土方は追った。
雨と泥が袴に沁み込んで、足捌きが悪くなる。
しかし土方はとの距離を瞬く間に詰めていった。
「あっ!」
腕を捕えられ、はガクンと揺られて足を止めた。
「捕まえたぞこの馬鹿が!一体何だってんだ」
土方はその腕を強く掴んでを振り向かせた。
「はじめ兄ぃのところに行く!土方さんなんか嫌い!」
は心のままに悪態をつく。
「うるせえ野郎だ、あいつは女だがそうは言わねえぞ」
土方は息を整えながら言った。
「・・・悪かったよ、彼女じゃなくて」
はついと頭を下げた。
「何だと?」
土方は眉を顰めた。
「大好きな彼女じゃなくて悪かったって言ってるんだよ」
は顔を上げると、真っ直ぐに土方を見据えた。
その貫くような視線は、まるで彼女が初めて土方に意見した時のような―――土方がに、池が再び光るのを諦めろと言ったあの時のような―――
ものだった。
二人の面影が完全に重なり、思わず土方は息を呑んだ。
この二人が似ているのは顔だけではない。
いざという時のこの空気。
魂の色とでも言うべきものが似ている。まるで陰と陽。だからこそ、入れ替わったのかもしれない。
土方はの腕を放しこそしなかったが、手の力を緩めた。の腕が下がる。
「・・・俺だって、本当はちゃんと入れ替わりたい」
透明な雫がの前髪を伝って落ちる。
「でも、せっかく戻れたし、どうしたらいいのかわかんないんだよ」
その雫を横に拭うと、は土方の胸に顔を埋めた。
「俺、本当に何でもするから。みたいにおとなしくするし、黒谷にも行って英吉利語やるから・・・」
声がだんだんと小さくなる。
「だからお願い、土方さん、入れ替わるまで俺に戻れって言わないで」
ぐずぐずとが鼻を鳴らすのが聞こえる。
そうだ。
辛くないわけがない。
思い返せばの態度がおかしいところはあった。
妙に彼女との仲を勘繰ったり、顔を覗き込んだ瞬間に起きたと言ったり。昼餉を摂らずに眠っていたのも、夜はほとんど眠れなかったからに
違いない。それに、不自然なほど明るすぎる場面もいくつかあった。
急に別の世界に飛ばされ戸惑いの日々を過ごし、気がついたら元の世界に戻っていて体は自分のものではない。
これが混乱せずにいられようか。
土方は己の手をの頭に乗せた。
殴られるのかと思い、は身を竦ませる。
「・・・仕方ねえな」
「え?」
土方の呟きに、が顔を上げる。
「ヘマしたら容赦しねえからな」
それは、土方なりの了承の言葉だった。
「・・・ほんとに?」
の顔色が明るくなる。
「容赦しねえって言われて喜ぶ馬鹿がいるか」
土方がの額を小突く。
「ありがと、土方さん。俺、がんば」
そこで、の言葉は切れた。
いきなり黙ったかと思うと、かくりと頭を垂れた。
「?」
土方は腕を放し、両肩を掴んだ。
下を向いたは黙って立ち尽くしている。
「どうした?」
土方はの顔を覗き込んだ。
目が大きく開かれ、まばたき一つしない。
小さく開かれた唇が震えだした。
「ひじかた、さん・・・?」
ゆっくりとが顔を上げる。
「どうして・・・ここに・・・」
今の今までとは全く違う、驚愕を湛えた瞳。
「・・・お前、まさか・・・」
土方も驚きを隠せない。
これは、だ。
間違いなく彼女だ。
気がつくと土方は彼女を腕の中に収めていた。その身を強く抱き締めていた。
は目を見開いたまま、髪の毛一筋ほどの動きも見せない。
雨が二人の体を打つ。
「・・・馬鹿野郎」
沈黙を先に破ったのは土方だった。
「どこに行ってやがった・・・」
土方は、の前髪を掻き揚げてその顔を覗こうとしたが、彼女はまるで石のように固まって動かない。
「?」
いつもなら自分の呼びかけに応えてこちらを必ず向くのに、今は聞こえていないかのごとく、ただ目の前だけを見つめている。
「・・・わ、私・・・」
それでもは何とか言葉を搾り出した。
「私・・・戻って・・・いました・・・」
小刻みに唇を震わせ、ようやく動いた手で土方の腕に掴まる。
「泊まっていた・・・宿の・・・庭・・・」
「宿の庭?」
土方の問い返しに、は微かに頷いた。
やはりと入れ替わっていたのだ。元の時代に戻っていたのだ。
「丸一日男の体で・・・驚いただろう」
土方はそっとの髪を撫でた。
「丸、一日・・・?」
それを聞いて、やっとは土方の目を見た。
土方もの目を覗き込む。驚きと、不信。青白い顔に見えている感情はその二つだった。
「丸一日って・・・どう言う事ですか・・・?男の体・・・?」
ぽつりとが呟く。
「お前が消えたのは昨日の今頃だ。代わりにがこっちへやって来た」
の混乱を平らに均すように、土方は冷静な声で説明を始めた。
「とお前は心だけが入れ替わって、体はそのままだった。こちらではお前の体にの心が入り込んでいた。向こうでお前はの体だったはずだ」
「・・・」
土方の言葉を聞いたは、自分の体に手をやった。今、この体は自分の肉体だということを確認したらしい。
「あの・・・」
消え入りそうな声で、は言った。
「私は・・・向こうに、僅かしかいなかった、と・・・思います。ほんの2、3分・・・」
「二、三分?」
その単位の概念がわからず、土方は首を傾げた。
「ほんのちょっとの間だけです・・・」
はそう呟くと、力なく土方の胸に寄りかかった。
は自分が向こうに戻っていた間のことを思い出した。
突然降ってきた雨に打たれながら前川邸の前まで来たと思ったら、急に目の前が暗くなって意識がなくなった。
気がついたら、地面に倒れていた。
ふらつく頭を上げて辺りを見渡すと、そこはよく知った壬生の景色ではなく、少しだけ記憶にある風景。
母と泊まりに来た、宿の庭だった。
は信じられない思いで立ち上がった。足が震えてうまく歩けない。
小さな声で母を呼びながら宿の縁側に近づいていった。部屋の中を覗いてみたが、誰もいない。
すぶ濡れなのでそのまま部屋に上がることは躊躇した。
そこでふとあることを思い出し、もう一度庭に出た。
雨で濡れて滑る敷石を慎重に踏んでたどり着いたのは、池の前。自分が落ちて、あちらに行った池。
「・・・」
何も言葉が出ずに、その場に立ち尽くした。
天を仰げば雨が容赦なく降り注ぎ、目を開けていられなかった。
顔と言わず体といわずぱたぱたと落ちてくる雨粒を感じていたら、またふらりとしてきた。
目の前が暗くなり、意識が闇に吸い込まれる。
そして再び気がつくと、今度は黒い影に抱きしめられていた。もちろんそれは土方の腕の中だった。
何が何だか全く理解できない。頭の中は完全に混乱している。
土方に問われて事実だけをやっと口に出来たが、それもうまく伝えられたか怪しい。
どうやって元の時代に戻れたのか。どうやってまたこちらに来たのか。心だけが入れ替わったのは何故なのか。こちらでは丸一日だったのが
自分にはほんの数分だったのはどうしてか。
の脳内には、疑問が文字となって激しく吹き荒れていた。
土方はじっとその様子を見つめていた。彼女が静かに黙っていながらも、頭の中は混乱で煩くなっている様を。
その時突然、ざっと雨脚が強まった。土方は、はっとして急いで羽織を脱ぐと、の頭にかぶせた。
「・・・」
急に視界が暗くなったのにも関わらず、は驚いた様子がない。
土方は羽織の上からを再び強く抱き寄せた。
そして羽織を少しだけ持ち上げ、そこに自分の顔を寄せるとの耳元で囁いた。
「お前は濡れるの禁止だ、この野郎」
その声が、掠れていた。
「・・・?」
はいまだ混乱の中にいる。土方が何を意図として言っているのかわからない。
「ついでに酒もやめとけ。お前が飲むとロクなことがねえ」
まだ頭の中が整理できていないだろうとわかっていても、土方は言わずにいられなかった。
彼女が無事に元の時代に戻れるのであれば、それが一番ではなかったのか。
を腕に閉じ込めたまま、土方は自問する。
誰にも彼女を渡さず、己も手を出さず、一切傷をつけずに帰してやることを自分に誓ったはずなのに、いざそれが訪れたとなったらこれだ。
もちろん今回は不完全な形ではある。心のどこかでそれを都合よく考えて、もしかしたらまた入れ替わる可能性を考えなかったわけではない。
が、もしこれが本当に、完全に体ごと入れ替わったとしたら。
無事に戻してやりたい。
自分の手元から離したくない。
どちらも土方の本音だ。混乱しているのはだけではなかった。
「」
土方が再び耳元で名を呼ぶ。
だが、未だには意識がはっきりしないままのようで、土方のほうを向かない。
それでも。
今彼女がここに、自分の腕の中にいることが確認できればそれでよかった。
「副長」
二人に当たっていた雨粒が遮られた。
土方が頭を上げると、傘が差し出されていた。
土方はその傘の持ち主へと目を向ける。
「斉藤」
「斉藤さ・・・」
被せられた羽織を除けて、も土方と同じ方向を見た。
「心配になって仕事を代わってもらって帰ってきた。一体アンタ、何してるんですか」
斉藤は余計な感情を交えず、ただ目の前の事実だけを質問した。
「見ての通りだ」
土方は言い訳をするつもりもなかった。
「さ、斉藤さん。あの、私が、混乱してて・・・」
が覚束無い足取りで二人の間に入る。
「“戻った”ようだな」
斉藤はを一瞥し、事も無げに言った。
「どういうことなのかお聞かせ願えますかな」
から土方に視線を移し、斉藤は問うた。
土方は頷き、二人を促して前川邸へと入っていった。
20080822