選ばれざるもの 9
止まない雨の中を土方は傘も差さずに出て行った。
は頭を上げると廊下へと足を踏み出した。
その時、がたりと音がして隣の部屋の障子が開き、近藤が出てきた。
「局長」
「・・・君。今の悲鳴は」
近藤はに気がつき、外へ飛び出そうとした足を止めた。
「わかりません」
「ちょっと見てくるよ」
「はい」
近藤は下駄を突っかけると、土方と同じように雨を避ける道具を持たずに闇の中へと走っていった。
近藤も知っているのだろうとは思った。
今の近藤は明らかに何かを隠しているような態度だった。に声を掛けたのも、どこか取り繕うような様子だった。
全てははじめから仕組まれていたこと。
角屋で感じた小さな違和感がどんどん膨らんで、土方の告白によって何もかもがぴたりとはまった。
宴会で芹沢を酔わせて八木邸へと連れ戻し、夜陰に乗じて暗殺を決行する。
自分たちとは価値観の違う芹沢一派のいない、新しい組を誕生させるために。
は庭に目をやった。
雨は地面を叩きつけるように激しく降っている。
その雨音の隙間を縫って、八木邸の方からざわめきが聞こえてきた。
は縁の下から何か黒いものが見えているのに気がついた。
廊下へ出て、目の上に手をかざして雨を避けながらそれが何なのか確認する。
土方の着物だった。
芹沢を斬り、血塗れになった物を脱いで縁の下に隠してから部屋に上がってきたのだろう。急いでいた上にこの暗闇と雨の中である。
奥まで放り込めずに僅かに姿を現していたのだ。
は廊下の縁に捕まると、逆さまになって着物を掴んだ。
そして着物を思い切り奥まで投げた。
びちゃりと水音がして、土の上に濡れた物が落ちる音がした。
これで、私も共犯なのだ。
は自分の手を見た。
闇の中なのでわからないが、きっと雨に混じった赤い液体が皮膚の上を覆っているのだろう。
この時代で、自分を守ると言ってくれた土方。
己の勘を大切にし、信じる道を行けと教えてくれた斉藤。
二人がそれぞれの方法で、自分に手を差し伸べてくれている。
その手を私は今、初めて掴んだのだ。
ぐっと両手を握り締める。
これが、この時代で、この場所で生きてゆく覚悟。掟なのだ。
は手を解くと立ち上がり、部屋に戻って手を拭いた。
そして土方に先ほど差し出した手拭いと今自分が使った物をまとめ、同じように縁の下へと放った。
廊下を歩き、玄関を目指す。
外の様子に気づいた平隊士たちが続々と前川邸を出て八木邸に向かった。
もそのうちの一人に紛れながら手にした傘を開いた。
芹沢と平山は就寝中を賊に襲われて死んだ。
芹沢と一緒だったお梅も惨殺されたが、平山と平間がそれぞれ呼んだ妓ふたりは無事だった。
そして平間も襲われたがそこに死体がなかった。かろうじてどこかへ逃げたらしく、脱ぎ捨てられた着物だけが残っていた。
朝が来た。雨は止んでいて、むっとするような血の匂いが八木邸から漂っていた。
いつのまにか縁の下の着物や手拭いは片付けられていた。すでにもう部屋にいない土方がどこかへと始末したのだろう。
はざわめく壬生からいつもの通り黒谷へ出仕した。
英吉利語の授業が行われる塔頭に入り部屋を整えて座っていると、野村から呼び出しを受けた。
が野村の元へ赴くと、そこには野村と共に斉藤もいた。
「お待たせいたしました。山口、参上いたしました」
徐に正座をし、名乗って頭を下げる。
それを見て斉藤は思った。彼女の動線はすらりとして美しく、すでにこの時代に馴染んだと言えよう。
が、ゆうべまでとは何かが違う。自分が角屋で言ったことが切欠だろうか。いや、それだけではない何かが彼女の中に潜んでいると斉藤は思った。
「うむ」
野村はの姿を認めると頷いて話し始めた。
「とうとう新選組が誕生したな」
「は」
ゆうべの芹沢一派暗殺のことを言っているのだ。土方が言ったように、やはり会津藩からの命令があったのだとは確信した。
邪魔な存在を排除し、真の組織がやっと生まれたと野村は言いたいに違いない。
野村は斉藤に穏やかな目を向けた。
「斉藤、目付け役ご苦労であった」
「は」
斉藤が、暗殺に対して目付け役を。
はそれを今初めて聞いたが、驚かなかった。前々から斉藤は黒谷に頻繁に出入りしていたのは授業に来る際に見かけて知っていたし、
大事な局面には常に彼の姿が事件を見届けることのできる場所にあったのも納得できたからだ。今更斉藤が会津藩とどのような繋がりがあったとしても不思議ではなかった。
「さて斉藤、山口。改めて二人に申し付ける」
野村は背筋を正すと、重々しい声で二人に告げた。斉藤とも座り直して平伏する。
「斉藤、会津藩隠密として行動する傍ら、新選組を陰日向より支えるべし。山口、英吉利語の習得と、新選組と会津藩との書簡の連絡役を申し付ける」
「ははっ」
「これは全て肥後守様の御為である。外には漏らさず、ただ任務を遂行すべし」
「畏まりました」
斉藤の隣でも頭を低くした。
やっと本当の意味での“会津藩御預”になった新選組と会津藩の間には連絡役が必要だ。火急の時はともかく、定期連絡などなら、毎日のように
出入りしているを使うのが便利に違いなかった。
はここからが本当の“山口”の役目なのだと心に刻み付けた。
「これはもういらぬな」
野村は懐から一通の書状を取り出した。折り畳まれたそれの長い辺の真ん中に両手を添えると、ビリビリと破きだした。
「野村様?」
はその書状の内容を知らない。ひとつがふたつ、ふたつがよっつと分かたれていくのを見て思わず尋ねた。
「これは昨日そなたが持ってきた土方の書状ぞ」
野村は破った残骸を中間に渡して燃やすように言った。
「もし昨夜の計画が失敗したら自分は腹を切ると書いてきおった。非は全て計画を練った自分にあるからと。その場合、近藤は今までと変わらずに
新選組の局長としておくように頼むとな」
は言葉を失った。まさか自分が持ってきた書状にそのようなことが書かれていたとは露ほどにも思わなかった。土方はそんな態度は
おくびにも出していなかった。それだけの覚悟を知らぬ間に託されていたとは、と、は冷たい汗を一筋垂らした。
は斉藤と共に野村の部屋から去ると、英吉利語の授業を受けて前川邸に戻った。
暮れなずむ光が彼女の後姿を照らす。
「ただいま戻りました」
土方の部屋の前では声を掛け、返事があってから中へと入った。
「戻ったか」
「はい」
「飯は」
「これからです。土方さんは」
「俺もだ」
は荷物を片付けると膳を運んできて、土方と二人で食事をした。
互いに無言のまま。
だがそれは決して気まずいものではなかった。
夜の帳が下り、虫の音と闇が外を支配する時刻になった。
行灯に火を入れ、土方は書き物を、は読書を進めた。
しばらくして書き物を終えた土方が筆を置いた。
体をぐっと伸ばしながら、後ろに座っているをちらりと見た。
最初から無理だと知っていた。同じ部屋にいる彼女に何もかもを隠して行動することなど。
道は二つに一つだった。彼女を追い出すか、取り込むか。
土方は迷わず後者を選んだ。
彼女に傷をつけずに元の時代に返してやることは今でも心の中にある。が、守ってやるためには懐に入れておかねばならないとも考えている。
もしが拒絶すれば新たな身の置き場を考えると言ったが、もしそうして自分の目が届かないところで何かあったら悔やんでも悔やみきれない。
だったらどんなに困難で彼女が戸惑おうとも、同じ土俵に上げておきたいと土方は思ったのだ。
がそれを受け入れるかどうかは、賭けだった。
女子の身で、血生臭く権謀渦巻く世界に足を踏み入れようとする者がどこにいるだろう。
しかし彼女はすでに男としての立場を背負い、この世界で生きようとしている。しかもよりにもよって、京都守護職を預かる会津藩に召し抱えられて
いるのだ。夷荻の言葉である英吉利語を習い、乱れつつある京の治安を守る藩に属していると言う事は、すでに充分な危険を纏っていると言えよう。
守ってやりたい。だがそこに奇麗事は存在してはならない。決断するしかなかった。
は本に目を落としていたが、実際は少しも読書が進んでいなかった。
ただ静かに、この世界に来てからの事を思い出していた。
池から引き上げられ、生活に関することを教えてもらい、会津藩に籍を置き、仕事も与えられた。
そしてこの世に生きる理から弾き出すことをせず、手の内に入れてくれた。
何もない自分を。
その内容がどうであれ、感謝しなくてはならない。今自分を取り巻く環境の全てに。
怖くないと言えば嘘になる。
目の前で血が滴るのを、首が飛ぶのを見た。空気に濃い血の匂いを嗅いだ。
が、それを拒否してここに存在することは出来ないのだ。
元の時代と同じ暮らしを望むことなどこれっぽっちも考えていない。
何も知らない私など迷惑だろうに、厄介だろうに。
手を差し伸べてくれる人たちがいる。
その手を取って、ここで生きていこう。
は胸に手を当てた。
「そうだ、土方さん」
が顔を上げて言った。思い出したことがある。
「何だ」
「誰かがこの部屋に入って物色したって山南さんから聞いたと思うんですけど」
そう言いながらは懐に手を入れた。
「これ・・・」
障子が閉まっているのを確認し、土方の目の前に取り出した携帯をぶら下げた。
「これが交換されているんです」
は根付を指差した。
「私、こんなものに取り替えた覚えはないんですが。どうしましょう、誰かがこれを見て交換したみたいなんです」
さすがに不安げな表情では言った。
この時代に無い物だと一目でわかる外観。そこからが別の時代からの訪問者だとすぐに見抜く者はそうそういないだろうが、だったらこれは
何なのだとか、何かあった時に怪しまれる原因にもなる。
副長の部屋だからと思って安心して置いておいたが、それはただの油断だった。誰もいなければ、鍵もかかっていないこの部屋に侵入するなど
誰でも出来るのだ。
携帯を握り締めてうな垂れるに、土方は僅かな罪悪感を覚えた。
根付を、つまりストラップを交換したのは自分だ。初めての俸禄で彼女に贈り物をしたくて。
そう言って手渡しすればよかったのだが、何となく気恥ずかしかった。それに彼女は会津藩に初めて呼び出された時に、もし自分に万が一のことが
あったら自分の荷物を燃やして欲しいと、処分して欲しいと言って出て行ったぐらいである。自分の持ち物は常に最小限にしているから、
目の前で渡してもきっと受け取らなかっただろうと土方は思った。
「・・・気に入らねえのか」
「え?」
「もしそれを見た奴がそれに興味を持ったら、根付だけ交換するなんかしねえで持っていくだろう」
「そうでしょうか・・・」
「俺ならそうする」
「それよりも、それが気に入らねえのか聞いてんだが」
土方は根付に視線を送った。
「あ、いえ、気に入らないことはないです」
も根付を見た。
梅の意匠が細い枝に連なり、重ねて塗られた漆が奥深い光沢を放つ。元の時代ではストラップが売っている棚には並んでいない、奥行きのある輝きだ。
「渋い趣味だと思います。私は好きです」
誰が付け替えたのかわからないのは気味が悪いが、品物自体に罪はない。は顔を上げて微かに笑った。
だからその笑顔を見せるな。
土方は笑いかけられて胸をざわつかせた。
久しぶりに見る彼女の笑顔。それに自分が選んだものを“気に入らなくはない”“渋い”と褒められ、おまけに、
好きです、と。
それが自分自身に向けられた言葉ではないにしろ、見つめられて言われれば曲解したい気持ちになる。
「でも、前のストラ・・・根付、どこに・・・」
は再び下を向いた。これを交換した者が前のストラップを持ち去ったのだとしたらそれはそれでまた問題の種になる可能性がある。
「どんなやつだった」
「ただの紐です。ちょっと金具はついてますけど」
付け替えた土方は知っている。確かにが申告したとおりの物だ。銀色の金具に輪にした木綿の紐が垂れているだけ。あれぐらいなら
この時代ではちょっと変わっている程度の物だと思えなくもない。聞いたのはわざとだ。それは自分が持っている。
「大丈夫だろ、そんな程度のもん」
「そうでしょうか・・・」
まだの顔は曇りが晴れない。
「何か言ってくる奴がいたら俺に言え。それで済む」
「でも・・・」
土方の申し出は有り難いが、またこれで彼に迷惑をかけることになるとは思った。
黙って自分に甘えればいいのにまったくこいつは。
他人に手間をかけさせたくない気持ちは評価できるが、誰にも関わらずに生きていくことなど出来はしない。たとえ僅かでも彼女が人の手を
必要とすることは、全部自分に任せて欲しい。
土方はその気持ちを隠しながらも最後にトドメの台詞を言った。
「ぐだぐだうるせえな、男だろ」
「あ、はい」
それを聞いてはまた顔を上げた。
男だと見られるように、女だと悟られないように努力している彼女にはこの台詞が効きそうだと言うことを、土方は最近になって思いついた。
普通に暮らしていればが女だとバレることはそうはない程度まで、彼女は男としてこの時代に馴染んできた。
その努力を認める者は、彼女の正体を知る自分と斉藤しかいない。
しかし斉藤は忙しいのでなかなか彼女と顔を合わせる機会がない。認めてやれるのは自分だけだ。
思惑通り、は少しだけ表情を明るくした。男だと認められて嬉しいのだろう。
(だが・・・普通は男扱いされてへこむもんなんじゃねえのか?)
彼女の境遇が特異なものであるにしろ、目の前で男だろと言われて喜ぶ女など見たことがない。
(まあいい)
土方もふと口元だけで笑う。
「でも・・・懐に入れておくのは本当は心配なんです」
落としたりしないだろうか、何かの拍子に誰かにちらりとでも見えはしないだろうかと。
「だったらいいもんがある」
頭を垂れるに土方は言った。
「袂落としって袋がある。こう、紐の端と端に小せえ袋がついてるやつだ」
土方は空中に指で長い紐を描き、その両端に四角をかたどった。
「首にかけて両方の袂に落としておくんだが、これなら袋と袂が両方破れない限り中身が飛び出すこともねえだろう」
「へえ・・・」
は頭の中でその袋を想像した。
「次の休みにでも見に行くか」
土方は何気なくを誘いに出た。
「すみません、次はいつだかわからないのでお約束できないんです」
は携帯を懐に押し込みながら言った。
「いつだなんて決めなくていい。お前が行ける時で」
「でも・・・」
いつだか確約できないことを気に病むを見て、土方は溜息を漏らす。
「いつでもいいっつったろ。考え込むんじゃねえ」
「・・・はい。ではお言葉に甘えて」
はにこりと微笑んだ。
それを見て土方は思う。
その笑顔も、泣き顔も。苦渋を浮かべた表情すらも。
お前の全てをここから連れて行こう。
土方はそろそろ寝るぞと言い、立ち上がった。
は本を閉じて書見台を部屋の隅に片付けると布団を出した。
行灯の火を消すと、今夜も互いに背を向けて眠る。
が、その間に横たわる空気が今までと異なるのを、二人とも感じていた。
芹沢の死から四日後、葬儀が盛大に執り行われた。
壬生寺の敷地に白い幕が張られ、単独で局長となった近藤が弔辞を読み上げた。会津藩からも公用方の広沢以下数名が参列した。
そしてさらにその五日後、今度は前川邸内で粛清の血風が舞った。
国事周旋方と称して密偵業務を行い、前川邸を自由に出入りしていた荒木田左馬之助が首を刎ねられた。
他の隊士たちと共に髪結いの途中、斉藤に斬られたのである。
またしても長州の間者だった。荒木田らが長州と繋がっていることに感づいた島田が土方に注進すると、土方は泳がせておけと言い、適当な任務を
与えながら機会を待った。
大坂出張が決まると、土方は島田に命じて、土方の部屋に会津藩からの重要な書類があることを荒木田たちの周りに匂わせた。
そこへまんまとひっかかったのだ。
局長や鬼の副長が出張でおらず、部屋には頼りなさそうな小姓が一人しかいないとあらば、副長の荷物を漁ることぐらいはお茶の子さいさいだろう。
しかもその小姓は昼間は外出していて留守だ。部屋は当然がら空きである。荒木田は長州藩のために役立とうと必死になっていた。
そこで荒木田は昼間にこっそりと副長室へと忍び込んだ。納戸の荷物を漁り、の行李を開けたところへ全てを推察済みの島田が通りかかった。
荒木田は足音を聞いて慌てて行李と納戸を閉め、何の成果もなく部屋から飛び出した。
夜になり、荒木田は再びやって来た。副長がいないのは今夜しかない。もう誰もが寝静まっている時刻になった。小姓を縛り上げて布団で簀巻きにして
しまえば、荷物を漁って書状を抜き取る時間ぐらいは稼げるだろう。
そう思って荒木田は土方の部屋に来た。
が、逆にに声を掛けられ、ばれたかと思って逃げ出してしまった。
縁の下に隠れていた島田はそれが荒木田だと確認するとその場を去った。
島田から土方に報告が行き、土方は第二の粛清を決断した。
斉藤のほかに沖田、藤堂、原田、井上が選ばれ、荒木田をはじめとする長州の間者を――国事周旋方に任命した面々を根こそぎ処断した。
怪我でまだ腕が不自由な永倉と大将の近藤以外の試衛館メンバーと斉藤は、ここ数日の粛清で全員がその手を血に塗れさせたことになる。
こうして新たなる道が彼らの目の前に現れた。
会津藩は近藤たちを選び、芹沢たちを選ばなかったのだ。
選ばれたもの。
選ばれずに去っていったもの。
運命はすでに分かたれた。
20080730