選ばれざるもの 3
が用意した茶と握り飯で腹を満たして眠った翌日、土方は早朝から再び出動した。
前日と同じように藤堂と組んで縄手通へ向かい、昨日だけでは洗い出せなかった宿を改めた。
だが結局怪しい者は捕縛できずに、黒谷への報告を済ませると前川邸へと戻った。
その夜だった。
明日はもう会津藩からの出動要請はない。
あらかた旅宿改めは済み、長州藩や攘夷派の追い落としは完了したからである。
そうなればもう通常の巡察に戻るので、上層の幹部である自分の出番は無い。
土方は明日から再開する巡察の当番を確認すると、に声をかけて行灯を消し、床に就いた。
「副長」
夜もかなり更けた時分だった。
障子の向こうから、囁くような低い声がした。
「・・・土方さん」
がそれに気がついて土方に声を掛けた。
「わかっている」
土方は身を起こすと障子に近寄った。
「遅くに申し訳ありません」
「いつでも報告に来いと言ったのは俺だ、どうした」
土方は声を潜めて障子を隔てた相手に続きを促した。
「平野の潜伏先が判明しました」
そう相手が言った瞬間、土方の目に光が宿った。
「どこだ」
「縄手通の、廃業した旅宿です」
よくよく耳を澄ませていなければ聞こえないような小さな声で、相手は告げた。
「ここ数日、足取りを追われないように妓楼を転々としていたようですが、先ほどその宿へと入ったのを確認しました」
「そうか」
土方は忍び声で返事をした。
「今から準備を整えて向かう。見張りを続けろ。今誰がいる?」
「山崎が」
「わかった」
「では」
声の相手は音もなく立ち去った。
廃業した宿へやって来るとは、敵も考えたものである。
(営業中のところだけを探索しているのを逆手に取りやがったな)
土方は寝巻きの帯を解いた。
ふと後ろを向くと、も起き上がっている。
「起こして悪かった。寝てろ」
着替えを手に取り、土方は言った。
「いえ、藤堂さんが・・・」
は、寝ている間に崩れた襟元を直しながら言った。
「平助が?」
「藤堂さんが、もし土方さんに報告が入ったら教えに来て欲しいとおっしゃって・・・」
それを聞いて土方はしばし考え込んだ。
「そうだな・・・総司を連れて行こうかと思っていたが、平助でもいいな。俺とあいつは探索でたった二人の捕縛で、ボウズみてえなもんだからな」
捕縛の結果を釣果に例えると、土方は口の端を吊り上げた。
「よし、平助を連れて行く。声を掛けてきてくれ」
「はい」
は静かに、それでいて素早く廊下へと出た。そして藤堂の部屋へと向かった。
土方は身支度を整えながら考えをめぐらせる。
向こうについたらどうするのか。
相手が――平野国臣がすぐに捕まえられればいいが、おそらくそうはならないだろう。
そのための布陣をどうするべきか。
頭の中で次々とシミュレーションが行われる。
すぐに藤堂とが部屋にやって来た。
藤堂もすでに準備は万端であった。夜の闇に淡く光る浅黄色の隊服を身に纏い、その下には胴を着けている。
土方も胴は着けていたが、その上の羽織は黒い火事羽織で、羅紗で出来たそれは麻で出来た浅黄の羽織よりも厚く、しっかりしていた。
もともと隊服を着るのを嫌って碌に袖を通すこともなかったが、万が一の時にはと自分と山南の分は火事羽織を用意していたのだ。
芹沢たちは好んで浅黄の羽織を着用しているが、自分は彼らと同類に見られるのは真っ平御免なのである。
山南が同様なのは、副長の二人が揃って着ていればたいして違和感もないだろうと言う小細工である。ちなみに山南は笑って受け取ってくれた。
「土方さん、情報が入ったって?」
藤堂は丑三つ時近いにも関わらず爽やかな笑顔で入ってきた。
「ああ、今、島田が来た」
「へーえ、島田さんは随分腕がいいんだね。この前の田所の一件も、島田さんのお陰なんだってね」
今回の情報をもたらしたのはまたしても島田だった。長州の手先である田所の情報をつぶさに調べてきたのも島田だ。監察としての能力はますます期待できる。
「土方さん」
次に、藤堂と同室の原田が姿を見せた。
「何人かはもう支度できて、門の外で待ってるぜ」
「わかった」
が藤堂に声を掛けに行った時、原田も当然気がついた。そして雑魚寝をしている平隊士部屋を回り、自分の気配に気づいた者だけに身支度を整えてついてくるように言ったのだった。
「行くぞ」
土方は先頭に立って部屋を出て行った。
は黙ってその後姿を見つめた。
ぽんとの頭に手が置かれ、原田がにっと笑って土方の後ろについていった。
その後を、藤堂が同じように笑みを浮かべて追いかける。
今度は怪我のないように。
には、そう祈ることしか出来なかった。
十人程の男たちが、まだ暗い闇の中を土埃を上げて縄手通へと向かって行った。
その気配を察した虫たちが声を潜めて辺りには静寂が訪れる。
急ぐ足音だけが妙に辺りに響いた。
やっと山の端が薄明るくなってきた頃、土方たちは縄手通に到着した。
元・旅宿、豊後屋友七。
看板は取り払われ、今ではごく普通の家と何も変わらない。
だが、細い格子の向こう側に獲物がいる。
島田が道の反対側の塀に張り付いて入り口を伺っていた。土方はそこに静かに近づいていった。
「どうだ」
「山崎が見張っていたところによりますと、まだ奴に動きはないと」
「そうか」
「それと、町奉行同心の方があちらに」
「わかった、会いに行く」
土方は藤堂と原田に豊後屋を包囲するように指示を出した。
そして同心と僅かに言葉を交わし、ここは自分たちに任せてくれるように言うと、豊後屋の正面に戻った。
藤堂と原田がそこに立っていた。包囲は完了したようである。
「誰かある」
明け方の静寂を切り裂くように、土方が声を放った。
「豊後屋友七、御用改めである!」
夕方、まだ長い日の中をは小走りを交えて急いだ。
拭っても拭っても汗が出てくる。
土方たちはどうしただろう。
また怪我などしていなければいいが。
もし怪我をして帰ってきたら手当てが必要だろう。帰ったらその準備をしようとは思いながら足を動かした。
「ただいま戻りました」
は顔を合わせた隊士に挨拶をし、玄関で草鞋を手早く脱ぐと部屋へと向かった。
すっと障子を開けると、
「よお、早かったな」
土方がいた。
「あ、・・・お帰りなさい」
まさか土方がいるとは思っていなかったは目を丸くした。
「何だよ、変な顔しやがって」
土方が苦笑した。
「いえ、お戻りだと思わなかったので・・・」
はそう言いながら部屋に入った。
「今回は、お怪我は」
は一番気になっていたことを真っ先に質問した。
「ねえよ」
軽く笑いながら土方は答えた。
本当だろうか。
はまじまじと土方を見つめた。
「何だ」
「・・・本当かなと思って」
「思わず見つめるほどイイ男だとか言ってくれねえのか」
「・・・」
「なぜそこで黙る」
「・・・すみません」
彼女が自分のことを心配してくれているのは嬉しいが、軽口だとか冗談だとかが通じないのは面白くない。
でも、だからこそからかう方法もある。
ちらりと流し目で土方はを見遣った。
「ああ・・・ちっと唇切ったかな」
「え」
思わずは土方の口に視線を注いだ。
少し厚みのある、形のよい唇。
そのどこに傷が出来たのかとは真剣な眼差しを向けた。
「どこですか?」
自分の言葉を信じて口元を見つめる彼女に、もう少しだけ悪戯をしてやりたくなった。
「この辺りが痛え」
土方は右手の人差し指で唇の右端を示した。
は指に視線を誘導される。
見えないような気がするけれど、どこに傷があるのだろうかとはさらに顔を近付けた。
だんだんとの顔が補足範囲に入ってくる。
あと半寸近づいてきたら、この細い顎を捉えてやろうと土方は思い、彼女の視界の外でゆっくりと左手を上げ始めた。
「土方さーん」
障子を乱暴に開いて、藤堂と沖田、それに神谷が入ってきた。
「!」
「?」
土方は脊髄反射かとも思えるような動きでに背を向けた。
は覗き込む姿勢を保ったまま開かれた障子に目を向けた。
「んもう、土方さんたらどうして私も連れて行ってくれなかったんですか」
沖田が部屋に入ってくるなり、どっかりと座り込んで文句を垂れた。
「だからー、今回は俺と土方さんで組んでたからだって言ってるのに、総司は」
藤堂も続けて座った。
「起こしてくだされば私だって・・・」
どうやら神谷も沖田とともに文句を言いにきたようだ。
「うるせえ、今更ガタガタ抜かすな」
その騒がしさにうんざりしたように土方は溜息をついた。
「あの、今回はどんな捕縛だったんですか?」
が口を開いた。
「あ、まだ土方さんから聞いてなかった?」
藤堂がくるりとの方を向いて言った。
「今回はね・・・」
20080605