選ばれざるもの 1
「・・・」
ここ数日は様々な出来事に振り回され、体調も崩してやっと屯所へと戻ってきたと言うのに、いつもの時間に目が覚めた。朝の光が障子越しに薄く入ってきている。
は身を起こそうとしたが、何かが体に引っかかっているのに気がついた。
視線をそこへ向けると誰かの腕が後ろから伸びている。
ああそうかと思い、そっと後ろを向くと土方の顔があった。
ゆうべ大雨の中を帰ってきて布団に潜り込んだ時にくしゃみをしたら、土方が温めてくれたのを思い出した。
そのおかげだろう、だるいとか咳が出るとかの症状はまるでない。
そして、久しぶりにぐっすりと眠れたような気がする。
凄惨な場面が頭から離れず眠れなくなり、そこから土方と口論になって眠れぬ夜を過ごし、さらに熱に浮かされて寝たのか寝てないのか分からない日々を過ごしてきたのだ。
体調が戻り、曖昧ながら土方と仲直りが出来て、他人の存在を感じながら眠りについた。
一気に全てが氷解して、は小さく安堵の溜息をついた。
は肩越しに土方の寝顔を見つめた。
いつもこの人に助けられている。
何の縁もない私を。
何の得も無く、見返りもないのに。
・・・どうしてなんだろう。
その答えが見つからずに、は探るような目で土方をじっと眺めていた。
「いつまで見てやがんだ」
寝ていると思っていた相手が急に口を開いた。
が驚いて肩を震わせると、土方は喉の奥でくっと笑って薄目を開けた。
「おはようございます。起きてたんですか」
反射的に挨拶の言葉が出た。
「ああ」
土方は何度か瞬きをすると目を開け、逆にを見つめ返した。
多少疲れが残る顔つきだが、もう病の気配は抜けている。発する雰囲気も、あの殺しの場面を目撃する前に少し近づいたようだ。
これなら大丈夫だな、と土方は心の中だけで頷いた。
「ありがとうございました。お蔭様でよく眠れました」
くるりと体を回して、は土方に向き直った。
「そうか」
自分の考えを裏付けるようなことを彼女の口から聞けて、土方は満足した。
「もうちっとこのままでいてもいいんだが」
土方の言葉に、は改めて自分と土方の状況を確認した。
二人で一つの布団に収まり、緩く土方の腕の中に閉じ込められている。
「あ、すみません」
いつまで甘えているんだと自分を叱咤し、は土方から体を離した。
「そろそろ起きるか」
土方は回した腕から力を抜いた。
「はい」
は体を起こし、はねた髪を手櫛でさっと整えた。そして手拭いを持つと井戸へと向かった。
(普通は赤くなるとか、慌てるとかするもんじゃねえのか?)
土方はが出て行った障子を眺めながら苦笑した。
意識されていないのは彼女の考え方としては正解だ。誰にも心を明け渡すなと言った自分の言いつけを守っている。
(まあ俺の方もそうは言ってらんねえ)
土方は素早く身を起こし、自分も身支度を整えに部屋を出た。
食事を摂ると、は黒谷へと出仕した。
辺りを何気なく見ながら街中を通って行くと、あちこちがざわついている。
今まで滞京していた長州藩の者たちが強制的に退去させられることになり、秘密裏に行動していた藩の者たちも国許に帰らねばならなくなった。そうした者たちが動く気配なのだろう。
そして、ひっそりと隠れているものたちを焙り出そうとする気配もざわめきの中に混じっているのだろう。物々しい姿の侍たちがちらほら見える。
黒谷に到着するとその雰囲気は一層濃いものになった。
御影堂の前には幾つかの集団に分けられた藩士たちが整列して立ち並び、指示を待っていた。
伝令らしい者たちがあちらこちらと忙しなく行き来している。
は英吉利語の勉強用に当てられている宿坊に入った。いつもの通りに部屋を清めて机を並べ、授業の準備をして皆を待つ。
少し待っていると、講師のハーバーがやって来た。
「おはようございます」
は手をついて頭を下げた。
「オハヨウゴザイマース」
ハーバーも講師用の机の前に座りながら挨拶を返した。
「、アナタ結局あの後どうしたネ?」
騒乱が始まる前にハーバーとは別れた。その時の事を言っているのだ。
「はい、柴さんにお世話になって、新在家門へ行きました」
「戦争ニ?」
「はい」
の答えにハーバーは渋い顔をした。
「新在家門、外島サンから一番危なかった聞いていまス。無事でヨカッタ」
「・・・ありがとうございます」
黒谷でハーバーの一切を任されている公用方の一人、外島機兵衛から委細を聞いているらしかった。
「ハーバーさんはどうされていたのですか?」
逆には聞き返した。
「外に出るの危ないカラ、ずっとここにいたデス」
あの時、外島はハーバーが望むなら彼の住居であるみなと屋まで送っていくつもりでいたが、無事に送っていけても、騒乱に紛れてどんな連中が何をするかわからない。
黒谷に留め置く事が最も安全だと判断し、ハーバーにもそう伝えたのである。
「そうでしたか・・・。ハーバーさんもご無事で何よりです」
はそう言ってふと微かに笑った。
「授業デスが、あとの皆さんはしばらく来られないとのことデス。アナタと私だけでやってなサイと、外島サンから聞きましタ」
多分、藩の指示を受けて都の中の見回りなどに加わっているのだろう。
そしてそれに参加せずにハーバーと授業をしていろと言う事は、自分は戦力としてはものの数に入っていないと言う事だ。
実際に戦うことなど出来ないであろう自分にはありがたかったが、本来ならば情けなく思うべきことなのだろう。
「デモ、は覚えが早いカラ、あまり進めてしまうと皆追いつけなくなるデス。テキスト作るの続きでいいデスカ?」
は、自分は覚えが早いのではなく、元々多少の知識があったお陰なのだけどと心の中で呟いた。
が、それは表には出さずにハーバーと今後の授業のテキスト作成に取り組み始めた。
一方、土方は近藤と山南と話し合いを持ち、よりも少し後で近藤と共に黒谷へ向かった。今後の指示を仰ぐためである。山南には屯所での指示と守りを頼んだ。
近藤と土方は黒谷に到着すると、控えの間でしばらく待たされた。
実際に戦闘はなかったものの、あれだけの出動があったばかりである。どこもかしこも慌しかった。
「さすが会津藩だな」
近藤がきっちりと正座をしたまま呟いた。
「ああ」
土方もその隣で小さく返事をした。
慌しくても混乱はしていない。時折指示を出す大声が聞こえるものの、基本的には人の出入りの音が主に聞こえてくるだけだ。
「・・・君はあの後帰ってきたのか?」
近藤が聞いた。
「・・・ああ」
土方は眉を僅かに動かして答えた。
「新在家門での姿はなかなか凛々しかったな。君もこれからが楽しみな逸材だよ」
近藤と土方の頭の中には、ばらばらな組み合わせではあるものの武士らしい格好をしたの姿が思い浮かんでいた。
黄色い合印を配り歩くその姿は真剣そのものだった。
「まあ、あまり期待はできねえがな」
土方は苦笑交じりに言った。
、つまりが女であることは知らない近藤はそんなことはないだろうと笑った。
外の廊下を急ぎ足で過ぎていく音に二人は顔を引き締めた。そして黙って呼ばれるのを待った。
「すまん、待たせたな」
そう言って控えの間に入ってきたのは、公用方の広沢だった。二人は挨拶を述べた。
「此度の迅速な行動は野村さんから聞いている。ご苦労であった」
広沢は二人の前に座し、やや早口に話し始めた。
「来てくれたのは有り難いのだが、殿は今二条城におられる」
「二条城に、でございますか」
近藤が聞き返した。
「ああ、一橋公らと集まって今後の策を練っておられるのだ」
「左様でございますか」
「そなたらも指示を仰ぎに参ったのであろうが、殿が戻り次第細かい指示を与えることとする。それまでは日頃行っている巡察を、特に長州の者たちに注意しながら
執り行っていてもらいたい」
「はっ」
広沢は頼んだぞと言って、足早に控えの間を後にした。
近藤と土方は黒谷を後にした。
藩士たちが広い境内を走り回るのを背にして三門をくぐる。
まだ昼をちょうど過ぎたぐらいの時間だったので、と帰りが同じになることはない。
土方は心の隅にその雑念を追いやり、近藤と肩を並べて歩いていった。
二人は屯所へ戻ると、山南を交えて黒谷でのやり取りや今後の巡察のことを話し合い、副長助勤たちに通達した。
夜になり、が帰ってきた。
「土方さん、山口です。只今戻りました」
「ああ」
「失礼します」
すっと障子を開けてが入ってきた。
「局長はいらっしゃいますか?預かり物があるのですが」
は土方の側で片膝をつくと、小さな声で言った。
「預かり物?」
文机の前でいろいろと考え事をしていた土方はに目を向けた。
は懐に手をやり、何かを取り出した。文だった。
「・・・何だこれは」
「帰りがけに、広沢様からこれを局長へ届けるように言付かってきました」
「すぐ近藤さんに渡すんだ」
広沢の名が出た瞬間に土方は立ち上がり、を伴って近藤の部屋へ入った。
「・・・」
近藤はから文を受け取るとすぐに中を改めた。
「容保様がお戻りになられたそうだ。明日朝一番で黒谷に来るようにとのお沙汰だ」
そしてじっくりと目を通すと山南に文を回した。
「今後の動き方についての指示だろう。山南さん、明日はあんたが近藤さんと行ってくれ」
山南が文を読む横で土方が言った。
「私がかい?君が行った方がいいんじゃないか?」
山南は文から顔を上げて聞いた。
「顔は繋いでおくもんだぜ、山南さん」
壬生浪士組がどのような面々で構成されているのか、上に立つのは誰なのかを預かり元に知らしめておくために。
近藤が最も頻繁に出入りしなくてはならないが、その周りを固めるのが山南と自分であることも周知させておきたい。
芹沢が筆頭局長であるかのようになってはいるが、先日の大和屋事件の後、芹沢の評判は輪をかけて悪くなっている。
粗暴さとは対極にある山南の物腰は、芹沢派のイメージを払拭させるにはうってつけだ。
壬生浪士組の成功のために。
土方は様々な手を考えていた。
翌日早朝、近藤と山南は黒谷へ出かけていった。
今度はほとんど待たされること無く松平容保への目通りを許され、二人は謁見の間へと通された。
「朝早くから足労である」
容保公の側に控える公用方筆頭の野村が、主君に向かって平伏する近藤と山南に向かって声を掛けた。
「殿は昨日夕方に二条城からお戻りになった。そなたらに申し渡すことがある」
野村は容保公の小姓に目配せをした。小姓は文を箱から取り出して容保公に渡した。容保公はそれを受け取り、朗々たる声で読み上げた。
「会津藩御預 壬生浪士組 市中の昼夜見廻りを申しつけ候」
低く下げた頭の上を藩主の声が通り過ぎた。
容保公は文を小姓に返した。小姓はそれを丁寧にたたみ、野村へと手渡した。
野村はその文を持って近藤たちに近寄った。
「面を上げよ」
「はっ」
野村の声に近藤と山南は顔を上げた。
「これは幕府からの正式な通達である。心して任務に当たるがよい」
「・・・は、ははっ!」
一瞬野村の言葉が飲み込めずに、近藤も山南も返事が遅れた。
幕府からの正式なお達しだと気がついてした声は喜びに震えていた。
夢のような心地で近藤と山南は大方丈を出た。敬愛する幕府からその存在を認められたのだ。
「近藤局長、山南副長」
ぼんやりと歩いていると、三門を出た辺りで後ろから声を掛けられた。
二人が振り向くと、そこには小走りでやってきたがいた。
「あ、あの・・・早く授業が終わったので・・・」
授業と言ってもテキスト作りである。調子よく作成が進み、後は各自の習熟度や全体的な進み具合を見ながらまた作っていこうとハーバーが言い、
本日はお開きになったのだった。帰ろうと思い外へ出ると、少し遠い前を歩く近藤たちの背が見えたので追いかけてきたのだ。
「・・・どうかされましたか?」
いつもと変わった雰囲気を身に纏った男二人を見て、は首を傾げた。
「君の持ってきた文のお陰だよ、君」
近藤は破顔すると、息を切らすをぐっと抱き締めた。
20080522