久遠の空 ドリーム小説 僻歌―ヒガウタ― 11

僻歌―ヒガウタ―

update:2008.04.04

僻歌―ヒガウタ― 11 

 会津藩本陣である黒谷はざわめき、人が右に左に行き交う。
 は沸き立つ空気の中で呆然と立ち尽くしていた。
 これから戦が始まるのだと告げられ、それが何なのかは分かっていても実感が沸かない。
 まず今何をすべきなのだろう。

 「
 ぐっとハーバーがの腕を引いた。
 「とりあえずマツダイラ様のところに行きまショウ。どうしたらいいか、教えてもらうデス」
 「は、はい」
 ははっと我に返り、ハーバーの言う通りだと思った。
 自分はこの時代に来てからも会津藩士になってからも日が浅い。分からないことは誰かに聞いて指示を仰がなければならない。
 はハーバーと共に藩主の元へ急いだ。


 松平容保は大方丈の上段の間にて戦支度で床机に腰掛けていた。
 烏帽子を被り、重々しく光る甲冑の上から大和錦の陣羽織を身に纏った勇ましい姿である。
 側には主君を守るために小姓たちが戦の装束に身を改めて控えており、出陣を取りまとめる公用方筆頭の野村左兵衛があちこちからの報告を待っていた。
 部屋の外では藩士たちが時折大声で指示を出しながら忙しく駆けずり回る足音が聞こえる。

 とハーバーは目通りを許され、容保候の前に平伏した。
 「そうだな、ハーバー殿のことは外島に任せよう。無事に下宿先まで届けるなり安全なところに匿うなり計らうようにいたす」
 野村は落ち着いた声でまずハーバーの身の振り方を告げた。
 「アリガトゴザイマス」
 ハーバーはきちんと正座をして手を付いた。
 「山口」
 「はい」
 野村は次にに声を掛けた。
 「そなたは具足を身に付け、支度が整い次第、御影堂前へ行け」
 「・・・かしこまりました」
 もハーバーの隣で頭を低くして野村の言葉を聞いた。

 「これでよろしいでしょうか、殿」
 二人の処遇を手早く決めた野村は藩主に伺いを立てた。
 容保候は軽く頷いた。


 ハーバーの世話役である外島機兵衛が呼ばれ、ハーバーを連れて行った。
 とハーバーは視線を合わせ、互いの無事を祈った。
 「柴を呼べ、弟のほうだ」
 野村はを連れて廊下へ出ると中間に柴を呼ぶよう命令した。
 ややあって柴司が早足でやって来た。すでに身支度は整い、鉢巻も巻いていつでも出陣できるような格好だった。
 「柴、山口に支度を整えさせ、共に隊列に参加して行動せよ」
 「はっ」
 は柴に引き渡され、大方丈の外へ出た。


 準備を終えた者たちが集まり始めた御影堂の横を通り過ぎ、阿弥陀堂の裏にある僧房へ入った。
 そこには武器庫になっており、有事の際の鎧や甲冑、武器などが備えられていた。
 すでにほとんどが借り出されていて、まともなものはあまり残っていなかった。
 「今、山口さんに合いそうなのを探すから、少し待ってくれ」
 柴は行李や櫃の中を漁りながらに言った。
 「はい。あの、私も探します。何を探せばいいですか?」
 も棚から行李を引っ張り出しながら柴に問うた。
 「山口君、もしかして、戦支度をしたことがない?」
 柴は手を止めてを見た。
 「はい」
 も手を止めて柴を見た。
 「・・・英吉利語もいいが、そういうことを先に身に付けたほうがいいんじゃないのか?」
 柴は苦笑いだ。
 も苦笑いで返した。
 柴に物を揃えてもらい、どのように着るのかも教わった。
 別室にて一人で着替えて、は戦支度を整えた。


 は柴と一緒に御影堂の前に駆けつけた。
 先ほどよりも多くの藩士たちが集結し、ざわめきながら主の登場を待っていた。
 「山口さんは俺と一緒に動いてくれ」
 「はい」
 初めて身に着けた武装は他の者たちと比べたら簡素なものではあったが、とても重く動きも制限されて歩くのがやっとだった。
 はこれから柴についていけるか不安だったが、やるしかない。
 この時代で生きている限りは環境に無条件でついていかねばならない。
 勿論これから戦だからとて人を殺したくはないし、そんなことをする自分も想像できないが、自分であれ他人であれ、命の消える様に目を瞑ってもいけない。
 「緩んでるぞ」
 柴が胴の紐を結び直してくれた。
 「すみません、ありがとうございます」
 緊張した面持ちでは礼を言った。
 柴は頷くと、自分もかがんで脚絆の紐を締め直した。


 集まった藩士たちは御影堂の前だけでは収まりきらず、階段を下り三門も越えた。
 今この場には何人いるのか分からないが、黒谷にいる会津藩士は約千人。
 その大部分が戦に駆り出されるとしたら一体どんなに大きな戦争になってしまうのか、には想像もつかなかった。


 しばらくすると列の前の方のざわめきが収まった。
 その静寂はどんどん後方へ伝播し、あっという間に鎧の集団は物音一つ立てなくなった。

 御影堂の障子が開け放たれ、公用方筆頭の野村と侍大将の佐川官兵衛が現れた。
 その二人が木造の階段を下りて跪く。
 点にしか見えない蝋燭の明かりが灯る障子の向こうから、藩主松平容保が堂々とした姿を夕闇に晒した。

 「よいか、皆のもの」
 容保候は腹の底から気合を乗せて言葉を発した。
 「敵は長州並びに奴らと手を組んだ十九人の卿である。朝廷を牛耳らんと偽勅を次々と発し、世間を意のままに操ろうとしたばかりか、帝の意に沿わぬ大和行幸を勝手に決定し、 あまつさえ行幸の果てに帝を奪わんと画策した非道の数々、最早看過はできぬ」
 主君の言葉に、聞こえないであろう後ろの兵卒たちも耳を傾けている。
 「よって我々は薩摩・淀と手を携え、今より九門を閉鎖し奸賊どもを都から追い落とす!王城の地を守り、帝の御心を安んじ奉るぞ!抜かるな!」
 主君の気合に鬨の声が上がり、黒谷は男たちの咆哮で地響きが起こった。
 拳を振り上げて叫ぶ集団の中で、はぐっと背に力を入れた。

 他の藩との調整や、この度の首謀者である公卿の中川宮の意向もあり、しばらくはその場で総員待機となった。
 「これを一本ずつとって後ろへ回せ」
 前に立つ藩士が紐でひとつに括られた細長い束を回してきた。黄色の襷であった。
 「合印である。これをつけたものは味方であるから、誤って同士討ちをせんようにな」
 「はい」
 は周りに襷を配り、自分の分も取ると束を後ろへ回した。
 「柴さん、お願いします」
 は襷を柴に渡して言った。
 柴はまた苦笑いを浮かべながらもに襷をかけてくれた。


 結局中川宮からの伝令が黒谷へやって来たのは夜もかなり更けてからであった。
 『今夜子の半刻を持って参内、禁闕を守護すべし』
 子の半刻、つまり午前一時に参内し、御所をお守りしろということである。
 中川宮は公武合体派の公卿であり、尊攘派の長州藩を常に憂えていた。
 ペリー来航を目の当たりにしてその武力を痛感し、攘夷などとても無理だと知っていたのである。
 それは房総の警備を命じられて諸外国の船や時の情勢を見た会津藩も同じだった。
 攘夷を断行すれば徳川幕府は恐るべき火力の前に瞬く間に崩壊し、ひいては日本国そのものが潰えてしまう。
 だから今にも攘夷を行おうとする連中を朝廷にのさばらせておく訳にはいかなかった。


 調練を施された精鋭の会津藩士たちが、立派な三門をくぐって粛々と進んでいった。
 はその中の一人になって歩を進めてゆく。



 その頃、前川邸には会津藩からの伝令が到着した。
 不穏な空気を感じて気が高ぶる沖田と斎藤が廊下に出ている前を、顔を隠した隠密が案内されて通っていった。

 近藤の部屋へと伝令が入っていく。
 「今より御所へと向かい、長州藩追放と御所固めに参加されたし」
 伝令は声低く近藤に告げた。
 「承知いたしました。壬生浪士組総員五十二名、すぐに馳せ参じ仕ります!」
 近藤は土方に目配せした。
 土方は部屋を辞すと的確に差配した。

 「一同起床、起床!」
 拍子木を打ち鳴らして深夜番の者が全員をたたき起こして回る。
 八木邸にも人を遣り、芹沢たちに出陣の用意を伝えた。
 芹沢はすぐに鎧を着け、愛妾であるお梅に最後かも知れぬ言葉を告げて門の外へ出て行った。
 新見はこの大事だというのに外出禁止を全く無視して遊興に赴きようやく帰ってきたところであったため、ふらふらになりながら用意を整えた。

 前川邸の面々もそれぞれ抜かりなく準備を整えた。
 土方も静かな部屋の中、一人で身支度をした。
 は今夜も帰ってこない。
 しかもこれから戦だ。
 会津藩から伝令が来たと言うことは、すでに会津藩は戦に向けて動き出しているだろう。もその隊列に混じっている可能性は十二分にある。
 彼女に対する心配は尽きないが、今自分が為すべきことだけを考えることにした。
 この戦で功を立て、壬生浪士組の名を世に知らしめる。
 土方は鉢金の前廂を開いて、頭につけた。


 すぐに浪士組は先日話し合っておいた隊列を組み出発した。
 殆ど駆けているかのような足取りで深夜の京を進む。


 堀川を渡り、道を北上した。
 そして会津藩が守る新在家門に到着した。
 すでに門の前は槍を持った会津藩兵で固められており、まさしく蟻一匹も通さない物々しい雰囲気だった。
 「拙者どもは会津藩御預壬生浪士組!藩命によって御所固めに参上仕ってござる。御門を開かれたい!」
 近藤が前に進み出た。
 ところが藩兵は槍を突き出し、そのような話は聞いておらぬと近藤たちを通そうとしなかった。

 「野村様、御預とか名乗る者たちがやって来て、門を通すように要請しておりますが」
 門の内にいて外を窺っていた藩兵が、様子を見に来た野村に進言した。
 「何だと?」
 野村は門の横の木戸から外へと出た。

 見ると槍兵が何人かなぎ倒され、芹沢が鉄扇を振り回していた。
 「何の騒ぎだ!」
 野村は顔を顰める。
 何故芹沢がここにいるのだ。今から戦だというのにこの狼藉者の相手をしなければならぬのか、と。

 「おお、公用方の野村殿!」
 近藤が野村に気づいて声を掛けた。
 「近藤!?馬鹿な!伝令を立ててまだ半刻もたたぬのに、もう一同打ち揃っておるのか!?」
 「いかにも。『兵は拙速を聞く』と申します故」
 近藤は冷静な目で野村を見て、尊敬する孫子の兵法の一説を引いた。

 近藤がいて、浪士組がいるとなれば芹沢がいるのも理解できる。
 自分が出てきたことで芹沢も行動を控え、静かに命令を待っているようだった。

 「面目ない。まさかこんなに早く来るとは思わなんだ拙者の落ち度だ」
 野村は浪士組の行動の速さに心底感心し、素直に詫びた。

 門が開かれ、その下を近藤と芹沢が先頭になって浅黄色の羽織を着た集団がぞろぞろと通っていく。
 縦四尺横三尺の、赤地に白で誠の文字と山形模様を染め抜いた隊旗が翻り、浪士組ここにありとその存在を示した。
 隊列の中には帝をお守りできることに感激して涙を流す者までいた。


 「御花畠を守護しておれ。状況が変わったら追って沙汰する」
 野村は近藤にそう伝え、早足で松平容保の元に戻っていった。

 御花畠とは名ばかりで、その場には何も植えられておらず、ただ花壇らしい囲みが土の上に横たわっているだけだった。
 「最前線である御門の前は会津藩が守ってる。俺たちはここで何をすりゃいいんだ」
 敵が入ってこなければ戦うことはない。
 しかも門の表を守っているのは大藩である会津藩だ。兵力を考えても出番があるとは思えない。
 土方は些か追いやられたような感じを受けた。
 「何を言うか。万が一の際の守りを託されたも同然だぞ。刀を抜くまでじっとここで待つんだ」
 近藤が土方を諭す。


 「失礼します、合印を配りに参りました」
 後ろから声が聞こえ、土方は振り返った。
 きっと野村の采配であろう。自分たちにも合印がなければ、混戦になった時に同士討ちは免れない。
 自分よりも若い青年が手に黄色い襷の束を持ち、それを配って回るのを土方は目で追った。
 「どうぞ」
 と背中から声を掛けられ、もう一人配布の者がいたのかと土方は肩越しに相手を見た。



 そこにはが立っていた。



 古ぼけた煉革の陣笠を被り、筒袖仕立ての小袖に皮の胴をつけている。
 下は義経袴という短い袴を着用し、足には脚絆を巻いて、通常の草鞋に紐を通して足元にしっかりと結いつける武者草鞋を履いていた。

 具合が悪かったと斎藤から聞いていたせいか、顔色が良くない気がする。
 しかし視線は自分に向けて定まっており、口元も確固たる意思を持って引き締まっていた。

 土方は黙って襷を受け取り、さっと羽織の上からそれを身につけた。
 お互いに言いたいことは山程あったが、今はそれを議論している場合でないことも理解していた。
 も黙ってその場を離れ、次々と襷を手渡していった。

 「・・・さんじゃないですか!」
 神谷が襷を握り締めて声を上げた。
 「今までどこにいたんですか?ずっと屯所にいなくて心配してたんですよ!」
 神谷はぐっとの両肩を掴んで言った。
 神谷の声を聞いて試衛館の面々も集まってきた。
 「お前どこにいたんだよ。オンナでも出来て居続けでもしてたか?」
 原田が茶化すように言った。
 「え、そうなのか?もお安くねえな」
 永倉がにやりと笑う。
 試衛館の者たちは何も言わなかったが、土方同様心配はしていたのだ。
 皆に心配をかけたことを心で詫びながら、は顔を上げずに言った。
 「・・・すみません、でも今はそれを申し上げている場合でもありませんので失礼します」
 は全員に襷が渡ったことを柴と確認し合うと御花畠を出て行った。

 「・・・」
 その後姿を見つめながら土方は僅かに安堵の息を漏らした。
 何日ぶりに彼女の姿を見たことだろう。
 倒れて熱に浮かされるほど具合が悪かったと聞いたが、こうして動けるようになるまで回復したのは喜ばしいことだ。
 しかしいくら会津藩で指導を受けているとは言え、実際に戦いの場に立ったらまず生き残ることはできない腕前の彼女が、この戦で命を落とさない保証は何もない。
 せめて安全なところで控えてくれていればいいのだがと土方は思った。


 土方の視線を背に受けながら、は持ち場である新在家門に戻っていった。
 こんな状況の中ではあるが、土方になんとか無事を伝えておきたくて襷を口実に声を掛けた。
 土方は怒るような態度でも窘める様な目付きでもなく自分を見た。
 襷を乱暴にひったくるようなこともせず受け取ってくれた。
 大丈夫。
 これならこの戦が終わって前川邸に戻っても、土方はちゃんと話を聞いてくれる。
 はそう確信して御花畠を出ることが出来た。


 芹沢は襷をかけると天子様をお守りして戦えることに打ち震え、
 「この上はどの隊よりも存分に働き、真先かけて討死仕るべし!!」
 と愛用の鉄扇を振り上げて味方を鼓舞した。
 それに続いて皆が雄叫びを上げる。
 浪士組の戦意は最高に高まっていた。




 が。
 盛り上がりまくる浪士組の面々をよそに、政変は終わりを告げていた。
 長州は今まで守っていた堺町門の任を唐突に解除されて驚愕の思いでいた。
 会津と薩摩の奸計であるとして退却の命令を無視し、武装して会薩の兵と睨み合った。

 「益田様、九門はすべて閉ざされ、これ以上御所に近づくことは出来ません」
 長州の大将である益田右衛門介の元に斥候が報告に来た。
 御所の外を取り囲む築地に配されている清和院門、寺町門、堺町門、下立売門、新在家門、今出川門、乾門、中立売門、石薬師門の九門は完全に封鎖されていた。
 中川宮が勅旨を述べ、大和行幸の中止と、加担した十九名の攘夷派の公卿たちの参内、他行、面会禁止の処分を発表した。
 そして午後になると堺町門に京都所司代の淀藩がやって来て、長州藩との警備の交代を告げた。
 当然長州藩は納得が出来ず立ち退こうとしない。
 薩摩藩は堺町門へ兵を送り、大砲まで向けて長州藩を威嚇した。
 まさに一触即発の状態であった。

 長州藩の益田は震える拳をゆっくりと下げると、全軍退却を命じた。
 「何故ですか益田様!数の上では不利ですが、我々があやつらなどに負けるとお思いですか!」
 甲冑に身を包んだ尊攘派の勇、久坂玄瑞は馬上の大将に大声で言った。
 「この状況で禁裏に刃を向けてみろ、我々だけでなく、国許の殿までが逆賊の汚名を被ることになる。我々はここで討ち死にすればいいが、その後国はどうなるのだ?」
 悔しさで血を吐くように益田は久坂に呟いた。
 久坂はそれを聞いて俯いた。
 「ここはいったん引き、国に戻って体制を立て直してから攘夷を実行し、真の神国日本を取り戻す」
 益田はそっと烏帽子を取った。
 「しかし・・・!」
 久坂は諦め切れない様子で唇を噛んだ。
 「分かってくれ久坂よ。私とてお前と心は同じなのだ」
 益田は手綱を握り締め、馬を返した。

 意気消沈しながら御所に背を向けてとぼとぼと進む行列の背に、冷たいものがぽたりと落ちてきた。
 それは二、三落ちてきたと思うとざあっと音を立てて天から降ってきた。
 「会津に薩摩め・・・覚えておれ・・・!いつか我々が正しいと証明してくれる・・・!」
 雨に己の涙を隠し、久坂は憎しみの炎を燃やして京を去っていった。
 その口からは道中ずっと、恨みとも悔しさともつかぬ言葉が漏れていたという。


 翌日の十九日、長州藩の軍勢は雨の中を国許へと落ちていった。
 その隊列の中には、勅旨により処分を申し渡された十九名の公卿のうち、さらに処分を無視して堺町門近隣の関白邸へ集まった七名も含まれていた。
 駕籠や手車ではなく徒歩で、しかも草鞋や足袋があればまだましだが、ひどい者は素足で京を後にした。
 これが後ほど七卿落ちと言われた事件である。



 壬生浪士組は雨の降る中を前川邸へと戻ってきた。
 戦闘にはならなかったものの、御所の地に足を踏み入れて警備を任ぜられたことは彼らにとって名誉なことだった。
 「無事に急進派を追い落とせてよかった」
 近藤は甲冑を脱ぎ、濡れた体を拭きながら言った。
 「よかねえや、あんな辺鄙なところへ押しやられて、しかも剣を振るう機会もなかったじゃねえか」
 土方も武装を解いて着替えた姿で近藤の部屋へ行くとぼやいた。
 どの戦闘部隊よりも血刀を振るって武功を上げ、壬生浪士組の力を示す絶好の機会だったというのに。
 「馬鹿を言え、犠牲を出さずにすんでよかったじゃないか」
 近藤はそう言ったものの、土方の気持ちを察して苦笑した。

 「局長、風呂の支度が整いましてございます」
 「ああ」
 障子の外から声がした。
 雨に打たれたままでは秋の気配を見せ始めた夜には体調を崩してしまうかもしれない。
 近藤は着替えを持ち、風呂に入りに行った。
 近藤が風呂から戻ってくると土方も風呂に入り、疲れと汚れを洗い流した。

 雨はいまだに降り続いており、傘があっても出歩きたくはないような強さで庭の草木を打っていた。
 これではは今夜も帰ってこないだろう。
 彼女の帰りはさらにもう一日待たねばならないと、土方は濡れた髪を拭きながら溜息をついた。

 明日はきっと。
 土方はいろいろと心に浮かび上がる雑念を振り払って目を閉じた。








 夜半。
 外のことりという小さな音に土方は目を覚ました。


 何かをずるずると引き摺るような音がして、一旦障子の前で動きを止めた。
 土方は障子に背を向けたまま目を開けて、障子の外に神経を向ける。


 少しずつ、ゆっくりと障子が開いた。


 雨でずぶ濡れになった体を引き摺り、が入ってきた。
 羽織と袴は縁側で脱いでそこへ置き、出来るだけ着物の袖や裾を絞りはしたものの、戦で疲労して帰って来た身にはそれほどの力も残っておらず、畳の上に水溜りを作った。
 土方の前へできる限り静かに回り、そろりと納戸を開ける。
 納戸の中から自分の行李を丸ごと引っ張り出し、納戸は開けたままにして、行李を持ち上げて土方の背の方に回った。

 脱いだものを障子の隙間から外へ出し、とりあえず体を拭いて着替えた。
 そしてびしょびしょになった着物類を縁側でもう一度絞り、たたんで雨の当たらないところへ置く。
 部屋へ戻ると行李を元の場所へ戻し、自分の布団を敷いて納戸を閉め、布団に横たわった。


 やっと戻ってきた。
 何日ぶりだろう、この布団で、この部屋で休めるのは。
 は長い長い溜息をついた。
 みなと屋の女将は親切に世話を焼いてくれたけれども、やはりこの部屋がいい。
 眠っている土方を起こさずに着替えを済ませることが出来てよかった。
 もし彼が起きていたらすぐに話し合おうと決めて戻って来たのだ。だが彼は眠っている。
 明日の朝は必ず話し合おうと思い、は瞼を落とした。


 やっと帰ってきた。
 彼女の気配がこの部屋にあるのは何日ぶりのことだろうか。
 今夜は疲れているだろうから、このまま眠らせてやろう。話は明日でいいと土方は思い、再び目を閉じた。


 「くしゅん」
 小さな、押し殺したようなくしゃみが聞こえ、土方はまた目を開けた。
 そっと体を向こうへ傾けると、は縮こまって震えていた。

 もともと具合がよくなりかけたところへあの戦、そして雨に打たれての戻りだ。また具合が悪くならないとも限らない。
 土方は上掛けを跳ね上げた。


 固くなっていた体に温度のあるものが触れた。
 土方が後ろからそっとの体を包み込んでいた。
 「土方さ・・・」
 眠っていたのではなかったのか。
 「風邪ひくだろうが」
 こんなに体が冷えて。
 「大丈夫です、もう少しすれば自分の体温で布団も温かくなりますから」
 は土方の手を剥がそうと、彼の手の上に自分の手を重ねた。

 「また同じ事を言わせる気か?」
 溜息をつきながら土方はさらにを囲む腕に力を込めた。
 「でも、あの」
 は数日前のことを思い出す。

 「・・・何度も同じ事を言わせるんじゃねえよ、めんどくせえ」
 そう言って土方はの足に自分の足を絡ませた。こちらも大分冷たくなっていた。
 「人様の親切は素直に受け取れ」

 土方と親切。
 その言葉が真っ直ぐには繋がらず、はぷっと吹き出してしまった。

 「何笑ってんだこの野郎」
 の首の後ろで土方が呟く。
 「す、すみません」
 は笑いを噛み殺して謝った。


 「・・・土方さん」
 僅かに身じろぎをしてが言った。
 「何だ」
 「あの、この前はごめ」
 んなさい、と言葉を続けようとした瞬間、土方の手がの唇を塞いだ。
 「・・・うるせえ、もう寝ろ」
 もごもごと喋ろうとするの耳元で土方が囁いた。
 こくりとが頷くと土方は手をどけてを抱え直し、目を閉じた。


 土方は、面倒だとかうるさいだとかなど、本当はこれっぽっちも思っていなかった。
 ただ彼女がこうして無事に戻り、自分の行為を受け入れてくれただけで後の事はどうでもよくなっただけ。
 男などそんな程度に単純なものでしかないのである。


 土方の体温が背中から伝わり、冷えた体に移っていく。
 意固地にならずにこうして何かを受け入れるという事は、なんと心地良いことなのだろう。
 今だけ、少しだけ甘えてみよう。
 明日からはまた一人で立って歩いていけるように。
 後は自分さえしっかりしていれば、この気持ちは揺らがない。



 雨の音は一向に止まない。
 はその音を耳にしながら眠りについた。




 20080403





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 参考文献:
 『幕末会津藩主 松平容保』帯金充利 叢文社 2006年
 『シリーズ藩物語 会津藩』野口信一 現代書館 2005年
 『大江戸復元図鑑<武士編>』笹間義彦 遊子館 2004年
 『金戒光明寺の四季』水野克比古 東方出版 2004年
 『孝明天皇と一会桑』家近良樹 文藝春秋 2002年
 『新選組始末記』子母澤寛 中公文庫 1977年
 『京都時代MAP 幕末・維新編』新創社編 光村推古書院 2003年
 『武器と防具 幕末編』幕末軍事研究会 新紀元社 2008年