僻歌―ヒガウタ― 10
明け方に土方が屯所へ戻ってきた時にはすでにの姿はなかった。
しばらくして近藤が起きてきた時にゆうべあの後どうしたのか聞いてみると、近藤は自分と山南との三人でここへ戻り、土方の部屋の前で彼女と別れたと言う。
いつもの風呂敷包みも無いので、おそらく黒谷へと出勤したのだろうと土方は踏んだ。
しかし昨日の朝のように腹は立たない。自分が昨日の別れ際に突き放したことを思えば、そうされても当然だった。
「近藤さん、ゆうべの黒谷での話だが」
のことは夕方に彼女が戻ってくるまで待つことにし、土方は近藤に切り出した。
「・・・ああ」
芹沢一派粛清の話だ。
「俺は早いうちにカタをつけたほうがいいと思っている」
「・・・」
土方の言葉に近藤は黙り込んだ。
分かってはいる、だが、という思いが近藤の中にはある。
「近藤さん」
土方は近藤の側にいざり寄ると、声を潜めながらもはっきりとした口調で言った。
「アンタは芹沢に仕えているのか、それとも会津公に仕えているのか。そこが分かってりゃあ答えは出るだろう」
「・・・分かっている」
些か厳しい物言いだが、今ここで近藤の意志を抑えておかねば彼が後になればなるほど情に流されると土方は知っている。しつこいかもしれないが
今後の事を考えたらこれぐらいは言っておかねばならない。
「その話はこれぐらいにしておくか。それと」
土方は話題を変えた。
「警護のことも考えなきゃならねえな」
黒谷への呼び出しと共にもたらされた大きな情報。
時の帝、孝明天皇の大和行幸の詔である。
この頃の京都は攘夷派の力が強くなってきていた。
五月に長州藩が下関海峡を航行中の米・英・仏の船に砲撃を加えて攘夷を実行すると、過激な攘夷派の連中は快哉を叫んだ。
そして自分たちに風が吹いていると決め込んだ攘夷派は、今年すでに賀茂神社と岩清水八幡宮護国寺に行幸しているにも関らず、
今度は大和への行幸を画策していた。
その大和で帝を拉致して政権を手中に収め、諸藩に号令して攘夷を実行するという魂胆が見え隠れする。
巷では長州藩に征夷大将軍を命じるのではないかという噂まで立っていた。
近藤も攘夷には賛成だが、帝を奪ってどうこうしようなどという無礼きわまる輩とは違う。
浪士組近藤派は、大和行幸に同行して帝をお守りしようかという案まで出ていた。
「このことについては皆を集めよう」
「そうだな」
近藤の言葉を受けて土方は立ち上がった。
これから幹部を全員呼び出して会議だ。
土方はまず山南の部屋を訪れた。
「山南さん、俺だ」
「どうぞ」
土方が障子に向かって声をかけると中から返事があり、それに従って土方は部屋に入った。
「ゆうべはお疲れ」
「ああ」
山南は読んでいた本を閉じ、土方に向き直った。
「“玉”の警護について話し合いたい。局長室まで来てくれ」
「わかった」
土方は山南の返事を聞くと軽く頷いた。
「・・・ところで例の話だが、山南さんはどう考えている」
土方は唐突ではあるが芹沢粛清の話を切り出した。
「近藤さんは何と?」
逆に山南が聞いてきた。
「迷っちゃいるが理解はしている」
「・・・そうか」
近藤さんらしい、と山南は小さく笑った。
「君の中にはもうそれなりの計画があるんだろう?」
「俺はあんたがどう考えているのか聞いている」
柔らかく微笑む山南に、土方は切り捨てるような視線を返した。
「ゆうべのお言葉には勿論従うが、不自然にならないように時期を選ぶべきだと思う」
「悠長だな」
人に意見を求めておいて土方のこの物言い。しかし山南は慣れたもので平然としている。
「俺は今すぐにでも構わねえぐらいだ」
「・・・とにかくこの件については近藤さんと三人でもっと話し合うことにしないか?」
「そりゃそうだな」
土方はそこまで言うと身を翻して部屋を出て行こうとした。
「そうだ土方君」
山南がその背中を呼び止めた。
「ゆうべは君、元気がなかったようだが」
後ろを振り向かずに土方は言った。
「さあな。今朝はもう黒谷へ出かけたみてえだぜ」
後ろ手に障子を閉め、土方は出て行った。
山南はそれを見て、ふうと溜息を漏らした。
土方は幹部の部屋を回り、巡察でいない原田と永倉、隠密活動で黒谷に赴いている斎藤以外を近藤の部屋に集めた。
先日初めてこの話が出た際には、幹部は自分の受け持つ組下の者たちにいつ出動の連絡が入ってもいいように武具の手入れを徹底させることだけを伝えて終わったが、
「会津藩を通じて帝の警護を申し出て大和行幸にお供する。いつになるかははっきりしてねえから、巡察や公用以外の外出をしばらく禁止する。
それと今から部隊編成を決めて、警護時の隊列を全員に守らせる。いいな」
と、より具体的な案を土方が出した。
その場にいる皆で編成について話し合い、帝の警護を願い出る書状の文面を考えてしたためた。携行品の調達なども決めた。
そして過激攘夷派に対する文句や意見、自分たちの戦意などをひとしきり放出したところで、会議は終了した。
いつの間にか夕方になり、幹部たちは遅い夕餉を摂った。
もうが戻ってきていい時間である。自分宛ての手紙や話し合いの書付、先日行われた大相撲の収支報告などの書類の山を横目に茶を飲みながら、
土方は廊下の向こうからやって来るはずの華奢な影を待った。
ところが空に星が見え、夜の巡察に出る隊が準備を始めてもまだ彼女は戻らない。だんだんと土方の心に雲が広がってきた。
まさか途中で何かあったのか。
それともここには戻ってこないつもりなのか。
・・・もしかしたら、池が光ってもうあちらの世界に戻ってしまったのか。
そう思い始めると居ても立ってもいられなくなり、土方は廊下へ出た。
縁側から庭に降り、夕暮れに染まる池の水面を見る。
小さな魚と水草の影がゆらゆらと見えるばかりで、他には何も見えない。
土方はしばらく池の前で立ち尽くしていたが、後ろに気配を感じて振り返った。
「斎藤か」
「はい」
薄暗い廊下に佇んでいたのは斎藤だった。
「ただ今戻りました」
「・・・ああ」
丁度いい、と思い、土方は両袖に手を突っ込んで縁側に上がった。
「は今日黒谷に居たか?」
土方は聞いた。
「おりましたが」
斎藤は黒谷で遠目に見たの姿を思い出した。自分は外に出る用事を仰せつかっていたのですぐに出て行ってしまったが、英吉利語の授業が行われて
いる宿坊の門を背中を丸めながらくぐる姿は、間違いなく彼女だった。
「・・・まだ帰ってきてねえんだ」
土方は渋い顔で斎藤に告げた。
「心当たりは?」
僅かに眉をぴくりと動かし斎藤が聞く。
「・・・」
心当たりなど、ありすぎるほどにある。一昨日言い争った事、昨日突き放した事。
言いあぐねていると斎藤はじっと土方を見つめた。
「別に子どもでもあるまいし、そう心配することもないでしょう。そのうち帰ってくるのでは」
アンタとの間に何があったか知らないが、と斎藤は心の中で付け加えた。
「・・・ああ」
土方は当てが外れたことに気を落としたが、それはおくびにも出さず自室へと戻った。
確かに斎藤の言う通りだ。子どもじゃあるまいし、ここでの生活にも溶け込んできてそれなりに個人的な用もあるだろう。
ましてや会津藩に召し抱えられている身だ。いつどのような用事があるかわからない。
土方は、はまだ黒谷にいる、あるいは帰ってくる途中なのかもしれないと思うことにした。
今抱えている書類などの雑事が終わったら黒谷へ向かってみることにしようとも。馬で行けばたいしたことはない。
迎えに来るのは遠慮すると彼女は言ったが、暗い道だ、きっと心細いに決まっている。
素直に心配だからと言えれば世話はないが自分がそういう性分でないことも分かっている。
土方は書類の山と再び格闘を始めた。
書類をようやく片付けてもまだは帰ってこなかった。
土方は筆をぼろ布で拭うと、行灯の火を消して部屋を出た。
厩へ向かい、艶やかな栗毛の馬の手綱に手を伸ばす。
これで迎えに行って、途中で会えたら乗せて帰ってくればいい。
そして前川邸に戻ったら話し合って、茶の一杯でも一緒に飲んで、いつものように布団を並べて眠れば元通りだ。
「どこへ行かれるつもりですか」
突然、暗闇から声がした。
びくりとして土方がそちらを振り返ると、闇に紛れる様に斉藤が立っていた。
「まさかアンタ、あれを迎えに行くつもりなのでは」
「だったらどうした」
斎藤に見抜かれ、土方は忌々しく思いながらも手綱を握り締めた。
「巡察や公用以外の外出は禁じられているはずですが」
自分がいない間に決められたことでも斎藤はきっちり把握していた。おそらく山南辺りが話し合いにいなかった面々に説明をしたのだろう。
「そりゃそうだが、こんな時間まで戻ってこないなんておかしいだろ。お前は心配じゃねえのか」
先日のようにどんなに遅くなろうとも必ず帰ってくるはずの彼女が、昨日より遅い時間になっても戻ってこない。心配するのは当然だと言わんばかりの
顔で、土方は斎藤に言った。
「先ほども申し上げましたが、あれも子どもではありません。ひと晩帰ってこないぐらいで騒がずともよいでしょう」
「だがな、アイツは」
「アンタだって島原に行って朝帰りなんてしょっちゅうでしょうに」
斎藤は横目でじっと土方を見つめた。
「・・・」
土方の心に斎藤の言葉がぐさりと突き刺さった。言い返せない。
斎藤は土方に見えない角度へと顔を向けて溜息をついた。
「明日も俺は黒谷に出仕します。その時に様子を見てきますから、アンタはおとなしくしててください。幹部が真っ先に決まり事を破ったらけじめがありません」
「・・・ああ」
斎藤と話しているうちに土方の頭はだんだんと冷えてきた。
幹部が自ら決めた事を破ったとあらば組織は崩壊する。が心配なことは私情だ。
浪士組の舵取りをする身で自分は何を考えているんだと土方は思い直す。
土方は手綱をそっと手放した。
二人して厩を出て邸内に戻った。
「アンタの気持ちもわからんでもない。だが」
「分かってる」
斎藤の言葉を遮り、土方は呟いた。
もう自分の中では気持ちの整理がついている。斎藤が明日様子を見てくると言ったのも功を奏したと言えよう。
いつもは彼女が敷いてくれている布団を、今夜は自分が敷いた。
廊下側に顔を向けて横になる。
しばらくは月の光を薄く透かす障子を眺めていたが、自然と瞼が重くなってきた。
目を開けたら彼女が疲れた様子で眠っている姿がそこにあるのを願いながら、土方は目を閉じた。
朝になり目を覚ますと、隣の布団は皺一つも変わった様子はなかった。帰ってこなかったのかと土方は肩を落とした。
だがたった一人のために副長とあろう者が落ち込んだ様子を見せるわけにもいかず、土方は頬を両手で叩いた。
今日は斎藤がなにがしかの情報を持ってくる。それまでは気持ちを揺るがせてはならない。
土方はきりりと顔を引き締め、副長としての一日を始めた。
帝の警護を願い出るための書状を斎藤に持たせ、黒谷へと送り出した。
斎藤と視線を合わせ、の様子を頼むと合図した。斎藤も小さく頷いて出ていった。
土方は警護に同行する際の準備が各自整っているかを確認しに隊士部屋を回った。
すると神谷が部屋で一人で縫い物をしていた。
「お前、一人で何やってんだ」
土方が声を掛けると神谷が振り向いた。
「あ、鬼副長!ひどいんですよ、皆私に鉢金の縫い付けを押し付けて巡察に行ったんです!」
怒りをあらわにして訴える神谷の傍らを見ると、何本ものさらしと鉢金と大量の綿が置いてあった。
「鬼だけ余計だろ」
土方は眉を寄せた。男所帯だから手先の器用な者は少ない。神谷のようにこなす者がいれば頼みたくなるのは必定だ。
「あーあ、こんなにたくさん・・・そうだ副長」
まだまだ残る縫い物を見て溜息をついた後に、ふと神谷は顔を上げた。
「さんいらっしゃいませんか?さんも出来そうだから、手伝ってもらえませんかね」
突然の、つまりの名前が出たが土方は動じずに言った。
「お前みたいにヒマじゃねえんだ、いるわけねえだろ」
せいぜい一人で頑張るんだなと嫌な笑顔を浮かべ、土方は次の部屋へと向かった。
その背に向かって神谷があかんべえをしたのは言うまでもない。
夕方になり、斎藤が黒谷から戻ってきた。
斎藤は帰るなり真っ直ぐに副長室へ向かった。
「副長、斎藤です」
「入れ」
「失礼します」
斎藤は静かに障子を開けて入ってきた。
「どうだった」
土方は文机の前に座ったまま、くるりと体をこちらに向けた。
「それが・・・は今日黒谷にはおりませんで」
「何?」
斎藤の報告に土方は目を見開いた。
てっきり黒谷にいるものだと思い込んでいた。斎藤が前川邸へ戻ってきたら、あわよくば一緒に戻ってくるかもしれないとも思っていた。
だがどの予想も外れ、全く思ってもみなかった結果が斎藤からもたらされた。
「じゃあアイツは一体どこへ」
誰かに襲われたりヘタな目にあったりしたのか。それともやはり池に飛び込んで元の時代に返ってしまったのか。
土方の脳裏にはいっぺんに様々な場面が浮かんできた。
「講師の家に」
こともなげに、斎藤は真実を口にした。
「・・・は?」
「ですから、講師の家に」
「誰だコウシって」
「英吉利語の講師ですよ、副長」
「・・・な、何だと?!」
とすれ違いの日を過ごし、やっと消息が掴めたと思ったらあの金髪の夷荻の家に居ると聞かされ、土方は息を呑んだ。
「それはどういうこった」
苛立ちを隠さずにいる土方を前に、斎藤は淡々と話を続けた。
「調子が悪いそうです」
斎藤は今朝黒谷に着くとまず藩主の松平容保に拝謁し、大和行幸の際の警護を願い出る書状を提出した。
それから英吉利語の授業が行われている宿坊に赴いた。
「御免」
式台を上がって奥の部屋へと向かい、人の話し声がする障子の向こうへと声を掛けた。
「どなたデスか」
中から応えがあった。
「講義中失礼します、斎藤と申します。そちらに山口はおりませんでしょうか」
「Oh,ネ」
すらりと障子が開き、中から現れたのは金髪の男、つまり英吉利語の講師のハーバーだった。
「アナタ、ミナトヤで会ったサムライのもう一人ね」
斎藤を見るなりハーバーはぱっと笑顔を見せた。
「山口がこちらで世話になっているはずだが」
斎藤は開けられた障子の奥を見渡した。
前に机が一つあり、そこがハーバーの机のようだった。
そして相対するように三つの机が並べられていて、そこにそれぞれ一人ずつが座っていた。
「、ワタシが預かってマス」
ハーバーが表情を少し暗くして言った。
「何ですと?」
斎藤は驚いた。
「昨日、ワタシと、一緒に帰った。ミナトヤの前で倒れタ」
「倒れた?」
ハーバーの話はこうである。
昨日、集中していない様子だったを心配してハーバーは共に黒谷を出た。
本当は前川邸まで送っていこうと思ったがに固く辞退され、お互いに黙ったまま自分の仮寓であるみなと屋まで一緒に来た。
そこへみなと屋の女将が現れた。
「あらー、この前のお兄さんやないの、お元気やった?」
「・・・」
は返事をせず、微かに縦に首を振る仕草を見せた途端、膝から崩れ落ちた。
慌ててハーバーはを抱きかかえ、女将は布団を用意し、を横たわらせた。
女将が額に手を当てると、かなり高い熱が出ていた。
「お医者はん呼んで来るわ!」
女将が走って部屋を出ようとした時、
「駄目です」
が突然がばっと起き上がった。
「お医者は呼ばないで下さい・・・お願いします・・・」
苦しそうな顔では言った。
「でも、そんな熱で」
「大丈夫です・・・だから・・・お医者は呼ばないで下さい」
気管支を通り抜ける呼吸が燃える様に熱く、自分でも高熱だと理解できる。
しかし医者を呼ばれて診察中に自分が女だとバレでもしたら大変だ。
「、ドクター怖くない。診てもらえばスグよくナル」
まるで子どもを宥めるようにハーバーは言った。
「ハーバーさん・・・ノードクター、プリーズ・・・」
その腕を掴み、は鋭い目でハーバーを見据えた。
絶対に、医者を呼ばれてはならない。
「・・・オカミサン、お医者サン、呼ばないデ」
ハーバーはの意思に負けて女将に言った。
「で、でも・・・」
女将はまだ譲れない様子でを見た。
「すみません、お願いします・・・」
ハァと息をつき、は頼んだ。
「・・・わかったわ、呼ばんといとく。でも絶対に安静でええね」
女将は渋々の意見を受け入れた。
「ありがとう、ございます・・・」
は礼を述べると、ぷっつりと何かが切れたように眠りに落ちた。
そのままはこんこんと眠り続け、今日の朝になってもまだ目を覚ましていなかった。
ハーバーはのことを女将に頼んで黒谷へ来た。
そして今こうして斎藤と話をするに至ったのである。
「それはが世話になりました」
斎藤は事情を聞いて納得した。動けないほどの熱だったら仕方あるまい。
「きっと、疲れてル。ここ何日か眠れてナイみたいだっタ」
がぼんやりして授業を聞いていなかったりしていたのを思い出し、ハーバーは視線を落とした。
「もっと早く気がついテ、をマエカワさんちに帰すべきダッタ」
「いや、それはアンタのせいじゃない。本人の管理の問題だ」
元気になるまで預かるというハーバーに彼女の事を頼み、斎藤は会津公から受けたいくつかの指令をこなすために黒谷を出た。
「・・・で、お前はそこでおめおめと黒船野郎にアイツを預けてきたって訳か」
土方は目を眇めた。
「はい」
斎藤は短く返事をする。
急に土方は立ち上がった。
「どちらへ」
「迎えに行く」
土方は刀掛けから二本を取ると腰に差した。
「アンタの名を」
斎藤はその背を見つめて静かに口を開いた。
「あ?」
土方は肩越しに斎藤を見据えた。
「アンタの名を、あれは夢うつつの中で呼んでいたそうです」
ハーバーから聞いたの様子は、熱に浮かされて呼吸も乱れているという痛々しいものであった。
その中で、が人の名前を口にしていたとハーバーは言った。
「ヒジカタサン、と」
ハーバーはもちろん土方を覚えていた。
「・・・そんなに浮かされるほど熱が高いのに移動なんて無理です」
斎藤はやんわりと静止の言葉を放った。
土方は思った。あんな黒船野郎と同じ屋根の下に置いておけるかと。しかしそれを口にしたところで所詮はただの私情でしかない。彼女の体調を
鑑みたら動かさないほうがいいに決まっている。
「・・・ちっ」
土方は大きく舌打ちをすると、どっかりとその場に座り込んだ。
しばし二人とも沈黙した。
「・・・多分は数日のうちに良くなるでしょう。それまで待つことに」
「分かってら、そんなこと」
ややあって口を開いた斎藤を、土方は苛々した口調で止めた。
「では俺はこれで」
報告の済んだ斎藤は、すっと立ち上がると部屋を出て行った。
音も無く廊下を進む斎藤の気配が消えると、土方は刀を横に置きごろりと横になった。
彼女が無事でいたことには安堵した。
だが黒船野郎の所に、いや、自分以外のところに身を寄せているというのが成り行きとはいえ気に食わない。
そしてうわ言で自分の名を口にしていたと聞き、土方は短く溜息を漏らした。
一体どうして自分の名を呼んでいたのだろう。
土方は布団を敷くのが面倒になり、そのまま目を閉じた。
翌日もは前川邸へ戻っては来なかった。
夕方に斎藤が黒谷でハーバーから聞いたところによると、昨日ハーバーが斎藤と話した後に港屋に戻った時にはもう目を覚ましていたそうだ。
少しだけ女将の作ったお粥を食べ、また横になってしばらくすると寝息をたてていたらしい。
そして朝になると起き、風呂を所望してふらふらとした足取りで入浴したと言う。
「今日はまだダメだけど、アサッテぐらいにはおうちに帰ってダイジョブね」
ハーバーはにこやかに斎藤に言った。
斎藤はハーバーに礼を言って前川邸に戻り、それを土方に伝えた。
土方は頷くと、自分の仕事に没頭した。
そしてその翌日、漸くは黒谷に姿を現したのだった。
ハーバーに付き添われ、覚束ない足取りで宿坊に入ってきた。
本当は女将にまだ無理だと言われたが、押し切ってハーバーについて来たのである。
「山口、大丈夫か」
秀才の石井が声を掛けた。
「無理は禁物だぞ、もし駄目ならきちんと休んで体調を整えろ」
海老原も内藤も同意して頷いた。
「休みがちで本当に申し訳ありません。もう大丈夫ですので」
は頭を下げた。
「アナタのダイジョブは当てになりまセン」
ハーバーがそう言うと、その場に居た全員が笑った。
黒谷での授業になんとかついていき、長く感じられた一日が終わった。
仕事も果たしたし、これで前川邸へ帰れるとはほっと息を吐いた。
やっと土方と話し合うことが出来、わだかまりを解消できる。どんなに突っぱねられても必ず土方ととことんまで話し合うつもりだった。
しかし。
「総員武具を着けて御影堂前に集結せよ!総員武具を着けて御影堂前に集結せよ!」
式台を降りようとしたところで、誰かが大声で叫ぶのが聞こえた。
「?」
英吉利語のメンバーたちが首を傾げながら外へ出ると、公用方の秋月悌次郎と、若き藩士の柴がそこにいた。
「柴さん」
は柴の姿を認めると彼を呼び止めた。
「山口さん」
柴は呼ばれて後ろを振り向いた。
「一体これは・・・?どうしたんですか?」
言いようの無い物々しさを感じ、は秋月と柴を見た。
「山口さんも早く準備を。今から出陣です」
柴がそう言うと、隣で秋月が首を振った。
「しゅつじん・・・」
「うむ、帝をかどわかす奴らを京から追い出すぞ」
秋月はぐっと握り拳を固めて言った。
「お主らも早く支度をせよ、遅れんようにな」
秋月は柴を促してまた別の場所へと行ってしまった。
「こうしちゃおれん!」
とハーバー以外の三人はばたばたと自分の寝泊りする宿坊へ走っていった。
「・・・」
は背を冷や汗が流れ落ちるのを感じた。
出陣と言う事は戦と言う事だ。
有名な八月十八日の政変が始まろうとしていた。
20080328