久遠の空 ドリーム小説 僻歌―ヒガウタ― 9

僻歌―ヒガウタ―

update:2008.03.21

僻歌―ヒガウタ― 9 

 翌朝、土方が目を覚ますとは部屋にいなかった。
 がしがしと頭を掻きながら廊下へ出ると、そこにも姿はなく。

 「土方さん、おはようございます」
 沖田が廊下の向こうから歩いてきた。近藤への朝のご機嫌伺いだろう。
 「・・・ああ」
 土方はむっつりとした顔で返事をした。

 正直なところ、土方の気分は最悪だった。
 ゆうべの大和屋の火事のことと言い、その後のとの喧嘩と言い、胸糞悪い。
 爽やかな笑顔で挨拶をしてくる沖田がむかつく。

 「さん、今朝はだいぶ早くお出かけになったんですねえ」
 「あ?」
 土方は沖田の言葉に顔を顰めた。
 「いえね、神谷さんの額の傷、ほら芹沢さんに扇で打たれたところ、あれに当ててる冷たい手拭いを交換してあげようと思って、朝早く井戸端に 行ったんですよ。そうしたらさんがいつもの風呂敷包みを抱えて門へ行こうとするのが見えて」
 沖田が声をかけると、挨拶だけをしてそそくさと出て行ってしまったらしい。


 逃げやがったな、と土方は心の内で苦々しく思った。
 気まずいのはこちらも同じだが、だからと言って顔も見せずに出て行くなんて。ますます可愛気のない。
 初めの頃に一度、自分の胸で泣いた事もあるくせに。今更あのくらいで何で喧嘩しなきゃならねえんだと土方は眉間の皺を増やした。
 そして手拭いを持ち、身支度を整えに井戸へと向かった。



 はその頃、黒谷への道を歩いていた。
 早朝の道は静かで、人もまばらだ。
 辺りに誰もいなくなると、まるで自分だけしかこの世にいないような気分になる。


 ゆうべは土方に悪い事をした、とは唇を噛んだ。
 きっと土方もあの後、気分の悪い思いで過ごしたに違いない。
 自分の気持ちがどうであろうとも、あんな言い方で突っぱねる事はなかったはずだと今になって思う。
 結局朝まで眠れずに、部屋の障子をそっと開けて土方が眠っているのを確認すると荷物を取り出し、いたたまれない気持ちでこそこそと出てきてしまった。
 沖田と井戸の近くて顔を合わせたけれども、逃げるようにしてその場を後にしてしまった。
 きっと沖田の口から土方に知らされて、後でまた嫌な思いをするのだろう。

 きちんと顔を見て謝って、わだかまりがなくなってから出てくればよかったはずなのに。
 しかしあの続きを話し合って、こじれて、土方とこれ以上言い争うのが嫌だった。

 ますます帰りづらい状況を自分で作ってしまったことに溜息をつきながら、は黒谷へとゆっくり向って行った。



 英吉利語の授業中。
 「?」
 青い瞳がふと目の前に現れた。
 「は、はい」
 急に声を掛けられたは、慌てて筆を握り直した。が、親指が外れて筆が滑り、その拍子に筆の墨が飛んだ。
 「山口、どうしたのだ。お主らしくも無い」
 石井藤太郎が声をかけた。同じく英吉利語を学んでいる中では一番年上で、皆のまとめ役となっている。
 「申し訳ありません。失礼いたしました」
 は手についた墨を懐紙で拭うと、目の前のハーバーに進み具合を確認した。
 「コンセントレーションないですネ。ホントにダイジョブですカ?」
 「はい、続けてください」
 確かに集中していない。それではいけない。はぐっと腹に力を入れて座り直した。
 いつもならば後ろの席に静かに座し、ハーバーの言葉を聞いて筆をさらさらと動かしているのに、今日はどうしたものか。
 山口は一体どうしたんだろうとその場にいる全員が訝しく思いながらも、英吉利語の授業は続いていった。


 授業が終わり、ふうと溜息をつくを皆が取り囲んだ。
 「どうしたんだ山口、今日は何だか変だぞ」
 会津で充分に研鑚を積んだ上に、江戸で学ぶよう送り込まれた秀才の石井が真っ先に口を開いた。
 「全くだ。まだ疲れが取れてないのではないか?」
 若いながらもすでに家督を継いでいる海老原郡司が、昨日休んで今日は何とかやって来たを覗き込んだ。
 その隣でこくこくと頷くのは藩家老の弟、内藤次郎衛門である。
 「・・・ご心配おかけしまして申し訳ありません。大丈夫です」
 は口元を引き締めて手をついた。


 他の三人が部屋から出て行っても、はまだ席についたままだった。
 立つ気になれない。
 「、あなたも早く帰りなサイ。私はテキストを少し作ってから帰りマス」
 ハーバーが机の上に自分の道具を広げながら言った。
 「あ、お手伝いします」
 は少しずつではあるがハーバーの授業のテキストを作る手伝いを進めてきた。昨日休んでしまった分を取り戻そうと思い、ハーバーの側に席を移す。
 「でもアナタ今日は具合悪ソウ。帰ったほうがイイと思う」
 ハーバーは心底心配そうな顔でに言葉を掛けた。
 「大丈夫です。やらせてください。おとといどこまでやりましたっけ」
 はハーバーの静止を振り切るように半紙を広げ、筆を手に取った。


 ハーバーと相談しながら、英吉利語と日本語を順に羅列していく。
 授業の内容を整理しながら書き付けているうちに、の気持ちはだんだんと落ち着いてきた。


 ・・・やっぱり、ちゃんと土方さんに謝ろう。
 時間がかかっても話をすれば、きっと分かってもらえる。
 筆を動かす手を止めて、は顔を上げた。


 結局きりのいいところまでテキスト作りを進めていたら外は完全に闇夜になってしまった。
 街灯のないこの時代、提灯の灯りだけを頼りに家路に着くのはかなり心細い。いや、正直なところ、怖いとは思った。
 (でもとにかく帰ろう)
 片付けを終えたはそう考え、提灯を借りて火を点した。

 「ワタシは泊まっていきマスけど、ホントにヒトリでダイジョブデスか?」
 ハーバーが心配そうに後ろからついてきた。彼はそのまま宿坊に泊まっていく心積もりのようだ。
 ここまで暗くなってからの外国人の一人歩きなど、過激な攘夷派の者に見つかったら命は無い。公用方でハーバーの面倒を見ている外島にそう言われ、 遅くなったときには黒谷に宿泊を許されている。
 「はい、大丈夫です」
 どうしても今日は帰らなくてはならない。帰りたい。早く土方と話がしたいから。

 は御影堂の前まで歩いてきた。大きな篝火が二つ焚かれ、しんと静まり返る闇を照らす。
 御影堂に道をつける三門の奥に目を遣ると、門の後ろには吸い込まれるような暗闇が広がっていた。
 「気をつけテ」
 「はい、お休みなさい。お疲れ様でした」
 はハーバーに挨拶をするとくるりと振り向き、三門の方へと足を出した。

 「あっ」
 足元の敷石の切れ目に草履が突っかかり、は体を傾けた。
 「・・・っト」
 ハーバーはすかさず前に出ての体を抱き止めた。
 「す、すみません」
 「足元気をつけテ」
 気が急いていたのか、よく足元を確かめもせずに前へ進もうとしてしまった。


 その時。
 御影堂の向こうにある清和殿の方から人影が幾つか現れた。
 「?」
 が誰だろうと思ってそちらに目を凝らすと、向こうも目を凝らしていたようで。

 「・・・土方さん?」
 「?」
 お互い見慣れた人影に気づき、同時に声を上げた。


 そこにいたのは土方だけではなかった。近藤も山南もいた。
 「こんな夜更けにお揃いで・・・どうなさったのですか?」
 が誰にとはなしに聞いた。
 「いや、その、ちょっとな」
 近藤がどもる。
 「会津公に呼ばれたから来ただけだ」
 土方が憮然とした声で言い放った。


 「君、そちらは?」
 近藤がの側に立つ青年を見て言った。
 「英吉利語の講師のエリック・ハーバーさんです」
 「・・・ああ、英吉利語の・・・」
 「エリック・ハーバーでス。ヨロシク」
 暗がりではよくわからなかったが、一歩前に出て挨拶をするハーバーの髪が篝火で金色に照らされ、日本人よりも彫りの深い顔立ちが見えると、 近藤は幾分緊張した面持ちで相手を見つめた。
 「壬生浪士組局長、近藤勇と申します」
 「同じく副長、山南敬助です」
 近藤に続き山南も挨拶を述べた。

 「、ちょうどイイ。この人たちと一緒に帰りなサイ」
 が浪士組に寄宿していることを、ハーバーも知っている。
 「はい。ハーバーさん、ありがとうございました。どうぞ宿坊にお戻りください。また明日」
 はハーバーを建物の向こうに返すと、近藤たちと一緒に三門をくぐった。


 近藤たちは馬で来たようで、それぞれ一頭ずつを会津藩の厩から引き取ってきた。
 「どうしたんだい、こんな遅くまで」
 近藤がに聞いた。
 「はい、授業のことでちょっと」
 は手短に答えると、後ろで馬を引く土方の側に寄っていった。

 「あ、あの、土方さん」
 はごくりと唾を飲み込んでから土方に小声で話し掛けた。
 ぎろりと土方が上から睨む。

 「ゆうべは・・・」
 「近藤さん」
 ごめんなさい、と言いかけたを無視して、土方は前を行く近藤を呼んだ。
 「悪いがこいつと一緒に帰ってやってくれねえか」
 「え?」
 土方は明らかに話の途中であるのに、を近藤に預けた。
 「それは勿論構わないが、お前」
 「・・・俺は寄り道して帰る」
 土方はの腕を掴むとを近藤の方へと押しやった。

 「土方さん、ちょっと待ってください、お話が」
 は後ろを振り返る。

 「近藤さんたちと一緒に帰るんだ」
 土方は突き放すようにの腕を放した。
 「土方さん・・・」

 「帰れ」

 何者をも許さない、低く冷たい土方の声がを突き刺した。

 「・・・はい」
 こうなったらもう何を言っても無駄だろう。はうな垂れた。

 土方は馬に跨ると、馬乗り提灯を差して暗い道へと走り去っていってしまった。
 「どうしたんだ、あいつ」
 ぽかんとして近藤が呟いた。
 「近藤さん、とりあえず帰りましょう。土方君も子供じゃないんだ、何か考えでもあるんだと思います」
 それまで黙っていた山南が口を開いて提案した。
 「そうだな」
 「君、私の後ろに乗りなさい」
 山南はにそう言って、自らがまず馬に乗った。そしてを引き上げて後ろに座らせた。

 「・・・土方君と何かあったのかい?」
 先に行く近藤の後ろでゆっくりと馬を進めながら、山南が後ろを振り向いて聞いてきた。
 は顔を上げ、小声で肯定の返事をした。
 「私が土方さんを怒らせてしまったんです。申し訳ありません」
 「何があったのか、聞いてもいいかな」
 山南は優しい口調で尋ねた。
 「それは・・・」
 言いかけて、は口を噤んだ。
 「・・・すみません、言ったらきっと土方さんはもっと気分を悪くなさると思いますので、言えません」
 はそれだけ言うと、きゅっと口元を引き締めて山南の背に顔を埋めた。
 ただでさえ自分に寄りかからなかったことに腹を立てているのだ。土方にしてみたらそれを他人に相談するなどもってのほかだろう。

 「・・・正解だと思うよ」
 山南はにこりと微笑んで言った。
 「え?」
 はふと顔を上げて山南を見た。
 「土方君のことだから、きっと怒るだろうな。しかもそれを私に話したとしたら尚更ね」
 ははっと笑いながら、肩越しに山南は話しかける。
 「どなたに話しても怒ると思いますけど・・・」
 はぼそりと呟いた。
 山南はそれには答えず、再び笑みを見せた。

 「彼のことを、きちんと見ているんだね」
 「はい?」
 何を言われているのか理解できず、は問い返した。
 「普通は土方君の表立った部分に恐れを抱いているだけ者の方が多いのに、君は違う。土方君と話し合おうとしただろう?」
 「・・・それは買い被りです」
 は表情を固くした。きちんと土方のことを見ているならば、あの時彼の心を読んで、おとなしく腕に収まって一緒に眠ったはずだと。
 「私は・・・土方さんのことを何も分かっていません」
 あれだけ世話になっておきながらも、と心の中で付け加えては山南に掴まる手を強く握り締めた。

 「・・・君も不器用なんだな」
 それを感じて、山南は苦笑いを浮かべた。
 「君は自分のことを何も分かっていない」
 「・・・」
 そう言われても返す言葉もなく、は黙って山南の背に頭をつけた。
 土方に謝罪を拒否されたことで思考回路がうまく働かない。謝って仲直りしたいのに、次はどうしたらいいのだろう。

 それからは山南ももひと言も喋らなかった。
 は馬の進むリズムに揺られながら、考えようとしても考えられない自分の思考に嫌気が差す。
 何だってこんなに考えがまとまらないのだろう。
 どうしていつまでも自分はこんなにも弱いままなのだろう。

 今夜もまた、眠れそうになかった。



 土方は島原へとやって来ていた。
 金を渡せば閉じている大門を守る門番も通してくれた。
 もう何度も通ってきているし、何より彼はいい男で金払いもよかったから、どんな時間に忍んで来ても彼を受け入れてくれる店はいくらでもあった。
 今夜もそんなうちの一軒へとやって来て部屋へと入れてもらった。

 だが、妓と同衾するつもりはこれっぽっちもなかった。
 ただ酒を運ばせ、それをちびりちびりと飲るだけだった。
 部屋に通してくれた敵娼には休むように言い、土方は独りで徳利を傾ける。
 花街の喧騒もすっかり落ち着いたこの時間、外はしんと静まり返っていた。



 こんな時間に会津中将から呼び出された理由。
 “今晩四つ、近藤局長、土方・山南両副長の三名において内密の内に黒谷本陣に来られたし”
 斎藤が持ってきた黒谷からの密書。
 同じく局長である芹沢と新見の名は書かれていなかった。

 先日の大和屋の騒ぎはすぐ黒谷へと知らさせたのであろう。そして防火担当の会津藩兵が駆けつけて、あの火事を鎮めるのに大変な労力を使ったに違いなかった。
 他にも芹沢たちの起こす暴挙は日に日にひどくなっていて、奉行所や番屋にも届けは出ている。現に近藤も大坂では自ら東町奉行所に届け出た。

 それに、芹沢が手篭めにしてしまった菱屋の妾のお梅が八木邸に居座るようになり、着物だ帯だとやたらに贅を尽くし、借金を重ねるようにもなった。
 芹沢がお梅に入れ込むあまり彼の一派は野放しにされていた。
 自分は一緒に遊びには行かないが好きに遊んでこいと芹沢が下知してしまったものだから、特に新見はまた自分が突き放されたように思い、 遊興に耽って行った。当然、芹沢の名の元にツケばかりが膨らんでいく結果になる。

 それらが彼らの身元預かりである会津藩に伝わらないわけがない。
 そう考えると、黒谷で何の話が出るのかは火を見るより明らかだった。

 時間より少し前に三人は清和殿に控えていた。
 そして大方丈へと案内されると、ややあってから、物々しい空気をその身に纏って松平容保が現れた。

 「芹沢鴨の儀、承知しておるな」
 平伏する浪士組の面々を前に、背を柱のようにぴしりと伸ばして会津公が厳かに言った。
 「・・・そなたらを御預にしたのは、このような愚かな行為で京師を騒がすためではないぞ」
 主君の言葉を継ぎ、公用方筆頭の野村左兵衛が発言した。

 「このままでは浪士組を御預として認めるわけにはいかん。我々は京の治安を守るという大切なお役目をいただいているのだ」
 容保公の側に控えていた野村が立ち上がり、ゆっくりとした足取りで近藤たちの元へとやってきた。


 「・・・芹沢を、そしてその一派を、粛清せよ」


 畳に頭を擦りつけながら、近藤たちはその言葉を聞いた。
 たらりと頬を一筋の汗が伝う。


 「そうしなければ、浪士組に明日はないと思え」


 野村は年を重ねた重々しい声で言い渡すと、松平容保の側へと戻った。


 「話はこれまで。このような時分にご苦労であった。下がってよいぞ」
 松平容保が黙って席を立った後に野村が告げ、謁見は終了した。


 とうとう芹沢を斬る時が来た。
 土方はぐっと酒を飲み干した。
 もう彼の頭の中にはその為の計画が幾つか組み立てられ始めていた。



 そして今の彼の脳裏に浮かぶのはもうひとつ。
 のことだった。

 彼女がさっき謝ろうとしていたことは分かっていた。
 がゆうべ言いたいことは理解しているつもりだった。
 ただ自分の気持ちを押し付けてしまったことも。
 一日離れている間に頭が冷えてきて、彼女と話し合うつもりでいた。

 しかし、偶然見てしまったがハーバーに掴まっている場面に、かっと胸が焼けた。
 見ればわかる、ただがうっかり躓いて彼に掴まっただけだと。
 昨日の朝の、近藤にしがみついたのと意味合いは同じだと。

 ・・・それをまたゆうべのように問い詰めて、彼女を傷つけたくなかった。
 衝動的にそうしてしまいそうだったから、かろうじてを突き放して、冷静になるためにここへ来た。
 あの時の彼女の困惑に満ちた目が頭を離れない。


 みっともねえ。
 あんな程度で妬くなんざ、ガキじゃねえだろ。
 土方は自分に向かって叱咤した。


 今になっての気持ちを考えれば、一人立ちしようとしているところに余計な世話を焼かれるのが嫌だったのだろう。
 そこへ自分がずかずかと踏み入ってしまった。
 に拒否されても当然だったと、今なら思える。

 夜が明けたら、彼女と話し合おう。
 おそらく彼女が一方的に謝罪の言葉を述べて、自分が鷹揚に頷いて。
 ぎこちないながらもまたいつもの日々が戻ってくるのだろう。


 徳利を傾けるといつの間にか中身は空になっていて、最後の一滴がぽたりと落ちてきた。
 くっと笑うと土方は盆の上に杯をかつりと置いた。

 格子の向こうに広がる家並み。
 その奥にどっしりと腰を下ろす山の闇。
 あの山の空が白んできたら、屯所へ戻ろうと土方は思った。
 彼女が眠っているのか起きているのか、あの部屋へ。



 しかし土方の思いとは裏腹に。
 土方が朝方に部屋に戻っても、その後いくら待っても。
 は帰ってこなかった。







 20080319