僻歌―ヒガウタ― 8
夜の闇を染め上げる赤い赤い炎。
葭屋町一条通の空を黒煙で焦がし、ただでさえ晩夏の暑さが残る空気の温度がさらに上がる。
上昇する炎の中には、形をもろもろと壊してゆく一軒の家屋の姿。
生糸商、大和屋。
なかなか繁盛している店で主人の庄兵衛の人柄も朗らか、息子もおり行く末に何も心配のない一家である。
土蔵の上に。
片手には徳利を、片手には愛用の鉄扇を持ち、芹沢はいた。
全て燃やしてしまえと声高に叫び、合間に徳利を傾けてぐびりとやって。
「一体これはどういうことなのですか、新見さん!」
野次馬たちでざわめく土蔵の足元でにやにやと笑いながら混乱を監察している芹沢一派の中に、局長である新見を見つけて近藤は怒鳴った。
「いやな、お主たちが相撲興行でカネを得てそれを隊全体に回さないとあらば、我々は我々で金策しなければならぬではないか。そこで今までよりもっとカネのありそうな商家から用立てようということになり、おととい早速この大和屋を訪れた」
新見は狂気を孕んだ目で近藤を見つめた。
「が、生憎店の主人は留守だった。また後日改めて来てくれと言われ、昨日の午前と午後一回ずつ訪問したがこれも留守だった」
パチパチと木片が音を立て、ガタンとその下のもっと大きな柱らしき木が形を崩す。
火災が立てる様々な音と野次馬や火消しの声の中。
近藤がひと言も聞き漏らすまいとするのを前にして新見は続けた。
「そして今日だ。商売があるのにここまで留守と言うのもおかしな話ではないか。居留守を使っているのに違いない」
「遠くまで商談に出ているかもしれぬではありませんか!」
新見の言葉に近藤が反対の声を上げる。
「奴が・・・大和屋が攘夷派に大金を用立てたと知ってもそう言えるか?」
新見がきっと目を吊り上げて言った。
「平山の調べでは、大和屋は買い占めにより不当に値段をつり上げて売買を行い、大きく儲けた分を穏健派の尊攘浪士たちに渡したらしい。
それを聞きつけた過激派の尊攘どもに自分たちにも金を融通するように言われたが断わると抜き身で脅されて、その後は店に姿を見せてない。
店は滞りなく営業しており、どこを探しても店主が見つからないならば、己の店に隠れてこっそりと指揮を執っていると考えるのが順当ぞ」
新見は燃え盛る商家を見遣った。
「そのような商家など、天誅を加えて当然ではないか」
「無茶な!そんな乱暴な話が通るとお思いか!」
近藤はかっとなって、全身から気合を迸らせて怒鳴りつけた。
ごうごうと燃え盛る炎を背負って立つその姿はまるで不動明王のようで。
まっすぐに睨み付けられた新見はその姿に一瞬戦慄を覚えた。
駆けつけた前川邸の面々の一番後ろでは事態を飲み込もうと辺りを見回した。
近藤は新見と対峙し、土方は野次馬の最前列で屋根の上を見上げている。
他の隊士たちも見上げるその先に、も目を移した。
芹沢が瓦屋根の棟に座り、何事かを叫びながら酒をあおっている。
やはり芹沢がこの火事を引き起こしていたのだ。
の脳裏に、芹沢が迷子になった自分を助けてくれた時の事が浮かんできた。
あの芹沢も今の芹沢も同じ人物なのに、何故このような無体なことを。
近藤が近づこうとも芹沢一派に制されてどうすることも出来ずにいると、誰かが芹沢のいる土蔵にかけられた梯子を上っていくのが見えた。
神谷だった。
小柄ですばしこいのを利用して間を衝き、梯子に近づいたようだ。
「神谷さん・・・」
は汗を掻く両手を握り締めながらその様子を見守った。
芹沢と同じく屋根に上った神谷は、芹沢とひと言ふた言を交わしたところで体勢を崩し、ぐらりと揺れた。
そして瓦の上で一度ごろりと回転すると、そのまま真下へと落ちてきた。
「神谷さ・・・」
「神谷!」
沖田や斎藤をはじめとする前川邸の皆が一斉にその下へと駆け寄り、神谷を受け止めた。
「神谷、大丈夫か?」
「神谷!」
も神谷の下へと走り寄った。
神谷の額からは血が流れている。
のいた場所からは見えなかったが、芹沢に額を打たれたらしい。
「神谷さん、これ・・・」
は懐紙を取り出して神谷に渡した。
「・・・さん、すみません」
神谷はそれを受け取って流れる血を押さえた。
「はっはっは、馬鹿め!気に入られていると思ってでしゃばるからだ」
神谷を取り囲む近藤派の外側で、平山が笑った。
信じられない思いで全員がそちらに目を向ける。
「あれこそ芹沢鴨本来の姿ではないか!」
新見が一歩前に出て居丈高に声を上げた。
「おぬしらとてああいう人の傘下にいればこその余禄が目当てで取り入っていたのであろうが!」
そして沖田と神谷を視界に捕らえると、新見はにやりと笑った。
確かに沖田は何かにつけ芹沢たちと行動を共にしていたし、神谷も然りだった。
しかしそれは新見が言うようなことのためではない。
芹沢たちの行動を監視し、把握し、時には諌め、少しでも理想の方向へ向けるための手段だった。
浪士組を、士の集団にするための。
神谷はまだ血が止まりきっていない額から懐紙を取ると、再び梯子に足を掛けた。
何の迷いも無い足取りで上っていく神谷に、原田が静止の言葉を投げかけた。だがそれは神谷の耳には届かない。
その原田に沖田が言う。
「行かせてやってください。これはどうしても神谷さんがつけなきゃならない落とし前なんです」
何があったのかはわからないが、芹沢と神谷の間にこの騒動に関する何かがある。
いつもは朗らかで笑顔の絶えない沖田が真顔で言った台詞に、その場にいる全員が黙って事態を見守ることにした。
屋根の上に再度姿を現した神谷。
酒を煽り続ける芹沢。
火事の喧騒に掻き消されて相変わらず聞こえない、二人の会話。
突然、芹沢が大きく笑った。
「降りるぞ!」
そう言って、何事もなかったかのように芹沢は梯子を軋ませて降りてきた。
その後から神谷が降りてきた。
「神谷!」
「お前よくやったな」
神谷を取り囲み、隊士たちがほっとした表情で語りかける。
神谷自身も胸を撫で下ろしていると、横から沖田が神谷の額に手をやった。
「お手柄でしたね」
満足そうに沖田が笑みを見せた。
“落とし前”をつけたことに対してだろう。
神谷も嬉しそうに破顔した。
ぞろぞろと連れ立って屯所への道を戻っていく。はその最後尾に並んでいた。
まだ火事は収まっていないが、消防担当の会津藩兵と月番大名の火消し役がこぞって鎮火にかかり始めたので程なく消し止められるだろう。
神谷の怪我も血が止まってきた。後は屯所に戻ったら患部を冷やせばいい。
はやれやれと肩の力を抜いた。
が、その途端に、騒動で一時的に忘れていたものが脳裏に甦ってきた。
漸く大和屋から帰っては来たが、近藤は八木邸に入った芹沢たちを追いかけて、今後このようなことは絶対に慎むべきであると長い長い説教をした。
だが芹沢たちには馬耳東風のようで、さらに言葉を連ねようとする近藤を土方が引き摺るようにして前川邸へ戻っていった。
「近藤さんよ」
近藤の部屋に入ると、土方はぴたりと障子を閉めて切り出した。
「あんたが芹沢たちを同志として扱いたい気持ちはわからんでもない。だが・・・」
そして、腕を組んで苦渋の表情を浮かべる近藤の前に座った。
「俺たちはここに何しに来たんだ?それを考えたら、邪魔になるものは取り除いていかなきゃならねえ」
「・・・わかっている」
土方の言葉に、近藤は低い声で返した。
「だが俺は・・・信じたいのだ。芹沢さんたちの志を。京に上ってきた際に新徳寺で芹沢さんと共にした、あの気持ちを」
そう言って近藤は土方を見た。
土方もそれは覚えていた。
京都に上洛してきた際に、清河の演説に反対して立ち上がった男二人。
近藤と芹沢。
あの時点ではどちらも同じ気持ちであったはずなのに、どうして道を違えてしまったのだろう。
「甘えな、勝ちゃん」
土方は近藤の視線を弾き返すように、鋭く言葉を発した。
「あれからどれだけ過ぎたと思っている?すでに俺たちの道は分かたれたんだ。あんたにもそこは見切りをつけてもらわなきゃ困る」
近藤は黙ったままだった。
本当は近藤にも分かっている。何を一番に優先しなければならないのか。
ただ、近藤は優しすぎる。
昔から、いつか必ず道はいい方向に向かうと信じて疑わない人間だ。
土方は短く溜息をつくと立ち上がった。
「まあいい。朝までそう時間はねえが俺たちも休んでおこう。芹沢があれだけのことをしでかしたんだ、近々会津公から何がしかの連絡があるに違いねえ」
そう土方は読んで、自分の部屋に帰っていった。
自室の障子を開く。
布団が二組敷いてあり、手前の布団にが横たわっていた。
見上げると見下ろす土方の視線が合う。
土方はついと視線を逸らし、羽織を脱いで衣桁に掛けた。そして自分も布団に入った。
庭の草陰から虫の音が聞こえる。
辺りはすっかり静まり返って、眠りに入るにはうってつけだった。
目を閉じて、翌朝に備えなければならない。
だが、土方は背を向けたに神経を集中させていた。が眠れない様子だからだ。
本人は静かにしているつもりのようだが、小さく漏れる溜息と、身じろぎする度に擦れる夏掛けの音が聞こえてくる。
「・・・眠れねえのか」
土方が声を掛ける。
はぴくりと肩を揺すり、ゆっくりと土方の方へと体を向けた。
「すみません、煩かったですか?」
自分でも衣擦れの音が気になっていたので、は謝った。
「そんなんじゃねえよ」
土方は体を少し起こして肘を付き、手のひらに顎を乗せた。
「どうした?」
彼が聞いているのは、眠れない理由。
「・・・いえ、大丈夫です。どうぞ土方さんはお休みになってくださ」
「どうしたと聞いてんだ」
苦笑いをして語ろうとしないの言葉を遮り、土方が尋ねた。
「朝の、・・・田所さんの、あれが・・・」
田所の首が飛ぶ瞬間を、は見ている。それが頭を離れないのだ。
人が殺される瞬間を、命の火が刀で断ち切られるのを目撃してしまった。
はいそうですかと眠れるわけがない。
「・・・いずれ慣れる」
攘夷だ反幕だと諍いの絶えないこの時代だ。斬った斬られたでいちいち思い悩んでいたら生きてはいけない。
これから嫌でもまた目撃するだろう、あのような光景は。
「・・・は、い」
無理やり土方の言葉を飲み込むような返事をし、はおやすみなさいと言って背を向けた。
再び室内が静かになり、虫が小さく鳴くのが聞こえてきた。
土方はまだの背を見つめていた。
眠っているふりをしている。
呼吸は規則的だが、明らかに不自然な正確さで体が上下している。
肩に力が入っているのが後ろからはよくわかった。
ごそりと土方は動いた。
はそれに気付いたが、頭の中を支配する光景に囚われたままでいた。
多分彼はこちらに背を向けて眠る体勢を取ったのだろうと、思考の端でぼんやりと思った。
しかしそれは逆だった。
上掛けがふわりと除けられたと思うと、横になっている体の上下から手が伸びてきて、ぐっと後ろに引っ張られた。
土方が背後からを抱き締めていた。
肩から背中にかけてぴたりと体をつけ、腹と肩に腕を回していた。
土方の息遣いがすぐそこで聞こえる。
とくりと、の心臓が音を立てた。
「土方さん・・・?」
は土方の心中を量りかねて声を掛けた。
「・・・少し休んどけ」
そう言って土方はもう少しだけの体を引き寄せた。
多分、彼女のいた時代ではこのようなことはなかったのだろう。
自分たちとて決して気分のいいものではない。
ましてやは女だ。
あのような凄惨な場面など、慣れたくはないだろうに―――
土方の腕と背中から感じられる体温がじんわりと沁み込んでいく。
眠れない自分を宥めてくれているのだろうと思う。
あの光景を、いずれ慣れるなどと厳しい事を平気で口にする人だけど、そうしなければならないからこそそれを言うのだと解っている。
つまり、根本的には優しい人。
このままこの人の体温に任せて目を閉じてしまえば、きっとすぐ眠りにつけるだろう。
だが。
「お気持ちは有り難いんですけど、離してくれませんか」
の口から出てきたのは、拒否。
「あ?」
土方は眉を寄せた。
「離してください」
は背を向けたまま、小さいながらもしっかりした声で言った。
「これは私自身の問題です。同じ部屋で考え込んでて申し訳ありませんが、一人で気持ちの整理をしますので」
「、お前」
「離して下さい・・・お願いします」
お願いと言うよりもむしろ決定事項のようなイントネーションでは頼んだ。
「お前、もしかして俺がこの前言ったことを勘違いしてやがんのか」
の強硬な態度に土方が言う。
誰にも自分を明け渡すなと。それを。
「してません。ただこれは私が自分で」
「テメェの心を明け渡すことと寄りかかることは違う。辛い時には誰かに預けるくらいしたって」
「そういう時こそ」
互いに互いの言葉を切り合う中を制したのはの方だった。
「・・・そういう時こそ、他人に寄りかかったら危ないんじゃないですか」
「・・・?」
相手が何を言いたいのか理解できず、土方は腕の力を弱めた。
その隙には素早く腕の囲いから逃れ、障子をすっと開けて廊下に踏み出た。
「どこへ行く」
土方が起き上がって問うた。
「縁側にいます。しばらく独りにしておいていただけますか」
こちらを振り向かずにが答えた。その声は低く、冷たかった。
土方は立ち上がっての後ろに立ち、障子に手を掛けた。
「意地張るんじゃねえよ。可愛くねえな」
別に何をするわけでもない。ただおとなしく腕の中に収まって休んでくれたらいいと思っただけだ。
彼女に対する気持ちを自覚して、それが実らないものとすると自分で覚悟を決めた。
後は彼女が安心してここでの日々を過ごし、無事に元の時代に帰れるまで見守りたいだけだ。
それを。
「べ、別に可愛いなんて思われたくないです。私は・・・男なんですよ」
きゅっと拳を握っては言った。
「そういう態度が可愛くねえっつってんだ」
振り向いて、困ったような顔をしながらも自分の言葉に甘えて眠って欲しい。望んでいるのはただそれだけなのに。
は、髪の毛一筋ほども動いてこちらを見ようとせず。
「・・・近藤さんの腕には抱かれたのに、俺は駄目なのか」
土方は、怒りとも非難ともつかない口調でに言い放った。
今朝、田所の首が飛んだのを目撃した直後に気分が悪くなり、しがみついたところを近藤が抱えてくれたことを差しているのだ。
あれは仕方がなかったことだ。倒れそうになったところに近藤がいただけなのだから。
しかし土方にしてみれば、肉体的にだろうと精神的にだろうと支えが必要な時に、受け入れる者と拒否する者を区別していることが納得できない。
いや、もっと簡潔に言うならば、
ただの、嫉妬。
具合が悪くなっただけだと言い訳することはできる。
だが、相手にしがみついた事実だけは否定できない。
は何も言えなかった。
「・・・おやすみなさい」
はぼそっとそれだけを言って、後ろ手に障子をぴしゃりと閉めた。
「っと」
鼻先で障子を閉められ、土方は後じさった。
「チッ・・・勝手にしろ」
聞こえよがしに障子に向かって呟くと、土方は乱暴に夏掛けを引っ被って横になった。
怖がって眠れないところを慰めたかっただけなのに、何でこんな思いをしなきゃならねえんだ。
土方は理不尽という単語に脳裏を占領されながら目を閉じた。
一方は縁側にそっと腰を下ろした。
空には月と星が静かに瞬き、風で揺れる池の水面にその姿を映していた。
は柱に身を預け、ゆるゆると池を見遣った。
土方に言ったことは嘘じゃない。
自分でこの恐怖を乗り切らなければ意味がない。土方に心を預けてそれで終わりになど出来ない。たとえ心の決着にどんなに時間がかかろうとも。
それが、この時代に生きる者のさだめなのだから。
そして。
土方に抱き締められた時、僅かに高鳴った胸の音を思い出した。
今回だけとか少しくらいとか思ってあの優しさに甘えてしまったら、次はどうなる?
辛いことがある度に土方に甘えて、抱き締めてもらって。
・・・それがなくては何も出来なくなったら?
冗談じゃない、ただでさえ土方に面倒をかけているのだ。これ以上彼に迷惑をかける自分を、想像するだけで嫌になる。
そんなことは絶対に許されないと、頭のどこかで警鐘が鳴った。
たとえ相手が誰であろうとも、寄りかかってはならない。
・・・本当に?
誰であろうとも?
ゆっくりとは障子の方を向いた。
こちらのほうが明るいので中の様子は見えない。
土方はもう休んだだろうか。
もう何がなんだかわからない。
土方と喧嘩腰になってしまった経過を思い出すと、胸が締め付けられる。
何も考えたくない。
視線を池に戻し、は小さな溜息を漏らした。
今夜はあの障子の内に戻りたくない。
どうせ眠れないのだ、このままここでこうしていたい。
は柱にもたれたまま朝を迎えた。
20080313