僻歌―ヒガウタ― 5
芹沢たちの乱行は、日を追うごとに酷くなっていった。
遊興先での無銭飲食は日常茶飯事になり、行く先々では店の主が苦りきった顔で応対することもしばしばだった。
かろうじて沖田が芹沢一派に同行し、その所業に影で侘びを入れることだけが浪士組の印象を蜘蛛の糸のように繋いでいた。
それが切れないうちに何とかしなければならない。
芹沢たちを、そして浪士組を。
さてだが。
本陣内の学校で始まった英吉利語の授業において、彼女は他の生徒よりも進歩が早かった。
元の時代で義務教育でもその上の学校過程においても英語の授業はあったから、それを素養と考えると当然だった。
講師であるエリック・ハーバーが用意したアルファベット表を用いての初めての授業で、それは発揮された。
「じゃあ全員で読みまス」
とハーバーが言い、まず自分がひとつずつの発音を読み上げた後、全員で唱和した。
それからひとりずつが発音していったのだが、他の生徒たちがたどたどしく怪しげな発音であるのに対し、の発音はきれいだった。
「ベリーグッド」
とハーバーは白い歯を見せて笑い、彼女を褒めた。
ハーバーは内藤ら他の生徒たちの発音を矯正した。直されたほうはアルファベット表にその発音を記入し、何度も口にした。
「皆さんとてもいいデス。これなら早く身に付くでショウ」
全員が藩命で勉強しに来ているのである。やる気のない者などいなかった。たとえ異国の言語であろうとも、それが将来藩の役に立つのであれば、努力を惜しむこともなかった。
ハーバーは己の体のあちこちを指差し、英語でそれを言った。
「目はeye、耳はear、手はhandデス」
彼は慣れぬ手付きで筆を執り、単語を半紙に書いて示した。
生徒はそれを自分の半紙に書き写し、発音も横に添えた。
次に全員で光明寺の中を歩き回り、見るものを手当り次第、英単語で言った。
畳は"straw mat"、瓦は"fired clay tiles"、門は"gate"など、あれこれとハーバーが言い、皆が矢立を手に書きとめた。
中には英語圏にないものもあったが、それは日本語でよろしいと言う事になった。
逆にハーバーが「コレ、何ですカ?」と聞く場面もあり、教えると嬉しそうだった。
教室代わりにしている部屋へ戻ってくると、ハーバーは生徒たちの書きとめたものに目を通した。
他の生徒たちのものはたどたどしかった。が、のものだけはしっかりとした蹟で書かれていた。
「、アナタどこかでイングリッシュ習いましたカ?発音も書き方もパーフェクトデス」
・・・まさか未来の学校で習いました、とは言える訳もなく。は困って下を向いた。
その日の帰り。
ハーバーは帰り際にを捕まえ、共に帰途に着いた。
「お願いがありマス」
歩みを止めたハーバーはを見つめ、切り出した。
「はい」
はハーバーの顔を仰いだ。
「アナタの発音、文字の書き方、とてもいいデス。私の助手になってくだサイ」
「え」
彼の申し出に、は目を丸くした。
「ワタシ、アナタたちのためにもっといいテキスト作りタイ。でもワタシ、ニホンゴ書けない。アナタならニホンゴ書けるし、筆でイングリッシュもきれいデス」
興奮して話すハーバーはに詰め寄り、土塀の際まで追い詰めた。
「お願いデス、皆でいい授業するため、協力してくだサイ」
高い背をかがめ、青い目を深く輝かせてハーバーは頭を下げた。
はいきなりの申し出にどう返事をしていいかわからず、返事が出来ずにいた。
「そこまでだ」
低く不機嫌な音色で、二人の頭上から声が降ってきた。
「あ、土方さん」
馬が静かに鳴き、その上に佇んでいた影がさっと降りてきた。
「、ドナタハン?」
みなと屋の女将のような口調でハーバーが問うた。
「みなと屋さんで私と一緒にいたうちのお一人です」
「Oh,あのときのサムライね」
が答えるとハーバーは思い出したように手を叩いた。
「から離れろ、黒船」
土方は馬上から降りるととハーバーの間に割って入った。
今度はに抱きつかせるものか。
土方は心を落ち着かせて相手を見据えた。
「土方さん、こちらがハーバーさんです。英吉利語の講師の」
は手を差し伸べてハーバーを紹介した。
「エリック・ハーバーでス。ヨロシク、ヒジカタさん」
ハーバーはの真似をして土方の名を言い、右手を出して握手を求めた。
「ハーバーさん、こちらが」
「壬生浪士組副長、土方歳三だ」
奇妙なものでも見るように、名乗りを上げた土方はハーバーの右手を一瞥した。
なかなか手を出そうとしない土方に、ハーバーは苦笑いをして手を引っ込めた。
「ハーバーさん、日本には握手の習慣がないんです」
「アクシュ?」
「えっと・・・シェイクハンド?」
「Ah,I got it.」
が説明すると、ハーバーは了承したようだった。
土方には、二人だけが理解していて自分がわからないのが面白くない。
「いつまでも黒船につかまってんじゃねえ。帰るぞ」
土方はぐいっとの腕を引っ張った。
「は、はい」
はよろけてたたらを踏む。
「、また明日。さっきのコト、ヨロシク」
ハーバーは軽やかな笑顔を見せて手を振った。
「はい、失礼します」
は土方に半ば引き摺られるようにしながらハーバーに頭を下げた。
土方は自らがまず馬に乗り、を引き上げた。
は鐙に片足を掛け、土方の力のタイミングに合わせてもう片方の足で地面を蹴った。
スムーズに馬の背に乗ることができ、はほっとした。
だが、思ったよりも馬の背は高く、少し怖くなって土方の羽織の背中を掴んだ。
「つかまれ」
土方がにそう言うと、はこくりと頷いて土方の腰に手を回した。
恐怖心が薄れ、土方の背中から伝わる体温に安堵を覚える。
彼女がしっかりつかまったことを確認すると、土方は馬を静かに進ませた。
ハーバーは二人が去るのと同時に、みなと屋へと足を向けた。
土方とは屯所へと戻ってきた。
厩へと馬を繋ぐと、土方は黙って足早に部屋へと戻っていった。
はその後ろを小走りで追いかけてゆく。
「ありがとうございました」
は部屋に戻るとすぐにそう言った。
「何がだ」
土方は未だ不機嫌そうな声色で言った。
「お迎え・・・ですけど」
「たまたま通りがかっただけだ」
窺うように言葉を発したを、土方はぴしゃりと言葉で止めた。
「あ、お出かけだったんですか?」
「・・・この前の買い物の続きだ」
もうこれ以上聞くなと言わんばかりに、土方は文机に向かって文箱を開けた。
紙を広げる音がし、墨を磨る音と共に香りが立つ。筆がさらさらと紙の上を走る音が聞こえてきた。
は自分の風呂敷を解き、今日から始まった英吉利語の授業の復習を始めた。
静かな時間が流れ、思い思いの用をこなす。
時折池に注目するのを忘れないようにしながらも、は土方の背中を視界の端に捕らえながら時を過ごした。
暑い盛りになってきた。
新緑が、より濃い緑へと姿を変え、夏の太陽が容赦無しに地上に照りつける。
も外出時には笠が必要になってきた。黒谷へ行く時には欠かせない。
黙っていても汗が流れ、団扇がせいぜいの冷房器具である。
あとは水を浴びるとか体を拭くとか、日差しが翳る夕方になるのを待つしかない。
それでもに不満はなかった。
環境に対する適応能力はそこそこあるらしい。
が、そんな彼女にも適応できないことがあった。
男から妙な目で見られることだ。
もっと詳しく言えば、念友の対象として見られることである。
以前彼女に告白した柴司は断られたことで吹っ切れたらしく、会っても普通の態度で接していた。
は告白された後に何となく気まずい思いを抱いていたが、顔を合わせると相手は全く意に介していないようで、こちらが安心した。
しかし、浪士組内で彼女に告白した田所弘人はそうではなかった。
しばらく土方の部屋と黒谷の往復ばかりで忙しくしていたために忘れていたが、ある朝久しぶりに井戸端で話し掛けられた。
「おはようございます、山口さん」
目は暗い光を湛え、殺気めいたものを醸し出す顔つきに変わっていた。
「おはようございます・・・」
はさりげなく一歩後ろへ下がり、相手との距離を確保した。
「山口さん、確か黒谷へ通っていらっしゃるんですよね」
「・・・」
ふと話を振られ、は警戒した。
黒谷へ通っている事は別に秘密ではない。会津藩士であることも、大声で言わないだけで隠しているつもりもない。
だが、目の前に立つ男が妙な眼光を発して自分のことを言っているとなると、自然と強張らずを得なかった。
「英吉利語を学んでいらっしゃるとか」
これも極秘事項というわけでもない。
黒谷に出入りしていれば、あるいはその周辺から聞けばわかることだ。
しかし、なんだか気持ちが悪い。
「・・・もしかして、同志なのではありませんか?」
の背中を嫌な汗が伝う。
暑いからではない。この男が発した言葉に何かが警鐘を鳴らしているせいだ。
「同志・・・?」
はゆっくりと、さらに一歩後ろへ下がる。
相手はずいと一歩前に出て、口を開いた。
「我々は」
「さあーん!」
叫ぶような声が突然聞こえ、はふと顔を上げた。
田所は舌打ちをすると素早く逃げていった。
田所にしろ今の声にしろなんだろうと思い、は首を傾げた。
すると庭を突っ切って、神谷がものすごい勢いで走ってきた。
土方はが身支度を整えに行くのを見計らって、彼女の行李を開けた。
荷物の奥底に隠されている小さな風呂敷包みを開く。
そこには彼女がこちらの時代にやってきた時に身に付けていた衣服と、携帯電話が納められている。
土方は携帯を手に取った。
先日島原で買った妓が、やたらと馴れ馴れしくはあるものの、人の心を見抜くわ話は巧いわで面白かったので、その後も何度か会いに行っていた。
どういう話術にはまったのかは忘れてしまったが、自分に思い人がいることをつい口にしてしまい、
「あぁ、最初に来はった時にうちを身代わりにして抱いたあの?」
と探るような目つきで笑われた。
俸禄が入ったので何かに贈り物をしたいと思っていたが、いい物がなかなかみつからなかった。
装飾品で身を飾る事もせず、欲しい物があるなどの贅沢も一切言わない彼女に贈り物をするということは難儀だった。
そこでこの妓に相談したところ、
「なら、根付などいかがどす?いいとこ紹介しまひょ」
と胸を叩いて豪語された。
妓に教えられた裏通りを入っていくと長屋があり、とても店を構えているとは思えないごく普通の家の入り口に着いた。
「御免」
と土方が声をかけると、ごそごそと奥から音がして障子が動いた。
初老の男が、頭を掻きながら出てきた。
「人の紹介で来たのだが」
「あァ?」
土方が声をかけると、老人は耳に手を当てて大きな声で聞き返した。
「人の、紹介で」
土方は今度は幾分ゆっくりめに、少し音量を上げて話し掛けた。そして懐から妓が書いてくれた書付を取り出し、老人に見せた。
中身は見ていないが、おそらく紹介状の類であろう。
老人はそれを開き中身を改めると、顔をくいっと上げて、中に入るように合図した。
部屋に入ると、辺りは細かい粒子が飛び交っていて、土方は思わず口元を覆った。
どうやら木の削りカスのようだった。
それに、絵の具の匂いと漆らしきものの匂い。
ここは妓が教えてくれた、根付を長年取り扱っている男の居室で、今は店を出してこそいないが、こうして口コミで細々と客を取っているとのことだった。
「そこにあるから適当に見ろ」
あちこちに散らばる木の破片と、削るための道具やらなにやらを足で蹴散らしながら、老人は自分の仕事場に座り、木をガリガリと削りだした。
土方は老人が目配せした場所を見た。
そこには黒い布が敷かれており、上に根付がいくつも転がっていた。
職人の手によってただの木片が形を変え、彩色され、漆を何層にも薄く重ねられている。
土方はひとつひとつ手に取り、その芸術性に内心驚いた。
主に花の意匠が多かった。女性客が多いのかもしれない。繊細な細工だからきっとそうなのだろう。
土方の目に止まったのはもちろん梅である。
複数あったが、どれも素晴らしい出来であるのにいまいちピンと来なかった。
「気に入らんのか」
いつのまにか老人が土方の背後に迫り、声を掛けてきた。
「こちらでは注文は受け付けているのか?」
梅の意匠ばかりを掌に乗せ、眺めながら土方は聞いた。
「・・・やっとる」
老人は厄介だと言わんばかりの口調で答えた。
「ならひとつ頼みたい」
土方は掌に乗せた品物をそっと布の上に戻した。
「どんなものだ」
老人はよっこらしょと言って紙と筆を持ってきた。
注文を終えて帰る途中にと偶然であった。
その後二人で茶屋に入り、酒をしこたま飲んで(いや、飲ませて)いった。
そして昨日、頼んでいた品物が出来上がった。
取りに行くついでに黒谷の方へと馬を向けた。
出会ったら乗せてやり、すれ違ったならそのまま帰ればいい。
迎えに行くのが目的ではなく、あくまでもついでだ。に言われたことは守っている。
きちんと口実を用意した上で土方はを迎えに行った。彼女の心に負担をかけないように。
そして偶然にも行き会ったので、馬に乗せて帰ってきたのだった。
携帯から元々付いていたストラップをはずし、自分が買ってきた梅の意匠の根付を取り付けた。
縦に細長く梅の枝が伸び、花と蕾と咲きかけの三種類がその枝に鎮座している。
漆で光るそれは、茶色一色でありながらあたかも生命を宿しているかのようで―――
どたどたと廊下を走る音が聞こえてきて、土方は素早く携帯を包み、行李に戻した。
そして襖の向こうに行李を押し戻し、何食わぬ顔で文机の前に座って書状をしたためているのを装った。
勢いよく障子が開き、が駆け込んできた。そして後ろ手にすたんと閉める。
彼女がそんなに慌てる事などない。また何かあったのかと土方は眉を顰めた。
は入ってくるなり納戸の襖に手を掛けてすらりと開いた。
土方は、自分が何も言っていないのになぜ納戸を開けたのかと驚く。
根付のことを、もう勘付かれたのかと。
ところが行李を横に押すと、は身を屈めて中に入った。
そして襖を閉めながら、
「土方さん、私はいないことにしてください」
と言った。
何のことだ、と土方が訝っていると、また障子が勢いよく開いた。
「さんっ!」
神谷が大声での名を呼びながら入ってきた。
「何だ神谷」
土方は怪訝な顔で聞いた。
「さんはいらっしゃいませんか。隠し立ては無用ですよ」
そう言うと神谷は部屋をぐるっと見回した。
・・・襖の隙間から、の袴の端がちらりと覗いていた。
頭隠して何とやら、と土方が額に手を当てると、神谷は笑みを浮かべながら納戸を開けた。
「さん、見つけましたよ」
ふふふと嫌な声で笑いながら、神谷はこちらに背を向けて小さく座るを睥睨した。
「あ」
はいたずらがバレた子どものように、ばつの悪そうな顔をした。
「まったく、ひどいですよさん!沖田先生があんなに甘味好きだとは思いませんでした!」
神谷は正座をして下を向くに向かって非難の言葉を浴びせた。
「すみません」
は苦笑いだ。
「何なんだお前ら」
その横で土方が頬杖をついて説明を求めた。
「さんが、沖田先生と甘味屋に行くようにって言ったんで昨日お供したんですけど、尋常じゃありませんよアレは!」
神谷が拳を握り締めて土方に言った。
「目の前でお汁粉十杯とお団子十五本とあんみつ四杯も食べられてみてくださいっ。見てるだけで気持ち悪くなりますよ!
私もつられて相当食べましたけど、胸焼けして夕餉に手がつけらなかったんですからね」
はあと溜息をついて神谷は胸に手を当てた。
「で、先ほど私を見つけたのでこうして」
がぼそりと言った。
「あったりまえです!よくも私を生贄にしましたね!」
神谷はぷうっと頬を膨らませた。
すみませんでした、とはもう一度謝った。
「用が済んだらさっさと消えろお前ら。俺は忙しいんだ」
土方は一部始終を飲み込むとしっしっと言わんばかりに手を払った。
「そう言えば副長、もうすぐ相撲興行ですよね」
神谷が土方の方を向いた。
「ああ」
土方は素っ気無く返事をした。
大阪で芹沢が力士一人を斬り殺した事件の解決によって、近藤と相手の小野川部屋の親方は親密な関係を築いた。
そこから祗園と壬生で相撲興行を執り行う運びとなり、土方の仕切りの下、着々と準備が進められているのである。
土方自身は計画を立て指示を出す身なのであまり外向きの用事はこなしていないが、開催地の整地や宣伝などの雑務は平隊士がこなしている。
「祗園への挨拶もお忙しいらしいですね」
が座りなおして言った。
「まあな」
開催するに当たり、人が増えるだの警護で物々しくなるだのと地元には迷惑をかける。
それを理解してもらうために幹部達は手分けしてあちこちに挨拶に行っていた。
「土方さん」
障子の向こうから声がした。
「平助か?入れ」
藤堂だ。
「失礼します」
土方の許しを得て藤堂が入室してきた。
その顔はいつもの朗らかさを失っていた。
「土方さん、佐々木が殺されたらしい」
20080221