僻歌―ヒガウタ― 4 その後
二人は通りすがりに見つけたお茶屋に入り、塗りの美しい膳を前に差し向かいで食事をした。
いつもより豪華で色彩豊かな食事を目の前にしても、この二人の会話はいつもと同じだった。
要するに、今日のの動向報告。
「英吉利語の授業はどうだった」
土方が箸を手に取って言った。
「・・・先生が決まりまして、無事に開講の運びとなりました」
も同じく箸を手に取り、角がきれいにカーブを描く膳に視線を落とした。
「そうか」
土方は素っ気無さを装いながら、次の彼女の言葉を待つ。
「そうそう、先生があの人だったんですよ」
が切り出した。
「あの人?」
土方は汁椀を持ち、口をつけた。薄めの上品な出汁だが、東男の土方には薄すぎる。
「前に土方さんと斎藤さんにお買い物に連れて行っていただいたときに出会った、金髪の」
「あ、あれか?あの黒船野郎か?!」
ゴフ、と咽せて土方は汁椀を置いて袖で口を拭った。
「ええ。これどうぞ」
は事も無げに懐紙を取り出し、土方に渡した。
それをもぎ取るように奪い、土方は改めて口元を押さえた。
土方にしてみれば、目の前でをわざと抱きしめられた因縁がある。
「みなと屋さんにお世話になるそうで、今日は一緒に帰ってきたんですよ」
「・・・なんだと?」
一緒に帰ってきただ?
土方の目つきが自然と険しくなる。
その時、仲居が入ってきて、温めの燗にした酒を持ってきた。
(あの野郎・・・)
知らないところで黒船ごときに惚れてる女をどうこうされてたまるか、という激しい嫉妬心が心臓の辺りを焦がしてゆく。
「俺が毎日迎えに行ってやるからな、それまで黒谷の門の前で待ってろ。いいな」
土方は手酌で酒を注ごうと、徳利に手を伸ばした。
「あっ・・・そんな、毎日なんて無理でしょう」
は土方から徳利を取り上げた。
「何すんだ」
不機嫌を全開にして、土方がを見据える。
「たとえ馬で来たとしても、往復を考えたら時間は食うでしょう。それに副長ともあろうお方が決められた時間に毎日私用でお出掛けなんて、下の者に示しがつきませんよ」
は正論でもって土方を制する。
そして彼の機嫌の悪さをものともせずに、は徳利を傾けて言った。
「さ、おひとつどうぞ」
「・・・土方さん?」
土方はに呼ばれて我に返った。
「どうしたんですか?」
が首を傾げて土方を覗き込んだ。
土方はぐるりと勢いよく顔を背けた。
言えない。
言える訳がない。
彼女の仕草に見惚れていただなんて。
「えっと、あの、来てほしくないわけじゃなくて・・・」
はしゅんとして下を向いた。どうやら迎えに行くと言ったのを断った事に対して、負い目を感じ始めたらしい。
「一応大人なんで・・・お迎えはちょっと」
苦笑いをしては頭を掻いた。
何を一人で勘違いしてやがるんだ、こいつは。
「あ、でも、土方さんも黒谷へお越しになることがあるでしょう?そういう時に、帰りの時間が一緒になったらお願いします」
土方がゆるゆると顔を元の方向に戻すと、がこちらを見つめていた。
その、僅かに浮かべた笑顔はやめろ。
正直言って、反則だ。
「どうぞ」
は再び徳利を傾けた。
土方は憮然とした様子を崩さずに盃を突き出す。
細い指が角度を成し、徳利の口から透明な液体がゆっくりと流れ出す。
ゆらりと揺れる表面に、天井の明かりが反射した。
くい、と土方は一気に飲み干した。
はもう一度盃を満たす。
「お前も飲め」
土方は自分が手にしている盃をの前に差し出した。
「え、私はいいです」
は手を軽く振って断った。
土方はそんなの手から徳利を奪い、彼女がしたのと同じように傾けた。
「俺の酒が飲めねえって言うのか」
「・・・もう酔っ払ってるんですか?」
たった二杯なのに、とは溜息をついた。
「うるせえ、四の五の言わずに受けろ」
土方は強引にに盃を持たせた。
酔うわけねえだろ、こんな程度で。
ただこうしてお前をからかってるだけなのに、何故気付かない?
はためらいがちに盃を持ち、土方の酌を受けた。
並々と注がれたそれを、ひと口だけ含む。
「っは・・・」
酒がきつかったらしく、は息を漏らした。
それでも受けた分は飲み干さないといけないと思ったのか、さらに酒を口に注ぎこんだ。
やめときゃよかった。
それが一刻ほど過ぎた土方の、偽らざる感想だった。
は土方が勧めるままに杯を重ね、断りきれずに喉の奥に滑り込ませた。
その結果、ろくに食事もせずには酔って眠ってしまったのである。
しかも、土方の膝枕で。
の頭を膝に乗せ、窓に腕を乗せて温度の下がった酒を独り飲む。
土方もほとんど食事は取らなかったが、不思議と腹は減らない。
そろそろ屯所に戻らないと、皆が心配するかもしれない。
自分のことではない。のことだ。黒谷に行ったまま、こんなに遅くまで帰らなかったことなどない。
土方は、黒い羽織を着たまま横たわってすうすうと寝息を立てるを見遣った。
もう少しこうしているのも悪くないか、と土方は喉の奥で笑った。
ほんのりと頬を染めた彼女が、ぼんやりと目を覚ますまで。
20080213